姉弟の絆
『名月や 兵どもが ホトトギス』
夢の中でそう詠んだ。
アポロのコックピットに横たわるショーンには、姉弟が誰かと話をしているようにも見えた。本物の月を背負い、どこかで見覚えのある老人。違和感があったのは背筋が伸びている事だけで、優しい眼差しはあの日のままである。
少し安心をして再び眠りについた。
『博士、もしも生きていれば、今さら月に向かった僕に何を……』
セカンドムーンの立案者兼設計者であり、誰よりも宇宙に憧れを抱き熟知していた男アンドリュー・ヨヒーク、享年65歳。25世紀の宇宙技術の発展が、全て彼一人の功績なのは紛れも無い事実である。
その偉大な科学者が、26世紀に入る直前に本を出版した。
中身は一般人には馴染みの無い論調でしかも難解、というより比喩表現や訳さない原語が多すぎた。しかしその中に、過去と未来が入り混じった物語が一章含まれており、これの人気だけで全世界の主要言語に翻訳される事になる。
ジャンルは彼曰くノンフィクション。
『世紀の狂人』とは一部のファンが付けた褒め言葉である。
当の本人は気にも留めていなかったがその『原語』が本当に理解不能な物だった為、にわかに宇宙人かと思われていたが、明確な否定も肯定もせずに博士は死ぬまでこの種類の質問をかわし続けた。
そんなヨヒークの最晩年、ベッドの上に僅かな笑みを湛えながら語った最後の言葉は『行って来ます』だったという。
ショーンが目を覚ますと、開き切らない瞼の先にアンドロイドが倒れていくのが判った。眼前にしっかりと床を踏み締めた脹脛が二つ、ユスケンだ。
「サードムーンニトウチャクイタシマシタ」
彼は再び船内アナウンスの声マネをした。
だがやはり、手にした銃口からレーザーポインタが消えていなかったので笑えない。ショーンが殺したのか? と聞くと、ショートさせただけと答え「まあ、専門分野ですから」と恥ずかしい過去を語るような表情を浮かべた。
「あなたとマリアは僕が守ります」
「ありがとう、ところで……」と言い掛けたショーンに、次の言葉は出てこなかった。あの老人の姿が夢であっても、少なくとも願いがひとつ叶ったと言う事か、と彼は自分に言い聞かせ口を噤んだからだ。
アポロの通路にアンドロイドが倒れている。
到着と同時に乗り込んできた躯体数を合わせると、数十体になりそうだが姉のマリアは何も驚くことじゃない、といった顔で手の平サイズの端末をユスケンに渡した。ユスケンはそれを受け取ると認証を済ませ、ショーンにこう言った。
「どうも、セキュリティが僕の予想を超えているようです。ここからは乗り物は避けましょう」
「つまりそれは、出発時といい今といい、完全にステルスし切れていないと?」
ユスケンはショーンに端末を渡して続ける。
「ええ、出発時は仕方ありませんでした。ある程度地球のシステムのシミュレーションをしておいたものの、やはり月のそれとは若干の相違があって」
弁解をする弟に代わって、訴える声がした。
「いえ、ユスケンの構築したプログラムは完璧です」
マリアが口を挟んだ。
「想定外の事態にも瞬時に修正を掛け、更に強固になったそのセキュリティにも自動上書きが出来る、完全に独立したプログラム」
「それに今、教授が認証した事で、また新たなプログラムが生まれました」
少しだけムキになっているようにも見えるが、マリアはそれを隠さない。
「私達を事前に導くと仮定してその場所に置き、セキュリティが一切関わらない信号を発信する。只の一体でも不穏な感情を持ったなら瞬時に上書きされ、周辺の警備レベルごと低く保つ。例えばシステムに『特に危険は無い』と認識させて人員を割かなくさせるような……」
話の途中で、ショーンがアンドロイドに目をやると
「すいません、あれほど危険な目に遭うことは無いと断言しておきながら」
本当はマリアが言いたかった事を、ユスケンが代弁した。
「いや、人生に想定外は付き物だ。私も今、非常に稀な体験をさせて貰っていると受け取っているよ。大事なのはそのプロセスの方だろう」
確かにユスケンに落ち度は無いように思えた。
その理論はショーンから見ても十分に合理的であり、到底ブレる類の物では無かった。対システム、コンピューターという点に置いては。
マリアが断言したプログラムの完璧性、もっと言えばユスケンという人物自体の信頼度には、姉弟を越えた何かが存在する。ショーンはその事はさて置き、だとすれば何者か生身の人間が三人を監視しているのでは、と思い始めた。
サードムーンの軌道ステーションは、地球に向かう渡航客で賑わっていた。
新たに乗り込んできたアンドロイドは通路を片付け、何事も無かったかのようにアポロの運営を続ける。乗客が彼ら三人だけだった事に疑問を持つ者が居たとして、それはこのアポロの許容人数に何ら支障をきたす物では無い。
こうしてサードムーンの一日が始まる。土とコンクリートの匂いは、地球と同じく陽の影響を大にして、人々の普段通りの朝に色を乗せるのだった。