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Never repent. Even if you look back

作者: keisei1

「プロポーズされてるの」

 証券会社に勤める如月智美は、モデルの知人づてに知り合った鷹尾明にこう伝えた。鷹尾はレスポールを胸に抱えて、色とりどりの花々を散りばめたベッドに横になっている。鷹尾は夢うつつに、シャボン玉を吹かせている。鷹尾は、智美の話にさも関心がないかのように、宙に浮かんでは弾けて消えるシャボン玉を見つめている。鷹尾は、チューニングの少し狂ったレスポールギターを無造作に掻き鳴らす。

「プロポーズ。良かったな。人生の一つのゴールだ」

 智美は鷹尾の無味乾燥な受け答えに失望し、落胆していた。鷹尾はデビューして4年目のロックバンドのヴォーカリストで、作詞、作曲を一手に引き受けるフロントマンだ。鷹尾の才能は羨望の的であり、彼は将来を嘱望されていた。ただロックシンガーの多くの例に漏れず、彼も女性関係が派手で、今となっては、鷹尾にとって智美は訪れては去って行く恋人の一人に過ぎなかった。

 時代は1994年。バブルが弾ける予感が漂い、だがどこか陽気で楽天的な世相。80年代の明るく、華やかなポップカルチャーを引き継いだ時代に鷹尾と智美は出逢った。デビューしたてだった鷹尾はまだ自分の才能に確信が持てない、情緒が少し不安定な男性で、そこが智美を強く惹きつける。鷹尾は自分の作った曲を恐る恐る智美に聴かせては、感想を仰いだほどだった。鷹尾の能力をいち早く見抜いていた、鷹尾より三つ年上の智美は、彼を鼓舞し、励まし、自信を持たせた。

 智美の支えもあってか、それとも元から抜群のソングライティングの能力があったせいか、鷹尾はデビュー二年目でスマッシュヒットを幾つも飛ばし、音楽シーンに台頭した。その勢いは「鷹尾の指示で人は右にも左にも動く」と音楽評論家たちに揶揄されたほどだった。ただその頃から鷹尾は、幾人もの女性を渡り歩き、乱れた私生活を写真週刊誌の手で、頻繁にフォーカスされるようにもなっていた。

 そのせいもあって親密で、友情と信頼、深い絆でも結ばれていた鷹尾と智美の関係は崩れ始めてもいた。それでも智美は鷹尾が自分を必要としていると信じていたし、彼のもとから去るつもりもなかった。二人はつかず離れずの腐れ縁のように、ただ惰性で恋人同士であり続けた。

 そんな折、智美は同じ証券会社に勤める五つ年上の上司、上杉信哉に交際を申し込まれる。彼は安定した感情と心持ちの持ち主で、頼りがいがあった。信哉は、三人姉妹の長女として生まれた智美にとっては初めて、甘えて、依存できるタイプの男性だった。信哉は、智美と鷹尾の交際が続いてるのを知っていたが、それらを含めて、丸ごと智美を受け入れてくれた。「依存出来る」「甘えられる」。この二つの要素は、智美を信哉に溺れさせるに十分だった。

 そうして信哉と智美は交際を始めた。それは智美にとって夢のような一時だった。旅行、レジャー、趣味の共有。そして二人で理想の家庭像について話す日々。それは鷹尾から智美には決して与えられないものだった。智美は満たされていた。

 一方鷹尾も、智美が信哉と付き合い始めたのを知っていたが、別に智美を責め立てもせず、突き放しもしなかった。かと言って二人は疎遠にも決してならなかった。

 そんな不思議な恋愛関係が1年半も過ぎた頃、智美は信哉にプロポーズを受けた。鷹尾の気ままで、移ろいやすい性格、気質、そしてプライベートのせいもあって若干の睡眠薬が手放せなかった智美だが、その頃には信哉の助け、支えのお蔭で、不眠からも解放されていた。

 プロポーズ。悪くない話だ。信哉の性格は落ち着いていて、将来も有望だ。収入も申し分ない。ただ……何か物足りない。欠けている。智美は結婚に前向きだったが、誰かに止めて欲しかった。だからこう鷹尾に伝えた。

「私、プロポーズされてるの」

 鷹尾は右目だけが二重瞼の妖艶な顔を見せて、素っ気なく祝福する。 

「良かったな。人生の一つのゴールだ」

 智美は期待外れの鷹尾の言葉に、戸惑い、肩を落とす。そしてこの際自分が、鷹尾にとってどんな存在だったのかはっきりさせようと思った。智美は、左手の細長い指先を頬にあてて鷹尾に訊く。

「私達の関係って何なのかな?」

「恋人同士。ただそれだけだろ」

 冷たく、味気のない返事のあと立て続けに鷹尾は口にする。

「それ以上の関係を俺に求めてたのか? 冗談じゃない。俺は一人の女性に縛られるなんてゴメンだ。君は俺に多くを与えてくれたが、俺も君に多くを与えた。二人はイーヴンの関係だったはずだ。お互い損得なしでここまで来た」

 言葉をなくす智美を前にして尚も鷹尾は続ける。

「君は俺に何を期待しているのか知らないが、俺に身勝手な夢や理想を託すのはやめろ。ロックシンガーなんて、自分の人生にも責任が持てない身勝手な奴らばかりだ。そんなクズみたい連中にたった一度きりの大切な人生を預ける必要なんてどこにもない」

 鷹尾の目は冷たく、どこか猟奇的でもあった。「でも……!」と言葉を返そうとする智美を遮って、鷹尾は彼女を突き放す。

「それとも何か? 未来や将来の不透明な男に人生を翻弄されて、身も心もズタズタにされたいのか?」

 鷹尾は両手を軽く振り上げる。彼の舌鋒は鋭く淀みがない。

「怒るなら今の内だ。反発するなら今の内だ。その男を責め立てるなら今の内だ。だが幸い君は、その男と一緒になって失敗した未来、将来をまだ迎えていない」

 そして鷹尾はレスポールを軽くベッドに放り投げる。シーツの上の花びらが儚く、切なく舞い上がり、ふわりと落ちる。鷹尾は両掌を合わせて、開くと智美に差し出す。

「だから今の内に離れるべきなんだ。あとになって振り返って、後悔しないためにも」

 その言葉を最後に鷹尾と智美の話は途切れてしまった。智美はいたたまれない喪失感と離別の想いに囚われている。終わった。これで鷹尾と一緒にいるのはおしまいにしよう。そう智美は心に言い聞かせた。

 鷹尾は智美に背を向けるとヒステリックに、苛立たしげに、軽くウェーヴの掛かったミドルヘアーを掻きむしり、譜面に向かっていく。その後ろ姿を見て智美は一言こう漏らして、その場を立ち去った。

「さよなら。明。ありがとう。楽しかったわ」

 鷹尾は智美の別れの言葉に何も応えなかった。ただ譜面を静かに見つめて音の泉、音符の踊る世界に身を委ねているようだった。

 それから数カ月後、智美と信哉は結婚式を挙げる。これ以上ないくらいの華やかな結婚式、次々と述べられていく祝辞の数々。花嫁として持て成され、語られていく智美の学生時代のエピソードの数々。ありきたりだが智美には申し分がなかった。

 結婚相手は優しく、いつも自分を気遣ってくれる男性。この人なら自分だけを見つめてくれる。幸せな家庭も築けるに違いない。そう思うと安堵感と喜びで智美は満たされていく。だけどその時、鷹尾のレスポールの音が空耳のように智美のもとに届いたように思えた。

 レスポールの音色は儚く、抒情的で、感傷を鋭く、深く刺激するようだった。智美は鷹尾との日々を想いだす。初対面の時、自信なさげに待ち合わせの場所に現れた鷹尾。二人で公園に遊びに出掛けて、舞い上がる鳥達を写真に収めたあの日。初めて肌を絡めあわせた時の喜びと胸の鼓動。そして成功の階段を登っていく鷹尾の後ろ姿。女性遍歴が奔放になっても常に鷹尾の視線の先に自分の姿があったこと。それら全てが流れる雲のように智美の脳裏に押し寄せてくる。

 智美は感極まって、頬を涙が伝うのを抑えきれない。もちろん、流れる涙をこらえるつもりも、拭うつもりもなかった。たまらず智美は人目もはばからず涙を零し、自分を労わる信哉にこう告げずにはいられなかった。

「信哉さん。私はあなたが大好き。愛しているわ。ただ……泣かせてください」

 信哉は少し戸惑いながらも、言葉の本当の意味を汲み取ったようだった。優しく微笑んで、肩を抱き寄せてくれた。やがて披露宴は終わり、智美と信哉の二人は籍を入れて幸せな結婚生活を始めた。

 それから20年経った2018年、まだ音楽シーンの最前線にいた鷹尾は久し振りに武道館でライヴをすることになった。開催の日は成人式の1月15日だ。その日は時同じくして、智美と信哉の娘、琴美が成人を迎える日でもあった。

 琴美は成人式に出席し、智美と信哉の築いた幸せな家庭に祝福された。何もかもが満たされている。充足している。自分の選択は間違いなかったのだと思う。後悔は……多分ないはず。欠けたものも、足りないものも何ひとつない。そう思って智美は凛々しく背筋を伸ばす。

 その日の夜、テレビで放映された鷹尾のライヴで、鷹尾はステージ上からこう客席に呼び掛けた。

「今日は僕にとって最も大切で、生涯でただ一人愛した女性の娘が成人した日だ。この日のために歌を作ってね。戯れに聴いてよ」

 そう言って鷹尾はレスポールを抱えた。それはまるで、プロポーズされたことを鷹尾に伝えた日、レスポールを胸に抱いてベッドに横たわっていた鷹尾の姿そのものだった。綺麗に調弦されたレスポールギターから静かにコードを響かせて、鷹尾はハスキーで霞みがかった声でこう歌い上げる。

「Never repent.Even if you look back(もし君が振り返っても決して後悔しないで)」

 その言葉と歌声は、年月を重ねて少しだけ大人になった智美の胸に染み渡っていく。サビでもう一度このフレーズを鷹尾は歌い上げると彼のライヴは終わった。鷹尾の言葉と詩は確かに自分に向けられていたものだ。そう思うと智美は涙が溢れて止まらない。喜びで胸も満たされていく。その姿を信哉は優しく保護するように見つめている。不思議そうに琴美は、智美の顔を覗きこむ。

「どうしたの? お母さん」

「ううん。なんでもないの。ゴメンね。みんな」

 その涙の意味を信哉だけは知っていたが、言葉にすることは決して、永遠になかった。そして智美は最後にこう琴美に伝える。

「悔いのない人生を送ってね。琴美」

 琴美は少し首を傾げると、笑って頷く。

「うん。分かった。お母さん」

 そして幸せな家庭の団欒のひと時は過ぎて行く。その夜、智美の耳にはいつまでも鷹尾の歌声がこうリフレインしていた。

「Never repent.Even if you look back」

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