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いままで、どうやって足を動かしてきたのかわからなくなった。いままで、どうやって頭を働かしていたのかわからなくなった。
ゲームカウントは2-3。私はそれを横目で見る。雲一つない晴天で、気温もかなり高いはずなのに私の手はひんやりとしていて思わずラケットを落としそうになる。そんな余裕なんてないのに。
そして、審判は高らかに告げる。
「ワンスリー!」
いくぞーっ!
後ろで相棒のそんな声がした。私の目の前にはサーブを待ちながら私を睨み付ける後衛の姿。しっかりと、構えなければならなかった。相手のレシーブに備えて。私の体はたぶんしっかりと構えを作れていたと思う。でも、頭が働かなかった。この状況を飲み込むことができなかった。
――あと、1点で、負ける……? 県大会にも、出られない?
――こんなはずじゃない。こんなはずじゃ、ない。
パコンと小気味のいい音がして相棒の手からボールが放たれる。私はその音ではっとしたようにグリップを握りなおす。手は冷えているのに汗はしっかりとかいていて、それがとてつもなく気持ち悪い。私は無意識にうちに顔を歪めた。
相棒の放ったボールはサービスラインとサービスサイドラインの交わったところ、しかもそのギリギリに入ったがしかし、いつもより威力がなかった。
「三崎!」
相棒が悲鳴のような声をあげて私を呼ぶ。
――ストレート! つめなきゃ!
頭ではわかっていた。がら空きのそこにシュートボールを打ち込まれたらいけない。相棒は追いつかない。私が、取らねばならない。……でも、足が動かなかった。
私の真横。ラケット半個分足りない位置を通過するボール。無情にも私の手は、届かない。そして私の後ろでボールがバウンドする音が、聞こえた。
「ゲームセット!」
――いま、何て言った?
私はゆっくりと後ろを振り返る。そこには壁にぶち当たったボールと、呆然とした相棒。やったね、だとか何とか。はしゃぐ勝者の声で我に返る。でも。それでも。何が起こったのかまったくわからない。わかりたくもない私が、いた。
私は負けるのが、怖い。
だからもう、――この世界とは関わらないことを、決めた。
**
――風が気持ちいい。こののどかな雰囲気が、好きだ。
5月。ゴールデンウィークも終わって、ほとんどの人が部活を決めた頃合い。しかもここ、南ヶ丘高校は部活加入率が非常に高い。強制入部なわけではないのに、だ。
失敗したかな、この高校にして。そんな風に考えながら少しだけ邪魔に思う髪を耳にかける。ベリーショートのようにみんながみんな、一様に短かった髪。それがいまはやっと、耳を覆うくらいまで長くなってきた。そんな感覚、久しぶりすぎてくすぐったい。
――部活、何入ろう。
ソフトテニス部がない、もしくは弱くてさらに、ずっと部活漬けだった私でも入れるような高校。それでもって、あんまり遠いところには行きたくない。そんな私の我が儘すぎる希望をすべて叶えた高校。それが、南ヶ丘高校だった。
ソフトテニス部はあるらしいが地区大会一回戦敗退は当たり前レベルに弱いらしく、当然私の元チームメイトたちが進学してくるようなこともない。あのチームからこの学校にやってきたのは私くらいのもので他の部員たちは強豪校へと進学していった。高校でもまたソフトテニスを続け、高みを目指すために。
だけど私は違う。もうソフトテニスを続ける気はない。だからこの学校を選んだ。とはいえ、部活加入率の高いこの高校で帰宅部というのも少し浮くのではないか。だとしたら何部に入ろうか。そうぼうっと考えている私の目の前に誰かが表れたようで少しだけ視界が暗くなる。私はゆっくりと視線をあげた。
「三崎、アンタ、バレー部でも入る?」
「あ?」
突然の投げかけに、返す言葉は自然ときついものとなる。そのせいで、ひぃっと小さく声を漏らす人や一歩後ろへ下がる人もいるけれど、目の前にいる理香子は耐性でもあるのか、それともこの1か月ほどで慣れてしまったのか。眉ひとつ動かさずに私の前の席へと腰を下ろした。
「だからバレー部だって、バレー部! あたしと一緒の!」
理香子は小学生のときから続けていたらしいバレーを高校でも続けていた。ポジションはどこだったか忘れてしまったけれど、うちのバレー部はそこまで弱くなかったと思う。だからというわけでもないけれど、私はほとんど考えることもなく答えを出した。
「や、そりゃ無理だわ。私、バレー苦手だし」
「あっそ。その長身いかせるのになー」
私のこの168センチという身長はどうやら、クラスで大きい方らしい。理香子もそう小さい方ではないけれどやはり私よりは小さかった。
中学のときはボール追っかけるのに背ぇ高いに越したことはないから、伸びろー! って思ってたけれど、今となっては確かに、こりゃ宝の持ち腐れかもしんねえなあ。とは思うけど、バレーなんてもっと身長あってなんぼ。たぶん私の身長じゃそんな強味にはならないし、今さら始めたところでスタメンにはなれないだろうし、それじゃつまんない。
「やっぱ、文化部かな」
呟くようにそう言う。自分で言った言葉なのは確かなのだけど、あんまり現実味がなかった。
「文化部ぅ? アンタ、何入るつもり?」
理香子は訝しげな顔をした。確かに私が文化部入るなんて想像がつかない。仮に入るとして、いったいどこに入れってんだ。
吹奏楽? 自慢じゃないけど私、リコーダーだって上手くできないよ?
合唱? いや、私に音楽やれってのがまず無理だったわ。
あー、じゃあ家庭科とか? ……料理なんて、授業以外でやったことないし。
そう考えると本当に入れる部活がない。マネージャーなんて、人をサポートするのは柄じゃないし、運動部は中学からやってる部活じゃないと、ついてける自信がない。中学三年間ソフトテニス漬けだった私が他にしていたスポーツはもちろん存在しないし、ソフトテニス部に入る気はない。つまり私に残された選択肢はほとんどなかった。
「帰宅部でいいかな」
「バイトでもすりゃーいいじゃん、バイトでも」
「んー……」
やりたいことがない。何をすべきかわからない。
金稼ぐか? でも金あって困ることはないと思うけど、使い道もない。
「はぁ」
私は大きなため息をついた。まさかこんなに有意義とはほど遠い高校生活を送ることになるとは。
ふと、窓の外を見た。眼下に広がるのは砂埃のたったグラウンド。それがひどく懐かしい。チャイムが鳴ったら急いで着替えて、グラウンドに駆け出す。そんで倉庫から用具引っ張ってきて、1からコートを立てるんだ。他の学校はコート常設のとこもあるのに、石灰でライン引いたりさ。
もう関わりたくない。そう思っているはずなのに、グラウンドを見て思い起こされるのは中学3年間で染み付いてしまった記憶。私の中学生活の、すべて。
でももう私はソフトテニスはやらない。だからこの学校に来た。地区大会一回戦敗退常連校の、この学校に。
今さら後悔なんて、ない。