一の二
「横立のおじいちゃんが死んじゃった。なんて無残な死に方かしら、さぞ熱くて苦しかったろうに・・知立お婆が可哀そうだわ」
アルテミスは思わず声を上げて泣き出した。
「自然の力には逆らえません。これも彼の運命なのでしょう」
意地悪とでも言いたげにハデスを一瞥したアルテミスは、立ち上がって泣きながら出口に向かう。
「お休みなさい、アルテミス様」
ハデスが頭だけ回して振り返った。
アルテミスは振り向かずに肩越しにステッキだけひと振りした。
アルテミスにとってずっと生活を共にしているタケル達は、既に家族同然にまで思いが深まっているのであった。
相模への道はあと二通りある、一つはまっすぐ東に足柄山南部(箱根)を通る道、もう一つはそのずっと南の峠(十国峠)を東に踏破して阿多湊(熱海)に出て、そこから浜辺に添って北上し、ひと山越えて小由留木(小田原)に向かう。この二つであるがどちらも極めて危険で険しい道である。どちらかというと足柄山の道の方が道のりが短くていいのではないかとタケルは思った。
…小田原という地名は後世の人が竹簡に書かれた小由留木という草書の文字を読み違えたものだと言われる。…
不二山の出す煙が辺りを暗くし、日中でも夕暮れのような日々が続く。この暗さでは険しい山道を旅慣れぬ者や馬を連れて通るのは危険である。仕方なく噴火が鎮まるまでしばらくこの地に留まることにした。
タケルは夜目の利く三太夫と弟彦を連れて、伊豆の山を狩猟採集を兼ねて出歩いた。
一方弟橘姫は久米八を用心棒代わりに連れて、お松と共に海で漁をしている。浜には伴侶を失い悲しみに暮れる知立も居る。農作物は被害を受けていたが、水の中はまだ被害が軽かったようだ。
久米八は笊を持って浜辺で久米歌を歌いながら貝獲りに励む。その脇でお松も腰を屈めて貝を探している。久米八の大きな歌声が響き渡る。大仰な節回しの唄いである。
菟陀の高城に 鴫罠張る わが待つや
鴫は障らず いすくはし 鯨障る
前妻が 菜乞はさば 立そばの 実の無けくを こきしひゑね
後妻が 菜乞はさば いちさかき 実の大けくを こきだひゑね
ええ しやこしや こはいのごふぞ
ああ しやこしや こはあざわらふぞ
菟陀(奈良盆地南部の宇陀市)の高台に鴫を獲ろうと罠を張ったら、立派な鯨が掛かった。これは脂が乗って旨そうだ。古女房が欲しがったなら、蕎麦の実のように中身のないのをたっぷり切ってやれ。新妻が欲しがったなら、柃の実のように大きいのをたっぷり切ってやれ。ええ、しやこしや、これは罵っているのだぞ。ああ、しやこしや、これは嘲笑っているのだぞ、という歌である。
あの時横立は死の間際、一瞬久米八と視線が合った。
――久米八どん、婆を頼む、知立を頼む
久米八には横立の目がそう言っているように感じた。知立を託された久米八はどうにかして知立の悲しみを癒そうと懸命だった。
山は相変わらず黒煙を上げ、時折火を噴き一日中日暮れのような天候が続く。
タケルは第二部隊の事が気になって仕方がない。
「三太夫、兄上と連絡を取りたいが何とかならぬか」
「さあて、まだ山越えは危のぉ御座る。海を廻って行けば前に進めるでしょうが、ここの大船は噴火で被害を受けていて、今修理中のようで、どうもなりません」
「いや、吾は海を渡るのは気が進まぬ。それは考えんでくれ」
「はあ、ですがこのまま山が鎮まるのを待っていては年が明けてしまいますぞ」
「いや、それでもならぬ、不吉じゃ。何とか繋ぎが付けられぬものかなぁ」
「へえ、でしたらわいが小舟で御浦まで行ってみましょう」
「出来るか」
「出来ますとも。二人なら交代で漕げますから何とかなるでしょう」
こうして三太夫と稲目が小舟に乗りこみ、伊豆の海岸沿いをぐるっと回って御浦の地に向かった。
ひと月後、三太夫達が無事に戻った。伊豆の海岸沿いを辿りながら相模の海(湾)を横切り、御浦の地に辿り着いた。しかし、第二部隊の事をどこで尋ねても誰も知らず、何一つ手掛かりは無かったと話す。
「どういう事だ、三太夫」
「どうやらまだ来ていないようですな。あるいは何かあったのかもしれませんぞ」
「おい、いやな事を言わないでくれ・・」
タケルはさすがに不安になってきた。しかし、どこに居るのかも分からない以上、ただひたすら無事を祈るしか、する事はない。
翌景行三九年春、不二山の噴火はようやく鎮まってきた。お日様の姿は半年も見ていない。薄暗くはあったが、今を逃す手はないと思い一行は出発した。経路は南の峠を経て阿多(熱海)に出る道にした。皆の意見を酌んで、出来るだけ不二山から離れた方が安全と判断したのである。
昼頃、ようやく周りが白けてきて視界が利くようになった。幅の狭い断崖上の道で、左は絶壁の岩肌、右は谷底という一キロメートルほどの崖道である。如何にして斯様な道が出来たものか、少なくとも人間の成せる業ではない。茹で卵の殻が半分剥けたような山肌の自然な造形を、上手く利用して道に変えたものであろう。
しかし、斯様な地形には所々風化の名残のような段差が残るものである。上を仰げばあちこちに岩肌の凹みが見受けられる。そこは空を飛ぶ生き物達には格好の栖家となりうる。
風も無い穏やかな昼下がり、一行はこの狭い山道の中ほどに差し掛かった。
先頭を三太夫が行き、道案内の者が続く。タケル、弟橘姫とお松、久米八と知立、一頭目の馬と二人目の案内の男、弟彦、乳返稲置と続き、殿を馬を曳いた稲目が努めた。馬を除き、一人一人麻紐で胴をしっかり縛って峠を歩む。知立は久米八と弟彦が交代で負ぶって面倒を見ている。今回知立は馬に乗っていない、馬に乗ればなお一層高さが怖くなると言って途中で降りたのである。
先頭を行く三太夫はこの穏やかな山の静けさに何か違和感を感じていた。頻りに周りを見まわしては振り返って皆の様子を覗うが、別に変わった様子もない。
何度か繰り返したあと、
(気のせいか・・)
と、思い直して向き直り、緊張感がほぐれたのか、ふと大きく伸びをした。その時驚くまいことか、巨大な影が斜め前方から滑空してくるのに気が付いた。
「危ない、皆伏せろ」
と、三太夫が叫んだ。見ると巨大な鷲が急降下してくる。三太夫以下タケルや弟橘姫達は驚いて地にへたりこんだ。
鷲の眼は真っ直ぐに知立を見据えていた。久米八は慌てる知立を背から下ろし、覆い被さるようにして伏せた。その瞬間皆を繋いである麻紐がピーンと張られ、岩角を擦る。伸ばされた鷲の爪は久米八の僅か上を掠めるが、後ろの馬と案内の男が引っ掛けられた。馬が竿立ちになって嘶いた途端に、男が飛ばされて紐がプツンと切れた。
「あわわ、た、助けて・・」
悲鳴が轟き、馬はそのまま真っ逆さまに谷底に落ちて行く。
しかし、飛ばされた男は辛くも後ろ側の紐で守られ、崖下に宙吊りになっている。紐が繋がっている弟彦が地にへばり付いて耐えているが、男の重さを支えるのがやっとで手を伸ばすことが出来ない。
「きゃー、あぶ、あぶ、危ない・・」
アルテミスは身を乗り出して起き上がった。
「ど、どうしようハデス」
「じっと見守るのですよ、アルテミス様。叫んではいけませんよ。場所が場所だけに、却って危険で御座います」
「そうなのよ、分かるんだけど・・(頑張って弟彦さん)」
アルテミスは心の中で念じた。
「く、苦しい、だ、誰か・・」
弟彦が呻いた。後ろの乳返稲置も綱を引いて踏ん張るが、手に負えそうもない。これで弟彦まで落ちてしまえば後ろの者が皆巻き添えになってしまう。
その時再び大鷲が迫ってきた。
「主、また来たぞ」
三太夫はすかさず体の麻紐を切り離し、飛ぶようにタケル達を乗り越えて弟彦の側に走り寄る。タケルもそこらにある石を拾って身構えた。大鷲はまたも同じ付近に滑空してくる。三太夫は慌てて弟彦の弓を拾って弦を張ろうとするが、間に合いそうもなく胸元の小刀に手を伸ばす。
その時、タケルが
「この化け物め、近寄るな」
と、立て続けに飛礫を投げつけた。飛礫が鷲の腹に当って、怯んだのか鷲はそのまま飛び違えた。
三太夫は鷲の去った隙に、弟彦と共に男の紐を引っ張ったが、上がってきた男の手を握ろうとした瞬間、プツンと麻紐が切れてしまった。
男が悲鳴と共に転がり落ちて行く。
悔しがる三太夫が上空を睨む。起き上った弟彦が、
「兄者、吾に弓を」
と言って、上空を見据えた。三太夫から弓を受け取ると、手際良く弦を張り、矢を番えた。三太夫も石を拾って身構えた。
三度目の来襲である、タケル、三太夫、弟彦が一斉に鷲に飛礫や弓を食らわせた。矢が片羽を掠め、飛礫が足に当たった。さすがの大鷲も飛び道具に怯えて逃げ去った。
鷲は餌欲しさではなく、巣を守ろうとして攻撃してきたのかもしれない。またしても犠牲者を出してしまった事に、タケルはやり切れぬ思いであった。自分の考えの甘さと悪運のために犠牲になった、そう思えてならないのである。
しかし、過ぎたことを悔やんでいる暇はない、辺りは既に暗い。こんな狭い道で寝ることなど出来はしない、もう少し進んで野営の場所を探さねばならなかった。
崖道を過ぎ、森の中で夜寝ていると狼の遠吠えが聞こえてきた。月も無く黒雲の立ち籠める暗い夜である。しばらくするとカサカサと走り回る音と共に唸り声が段々近づいてくる。やがてすぐ傍らで聞こえはじめ、皆が目を覚ました。
中央の焚火のほかに、四隅に炬火を立ててある。その炬火に照らされてひたひたと歩む音、毛むくじゃらの足下が見えてきた。暗がりに目をぎらつかせて睨む一匹の狼が現れた。その後ろに何匹かの狼の光った眼だけが見え隠れする。先頭の眉間に三日月型の傷のある奴が頭のようだ。
タケルは三日月の狼から視線を逸らさず睨みつける。三日月も警戒して呻りはするが、じっとタケルを見つめている。後ろで馬が嘶くのを稲目達が必死に宥めている。
弟彦が燃え止しの薪を掴んで震えている。その姿を横目で感じて、
「弟彦、やめよ」
と、タケルが止める間も無く、弟彦が薪を放った。足下に赤く燻る薪が転がって来たが、三日月は難なく躱し、牙を剥いて威嚇する。しかし、タケルは動じない。
また低く唸りながらタケルと睨み合いになる。
「あ、主・・」
三太夫が心配そうにタケルに寄り添うが、タケルは、
「駄目だ、刃向かうな。このもの達は飢えておる、腹が減っているだけだ・・」
と、三日月を見据えたまま答えた。
動物は皆存外臆病な生き物である、人間の数の方がずっと多いのに襲ってくるには訳がある。狼は神聖な生き物で、神の使いと思われているから、むやみに殺す訳にはいかない。
この時、後ろで震えていた知立が、すっくと立って、
「おりを贄に出せばええだ」
と言って、よろよろと出てきた。
「馬鹿を言うな、やめんかい」
久米八が知立の腕を掴んで必死に止める。
「知ぃ婆ぁ、お前さんが死んだら、わしが困るでねえか、頼むからそんな事言わねぇでな、長生きしてくれろ」
「離せってばよぉ、おりはもう爺さんのとこさ行きてぇだ、離してくんろ」
「駄目だってばよぉ、わしは絶対離さねぇからな」
久米八も食い下がる。
「知ぃ婆さん、やめて、そんな事」
弟橘姫も止めに入った。
「おりの料理ば、たんと食ってみてぇって言ったでねぇか。頼むからそったらこと言わねぇでくんろ」
興奮すると何故か知立の方言が移ってしまう久米八。ふと知立が見あげると、潤んだ目と目があって、知立は思わず久米八にしがみ付いてワンワン泣き出し、二人してしゃがんでしまった。久米八も知立に顔を引っ付けて泣いている。弟橘姫とお松もいたわるように寄り添っていた。
タケルは後ろで起きている事を耳にしつつも、目前に居る三日月の目をじっと見ている。そして視線を逸らさず、
「稲目、馬に積んだありったけの干物を笠に入れて持ってこい」
と、穏やかに命じた。
稲目は急ぎ荷を解き肉や魚の干物を笠に載せ始めた。そして笠の紐を持って後ろからタケルの手にそっと引っ掛けた。笠の中には干物が山に積んである。タケルはゆっくりと進み笠を三日月の前に置いて、後に下がる。それでも三日月はタケルから眼を離さない。
タケルも三日月から眼を離さずに、
「三太夫、剱だ」
と、低く呟き、左手を後ろに出した。
タケルは驚かさないようにゆっくりと天叢雲剱の麻の薦包みを受け取り、片膝ついて横に掲げ、目を瞑って祈った。瞬間剱が何か優しく輝くように皆は感じ、狼の唸りも消えた。
すると三日月が一歩進み出て、笠の紐を咥えると、ゆっくりと後退り、踝を返して去って行った。ほかの狼も嬉しげに吠えながら消え去った。
ほっとして振り返ったタケルは、泣いている知立と久米八の肩を叩いて微笑んだ。皆はこれも不二山の噴火のせいだと思った。日差しが噴煙に隠されて作物の実りが悪く、動物達は皆飢えている。一行の食べ物はそれぞれの背負子に残る干し芋と漬物だけになったが、無いよりはいい。




