二の三
やがて高倉下が八咫烏を連れてやってきた。八咫烏を手ごろな岩に座らせて、
「八咫烏よ、汝はこの山に詳しいとの事だな。そこでじゃ、菟陀までの道案内をしてもらいたい」
「ですが道士、この山は越えられませんぞ、谷は深く切れ込んで、山は切り立った崖ばかりで御座います。おまけに崖には蘚がびっしり生えていて、つるつる滑るのなんの」
「さもあらん。だがどこかに越えられる道がきっとある筈じゃ、それを探してもらいたい」
「どうやって探せばよいので・・・」
八咫烏は雲を掴めと言われている心地がした。
「吾に汝の眼を貸して欲しい、吾に任せてゆったり後ろの岩肌に背を預けよ。そしてこの鳶を右手に載せるのじゃ」
何が始まるのか八咫烏は不安そうな眼差し。宇受売達も怪訝な貌をして見つめている。吾は再び背から鏡を取り出した。そして鏡を八咫烏に覗きこませて、
「鳶の眼を見よ、じっと覗き込むのだ」
と命じた。そして指を額に当てて呪文を唱え始めた。
「卍△=△○♀δ・・・」
鏡を構えながらひたすらに呪文を唱え続けた。
そして、
「えーい!」
と、気合一閃、呪文が掛かった。瞬間、八咫烏は目を閉じた。
何が起こったか宇受売を除いて誰も気が付かない。
「どうだな八咫烏、気分は」
「へぇ、どうもありませんが」
と、目を瞑ったまま怪訝な顔をしている。
「そんなことはない、飛んでみよ」
吾は両手を振れという仕草した。
「へ? 飛ぶですって?」
何の事かとかと思いながらも、八咫烏は両手を振ってみた。と、どうだろう、瞬く間に鳶は空高く舞い上がった。両手を振ったのは八咫烏ではなく鳶なのじゃ。
八咫烏は目が回って仕方がない。
「うわぁ、こ、これは一体どうなっているので」
岩に寄り掛かっている八咫烏は、目を閉じたままじっとして口だけ動かしていると言うのに、本人は大空を飛びまわっている感覚に襲われた。鳥獣憑依の法という、人の心が獣に乗り移った状態じゃ。人の分身として鳶は大空を舞っている、しかも鳶の見ている景色を、下で寝ている八咫烏が覗いて、ものを話すのじゃ。
木々の生い茂る山々が眼下に広がる。尚もぐるぐる旋廻しながら上空に上がり続ける鳶、最早下の人々の姿も砂粒の如くだ。
「飛んでる、吾が飛んでおるぞ」
「そうだろうとも、汝の眼と意志を鳶に移し込んだのじゃ。今汝の眼は鳶の眼と置き換わっておる、山々が隈なく見えるであろう」
「はい、道士、よく見えます・・しかし目が回りそうで・・・」
「ははは、しっかり慣れることじゃ、そして菟陀への道を探してくれぬか」
「はい、これなら全部見えます、きっと道を見つけてみせますわい」
「頼むぞ、しっかりとな。ただ、われらの居場所を見失うではないぞ、戻れなくなったら難儀なことになるでな。その時は言うのじゃ、鏡の光を空に向けて場所を示すでな」
「はい、分かりました、ではすぐにでも道を探しに行きます」
「んん、頼む」
吾は上空に向かって手を振った。
「それから日臣命よ、汝の手の者でこの八咫烏の体の面倒を見てくれ。この体は抜け殻と同じじゃが、腹も減れば糞もせねばならんでな、大切に扱ってくれ」
先を進むうちに八咫烏はとうとうひと筋の獣道を発見していた。険しく危険な悪路であった。鳥になった八咫烏をいったん元に戻してやり、大久米の邑に入った。既に薄暗くなって、ここの者達には都合がよいかもしれない。
火を囲んで作戦会議じゃ。初めは吾も八咫烏の先導する道を進もうと思っていたが、菟陀にはほぼ同時に左右から攻めるのが良いということになり、ひと月後に菟陀に入ると決め、日取りを定めて左右に別れることにした。
吾は一千の軍兵を連れて紀ノ国を平らげて紀ノ川を遡り、西南から菟陀に向かう。そして別部隊三百は日臣を大将とし、参謀に八咫鏡を背負った宇受売、先鋒を猿田彦として大久米の者達が主体となって山に入り、東南から菟陀に入る。
山は夏場思っても見ないほど雨が降る。土地の者が大平(大台ケ原)と呼ぶ台地上の峰が連なるため、南の湿った空気が峰にぶつかり、峰の南側に大量の雨を降らせる。雨で浸食を受けた硬い岩盤だけが残った山に、ひたすら雨が降り注ぐため、木々や蘚が生い茂っている。蘚に溜まった水が至る所で谷間に湖と思しき沼を作っているという地形じゃ。
季節は春、雨は少ない。途中までは谷間を抜け、それから唯一登れそうな切り立った崖を登り、大平の台地上に上がる。台地の尾根道を伝って遥か北に向かうのだ、道はそれしかないと分かった。さぞかし危険であろう、鏡の神よ、日孁お婆よ、皆を守っておくれ。
あとから分かった事だが、大平の上は禿山ではなく鬱蒼と木々が生い茂っているらしい。ゆえに絶えず八咫烏は下の者の位置を掴みながら指図しなければならないため、宇受売は鏡を常に上を向けて進んでいる。切れ切れではあるが反射光が天に向かって走るのを見ることが出来たようじゃ。
一方、吾の部隊だが、陸路を海沿いに西に向かった。大軍を率いているためなのか、紀ノ国の出雲族の村はどれも怖れをなして逃げていく者、あるいは投降する者だけで、戦いを受けて立つ者は皆無であった。
噂では吾の持つ光る剱に恐れをなしたということじゃ。布都御魂を天に掲げると、剱が光を放って出雲族を震えさせた。道はこちらの方が遥かに遠いが、なんなく海部の村(和歌山市雑賀町)まで平定することが出来た。
ここからは川沿いを警戒しながら水陸同時に進んでいく。船だけでは断崖上から攻撃を受けるおそれがあるからだ。吾は船で進む道を選んだ。
こうして両の部隊は呼応して菟陀の地に入った。
猿田彦率いる大久米の働きは目覚ましい、途中で出雲族の村を二つ壊滅状態に追いやったらしい。
約束の期日となった。大挙して菟陀に入場すると、出雲族のおさ建御名方は思いもよらぬ方角から敵が現れたことに戦意を喪失して、一斉に逃げてしまった。戦わずして菟陀を手に入れたのじゃ。
登美邑の那賀須泥彦は屋敷で自決して果てたという。聞けばわが身に代えて邑の者を許して欲しいとの事だ、実に律儀で潔い、惜しい男であった。
ここに於いて吾は戦勝を宣言し、皆から王に推挙を受けて即位した。
すなわち、吾こそはカムヤマトイワレビコ、神武じゃ。
そして指揮官の日臣命をして、険しい道を切り拓いて見事に菟陀に攻め入ったことから改めて道臣命と名を授けた。
大久米の者達はその後も道臣命に従い、行く行く道臣命の家臣として取り立てられていくことだろう。
…道臣命の子孫は帝の護衛や警衛を扱った大伴氏となっていく。残った大久米の者らも熊野や瀬戸内などに散らばって、各地に水軍として後世に名を上げることとなる。…
猿田彦にもここ橿原と名付けた都に住むことを許したが、変わった男で、宇受売を連れて東に向かい、耳成山を越えて、もとの檜山に戻ってしまった。今後宇受売とはあまり会えなくなることが辛いが、詮無い事か。猿田彦には志摩の地域を与えることにした。
この耳成山とは吾が日の本を初めて発見した時に、火の石を吐いて歓迎してくれた山の名じゃ。陸地の縁を作る山(縁を成す山)じゃから耳成山(開聞岳)だと隼人達は呼んでいた。ここに来て似た山を見た時、吾は思わず耳成山と叫んでしまったのじゃ。
…のちの伊勢の土地一帯を猿田彦命の子孫、太田命が倭姫命に献上した事は既に述べた。そして、檜山(八禰宜山)は神域として神宮を建造あるいは遷宮するための木を育てる神聖な山となっていくのである。ちなみに檜が製材として使えるまで育つには実に三百年の年月が掛かるとされる。…
また八咫烏には土地(山城国賀茂地方)を与え、建角身という名前を与えて住まわせた。
…八咫烏は賀茂建角身命あるいは賀茂建津命として賀茂氏の祖となる。…
吾は即位後、都を整備しながら、さらに平定を急いだ。従兄弟の宇摩志麻治に五百の兵を与え、布都御魂を授けて建御名方を追わせた。追撃部隊は遥か東国に及び、ついに追いつめ、大将同士の一騎打ちとなった。
…場所はのちに尾張国と呼ばれる。…
たがいに剱を打ち合わせ、火花を散らし合った結果、建御名方は剱が折れて負傷した。
宇摩志麻治は今度は腕ずくでこいと剱を捨てて、上着を脱いた。掛け声と共に取っ組みあった。力は五分五分で中々勝負がつかない。業を煮やした宇摩志麻治は建御名方の足先を踏みつけて、よろつくところを押し倒した。
これを機に両軍相入り乱れて戦いとなったが、形勢は倭軍に有利に傾き、出雲族は仕方なく負けを認めてその地を去った。東の山深い土地に逃げ入るが、倭の大将宇摩志麻治はなおも追撃していく。
やがて大きな洲羽の湖(諏訪湖)というところに出ると、建御名方は行き場を失い、
「最早行く所がない。われらはこの土地から外に出ないゆえに何とか許してくれぬか?」
と、哀願した。
出雲族の神の一人として崇められている建御名方命の生命を断つことは、のちのちのために宜しからず。むしろこれを活かそうと吾は判断し、助命した。
こうして許された出雲族の民がこの土地に国を造った、それが科野国じゃ。同時にこの地に元から居た民草達(縄文系の出雲族)のあらかたが東に逃げ散ったが、残った僅かの者達は共に暮らすようになったのじゃ。
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建御名方命は洲羽大社を作りその祭神となる。洲羽大明神となったのだ。
のちの崇神大王の御代に、四道将軍の軍勢によって科野は倭に降り、科野に残った出雲族は完全に倭に属し、反発した出雲族は東に逃れて行ったそうだ。毛野の土地や常陸の土地に広がっていった。やがて毛野の土地も倭に帰し、残ったのは常陸の地だけとなったそうだ。これで仕舞いだ。――
…一方大汝が退いた出雲の土地は菟陀と同様に天然の要害であった。そして大汝はこの土地に出雲大社を造り、その祭神として祭られ、のちに大国主神と崇められるという話は既に記した。
西と東の地に出雲族の祖神を祭ることで、圧倒的に多数派の出雲族が、倭政権から離反するのを抑えたのかもしれない。巧みな民心掌握術と言わねばならない。…
翌日、タケル達一行は右下に駿河の海、左には切り立った崖が迫る険しい道(大崩海岸)に差し掛かった。かろうじて一列で通れるぐらいの絶壁沿いの道である。壁にへばり付くようにして慎重に進んだ。命綱は敢えて付けていない、落ちれば皆が巻き添えになってしまうからである。
その時とんでもないことが起こった、前方から馬を曳いた同じような一団がやってきたのである。その中には女と子供もいる。人間だけであれば何とかすれ違うことは可能であろうが、馬同士の場合はそうもいかない。
相手側の頭らしき男が杖代わりの長柄を持って近づいてきた。
「そこの旅の方々、どうか後ろへ下がられよ、これではわれらが先に進めぬ」
「何を申すか、汝らこそ下がられい」
と、先頭の三太夫が反論した。
「何をばかな、この峠道は五十町(五キロ半)は有る、われらは既に三十町も来ているのだ、近い方が下がるのが当然で御座ろう、違いますかな」
と、尚も男は食い下がった。
「何を言うか、この道は五十町も無いわい、えぇ加減な事を言って邪魔立てするとただではおかんぞ」
「何だと、それはこっちの申すことだ、さっさとどかんか」
正確にはおよそ三十六町(四キロメートル)に及ぶ断崖である。もう大変な騒ぎになってしまった。互いに退くに退けず、押し問答である。またこんな狭いところで刃を合わせることは尚さらに危険である。だいいち馬が廻れ右出来るほど道幅に余裕はない。長い距離を馬が後ろ向きで歩くことなど出来ようはずもない。




