三の一
三
十四になる大碓は西三野の関ヶ原近傍の垂井に屋敷を構えている。垂井はのちに三野国の国府となる邑で、ここに伊富岐神社がある。
瀬田の橋を起点とし常陸の相津(会津)まで日の本の中央を貫く道を東山道と言う。当時は相津より北の地理は分かっていない。不破の関を東に越えた辺りが大碓の封地で、古代でいう関東である。中山道という言い方はまだ存在しない。
古代の関東とは文字通り関所の東という意味で使われる。畿内とその東を分ける関所、伊勢の鈴鹿の関、三野の不破の関、越前の愛発の関という三関から言われる言葉である。古代では垂井や本巣、桑名などが関東に当たる。記録上では三関が設置されたのは七世紀の天武朝だとされるが、実際にはそれより遥か昔から要衝の地であったに違いない。
ちなみに現在の関東に当たる武蔵や相模などは古代では坂東と呼ばれた。これも文字通りで、二つの碓氷峠の坂の東側という意味からくる。駿河と相模の境の足柄山塊にある碓氷峠と、科野と毛野(上野と下野に分かれる以前の国名)の境にある碓氷峠である。
垂井の北西に近江と三野の国境に跨る伊吹の山並があり、冬は凍てつくような伊吹颪が吹き抜ける。伊吹山は日の本独特の草花が茂る数少ない山で、北と南の草花が同時に咲き乱れる不思議な山である。
この足柄山塊の碓氷峠と伊吹山とは、日の本の創成期において極めて重要なパワースポットとなることは追々分かる事だろう。
大碓の支配下に伊福氏がいる。正式な名前は伊福多多美彦連といい、朝鮮半島でこの時代に全盛を誇っている百済からの移民で、帝が特別に優遇している一族である。いつの間にか「いふく」が「いぶき」と、発音されたものか、伊吹山も伊富岐神社も「いふく」が語源とされる。
三野の伊富岐神社の南西に金山神社(のちの南宮大社)と呼ばれる古い社がある。初代の神武大王の創建とされ、伊勢神宮や出雲大社よりも古いかもしれない。創立当時は違ったのであろうが、いつの間にか鉱山の神を祭るようになり、伊福氏が鉱山の管理をする家元となった。伊福氏は支那国や韓国との交易の橋渡しとして倭政権に重用された。伊福氏の一族は製鉄の技術を日の本に伝えた民なのである。
製鉄には持続した強い風と良質の砂鉄、そして和炭の材料となる松や栗の木が必要となる。西三野には伊吹颪と松の樹林という二つがそろった伊吹山があった。取り分け風は重要な要素である。
この伊福氏の親族に当たるものが尾張国の造、乎止与命である。
大碓の双子の弟、小碓は近江の日野に屋敷を持つ、近江が封地となっていた。
そのやや北に蒲生首の屋敷がある。後世の蒲生家とは異なる。戦国時代の蒲生氏郷の祖先は平安時代に下野国から転封された俵藤太藤原秀郷とされ、この時代の蒲生首は前述した瀬田の三津首と共に渡来人である。
三野一帯が大碓、近江一帯が小碓という緩やかな支配体制になっている。尤も支配とはいうが、税制度も無い時代であり年貢を取る訳ではなく、その地域の一番尊い人、偉い人という程度であろう。戦の時の大将格、触頭のような地位である。
大碓と小碓は帝が三十六の時の子である。随分遅い生まれであったがこれには訳がある。二十三歳で即位した帝は、すぐに西国に遊説の旅に出た。国を盤石にしたいがために燃えていたのである。十年もの長きに渡り妻も妃も持たなかった。当時は血統を重んじたから、地方の民を妃や妻にすることは出来なかった。もちろん地方で子を生した事はあったろうが、皇族に加える事はなかった。
帝の妻や妃が男子を産んでその子が五つになると、朱雀門の外に屋敷を賜る。同時に声変わりする頃になると地方に封地も与えられる。纏向に屋敷を賜った男子には教育係として執事が付けられ、政事や封地の管理などを学ぶことになる。そして十四歳の成人となると封地の収穫の管理を任される。帝の娘達は母親と共に帝の側近くに暮らしている。もちろん帝の住む纏向の周りの管理は宮中の者の役目である。
封地や領地というと封建時代の言い方に感じるが、この場合は単に屋敷を持つ地域を意味し、帝からどこそこに住んでその地域を纏めよ、と命じられて屋敷を構えたにすぎない。
息子達は普段は纏向の屋敷に住んでいるが、時折封地の管理の為に宮中を空ける時期がある。この三月初め(新暦四月中頃)はそういう季節、水口祭りの頃である。水神祭りともいう。
苗床を作る四月半ば、そのひと月からふた月前に水神を祭る儀式が行なわれる。水害のなきように、また旱魃の起こらぬように神に願うのである。次に梅雨時の五月初めに田植えを行い、盛夏の頃六月半ば(新暦八月初め)に風祭といって豊作祈願祭を行う。そして霜の降りる収穫の時期を経て十一月半ば頃、収穫を神に感謝する新嘗祭を行う。
…現在天皇が主催する新嘗祭は十一月二十三日に行われるが、本来は旧暦の十一月二十三日のことである。日本の暦は新暦に変わったにもかかわらず、旧暦の日付をそのまま新暦の日付に使うケースが多くて混乱する。五月晴れは梅雨の晴れ間のことなのに、新暦の五月と勘違いして捉えていることなどがそのいい例である。…
大碓達領主は年に三度の祭りを主催し、全て立ち合わねばならない。
一面の田畑、その所々に直径五メートルほどの伏屋根の家が数戸ないし十戸ほど固まって立ち並び、その周りが一メートルほどの盛土で囲まれている。そんな固まりが十数ヶ所ある邑、ここが大碓の封地である。
この盛土する方式は、濃尾平野で鎌倉の頃から盛んに行われた水害対策、輪中の原型である。獣害対策でもあった。この時代は狼だってたくさん居たし、鹿や猿、猪、狸、狐、鼬、熊だって居たし、珍しいところでは川獺や針鼠だって住んでいた。人よりも獣の方が圧倒的に優勢な時代なのである。
輪中とは標高が低いため水害にやられないように、村や小集落ごとに堤防を作って囲んでしまう方法である。家々にはたいてい軒下に小舟が吊るしてある。さすがに現代では軒下に小舟の風習はなくなったが、今でも堤防の形の残る地域はたくさんある。
邑の最も北側の山裾に、一メートルぐらい盛土された上に、板塀を巡らした三十メートル四方ほどの敷地こそ大碓の屋敷である。
いずれも萱葺きの切り妻屋根のある高床の(掘立柱)建物が五棟。その中で千木のある中央の大きな建物が母屋であろうか、妻入りの入口に五、六段の階がある。屋敷の北側には杉の防風林が立ち並び、東側には山に通じる小道があって、竹藪が広がっている。
布張りの窓のお陰で部屋はとても明るい。後世の障子の原型かもしれない。母屋の一室で板の間に八尺の大叔父と対座して、竹簡を開いて目を走らせているのが帝の第二子、大碓命である。帝は将来を慮り、三野国の主家である大碓に役目を与えたのである。
手指の幅ぐらいに竹を割って、滑らかに削って麻紐で寄り合わせた竹簡である。この当時紙はまだ伝わっていない、板切れか竹簡、木簡、あるいは麻布に文字を書いていた。
(おやおや、親父殿はあんなに女を侍らせているのに、また増やそうというのか。しかも十二と十四の小娘とは、吾より年下ではないか。陛下の命とあれば詮無い事だが、あの気分屋で気位の高い王だ、果たしてどう話せばよいものか、難しそうだな・・・)
大碓は竹簡をじゃらっと纏め、意を決して前を向いた。
「相分かった、八尺の大叔父よ、確かに承ったと伝えて下され」
「ははーっ」
それなり、八尺の大叔父は屋敷を辞去し、帰路についた。
三月半ば、水口の儀式も無事に終え、野には黄色い花々が目立ってきた。大碓は供を二人連れて屋敷を出た。供の二人は伊福連の仕丁であるが、護衛などの役目として借りている者達である。事前にこの二人を使者として大根王に訪いの期日を知らせてあった。大根王も大碓の支配下という事になってはいるが、気が重い役割である。やや遠い親戚とはいえ、帝から見て大根王は叔父に当たる。親子ほど歳が違うが、実はあの娘らは帝の従妹に当たるのである。
正装して角髪の髪型に結っている大碓は、
(王を怒らせずに済むであろうか)と、不安で仕方がない。
鋼の鍬先十枚、猪の毛皮十匹、山芋を二把と鮒の干物三十枚を馬二頭に背負わせて、その馬ごと土産として持参した。全て大碓の自前で揃えたものである。
南の大垣付近で揖斐川と藪川(根尾川)が合流する、その藪川の中腹に大平山という小山がある。この山の南側一帯に広大な濃美平野が広がっている。その山の南麓で防風林に囲まれた五十メートル四方ほどの敷地、これが大根王の屋敷である。妻や妃や子、配下の氏族から出させた舎人や采女、仕丁達を含めて百数十人ほどが住んでいる。
屋敷内に田や畑もあり、屋敷というより村である。大小様々な萱葺きの切り妻屋根のある建物が数十軒。いずれも高床式で平入り(側面に入口)の建物である。物見櫓や共同の厠などもあるが、村を囲む濠は無く、獣害を避けるために六十センチほど盛土して板塀を巡らせている。揖斐川や藪川が激しく蛇行するから低地には人は住まない。ましてや長良川や木曽川も近くを流れているのである。
大根王は彦座王の子で、十代崇神大王の甥にあたる。彦坐王の子は多く、その中から四道将軍も輩出している。
四道将軍とは崇神大王が定めた制度で、日の本の中で未だに治まっていない地域を四つに分けて、四人の将軍に統一させようとしたものである。北陸道、東海道、西道(中国地方)、丹波道の四地域である。大根王の兄や従兄弟が任命された。
大根王は彦坐王の継嗣で本巣国の造を相続し、西三野のまとめ役である。彦坐王の年老いてからの子だった事もあり、身勝手で視野が狭く、周りの者のことをあまり気にしないという欠点があった。遅く生まれたことで、大役を授けられた兄や従兄弟達に嫉妬していた。自分も領土を広げ兄達に劣らぬ働きをしたいと、隙あらば三野全域を、そして尾張まで手に入れたいと狙っていた。近頃は南三野の豪族と争っているらしい。
大碓達は持参した土産物を取次の者に渡し、案内を乞うた。
長さ十五メートル、幅十一メートルも有ろうかと思える建物、それが大根王の母屋である。天井の高い頑丈な作りで、十五メートルからある太い梁が天井を東西に走り、破風に大きな明かり取りがある。空調のためでもあった。障子紙やガラス窓などの存在しない時代であるから、部屋の明るさを得る技術には苦心した事だろう。膳処(食堂)や厠(トイレ)などは別棟で、この建物には王と本妻、そしてその子供らが普段住んでいる。
母屋に通された大碓達は、この家の仕丁に導かれて階を登る。登りきったところに、屋根の廂の下を東西に走る廊下がある。後世でいう縁側と同じであるが、縁の外側に雨戸のような作りはない。西側の区画は戸が全部外して開け放たれ、中は板敷で七メートル四方ほどの広さの部屋となっている。東側の区画には布張りの窓の付いた戸が二つ見え、それ以外の所は縦格子の窓が格子板を直角に曲げて全開になっている。
全ての戸には水色の顔料で桔梗の模様が描いてある。室町時代の三野国の守護土岐氏が使った桔梗紋と似ている。当時としては極めて進んだ技術であろう。三野の山野には良く桔梗の花が咲いている。三野では夏の風祭のおりに、淡い水色の花を摘んで田の神様に捧げる。すると何故か豊作に恵まれるという言い伝えがあった。そんなことから吉凶を占う花として桔梗という名がついたとされる。
階や板敷きは丸太ではなく、皆削ってある板が使われている。縄文の昔から日の本では二種類の斧が使われていた。縦斧は木や竹を切り倒したり裂いたりする道具で、横斧は鉋や鑿の前身で手斧とも言われ、木を荒削りする道具である。しかも平らな板であるということは、仕上げで使う槍鉋らしきものまで存在したということだ。
大根王は西の大部屋奥の窓辺で、外の景色をぼんやりと眺めながら菅畳上であぐらをかいていた。黒々とした長いナマズ髭を生やした、でっぷりと太った姿。眉が太く一本に繋がって、飛び出しそうに思える大きな目を光らせている。髷を包んだ黒い烏帽子を被り、絹製の狩衣に褌という姿。手足の裾はすぼめていない。右肘を窓の桟におろし、左手で後世の団扇に似た板きれで顔に風を当てている。
畳は既にこの時代に存在した。菅畳とは蓆に畳表を張り、縁取りしてあるだけの物である。ただし、畳の大きさは規格化されてないから、後世で使われる坪とか畳という単位は存在しない。
仕丁が来客を告げて、大碓達が一歩中に入ると、大根王は威嚇するかの如く大碓達を
ギロッ
と睨んだ。少なくとも大碓にはそう感じた。
大碓は一瞬たじろいだが、気を落ち着けてその場で九拝した。後ろの二人も倣う。
「大叔父、御機嫌麗しゅうおわしますか」
と、大碓は九拝の形のまま挨拶した。
「おお、よぉ参られましたな、大碓殿。ささ、こちらへ来て座られい」
大根王の前に、もう一つ井草で作った菅畳が敷いてある。さわやかな季節とあって、全ての窓が全開に開けられ、とても明るい。大碓は家臣二人に目配せをすると、家臣らは入り口近くの板敷にあぐらをかいて控えた。
板敷を音のせぬようにゆっくりと進み、再び一礼をして菅畳の上に腰を下ろした。どうやら機嫌が良いようだと安心した。睨まれたように思ったのは、大碓の勘違いのようだ。
「これ、誰か、酒を持て」
と、奥に向かって大根王が叫んだ。
「はーい」と、奥の方で声がした。
「時に大叔父、此度は帝の用向きで罷り越しました」
「んん、そうらしいな、後ろの者達から、ちらと聞いておる。大層な土産を持ってきたというではないか、余程の事であろうの。で、陛下はなんと仰せじゃ」
「はは、恐縮におわします。こ、これは本巣国の造、神大根王にとりましては、大変に御名誉と存じまするお話でおわしまして・・・」
「これこれ、大碓どの、左様に堅苦しい物言いはなさらずともよい。普通に申されよ」
と、大根王は言葉を遮った。
「御座る」とは侍言葉のように聞こえるがそうでもない。公式の場などでは古くから尊敬語として「御座す」を使っていた。在来の言葉を支那国の漢字に置き換えてきた日本では、世界でも稀な語呂合わせの得意な文化が根付いた。御という文字がごとも読むことは明らかで、「猿を見てござる」などと使った者が多く居たに違いない。
「さ、左様ですか、然らば普段通りに話させて頂きます。実は帝は王の御息女お二方を宮中に上げよとの御意で御座る。お二方の美貌の噂を耳になされ、是非に皇室に加えたいとの仰せで御座います」
「ふっふ、大方そんな事だろうと思っておった。困った陛下じゃ」
と、大根王は帝と呼ばず、わざと陛下と敬称で呼んだ。
「吾より七つも年上というに吾の娘を所望じゃと? 吾の方が年下じゃが、陛下は吾の甥じゃ・・・娘らはまだ十四と十二であるぞ・・・名誉とは存ずるが・・・」
「王、どうぞお気を悪くなさらずに、姫様方が側に上がって子を為せば、王の地位もより帝に近づき、名誉なことと存じまするが・・・いかがで御座いましょうか」
大根王は団扇を置いて、両腕を広幅の袖の中に入れて組み、深く考え込んでいる。
この大根王の態度こそ面妖である。仮に帝のお手が付いて姉妹が子を生せば、その子が次期大王となれる可能性がある。大きく家格も上がるというのに一体どうしてであろうか。
そこへ、
「失礼致します」
と言って、引き戸を開けて入ってきた者がいる。当時としては珍しい横方向に開閉する引き戸である。
東側の入り口で、二人がちょこんと座ってお辞儀して、瓢箪の壺に入った酒と漆器の茶碗を運んできた。二本の鬼の角のように髪を結って、光沢のある桔梗色の絹の狩衣に袴姿。この髪型こそ真の意味での角髪である。当時の若い男女がこの形に髪を結ったが、あまりに幼く見えるので、大人になると角髷ではなく耳の所で結ぶ形となった。
当時の染付技術はないに等しい。麻の服が主流で、麻は色の染付が難しく、中々色が付かない。絹は良く染まる素材である。しかし、絹そのものが全くと言ってよい程手に入らない高価な品物である。帝や貿易などを行う有力者の独占物であった。
北陸で採れる翡翠の玉や勾玉、黒曜石の鏃と、三野の漆喰や漆などがその交換材料となる。大根王がいかに財力に恵まれているかが知れよう。
一人分ずつ二人の娘が、お盆に載せて王と客人の前に丁寧に酒器を置いた。首をちょっと傾げて、相手に対しにっこり微笑みながらお盆を差し出したのだ。
大碓ははっとして声を失った。目を見開いて、丸で酸欠の川魚のように口を開けてパクパクしている。
「おお、汝ら、御苦労である。大碓殿、この二人が吾の愛しい娘達、兄姫と弟姫で御座る。まだ斯様に可憐な者達でしてな、ははは。汝ら、もう下がってよいぞ」
二人の娘は会釈して静々と下がって行った。