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黎明のまほら~アルテミスの祈り  作者: 葵しん
第一章、 景行大王と大碓、小碓
5/109

     二の一

     二


 時は倭政権、第十二代(けい)(こう)(おお)(きみ)の在位二十七年(推定西暦一四二年)、四十九の頃である。古墳時代の初期に当たる。当時の倭政権の直接支配が及んでいた地域は畿内五国と紀伊、播磨、伊勢、近江、三野(のちの美濃)、尾張ぐらいであった。

 現在の北関東以北と沖縄を除いてほぼ倭に属してはいたが、(つち)()()という反抗分子があちこちに存在し、完全に民を支配している形とはほど遠い状況だった。地方には倭政権から国の(みやっこ)を派遣し、あるいはその土地の有力者を造に任命する形で国として日の本全体を(まと)め始めた時期である。

 造とは国主(帝の代理人、のちになって徴税官)の地位である。造と(おびと)(あたい)はほぼ同じような意味の官職であった。こういう官職を(かばね)と呼ぶ。それ以外に(むらじ)(おみ)という姓もある。臣は皇族の有力者の姓であり、連はそれ以外の有力者に与えられた姓である。

 直接支配する地域以外の地方の国は交易によって利益があるから倭に従っているだけで、その繋がりは緩やかでいつ逆らってもおかしくはない。中国地方はほぼ倭政権化にあるが、実情はあまり良く分かっていない。同じく四国と淡海(淡路島)は倭の一部となっているが、イザナギの命の住んでいた神域とされ、殆ど分かっていない。

 西国(九州)は倭の最初の地であり、最も進んだ地域であったが、都から遠く(からの)(くに)が近いために独立心の強い地域であった。交易の(かなめ)となる西国を押さえることは倭政権にとって極めて重要な課題なのである。

 日の本はざっとこのような状況であった。


 都は現在の奈良県桜井市三輪山北西麓付近で、皇居は(まき)(むく)()(しろ)の宮と呼ばれる。

 街の中を二本の川が通り、下って倭川(のちの大和川)という大河に合流する。いずれの川も街の給排水に利用され、また舟で下って海にまで行くことも出来る。そのうち初瀬川は日代の宮のすぐ南を通り、四囲を巡らす濠に繋がっている。

 倭川の流路は現在とは大きく様相を異にする。途中河内国に入る辺りで切り立った断崖に挟まれた峡谷(亀の瀬峡谷)を通り、急に北に向きを変えて(かわ)(ちの)(うみ)に注いでいる。断崖はあちこち地滑りを起こす危険地帯である。当時は河内の西側高台(大阪城のある所)の延長上にある砂州が、そのまま北の摂津国茨城辺りで繋がっていて、ここに海への出口があった。この砂州の東側一帯に巨大な河内湖が存在したのである。淀川と倭川が共に河内湖に注いでいた。現在では河内湖は存在しないし、流路も北ではなく西に向かい、河口は堺市付近に変わっている。

 この時代住居といえば屋根が円錐形で内側が(すみ)(まる)方形もしくは()(けい)の竪穴式住居が殆どだった。にも拘らずここ纏向では殆どが高床式の建物である。礎石を使わず地面に直接柱を突き刺した(ほっ)(たて)(ばしら)建物という形式で、(しっ)(くい)の白壁に後世の雨戸のような立て掛け式の戸まで付いている。この竪穴式住居とか掘立柱建物とかいう呼び方は考古学上の名前であって、当時は(ふせ)屋根の家とか切り妻屋根の家などと呼んだのかもしれない。

 纏向の街並みは日代の宮を中心として四方に整然と家と道が並び、南北にやや長い楕円の形をしている。日代の宮の周りは堀で、その外側にぐるっと一周出来る広い道路がある。宮の南側には正門の()(ざく)門があり、この門だけは宏壮な四脚門である。その南側に、敷石を連ねた広幅の長い道が南北に走り、道の両側に皇族達の住まいが並ぶ。

 そのほか日代の宮には北に玄武門、東に青龍門、西に白虎門が在り、玄武門を除いて三つの門には大きな吊り橋が架かっている。水神玄武の門だけは舟の出入り口である。それぞれ支那国から来た教えをもとに守り神を各門に配したものである。

 日代の宮の敷地は百メートル四方ほどで、他の所より一メートルほど高く盛土され、濠の内側は幅六十センチ、高さ二メートルの土塁で囲まれている。橋を登るように渡り、朱雀門を潜ると(じょう)(とう)(じん)の詰め所や庭池と桃の大樹などを両脇に見て、正面に帝の住む正殿が見える。その他敷地内には(かしわで)(どころ)(かわや)、船着き場、物見櫓、妃達の寝所などが立ち並ぶ。当然のことだが、四つの門内には許可無しには入れない。

 当時の都はおおよそこのような外観だったと思われる。

 …古代では衛兵や常備軍などを指して杖刀人と言った。

 これまでの発掘で纏向遺跡の広さは推定で南北に二キロメートル、東西に一・五キロメートルある。二メートルの高床で、高さ十二メートル、南北二十メートル、東西十二メートルクラスの、当時としては極めて大型の建物もいくつか発見されていて、帝の住居か神宮、あるいは大極殿のような(まつり)(ごと)を行う建物かもしれない。

 ちなみに皇族の人が住む住居のことを宮と言った。どんなにあばら家であれ、旅先で造った伏屋根のちっぽけな仮住まいであっても宮である。そして大概旅先で造った宮は、のちの時代に神社と変わっている。…


 二月半ば、しばらく西ばかり見ていたことで東がおろそかになったと考えた帝は、三野国を巡幸すべく従者を五人連れただけで、舟で琵琶湖へ向かうことにした。正確には偵察であって巡幸ではない。周りにそれと知られないようにしての旅である。それというのも三野国の不穏な噂が聞こえてきたからである。

 皇族達は年に何度か帝に挨拶に来るのが慣わしであった。ところが西三野の本巣国の造、(おお)(ねの)(おおきみ)は昨年()(つき)以来まだ一度も出仕が無い、どうしたのか探りを入れに来たのである。噂では人を募り、武具を整えているという。

 国がようやく纏まりかけてきたこの時期に、内部から離反する者が出る事は、国の存続を危うくする。帝は常に細心の注意を払って国中に目を光らせている。あちこちに人をやって日の本中の情報を入手し、同時に帝と倭国の宣伝を行なう。四角い顔でがっしりした体つきの割に、極めて臆病で繊細な帝で、色々なことに注意が行き渡る人であった。

 …当時の国とは地方というくらいの意味で、(むら)や村がいくつか集まった単位を国と呼んだ。邑とは大まかに言うと百戸を超えるやや大きな村を指す。…

 帝、そして従者の五人はいずれも似たような質素な格好をしている。支那風の丸(まげ)を作り、頭髪全体をすっぽり黒布の冠で覆っている。(ひと)()の肌着の上に膝上まである水干を着て(のば)(かま)を穿き、鹿皮の深靴を履いている。手足は紐ですぼめて動きやすくしている。一見して商人風の姿。深靴とは足に合わせて削った板を底板として、筒状にした鹿皮に入れた簡素な履物である。男性用のハカマを特に(はかま)と書き、それ以外のハカマを(はかま)と書く。

 従者の頭立つ者は()(さか)(のい)(りひ)(この)(みこと)といい、帝の叔父に当たる。先代の頃から執事を務め、既に六十過ぎの白髪、白髭の、皺だらけの痩せた好々爺で、八尺の大叔父と呼ばれている。代々皇居の執事は皇族のごく近しい家柄のものが就任する慣わしである。八尺の大叔父は先代垂仁大王の弟である。年の割に元気で、帝の変わりに政務を執行することも多々ある。ずっとのちの話だが、大叔父の末の娘が(やさ)(かの)(いり)(ひめの)(みこと)といい、早世した第一(おお)(きさき)に変わり、帝の第二大后となっている。

 あとの四人は(とね)()の護衛官であり、その頭を(ちょ)(うざ)といい武芸に優れた中肉中背の男で、背筋が伸び、姿の美しい男である。外交官も務めている。二十八という若さに似ず切れ者で、相手を良い気持ちにさせながら帝の意向を伝える使者としてうってつけの男である。

 …舎人と(うね)()は律令の頃に盛んに使われる言葉で、使役税として各地の氏族から徴収した使用人のことである。おそらく崇神朝の頃から帝に従った証として、使用人を人質として出す習慣があったと思われる。氏族とは(かばね)を持つ者のことである。平民の使用人を()(てい)や女丁と呼ぶ。(かしわで)(どころ)など水回りの用事を扱う女丁を(みず)()という。…


 畿内を流れる倭川を舟で下り、(かわ)(ちの)(うみ)に出て淀川を遡り近江へ向かう。淀川は途中三筋に分かれ、北から桂、宇治、木津と川の名を改める。その中央の宇治川が、今はまだ(ひと)()も疎らな山城(京都)を緩やかに迂回し、琵琶湖に至る。

 舟を操る舎人の一人が船尾で艪を放し、頭を低くしてしゃがんだ。舟はゆるゆると瀬田の橋を潜り抜けて琵琶湖に入った。この琵琶の鶴首の地形にある瀬田の橋(唐橋)は、歴史上軍事的に極めて重要となる橋で、この時代に初めて造られてから、幾度となく架け替えられては軍兵や旅人の通り道となった。

 草木の青が眩しい昼下がり、一行は皆揺り籠の赤児のごとくゆらゆらと揺られて瞼が重くなる。帝の長い(なまず)髭がさらさらと風に揺られてそよいでいる。ふと、帝の靡いた髭の先が鼻の頭を掻いたかと思った途端、

 へーっくしょい

 と、大きなクサメを一発。皆の眠気が一挙に覚めた。

「八尺の大叔父よ、淀の川といい、この琵琶の(うみ)は静かよのう。舟のお陰で(われ)は歩かずともよいゆえ、疲れんでええわい、のぉ?」

「はは、さようで御座いますな。この分ですと暗くなる前に()()の宮で湯に浸かれますな」

「温泉か、楽しみじゃのぉ」

 帝は湯のぬくもりを思い出したのか、自然と口元が綻び目尻が下がった。

 琵琶湖の南西部の湖岸に坂本という地域がある。その大津市坂本の四キロメートルほど北にある温泉、比叡山山麓の()(ごと)温泉である。当時は足湯が一般的である。

 平安時代に今雄氏の館の側にあった温泉で、土地の者が足湯に入っていると、この館から心地よい琴の調べが聞こえてきた。うっとりして聴いていると、眠ってしまい、湯ぶねに落ちて溺れそうになる者がおったとかなんとか。そこから付いた名が雄琴温泉。

 厳冬に刈り払われ、野焼きされた葦原は、見渡す限り緑の針野。あたりには甘い花の香りが満ち満ちている。匂いの淡い桜だけでなく、梅花の香りも混じっているようだ。水面の奥の水草が揺らぎ揺られて舟の左右に傾ぐ。舟はゆっくりと坂本を過ぎ、西側の浜沿いに進む。

「おお、綺麗じゃのぉ、()(えの)(やま)にも桜が咲いたの。湯に浸かりながら花を見るのも一興じゃな。こんなことなら姫達も連れてくれば良かったかのぉ」

「左様ですな、奥方様もさぞ、お慶びでしたでしょうに・・」

 と、大叔父が相槌を打った。

(おお)(きさき)か」

 と、帝は苦虫を齧ったような顔をした。

「あれは駄目じゃ、あれが来ると口うるさくてかなわん」

「陛下、たまには(わか)(いら)(つめ)様だけでなく、奥方様にも寵愛を賜れ。このところ大后の御機嫌が宜しく御座いませんようですぞ。八つ当たりされるこちらの身にもなって下され」

「分かった、分かった。大叔父は歳のせいか口うるさくなったぞ」

「なんの(左様なことは・・)」

 と、大叔父は座ったまま顔の前で手を合わせて九拝(支那式挨拶)をした。言葉尻は如何にも不満そうである。当代の大妃は(はり)(まの)(いな)(びの)(おお)(いら)(つめ)と呼ぶお方である。

 若郎女とは大后の妹の()()(びの)(わか)(いら)(つめ)である。閨門の扱いはとかくややこしいもので、別け隔てがあると思わぬ国の乱れにも繋がる。

 薄桃色に色づいた桜が山を朗らかに染め始めた。飛鳥、奈良時代だけは隋唐の影響で梅見の方が流行っていたが、日の本の花といえばやはり桜である。

 宿所とする麓の日枝の宮(日枝社)に着いて、西を望みながら帝はひとつ深呼吸をした。まだ仏教が渡来していない頃の日枝山(比叡山)である。この社は帝の妃達も時々足湯をしに来るのだが、その際の定宿である。

 崇神大王創建の日枝社はのちに日吉大社と呼ばれ、牛尾山の山頂に在る巨岩信仰から興る社である。戦国時代に至り、羽柴秀吉が明智光秀を討ち取ったことで(てん)()(びと)への大きな一歩を踏み出し、大層大事にされた社である。猿とあだ名された秀吉の幼名は日吉で、しかもこの社の神の使いが猿だと言われている。いつの頃からか社の御神体が(なる)(かぶら)、すなわち青銅製の(かぶ)(らや)とされ、戦に縁のある社となった。


 一行は荷を下ろし、日枝社から北に歩いて湯治場に向かった。湯治場は身分の上下に拘らず誰でも平等である。それゆえか人が集まりやすく、格好の情報収集場所であった。

 奈良時代まで湯に浸かるという記録が無いそうであるが、太古から(みそぎ)という習慣はあった。薄衣を着たまま滝や川、海の水を背に浴びるものである。もともと禊とは体を清める、洗う習慣であるから、水よりは湯の方がいいに決まっている。人が温泉の湯に浸かる習慣が無かったとは思えない。もちろん肌着を着たままで入る混浴である。

 尤も風呂とは奈良時代からの言葉であり、唐から伝わった蒸し風呂のことである。

「いや驚いたね、わいは腰抜かしてしもうただよ。本とにまぁ、姉妹であんなええ(おな)()、生まれてこのかた見たことねぇだわ。あれぞまさしく日の本一の美人だな」

「へぇ? そりゃぁどこの女だな?」

「何でもはぁ、本巣の殿様の娘っ子だっちゅう事や。二人ともまだ子供だが、末が楽しみだちゅう話だがや」

 帝がピクンと反応した。僅か数間離れた岩陰で、旅の()()()()達が大きな声で話をしながら湯に浸かっている。この場合の()()()()とは市などに物々交換をしにやって来た者を差す。帝も些か興味をそそられた。情報伝達の乏しい時代である、男なら誰だって()()よき女子を見たいに決まっている。ましてや日の本一だと言うのだ、大勢の美しい姫に囲まれて過ごしている帝である、聞き捨てならない。

 そもそも美しい女という(やから)はそれだけで人騒がせだ。その()がちょっと出歩くだけで世間の噂の種になる。帝はこの幼い姉妹をひと目お目にかかりたいと思った、そして娘らをわが手元に置きたいと欲した。

 帝は在位中に大后(正室)を二人、(きさき)(側室)を分かっているだけで八人置いていた。子の数は数えきれない。嫡流を絶やせないので子は多いほど良い。そして妃の数は国政に大いに関係がある。彼女達はその殆どがもとは(うね)()である。ごく稀に女丁から妃になる者もいた。勢力を大きくしようと采女を送り込んで帝の権威を利用する者もいたに違いない。従って一夫多妻とならざるを得ず、のちの時代になって妻が何人、妃が何人という具合にその数の上限や下限を定められるようになる。

 また皇族の正妻の地位は帝が決める、帝の許しもなく勝手に妃を妻とすることは出来ない。帝の専権事項なのである。

「これ叔父御、今の話を聞いたか、見目よき乙女が西三野の本巣におるというぞ。どのような乙女か見たいものだのぉ。詳しく話を聞いてまいれ」

 無言のまま、八尺の大叔父は露骨に嫌な顔をした。

「叔父御、何じゃその顔は」

「いえ、別に、ただ・・」

「汝は何か思い違いをしておるぞ、吾に何年仕えておるのじゃ」

「え?」と、驚く八尺の大叔父が、一瞬思いを巡らし、

「ああ、ははは、なるほど、()せました。行って参ります」

 帝の意図に気付いてほっとしたのか、短褌ひとつの八尺の大叔父は、半ば泳ぐように湯を掻き分けてあきんど達の方に近寄っていく。ここは若くて男前の長左を使うより、好々爺の八尺の大叔父の方が適任と帝は思ったようだ。

 頭の上の手拭いを湯で湿し火照った顔を拭う帝ではあったが、浮かんだ考えとは裏腹に、どうしようもなく顔がにやけてしまう。気持ちを隠せない性質なのか、表情が分かりやすい人であった。他の家臣らは素知らぬ顔をして遠巻きに帝を囲んで湯に浸かっている。


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