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黎明のまほら~アルテミスの祈り  作者: 葵しん
第五章、丹 後 変
42/109

     二の一

      二


 峠の夜明けは夏でも寒い、屋根に当たった朝日が湿り気を帯びて下へと抜ける。ぽつん、ぽつんと頬を濡らされ、与五は目を開けた。蹴破られた入口から日差しが射し込んでいる。家の中を見渡すと笠や蓆が散らかって、囲炉裏も縁(ふち)の石が数ヶ所崩れていて、消し炭が散乱している。

 起き上り、ふらふらと表へ出ると、木々の隙間から射し込む日差しが目に入り、思わず手を翳して仰ぎ見る。前夜の出来事が何だったのか未だに分からない。

(五平さん、三右衛門さん、どこに行っちゃったの・・与謝姉さん・・)

 捨てられたとは考えが及ばない与五であった。きっと何かのっぴきならないことが起こったのだ、そう考えた。

(事に依ると山賊、いや獰猛な獣にでも襲われたのかもしれない。きっと、わたしを助けるために身代わりになったんだわ。可哀そうな三右衛門さんと五平さん、無事だといいんだけど。与謝姉さんはどうしているかしら)

 そんな心配をして涙を流す与五であった。

 ふと目が慣れて、表の様子に目を凝らすと、峠道が左右に走り、木々が疎らになっている。大木の切株が一つ、枯れているのか新芽は出ていない。その横に、風に揺れる大きな桃の木が目に入った。根元には綱の付いた釣瓶が、平らな板蓋の上に置いてある。

「ああ、井戸だわ」

 与五はようやく喉の渇きを思い出した。つかつかっと寄って行って板蓋をどかして覗きこむと、ひんやりとした澄んだ水が流れている。水際(みぎわ)に脇穴があるのか、水が滔々(とうとう)と流れ出ている。水底(みなそこ)から渾々(こんこん)と湧きだす泉であった。

 与五は早速釣瓶を下ろして水を汲み出しに掛かる。枝に絡んだ綱を細腕でやっと引き上げ、釣瓶を井戸の縁に下ろして水を呑もうとした時、ふっと背中に何かを感じて地べたに跪(ひざまず)いた。釣瓶は太い枝を擦りながらけたたましい音を立てて落ちて行く。

「何なの?」

 与五は振り向いてきょろきょろ見廻したが、何も変わりがない。

 すると、突然耳の奥で声を感じた。

「ま・・な・・? 真奈?・・そうだわ、わたしは真奈。今、誰かがわたしを呼んだような気が・・ああ、でもだめ、名前以外何も思い出せない」

 与五は自分が真奈という名であると、はっきりと思い出した。

 茫然と左右に走る峠の道を見つめ、日差しの射す方から来た事だけは覚えている。しかし、女一人でこの遠い道のりを戻れるだろうか、真奈は不安に駆られた。

 気を取り直して、もう一度釣瓶で水を汲んだ。釣瓶を井戸の縁に置き、腰を屈めて両手で水を掬い、口に運ぶ。

「ああ、美味しい、命の水だわ、こんないい水があるなんて・・・」

 命の水と言った途端に、真奈は何かを思い出し掛けたが、ふと林の向こうでガサガサと音がして、思考が途切れた。一瞬獣かと驚いて井戸の陰にしゃがんで身を隠したが、五平達が戻って来たのかと思いなおし、頭を出して覗きこんだ。

 現れたのは年寄りの夫婦だった。老夫婦もまた驚いたようで、

「あれま、おっとろしやぁ(驚いた)、おみゃーは誰だな? どっから湧いで来ただな? まさか、神さんの使いではねぇべな?」

 近づきながら爺さんが言う。真奈はよく聞き取れなかったのと、驚いた事で、口を開けたまま茫然と立ちあがった。

 すると腰の曲がった婆の方が、

「いやいやいや、おっとろしやぁー」

 と言いながら、真奈の品定めでもするかのように、じろじろ上から下まで見ながら、片手を腰にあてて真奈の周りを回り始めた。

 真奈は不安そうに両掌を口元に持ってきて、竦(すく)み上がっている。

「あ、あの、あなた方は・・」

「わしらか、ははは。わしはすぐそこの和奈左谷に住んどる者じゃ、和奈左爺(わなさじい)という、こいつはかか(・・)の媼(おうな)じゃ」

 この老夫婦は昔から比治の里の山にある社の井戸がとてもおいしい湧水を出すことを知っていて、よく手入れに来るのであった。今日は井戸や社の周りの草取りをしようと二人でやってきたのである。

 だいぶ暑い季節になってはいたが、桃の木一本しかない井戸の周りとは違って、この社は高い木々に覆われていて日陰になっているため、夏でもひんやりと涼しい。魔物か神様でも住んでいそうな場所であった。

「あんさんは、ひょっとして天女様かえ?」

 じろじろ真奈を見回しながら和奈左媼が訊いた。

「天女? いえ、わたしは真奈という者で御座います。旅の途中で供と逸(はぐ)れてしまい、難渋しております者」

「何だそうかね、わてはまた天女様かと思っただに」

 媼は曲がった腰で、少し見上げるように真奈を見つめ、

「ちびっといら(・・)って(触って)もええかね?」

 と言い、真奈の手を握った。

「こ、これ、かか(・・)、そんな失礼なことを・・」

 爺は止めようとする。

「爺さん、構うでねぇ」

 媼は、爺の手を払いのけて、また真奈の手を取り、背中を向かせたりして、体を触っては調べ回した。真奈は何をするのかと気味が悪かったが、じっと我慢した。

「ふんふん、天女ではねぇようだ、ただの人や。でもまあ、おみゃ様は、手っこ(・・・)で負えねぇびんちょう(・・・・・)だなや。そげなびんちょうが、こげなとこで何してるだな?」

 媼は爺と二人で真奈を挟みこむように、真奈の背中の方に回り込み、横向きで話す。

「で、ですから昨日まで二人の男と一緒の旅でしたが、昨夜二人が突然消えてしまって、途方に暮れているところです」

 真奈は交互に前後の二人を見ながら話をする。「天女」だとか、「てっこ(・・・)で負えねぇびんちょう(・・・・・)」などと、分からない語句(ことば)を並べられて、言うことが半分ほどしか分からない。

 ちなみに、このびんちょう(・・・・・)という方言は、鬢長(びんなが)という魚の名からきている。長い背びれをピンと立てて、もの凄い早さで泳ぐ大きさ三尺ほどのマグロの事である。青緑と白銀(しろがね)色に輝く美しい魚で、おもに黒潮に乗って群れで回遊するから、日本海には滅多に現れない。居れば迷い魚なのである。美しくて殆んどお目にかかれない大魚に例えて、びんちょうと言ったものである。

「ほほぉ、そうかね、するってぇと娘さん、あんたは旅のもんか、この辺の者ではねぇんだな・・・ははぁ、分かったぞ、捨てられたんだ、酷い事をする奴がおるわい」

 と言って、爺は媼を見た。

「そんな人達ではありません・・・」

 真奈は五平達を弁護した。

「まあ、まあ、爺さんも何言ってるだ。こんな器量好しを捨てるなんて事、ある訳がねぇ」

 媼が真奈を誘(いざな)うように側の切株に座らせた。真奈のほつれた御髪(みぐし)を直してやりながら自分も座った。

「きっと何か事情があるだよ。娘さん、その二人はどういう風に居なくなったんだな?」

「はい、あまりよく覚えてないのですが・・そこの社に今日は泊まると言われて、夜になって魚の干物を齧りながら二人はお酒を飲んでいました。わたしは慣れぬ旅で疲れて早くに寝てしまったんです。夜中に何かどたどた音がしたと思ったら、二人が外に飛び出してゆく姿が目に入りました」

「ははぁ、すると何かに吃驚して逃げたんだ。その二人はあんたの何なんだね?」

 媼が訊ねた。

 真奈はこれまでの事を掻い摘んで話して聞かせた。

 磯砂村と聞いて二人は仰天した。真奈が磯砂の手下に連れられて、頭の所へ行く途中だったことに思い至った。急に辺りを見回しておどおどする爺は、婆の袖を引っ張って顎をしゃくって合図する。匿えば禍になるかもしれないと爺は思ったのである。

 しかし、婆は強硬に反対した。

「娘さん、そりゃ危ないところだったぞ。この比治山に住むといわれる磯砂に売られるところだったようだな。ここのお社(やしろ)様に救われたんだな、きっと」

「ええ、そんな・・・あの二人はわたしの命の恩人です、悪い人達ではありません」

「あいつらは泣く子も黙る磯砂衆じゃ、騙されていたんだよ・・・どうだね、娘さん、わてらの所に来なせぇよ、食べてくくれぇは出来るだから。な、いっそのこと、わてらの娘になってくんろよ」

 五平や与謝達が山賊の仲間だとは未だに信じられないが、真奈は婆の申し出に従うしかなかった。爺も仕方なく婆の意見に従うことにした。こっそり、ひっそりと暮らせば、見つかりっこないと思ったのだ。

 峠道を東に少し下り、道と直行する谷に架かった吊り橋を渡り、北に分け入った。木々を掻き分け獣道のような所をおりて行くと、左手下方にさらさらと音がしてきて、細い谷川が流れている崖上に出た。その谷川の崖沿いを木々に掴まりながら北の上流へと辿る。

 やがて山々の落ち込んだ谷筋のひっそりとした袋小路に出た。斜面から湧水が噴き出し小さな滝を形成し、澤となって流れ下っている。その近くの山の斜面に和奈左爺と媼の家があった。小高い丘の上に、木々に囲まれて隠れるように建つ伏屋根の家と粗末な物置兼用の家畜小屋、僅かばかりの畑もあった。

 たった二人で下の澤で山葵(わさび)を作って暮らしているのであった。採れた山葵や山芋などを、近くの村に持って行き、稗(ひえ)や粟(あわ)などと交換するのだ。この澤の水は、実は比治山峠の井戸の湧水である。ただし、一度土を潜って通り抜けてくるから、全く同じとはいかない。峠の社は湧水を守ってくれる水神様を祭ったものであった。

 …京丹後市、久次(ひさつぎ)岳南麓の鱒留(ますどめ)公民館付近である。澤の水は西北に走る峠道沿いに流れる鱒留川にそそぎ、鱒留川は峰山街道付近で竹野川と合流し、街道と直交して北東に流れ下り、日本海に至る。…


 景行二八年盛夏、和奈左爺と和奈左媼、そして真奈の三人での生活が始まった。老夫婦は幼い子供を病気で亡くして以来、子供に恵まれなかったせいもあり、真奈を大層大事にし、本当の娘のように可愛がった。真奈も本当の父母であるかのようにいたわり、仕事を手伝った。

 山葵は日の本の固有種である。先史時代から存在が知られ、越前から若狭、丹後、丹波、但馬などの山奥の澤で採れたと伝わる。山葵田の手入れは中々に重労働で、常に新鮮できれいな水の流れが必要だ。しかも水深の加減も重要である、山葵が水に没してしまったら育たないからだ。そのために大岩を並べたりしながら山葵田を作るだが、当時はそこまでは進んでいまい。それでも泥を溜めてはいけないとか、落ち葉や小枝などを常に取り除くという手間はあったことだろう。

 畑を作って苗作りもしなければならない。そのまま畑でも育つのだが、葉物野菜にしかならず、山葵本体の根は大きく育たない。根が食用に提供出来るまでには三年はかかる、実に根気のいる仕事なのだ。

 真奈は冷たい水に手足を入れて、ひたすらに山葵田の手入れをしていた。不平一つ言わず、むしろ楽しそうに仕事をこなしている。歳をとった夫婦にはとてもありがたい助っ人であった。

 そんな忙しい毎日なのに、真奈はときに合間を見ては色々な事をした。記憶が戻ってきた訳ではなく、体が自然に動くのだった。山で薬草を摘んできては薬湯を作ったり、木の実から油を搾ったりした。また天気を占うことも出来たのである。

 そんな時、比治の井戸水がとても美味しい水だった、命の水だと感じたことを思い出した。そこでこの井戸で汲んだ清水を使って酒を造った。この酒は大層おいしく、澄んでいて、老夫婦にはとても嬉しい贈り物だった。夕食後に酒に指を浸して舐める程度に少しだけ頂く、そんな呑み方を真奈は勧めた。

 半信半疑で口にした和奈左爺と媼は、三日もすると曲っていた腰がピンと伸び、腰痛や手足の痛みもケロッと治ってしまった。

 ひと月後には皺が減ってきて、みるみる若返ってきたではないか。

「これは凄い酒だ、万病に効く薬だ」

 和奈左爺は唸った。そこで夫婦は考えた。これを売れば長者になるのも夢ではない。早速近隣の村に持っていって稗や粟、干魚、農具、刃物、装飾具などと交換して歩いた。

 やがて、噂が広まり、

――酒をひと舐めすれば、万病が治る

 と、丹波じゅうの評判になった。物売りに出なくても、向こうから求めに来るようになったのである。

 財が増えてくると、山葵作りなどという辛い仕事をやるのも億劫となり、辞めてしまった。半年も前から真奈一人で山葵田の手入れをしていたのである。夫婦はどんどん酒を作ることを真奈に要求し、真奈も山葵田どころではなくなった。

 この薬は何故か峠の井戸水で造らないと効き目がなかった。同じ湧水である山葵田の澤の水で造っても効能が無いと分かった。実を言うと真奈自身も気付いていないのか、この薬の秘密は桃の木にあるようだった。湧水が、邪気を祓うといわれる桃の木の薬用成分を取り込んだものかもしれない。

 遠い井戸の水を運んでくるのが大変で、どんなに頑張ってもごく僅かしか造れない。そこで、これまで酒造りは真奈一人の秘法だったが、和奈左夫婦がどうしてもとせがんで秘かに教わり、仕込みのところを自ら手を掛けて造り始めた。真奈を除いて、和奈左夫婦だけが知る秘法となった。

 和奈左夫婦はたくさん人を雇って、水汲みをさせて生産量も上がり、山を切り拓き、地所を大きくし、都風の屋敷も建てて、本格的に酒造りを始めた。

 比治山の峠道からの下り道を大きく広げて階段状にし、下りた所に村の入口として社のような大鳥居を造り、その中央に万病に効く酒の意味を込めて丸に寿と書いた紋を記(しる)した。峠を通る人からもこの大鳥居の紋が良く見えた。今では二十人からの人を雇う長者となったのである。


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