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黎明のまほら~アルテミスの祈り  作者: 葵しん
第十章、 イブキドヌシ
108/109

     三の四

 やがて小高い山をひとつ越え、田畑がちらほら見えてきた。まだまだ暑い夏は続く、日が中天に差し掛かり、息遣いも荒くなって来た。

 弟彦はちょうど手ごろな林を見つけた。

「主、そこの林で少し休みましょうか、だいぶお疲れでしょう」

「ああ、そうしよう」

 タケルは木陰に入ると、弟彦に支えられて草むらにどさっと座り、笠の紐を解いた。弟彦もそばに座った。

「ここはどのへんだ」

「はい、ここはおそらく采女(うねめ)(四日市市采女町)という村だと思います。この先は急な坂が続きます、その前に何か食べて、体力を付けておきましょう」

「何だ、まだ采女か、あまり進んでいないな」

「済みませぬ・・・ところで主、いっそ、尾張に向かわれてはどうなのです」

「馬鹿を言うな、乎止与は明らかに帝の宣旨(せんじ)を受けておる・・・気になるのは美夜受の事だが、心配でならん。禍がなければよいのだが・・・」

「美夜受姫様・・・主、乎止与命が帝の犬(・・・)だという事は、事に依ると美夜受姫様も・・」

「よせ、吾ならともかく、帝の犬などという誹謗を汝が言ってはいかん。汚い言葉は癖となって人格に現れてくるものだ、気を付けよ。それに美夜受は係わりがない。美夜受は心の清い娘だ。吾はあの娘ほどさわやかに感じた女はいない。そんな汚れた話しに応じるようなことは一切ない。もう言うな」

 そう言って、タケルは木に寄り掛かり目を閉じた。

 弟彦はここ十日ばかりの出来事が、天と地ほどの違いを感じ、

(いったいどうしてこんなことになったのだ。どうしてたった数日で時の英雄が謀反人としてお尋ね者になってしまったのか。どうして主が罪に問われているのか・・)

 難しくて何が何だか分からないでいる。歯痒くて自然に体が強張り、大声を上げて発散したいところだが、タケルの病状を気遣って、よした。ふと気付くと両膝に血が滲んでいた。両手の爪が赤く染まっている。

 とにかくこの試練を乗り切るために身を賭して努めようと弟彦は誓った。主タケルが常に語る事だが、運は巡り巡るもの、いずれきっと良き運がやって来る、そう信じた。

 弟彦はタケルのために栄養の有りそうな物を摘んできて、刻んで山芋と混ぜて粥を作った。力を付けて臨もうと思ったのも、この先の急な坂のためである。延々とどこまで続くものか、曲がりくねっていて分からないが、この急な坂をタケルを負ぶって登るのは辛すぎる。ここはタケルに踏ん張ってもらうしかない。

 タケルを起こし、中食を取った。

「ああ、旨かったぞ、弟彦」

 心なしか食が進むタケルに、弟彦はほっとした。

「ささ、主、そろそろ参りましょうぞ」

 弟彦は笠を被り、タケルにも笠を被せてやった。

「ああ、分かっておる、しかし凄い坂だな、ははは」

 弟彦はタケルに手を差し出すが、タケルは遮る。ひと目見て、負ぶったり肩を貸したりして登れる坂でないと分かったのであろう。鉾を杖として、時折片手を地面について登り始めた。四つん這いになって歩くようなものである。

 弟彦はぴったり後ろに付いて、タケルを補佐する。

「道の先は見ない、見れば一層汗が出てつらくなります。無心になって何も考えず、ただ自分の吐く息遣いの音のみを聞いて進んで下さい」

 そう、弟彦はタケルを励ましつつ登った。


「見てられないわ、ハデス・・一体どうしてこんなことになっちゃったんだろう」

「(ポーン)アルテミス様、そんなに悲しまないで下さい。これもヤマトタケルの命の運命だったのですよ」

「そんな事ないわ。あの時ミーが叫ばなければタケルは無事だった、ミーのせいだわ。運命なんてものはないわ。タケルは自らの力で道を切り拓き、歩んできたじゃないの。運命なんか、運命なんかじゃ・・・」

 アルテミスは自責の念に駆られ、また泣き崩れてしまった。

 ここ数日、アルテミスは胸が張り裂けそうな、言いようのない悔恨の日々を送っていたのである。元気を出して、どうか早く伊勢に辿り着いてとひたすらに願うのだが、如何せん、その声は届いていない。


 タケルは無心になろうとするが、心が邪魔をする。

(嬉しい奴だ。吾は三太夫と弟彦という良き友を持った。それだけでもわが生涯は無駄ではなかった。吾はこの国の大いなる(まと)まりに少しだけ貢献することが出来た。父、帝の手助けが出来た。妻を持ち子も出来た、満足すべきであろう・・・いかん、いかん、こういう考えは余計に疲労する、無心になれヤマトタケル)

 汗などというものではない。たった今水浴びしたばかりのようにびしょ濡れだった。

(ひと雨欲しいな・・)

 そう思って見上げると、天の助けか遠雷が聞こえてきた。

(いいぞ、雨をくれ、イブキドヌシよ、雨を降らせ給え)

 と、タケルは祈った。

 途端にピカッと光り、近くに雷が落ち、木が倒れる音がした。

 タケルは苦笑した。

(どうやら吾は神にも、獣にも、誰からも嫌われてしまったようだ、ははは。運気というものは些細な事から急変するものだな)

 そんな寂しさがタケルの胸の奥で気持ちを重たくし、苦しめた。

 タケルにはどうにも分からない、理解出来なかった。通常、急に運気を失くすには、(おご)(たかぶ)り、傲慢、裏切り、そんなことが理由で民心と良運を失うものだ。

 しかし、ことタケルに限っては、そんなところは微塵もなかった。にも拘らず、どうしてこんな悪運が舞い込んできたのか。

(やはりイブキドヌシの祟りであろうか・・それとも初めから決まっていた定めだというのか・・・)

 タケルは定めなどというものは、ないと信じて生きてきた、そんなものは打ち破ればよいと。そして逆らうことなく、わが心のままに生きるべしというのが持論だった。

 運の変わり目を見極められずに運とは何だと考えながら、なんとか急な坂の折り返しの所まで辿り着いた。二人はやっと一息つくことが出来た。雷鳴は止んだが、雨は叩きつけるようだ。タケルは坂の上から伊勢の海を見霄(みはる)かす。

「弟彦、人生とはあの広い海に浮かぶクラゲのようだのぉ。運というとりとめもないものに、あっちに揺られ、こっちに揺られしておる」

 と言って、タケルは笑った。そして笠を外して上を向き、土砂降りの雨を浴びた。貌には笑みさえ浮かべている。

「ああ、雨が美味いぞ、恵みの雨だ、ははは」

 弟彦がタケルの明るさにふと不安を感じ、貌を曇らせた。

 ここに至って、タケルは既に死期を悟っていたと見るべきであろう。そして残り僅かの時を、おおらかに過ごしたい、そのタケルの気持ちが弟彦を苦しめていた。弟彦には耐えがたい悲しみであり、タケルの居ない世など考えられなくなっていたのである。

 …ちなみにこの急な坂は杖衝坂(つえつきざか)という。四日市市采女町、旧東海道に現存する。なおここでタケルは再び弟彦に足を洗ってもらっているが、その史跡が御血塚と呼ばれて残っている。…

 ひと休みしているうちに雨も上がり、タケルと弟彦は歩み出した。日はだいぶ西に傾いている。ここからはくねくね曲がる下り道が続く。

 弟彦が肩を貸し、幾分楽になったのだが、何かこの道に不満を感じるタケルは、

「おい、弟彦、いったいいつになったら見晴らしがきくのだ。こう曲ってばかりでは前が見えんぞ、頭が変になりそうだ」

 と不平を言った。

「主、御勘弁下され、道に苦情を言っても詮無き事。わたくしが導きますゆえ、主は目を瞑るか、空でも見ていて下され」

「左様か、すまんのぉ、詰まらぬ愚痴をこぼしてしもうた。それにしてもよくこう曲ってばかりいる道だ。わが足も三重の曲りだというに、そっくりだな、ははは」

 タケルは出来るだけ上を向いて歩き出した。

 …このタケルの言葉から、のちにこの地域は三重と呼ばれた。現在の四日市である。それが明治時代になって三重県という名前の由来になった。…

 この日の道行は険しくて些か強行軍だった。その割にはほんの僅かしか進んでいない。粥を食べ終わると、タケルも弟彦も草原(くさはら)にくるまり、ぐっすりと泥のように寝てしまった。鈴鹿川の畔である。


 伊吹山を下りてから五日目。この日は大風が吹いて歩きにくい。おまけに横殴りの雨も降ってきた。伊勢まではまだかなり遠く、道のりの半分を過ぎた辺りであろうか。

 衰弱し、疲れ果ててもなお歩く。ここまで来てタケルには何か神に(いざな)われているような感覚を味わっていた。この感覚に酔い、陶酔し、実に心地よく、楽ちんな感じがしていた。色々な事を考えることをやめてしまったことで、心が軽くなっていた。

 やがて何か見覚えのある地形にやって来た。

 ふと辺りを見回すタケルは、体が凍りつくほどに驚いた。

「ここは亀山ではないか! 何ゆえに西に来てしまったのだ?」

「主、申しわけ御座いませぬ、大風と雨で方向を間違えてしまいました」

「そうか・・・これもわが定めか・・・森に行って休もう」

 タケルは弟彦に肩を借り、森の中に入って行く。木々が生い茂り、雨を幾分凌いでくれる。タケルは弟彦の介添えを受け、木に寄り掛りながら腰を下ろした。

 すぐに弟彦が背負子から衣服を出して、雨除けのために頭上に広げて張り巡らせ、ねぐらを作り始めた。そして比較的乾いた落ち葉や薪を、黙々と探し廻った。戻って来ると集めた薪を抱えて火を熾し食事を作り始めた。雨のため中々火が点かない。

 最早タケルは自らの力では動けなくなっていた。食事も粥にしているのに、時折り吐いてしまう。弟彦に手伝ってもらって僅かばかりの粥をすすり食事を済ませた。心なしか雨は小降りになってきた。

 タケルは虚ろな目をして弟彦を見つめた。

「弟彦、吾はもう駄目だ。吾の想いを、書き留めてくれぬか」

 見れば話をするのも辛いほど衰弱しきっていると弟彦は感じた。

「主・・」

 泣きながら(うずくま)る弟彦は仕方なく立ち上がり、名刀隠岐の波で傍らの木の皮をさくっと削ぐと、焚火の燃えさしを握った。タケルがか細い声で歌い始め、弟彦が木に歌を書き記していく。


  倭は 国のまほろば(まほら) たたなづく

          青垣山隠(やまごも)れる 倭うるはし


 国を思って、懐かしんでタケルは歌った。わが生涯に悔いなし。

 そして遥か尾張国熱田の方角を見て、


  はしけやし 我家(わぎへ)(かた)よ 雲居(くもい)立ち()


 おお、懐かしいわが家の方から雲が湧いてくることよと、タケルは上の句を詠んだところで咳き込み、体中が震え始めた。それでもタケルは一つ呼吸をし、整えて続けた。


          嬢子(おとめ)の床の()に わが置きし(つるぎ)太刀(たち) 其の太刀はや


 こう歌ってヤマトタケルは息を引き取った。享年三十歳。

 …三重県亀山市能褒野(のぼの)である。古事記では雲が湧いて見えた方角が倭の纏向であるとしているが、美夜受姫の居たのは尾張なので間違いであろう。あるいは、朦朧としたヤマトタケルが、懐かしい思い出を回想していたのかもしれない。

 本文の歌は全て仮名交じりに表記しているが、当時はまだ仮名が考案されていない時代であり、漢文であったと思われる。…


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