三の三
「どうしてだい、お爺さん」
弟彦が振り向いて問い返した。肩衣に短褌姿で、髪の毛の薄い腰の曲がった六十前後の老爺である。
「そっちに行くと化けもんが居るだ、危ねぇからやめとけ」
「化け物だって・・一体なんだいその化け物とは」
「ああ、化けもんてのはな、刀の幽霊だ。近づこうとすると、
――穢らわしい、寄るな
と、刀が叫ぶだよ。ぼぅっと赤く光っててな、薄気味悪くってよぉ、誰も近づかねぇだ」
そう言いながら老爺は手を休め、タケル達の方に歩いてきた。二人は誘われて路肩に腰を下ろした。
老爺は首に掛けた手拭いで額の汗を拭うと、話を続けた。
「幹衛門てぇ村の豪傑がいるがな、
――なあに吾に任しとけ
と言って、刀がしゃべるのも聞かねぇで、はっしと刀の柄を掴んだ。するてぇとな、刀から火花が出てな、幹衛門の奴はポーンと吹き飛ばされてしまっただ。頭から煙を出してのびてただ。それを皆が見て以来、あの丘の上には誰も行かなくなっただ。悪いことは言わねぇ、よしなせぇ」
「ふーん、変わった話もあるものだな、刀がしゃべるのかい・・」
弟彦は半信半疑。
「主、ちょっと見物しましょうか」
「面白そうだな」
と、タケルも興味津津の態。
「よしなせぇてば、怪我するぞ。それにおめぇさん、大層足が悪そうではねぇか、やめろってば・・・」
「ははは、爺さん、吾ならもうこれ以上悪くなりようがない。心配するな、ちょいと見物するだけだ。弟彦、行ってみよう」
「はい、主、肩を貸しましょう」
二人は老爺が止めるのも聞かずに、緩い坂を登って行く。
老爺はやれやれと首を振り、心配そうな貌をして二人の後姿を見送っている。
しばらく登って行くと見晴らしのいい松林に出た。高台だけあってさわやかな風が吹き抜けている。
ふとタケルは思い当たった。
「弟彦、ここはわれらが長旅に出るときに立ち寄った所ではないか。そうだ、ここでひと休みして飯を食った覚えがある」
「そうか、そうでしたね、思い出しました、確か久米八どん(七掬脛)が腹が減って歩けないとか言って、そうですよ。おや、あれですかね、確かにぼぅっと赤く光ってますな」
「ああ、そうだな、不思議な事もあるものだ、もう少し近くに行ってみよう」
刀は松の陰に置いてあるのか、そこだけ赤く光っている。驚いたことに近づくと刀が時々明るさを増して明滅し始めた。
二人は思わず口を開けて、お互いの顔を見つめ合う。
「主、だ、大丈夫ですかね。これ以上近寄らない方がいいのでは・・」
「ははは、弟彦ともあろう者が、臆病だな。見える所までもう少し近くに行こう」
二人はまた歩き出し、刀の見える側にやってきた。
「むむ・・ほほぉ、やっと現れたか、遅かったではないか」
いきなり、刀がしゃべり始めた。
「な、何だ? 刀がしゃべった」
弟彦が仰天して佇んだ。
これにはタケルも驚いた。しかし、刀には特に害意をなすような殺気も感じられない。
「これ、刀、いったい何が遅いというのだ」
タケルが問い質した。
「ヤマトタケル、汝は一体いつまで吾を待たせる気だ。待ちくたびれて、退屈で、体がこちこちになってしもうたわい」
「何だ、どうして吾の名を知っている・・・おや、刀、汝は吾の失くした刀、隠岐の波ではないのか」
「今頃分かったか、ははは。汝が早ぉ迎えに来ないから、他の者が吾を持って行こうとして困っていたのだ。こんなところに居ては錆びてしまうではないか。さあ、ひと勝負するか、どっちが来る。見ればヤマトタケルよ、汝は怪我をしておるようじゃの。怪我人では相手にならん。これそっちの男、吾とひと勝負じゃ、参れ」
刀が勝負を挑んできた。どうやら出雲タケルの霊が取り憑いているようだった。
鞘からすぅっと刀身が出て、中空に浮き、弟彦を睨み据えた。
「しょ、勝負って・・いったいどういう事だ」
弟彦はおろおろする。
「弟彦、気を付けろ、出雲タケルのようだ。これを使え」
タケルは鉾を弟彦に渡した。
「そんなぁ、こんな化け物刀と斬り合うのですか。ああ、嫌だな全く・・」
「つべこべ言わずに構えろ、若造」
刀は空中で正眼に構えている。
弟彦はタケルをやや離れた木の根方に座らせ、笠を外し背負子を下ろした後、鉾の感触を確かめるように両の手で振りながら刀に近づく。
「行くぞ、若造」
刀は大きく振り被って猛然と斬り込んできた。
弟彦は上段から斬り込んでくる刀を、鉾を両手で持って受け止める。立て続けに打ち込まれ、ただただ受けているだけであった。火花がバチバチ飛ぶ。それでも刀は懲りずに打ち込んでくる。
「それ、それ、それ、それ、ははは、どうだ吾の力は、そりゃ・・」
横から薙いで、下段から斬り上げ、上から斬り下ろす。一方的に押され気味になり後ずさる弟彦、とうとう後ろの松の木に背中が付いた。
「くっ、このままでは・・・」
苦しく呻く弟彦は、何を思ったか、力を込めて大きく刀を跳ね上げた。その瞬間すっと脇に躱すと、刀は勢いこんで振り下ろしたため、松の木に深深と刺さってしまった。
「うっ、この小癪な事を・・うっく、動けんぞ、おい、うっく・・・」
どっと笑いが巻き起こる、タケルも弟彦も大笑いしている。
「これ、弟彦とやら、笑っとらんで助けんか」
刀が弱音を吐いた。
「はっはっは、降参か」
「うっ、うーん・・ま、まあ、良いわ、分かったわい、動けぬのでは降参するしかない。これから汝の守り刀になってやるわい」
「本当か。でも幽霊の取り付いた刀なんてのはなぁ」
弟彦は気味悪がった。
「弟彦、大丈夫さ、なあそうだろう、出雲タケルよ」
タケルは刀を出雲タケルと呼んだ。
「ああ、吾は主を待っておったのじゃ、この出雲タケルを倒したヤマトタケルを。けれど最早ヤマトタケルにはこの隠岐の波は不要であろう、弟彦の刀となろう。主が定まれば吾が出てくることはない、さあ、刀を手にせよ」
弟彦は鉾を立て掛け、刀に言われるまま刀の柄を握り締めて、ぐいと引き抜いた。不思議な感覚に陥った。赤く光っていた光が徐々に弟彦の体の中に散って、刀がすぅっと手に馴染んだ。驚いたことに、あれほど打ち込んだのに刃毀れ一つ無い。
弟彦が刀を鞘に納め、タケルに近づき、刀を両手で掲げて片膝突いた。
「主、よいのですかわたくしが持っていても」
「よいのだ、隠岐の波が弟彦を選んだのだ。その刀はな、出雲タケルの作らせし刀でな、三太夫の持っていた隠岐の鷹と一対で、兄弟といえる刀だ。大事に使え」
「ははっ」
刀を両手で高々と掲げて一礼すると、背負子から紐を出し、刀を背に括り付けた。
「だけど、先ほど刀が妙なことを言いましたね、主にはもう刀は要らないとか」
「隠岐の波も吾の体の状態に気付いたのであろう。吾も今度ばかりは駄目かもしれぬゆえな。こればかりは仕方がない事だ」
「そんな、主、しっかりして下さいよ。日巫女様ならきっと病を治して下さります、弱音を吐かないで下さいまし」
「そうだな、ふふ」
苦笑して、タケルは貌を曇らせた。
「弟彦よ、もしも吾が死んだとしてだ・・」
「そんなよして下さい、そんなこと言わないで下さい」
「いいから聞け。もしも吾が死んだとしてもだ、吾の仇を討とうなどとは思うなよ」
タケルは既に帝を恨む気持ちなど失せていた。冷静に己が立場の悲運を見据え、素直に受け入れようという気持ちになっていた。
「吾は最早この世で役目を終えた者なのだ。なまじ生きていれば災いの種になる、そう帝はお思いになったのだ。吾に謀反の心などないが、良からぬことを考える輩はいずれ出てくるに違いない。その前にその芽を摘んでおこう、そう帝は思ったのだよ」
「そんな、なんて惨いことを。主はこの国の最大の功労者ではありませぬか」
「だからこそなのだ。日の本の民はおそらく帝より吾の言う事を聞く事だろう、そんなことがあってはならぬ。国が纏まりかけているのに、また混乱してしまう、そんなことは断じて起こしてはならないのだ」
「主・・悲しい事ですね。父親が、わが子を殺めようとするなんて、こんな、こんな・・」
弟彦は思わず後ろを向いて高台へと駈け出し、
「うわぁー!」
と、遥か彼方にまで響くような雄叫びをあげた。言いようのない遣る瀬無さで、止めどなく涙が流れる。
運を司る神は悩み苦しむ者をいたぶるのが楽しいらしい。しかし、今のタケルは泰然自若、全てをあるがままに受け入れられる心構えに変わっていた。
「よいか、弟彦、これは定めだ、如何ともし難い、受け入れよ。さあ、そろそろ行こうか・・・」
タケルの肩を支えて坂をゆっくり下り、弟彦が老爺に手を振り別れを告げた。
刀を手に入れた弟彦を目の当たりにし、老爺は腰を抜かして驚いている。タケル達は再び棘の道行に戻った。
…尾津前は桑名市多度町御衣野に遺跡が残っている。…
馬を求めたいところではあったが、代償に渡すものがない。かといってわが主、ヤマトタケルの命が負傷していると言う事も出来ず、
「主、辛抱して下され・・」
弟彦が声をかけるが、タケルは返事もせず、伏せ目がちに歩むのみであった。毒気が体を蝕み、朦朧とした状態になっていた。
やがて志知という村(桑名市志知)に辿り着き、宿を乞うた。弟彦がタケルを庭石に腰掛けさせて、土地の地理などを尋ねていると、村の者は、
「平群と呼ぶ山があります、それはもう実りの良い山でしてな・・・」
会話の中に出てきた山の名が故郷纏向にもあることを思い出し、タケルは苦笑した。
そして、思わず、
命の全けむ人は 畳薦 平群の山の
熊白檮が葉を 髻華に挿せ 其の子
と歌を詠んだ。命冥加に無事に纏向に戻れたものは、平群の山に生えている熊がしの葉を、髪に挿しなさい、という歌である。余命の短さを恨めしく思う愚痴であった。全てを受け入れる姿勢は出来ていたつもりだが、時折どうにもならぬ衝動に駆られるのであった。
弟彦はタケルを連れて裏の池に行き、タケルの足を洗ってやった。右足は腿の付け根から爪先まで土気色に黒ずんでいる。聞けばあまり感覚がないという。
翌朝村人にお礼を言って宿を出た。村人は、
「その体では辛かろうから、しっかり治してから出かけてはどうか」
と言うが、タケルは断った。
「お気持ちは嬉しく思うが、先を急ぐでな」
追手が迫っている感じもするし、村人に災いが及ぶことを恐れたのかもしれない。
(今や主ヤマトタケルの命には倭姫命のもとにしか身を寄せられる場所がない)
そう弟彦には思えた。