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普通の恋愛 ~天使の絵~

作者: 告井 凪

 ラブレターを書きたい。

 そう友だちに言ったら、


「ラブレター? 古臭いなぁ。やめときなよ。直接告白できないなら、メールでいいじゃん」


 と、言われてしまったのでした。

 わたしみたいな人間には、そんな古風なのは似合わないよ、とまで言われてしまい。

 身も蓋もないなぁ、とわたしはあははと笑う。


 確かにわたしは、国語の成績悪いです。ラブレターなんて柄じゃないというのもわかってる。

 わたしが書けるのは、文章ではなく、絵の方。

 だからせめてと、今文化祭に向けて描いている絵には、ラブレターが入っていたりする。


 ラブレターなんて、わたしには似合わない、古風だ。

 友だちに悪気がないことはわかっているんだけど。やめときなよって言われたのはちょっとショックだった。

 しょうがないじゃない。それでも、書いてみたいんだから。



                    *



 わたし、白坂結絵(しろさか ゆいえ)は高校二年生、美術部所属。

 季節は秋、美術部は文化祭の展示作品を鋭意制作中。

 毎年一つのテーマを決めて、各自それぞれその絵を描き、美術室にずらりと展示するのだ。

 今の部員は一三人。違った、八人。三年生が夏休み明けに引退してしまって減ったのだった。

 それでも三年生はテーマの絵を早々描き上げてから引退したため、絵は全部で一三枚揃うことになる。

 抜けた三年生は五人、一年生も五人。そしてわたしたち二年生が一番少なくて三人。

 三人のうち、もう一人の女の子が部長を引き継いでくれた。しっかり者で、ちょっとクールな雰囲気の、髪の長い女の子。

 もう一人は、男子。線の細い、繊細そうな男の子で、いつも落ち着いてる感じ。部長の子の隣りに立ち、上手くフォローしてあげている。三人の中では飛び抜けて絵が上手い。


 そんな美術部員が集う放課後の美術室。

 わたしは今日も、セミロングの髪を後ろで束ね、イーゼルに立てかけた水彩画用紙に向かっている。

 ラブレターのことで悩みながら、ラブレターの絵を描いて。

 今回の文化祭テーマは、天使の絵。

 わたしは天使の手にラブレターを持たせて、恋愛の天使にすることに決めていた。

 まだまだ下絵の段階で、鉛筆をシャッシャと鳴らしては、消しゴムをかけるの繰り返し。

 うーん。なかなかイメージが固まらない。

 早く水彩絵の具で塗りの作業に入りたいのに。なかなか進まない。

 違うことで悩みながら描いているのがいけないのかな。

 わたしはちらりと、同じ二年生の男子部員、室木陽司(むろき ようじ)くんに目を向ける。

 彼も同じく、なにかの天使を描いているはずだ。自分の絵に集中している。


 ……カッコいいなぁ。


 これもなかなか友だちには共感されないけれど、ああやって集中している姿は、とてもカッコいいものだと思う。

 いつ頃からだろう? わたしは、彼のそんな集中している姿を、ちらちらと見るようになっていた。そうして描かれた絵は素晴らしく、わたしはどんどん彼に惹かれ、気付けばとても好きになっていた。


 だけど……。

 思わずじっと見ていると、彼の集中がふっと途切れる。

 わたしが見ていたことがバレたわけじゃない。隣りに立った女の子に声をかけられ、振り返ったからだ。

 現部長の、雀部美菜(ささべ みな)さん。美人で背の高い彼女が、室木くんの隣りに立つと、なんだか絵になるというか。とてもお似合いだなぁと思ってしまう。


 部内の、主に一年生の間で噂になっていること。そうじゃなくても、見ていればなんとなくわかること。

 やっぱり、二人は付き合っているのかな?



                    *



「付き合ってるんじゃない?」

「おーう……。やっぱりエイミーもそう思う?」


 休み時間、友だちのエイミーこと青仲瑛美(あおなか えいみ)にどう思うか聞いてみたところ、あっさりとそう答えられてしまい、わたしは机に突っ伏した。

 中学時代からの付き合いだけど、彼女はさばさばしているというか、ドライなところがある。冷たいわけじゃないんだけど。

「ま、あたしその二人が一緒のとこ見たわけじゃないけどさ。あくまであんたの話を聞く限りってことだよ」

 フォローのつもりだろうか。突っ伏したわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれる。携帯をいじりながらだけど。

「それで? ゆーちゃんはどうしたいのさ」

 ゆーちゃんとは、彼女がわたしに付けたあだ名。今では親しい友だちはみんなそう呼ぶようになった。

「諦めるの?」

「ううん。だってほら、まだ本当に付き合ってるかどうか、わかったわけじゃないし」

「どう見ても付き合ってるんでしょ?」

「えー……でもー……。うー、わかんない。ねぇ、わたしはいったい、どうしたらいいの?」

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。なにも考えられない、考えたくない。こんな時は……。


「ま、あんたはあんたらしく、悩むよりも絵でも描いた方がいいと思うよ」

「うん、そうする」

 こういう時は、とにかく絵を描く。それが一番落ち着くから。

「でも今描いてるのって、恋愛の天使、だっけ? 嫌でも考えちゃうね」

「そーなのよ! そっちはそっちで煮詰まってるんだよ、エイミー!」

「そんなテーマで描こうとするからじゃない。天使ならなんでもよかったんでしょ? わざわざ恋愛なんて付け足しちゃって。バカねー、ゆーちゃんは」

「どうせわたしは頭悪いですよー」

 仕方がないのだ。天使の絵を描くと決まった時、びびっと来たのだ。恋愛の天使にしようと。

 わたしは絵を描く上で、こういう直感は大事にするようにしている。だから今更テーマを変えるつもりはない。


「とにかくさ、あんた頭で考えるよりも、動いた方が色々うまくいくんだから。さ」


 ……それは褒め言葉なのかな?



                    *



 エイミーの言いたいことは、わからないでもない。

 わたしは悩むのが苦手。彼女はそれをよくわかっている。

 ラブレターなんてやめときなって言ったのも、もちろん彼女。

 似合っていないことをよくわかっているからこその、言葉だって、わかってる。


 画用紙に鉛筆で線を入れていく。

 恋愛の天使の絵。手にはラブレター。

 ではその顔は? どんな表情をしているだろう?

 わたしの中の天使は、のっぺらぼうだった。どうしてもそこだけ、イメージができないでいる。

 だから顔を描こうとしても、どうしても手が止まってしまう。

 今日も結局描けなくて。彼女が持つラブレターにばかり、意識が行ってしまうのだった。



                    *



「ダメだなぁ、ぼうっとしてるなぁ」

 一人呟いて、ちょっと暗い廊下を歩く。

 部活が終わり、帰宅途中。部室に携帯を忘れてきたことを思い出した。

 しかし職員室に美術室の鍵を借りに行くと、キーボックスにはまだ返ってきていなかった。

 誰かが居残りして、絵を描いているのかもしれない。

 文化祭は来週、まだ少し時間はあるけど、興に乗ってくるとつい描き続けたくなってしまうことはある。というかわたしはよくある。せっかく勢いに乗ったのだから、もう少し、もう少し。ここだけ描いてから、ここだけ塗ってから……と。

 もっとも、今は煮詰まっているので、そういう風にはなかなかならないんだけど。むしろ遅れているから居残りしないといけなくなるかも。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、美術室はもう目の前。思った通り明かりが漏れていて、中に誰かがいるのがわかる。

 でも、その中の人は絵を描いているわけではなかった。


「今年の一年生、みんな筆が早いわね。私たち二年の方が遅れてる」

「そうだね。でも絵は早さがすべてじゃないから。僕は時間ぎりぎりまで描いていたいかな」


 中にいたのは、部長の雀部さんと、それから室木くん。

 わたしは思わず扉に背を付けて、そっと中を覗く。

 二人は帰り支度を済ませ立ったまま、机に寄りかかり話をしていた。


「そうね。私もこの天使の絵、もうちょっと完成度を上げないと」

「雀部の絵は、もうほとんど完成じゃない? 一年生が筆早いって言うけど、なんだかんだで雀部が一番最初に仕上げる気がするよ」

「それはだって、やっぱり部長だから。確かに絵は早さじゃないけど、示しがつかないじゃない? だからね」

「気負いすぎだと思うけどね。雀部も、もう少しじっくりと描いてもいいんだよ?」

「……いいの、私は。でも室木君は、じっくり描いてね。部で一番上手いんだから、みんな期待してる。もちろん、私もね」

「あはは……。でも今回は、ちょっと難しいかもしれないよ。ちょっと詰まっててね。ほら、まだ塗りに入れていない」

「……確かに、まだ塗りに入れてないのは、室木君と、あと白坂さんね」


 突然自分の名前が出て、どきりとする。

 わたしはそっと扉から背を離し、二人の話が聞き取れない位置まで廊下を戻る。

(あ~あ……どうしよう。入れないよ)

 別に、携帯忘れたって言って、パッと取ってパッと帰ればいいだけなんだけど。

 わたしには、それができそうにない。

(いいなぁ。部活終わって、二人で居残ってお喋りなんて)

 羨ましいという気持ちと、やっぱりという重たい気持ち。

 声だけは聞こえるけど、なにを喋っているのかまではわからない、微妙な位置が、今のわたしの中途半端さを表している気がする。

 近づきたいけど、近づけない。宙ぶらりんな、わたしの気持ち。


 二人の楽しそうな声が届くたびに、胸が重くなる。耳を塞いだり、遠く離れたりもできず。その重さに任せるまま、沈み込むようにしゃがんでしまう。

(きっついなぁ)


 結局わたしは、身動きが取れず、二人が帰ろうとするまでそうしていた。

 二人が職員室に鍵を返しに向かうのを、わたしは鍵のかかっていない近くの教室に隠れてやり過ごし、そして学校を飛び出した。

 携帯は諦めた。朝一で取りに行けばいいよ。

 それよりも、早く学校から離れてしまいたかった。

 もう一度職員室に鍵を借りに行くなんて、できない。

 鉢合わせないよう、二人が一緒に帰るのを見届けから借りに行くなんて、できるわけがない。

 今日はもうこれ以上、二人が一緒にいるところなんて見たくなかった。


 下駄箱で急いで靴を履き替え、玄関を飛び出す。

 逃げるように駆けだす自分が、なんだかとても惨めに思えた。


 でも一つだけ、収穫があった。

 それは、わたしが描いている恋愛の天使の表情。

 この時ようやく、イメージすることができたから。



                    *



「その状況は確かにきついね」

「でしょ? だからメール返事できなくても仕方ないよね」

「それとこれとは別。携帯忘れたあんたが悪い」

「う、それはそうだけど。でもエイミー、もうちょっとその」

「はいはい。わかってるって。……よしよし、辛かったね。よく耐えた。メールのことはもういいから。大した用じゃなかったしね」

「エイミー……ごめんねぇ」


 翌日の昼休み。朝一で取りに行った携帯にはエイミーからメールがいっぱい来ていて、返事ができなかったその事情を話さないわけにはいかなかった。もっとも、そんなことがなくても話していたかもしれない。

 エイミーは相変わらず携帯をいじりながらだったけど、わたしの話を聞いてくれて、頭を撫でてくれる。

「しかしでも、もう決定的なんじゃない?」

「うん、そうなんだよね」

 エイミーの反応は予想が付いていたから、わたしもあっさりと返す。

「ゆーちゃん」

「うん。わかってたことだよ。これはわたしの片思い。だーいじょうぶ。わたしはだいじょうぶだよ、エイミー」

 ちょっと間があって。エイミーがじっとわたしを見てくる気配が伝わってくる。わたしはエイミーの目を見ることができなかった。たぶん、見た途端、わたしは――。


「あんたって……意外と泣かないよね」

「え? なになに?」

「なんでもないよ」

 エイミーの呟きは、本当は聞こえてたけど、思わず聞こえないフリをしてしまった。

 だってこれは、本当にわかっていたことなんだから。


 わたしは、好きとか嫌いとか、そういう感情に敏感で、よーくその人を見ているとなんとなくわかってくるのだ。

 実はそんなに特別なことじゃないのかもしれないけど、直感的にこの人とこの人は、お互い好きなんだなって、わかることがある。

 例えばクラスの……あの隣同士の席の男の子と女の子。

 前々からもしかしてって思ってたけど、最近なにかあったようだ。態度があからさまになったというか。二人ともあまり目立つタイプじゃないから、周りには気付かれにくくて、エイミーに話してみても「そう?」と素っ気なく返されただけだった。

 けど、わたしにはわかる。直感的に、ぴーんと来た。わたしは直感を信じる女なのだ。

 そして同じ直感を、室木くんと雀部さんにも感じていた。


「ね、ゆーちゃん」

「うん? なにかなエイミー」

「ゆーちゃんはさ、なんでラブレターを書きたいって思ったの?」

「なんでって聞かれると、難しいなぁ」

「前にも言ったけどさ、今時ラブレターなんて古風だしあんたには似合わない、メールでいいじゃんって、あたしは思ってる。ううん、メールも合わないかも。直接告白するのが一番ゆーちゃんらしいと思う」

「エイミー……。あのね、わたしは」

 ラブレターにこだわる理由。説明は難しかった。だけど、携帯を机に置いていつになく真面目な調子のエイミーに、わたしはきちんと答えないといけないと思った。


「ほら、わたし絵を描くでしょ? わたしは絵で色んなことを表現したい。自分のことはもちろん、他の人の心の動きとか、そういうのを表現したい。でもそういうのって、すごく難しいの。その点、文章だったらズバッと表現できるでしょ? あ、ちょっと誤解されそうだけど、もちろん文章でだってそういうのは難しいんだと思うけど、なんていうかな……隣の芝は青く見える感じなんだよ」

 わたしは絵描きだから。文章という表現方法とその効果を、羨ましく思うのかもしれない。

「でもそれなら、口で言っても同じじゃない?」

「え? あ……そうなのかな」

「そうでしょ。だからあたし言ってるじゃない。あんたは」

「あ、でもやっぱり違うよ。……そっか、わたしも今気付いた。わたしは、エイミーの言うとおり実は古風な人なんだよ」

「……は?」

「口で言っても同じだけど、それでもラブレターの方がいいって思うのはね」

 ちょっとだけ溜めて、というより恥ずかしくて言い淀んでしまって、だから照れ隠しに笑ってから続ける。


「なんかラブレターって、これぞ恋愛! って感じがするんだよ。わたしの中にそれが根付いてる感じなの」


 そう、理屈じゃなくて、感覚。恋愛と言えば、ラブレター。この図式がわたしの中にあるのだ。


「ぷっ、ははは! なによそれ」

「がーん、そんなに笑わなくてもいいじゃん!」

「ごめんごめん。そっかそっか。じゃあやっぱさ、書きなよラブレター」

「……へ?」

「気が変わった。ゆーちゃんはやっぱり、思ったことを実践した方がいいよ。それでこそゆーちゃんなんだし」

「ま、待ってよエイミー! ラブレター書くの認めてくれたっぽいのはいいんだけど、しかも褒められた感じがまったくしないけど……。でも本当に書くかは別問題だよ? だって」

「なんで? いいじゃない、書けば」

「よくないよ。あの二人が付き合ってるなら」

「関係ないでしょ、そんなの。気にせず書きなさい」

「え、ええ~? もう、エイミーいきなり意見を変えすぎー」


 そんなこんなで昼休みは終わり。

 エイミーはああ言っていたけど、わたしには、恋人がいる相手にラブレターを出す勇気は無いなぁ、と思うのだった。



                    *



 週末、金曜日の放課後。

 わたしは天使の絵にようやく表情を入れることができて、ほっとため息を吐く。

 表情のイメージはできたものの、それをしっかり絵にするのは簡単じゃない。結構時間がかかってしまった。


「白坂さん? ちょっといいかしら」

「え? 雀部さん! ……あ、あれ? 他の人は……」

 気が付くと、周りには誰もいなくて、後ろに帰り支度をした雀部さんが立っているだけだった。

「もうみんな帰ったわよ。部の活動時間はとっくに過ぎてるから」

「わ、ほんとうだ! もうこんな時間だったんだ」

「そういうこと。鍵、お願いしていい?」

「あ、うん! ごめんね、雀部さん。戸締まりちゃんとしておくから」

「ええ。お願いね」

「わー、急いで帰らなきゃ。……あれ? 雀部さんも居残って描いてたの?」

「わたしの絵はほとんど完成してるわよ」

「だったらどうして? もっと早く声をかけてくれれば」

「私も別の用事があったから。それにあなたとても集中してて……いえ、なんでもない。忘れて」

「集中って、もしかしてわたしに気を遣ってくれたの? わたしのこと待ってたの?! わ、ほんとにごめん!」

 両手を合わせて、雀部さんに謝る。

「な、勘違いしないで。私は心配だったから、見守っていただけよ」

「心配って、わたしのことが?」

「違うわよ。絵の方。白坂さん、自分が遅れてるって自覚、ある?」

「うぅ……あります、ありまくりです。でも」

「ちゃんと文化祭までに描き上がるか、心配なのよ。部長としてはね」

「はい、ごめんなさい……」

「やっと下絵が終わったってところよね。今から塗りで、間に合うの?」

「あ、それはだいじょーぶ! わたしね、塗りは早いんだ。だから」

「絵は、早さじゃない。じっくり描いた方がいいに決まってるのよ」

「それは――」

 あの時の、室木くんと雀部さんの会話が思い出される。思い出してしまう。

 だからこそ、わたしはつい、余計なことを聞いてしまった。


「あれ? でもだったら、雀部さんはどうしてそんなに早く、絵を描き上げたの?」


「な……それは――!!」

 冷静な雀部さんの顔が、傷ついたように歪む。

「え、あ、雀部さん、その」

 だからわたしの方が、思わずおろおろと狼狽えてしまう。

「ごめん、わたし、なんか悪いこと――」

「部長だからよ!」

「ひっ……ぶ、部長、だから?」

 そういえば、あの時もそう言っていた。示しがつかないから、と。でもだからこそ、さっきの言葉が気になってしまう。絵は早さじゃない、じっくり描くべきだと、わかっているのなら、早さではなく絵の上手さで、表現で、示しを付ければいいんじゃないだろうか?


「そうよ、私は部長だから。だから早く仕上げて、示しを付ける。それだけ、それだけよ!」

「は、はい! ごめんなさい」

 でも雀部さんの剣幕に、わたしはそれ以上なにかを聞くことはできなかった。できなかったけどやっぱりわたしは頭が悪いから、思ったことを口に出してしまう。

「でも雀部さんの絵、とっても綺麗だよね。うん。早くて上手いなんて、すごいよ!」

 それはわたしにとって、フォローのつもりだったと思う。咄嗟に出た言葉だけど、悪くないと思った。

 それなのに、雀部さんは――


「あんたに言われたくない!」

「えっ――」


 ――わたしを睨んで、今まで見たことのない怒った顔で、声を張り上げた。


「早い? 違う! 早い内から時間をかけて描いただけよ! 私は天才じゃない、普通の人間なの。あんたみたいな、あんたみたいに――!」


 さっき以上の剣幕に、わたしは竦み上がる。だけどあまりの変貌に、驚きの方が勝っていた。


「さ、雀部さん……? ど、どうしちゃったの?」

 おそるおそる問いかけると、彼女はハッとして、口に手を当て恥ずかしそうに目を逸らす。


「……ごめんなさい。今の、忘れて」

「雀部さん、でも」

「いいから! ……本当に、ごめんなさい。戸締まり、お願い」

 そう言い残して、雀部さんは美術室から早足で出て行ってしまった。


「雀部さん……」

 わたしは呆然と見送り、そして彼女の描いた天使の絵を見る。

 塗りもほとんど終わっていて、もうこれで完成と言っていいほどの出来だ。

「こんなに綺麗な天使なのに、どうしてあんなこと言ったんだろう」

 比べてわたしの絵はまだ下絵の段階。とても綺麗とはいえないし、自分の絵が上手いとも思わない。

「きっと、わたしよりずっと時間をかけて、描いたんだなぁ。描くのが早いなんてわたしが言っちゃったから、怒ったんだ」

 絵は早さじゃなく、じっくり描くものだって、彼女自身が誰よりもよくわかっていた。

 じっくり描いても下手な、ただ遅いだけのわたしに指摘されたくはなかったんだろう。

 わたしのようなノロマが、許せなかったのかもしれない。


「あぁ~……わたしは本当に、バカだよ」

 落ち込み、自己嫌悪。……だけど。


 未完成の自分の絵を見て、頷く。

 明日の土曜日、学校は休みだけど描きに来ようと決めた。



                    *



 土曜日、朝一で登校し美術室の鍵を借りて、一人絵に向かう。

 お昼ご飯もコンビニで買ってきたし、今日は塗り終わるまでしっかり描こうと決めていた。

 髪を後ろで束ねて気合いを入れる。

「よーっし、今日こそ塗るぞー! ……でもまずは」

 塗りに入る前に、もう少し絵を直す。主に天使の表情。これは納得がいくまで描き込むべきだから。じっくりと、時間をかけて描く必要がある。

 本当はもうこれで塗りに入ろうと思っていたけど、昨日のことで気が変わった。

 わたしは細かいところまでこだわって、ちょっとずつ直していった。じっくり時間をかけて。



「うーん……ダメ。ちょっと休憩しよ。って、もうお昼だ!」

 時計を見てびっくりする。休憩もなしでよくこんなに長時間描いていたなぁ。

 わたしはイーゼルから離れて、コンビニで買ってきたパンとおにぎりを食べ始める。

「うーん……なんだろう、もうちょっとなんだけどな」

 自分の絵を見つつ、なにかが物足りないなーと思いながら。

 食べてる間ずっと見ていたけど、結局答えは出ない。

 仕方ない。再び絵に向かおうとしたところで、美術室の扉が開かれた。


「あ、やっぱり白坂さんだったんだね。ここ使ってたの」

「え……え? む、室木くん!」

 美術室に入ってきたのは、なんと室木くんだった。

 驚きすぎて、思考が固まる。

「ど、どう、どうしてここに?!」

「どうしてって、もちろん絵を描きにだよ」

 それはそうだ。同じ美術部、ここは美術室。用事があるとしたら絵を描きに、だ。

「そ、そっか、そうだよね。……じゃなくて、今日学校休みだよ!」

「うん。そうだね。だから僕も、たぶん白坂さんと同じ理由で来たんだよ」

「わたしと、同じ理由?」

「そう。僕もちょっと、絵が遅れててね。追い込みだよ」

「え……あ、そうだったんだ」

 言われて、ちょっと冷静になれた。そういえばと思い出す。室木くんもまだ塗りに入れていないと、こないだ雀部さんと話をしていた。今はもう、少し塗りに入っているみたいだけど、来週の半ばまでに仕上げないといけないことを考えると、わたし同様遅れていると言える。


「白坂さん、がんばってるね。下絵、終わったの?」

「ううん。もうちょっと。もうちょっとで塗りに入れると思うんだ」

「そっか。その天使の絵、なにかテーマあるの?」

「うん! これはね、恋愛の天使なんだよ」

「恋愛の……なるほどね。じゃあどうして」

 室木くんは、当然といえば当然の疑問を口にする。


「どうして、そんなに悲しそうというか、せつなそうな顔をしているの?」

「え? それはだって」


 室木くんの顔を見て、ちょっとだけ笑みを浮かべて、わたしは答える。


「恋愛の天使なんだから、当たり前だよ」


「そ……そうなんだ。正直あんまり、そういうのはよくわからないけど、でも恋愛の天使なら、もっと楽しそうな、優しそうな顔をしてるのかなって、思って。ごめん、余計なこと言って」

「ううん。そんなことないよ。確かに、そうかもしれないし」

 楽しそうで、優しそう。わたしも最初は、そういう顔をイメージしようとしていた。でも、できなかったのだ。

「なんかね、直感。この天使は、せつない顔をしているんだって、直感で思ったの。それだけだよ」

「直感か……。絵を描く上で、大事だよね」

「あ、室木くんもそう思う?」

「うん。それがすべてではないけど。というか、僕はそこまで直感とかに頼れるわけでもないんだけどさ」

「そう、なの? でも室木くんの絵、上手いと思うな。なんだろう、一枚の絵で、いろんな事が表現できているっていうのかなぁ。わたし、室木くんの絵、好きだよ」

「そう? そう言ってもらえると、嬉しいな」

 お互い笑い合って、わたしは自分の今言った言葉を思い返し、ちょっと頬が熱くなる。

 室木くんの絵が、好き。随分あっさりと言ってしまった。


「でも今回ばかりは、ちょっと困っててね」

「困ってる? どうして?」

「僕は、こういう想像で描くのがあまり得意じゃないんだ。人物画とか風景画は得意なんだけど、今回は天使がテーマだからね。ある程度想像で描かないといけない。モデルが無いんだよ」

「そうだったんだ。でもモデルなら、画集とかがあるよ?」

「画集の天使をモデルにするのも、なんか違うと思って。それに、そういうのも描けるようになりたいから」

「そうなんだ。でも、完全に想像だけで描くのは難しいよ。わたしだって、普段見ている色んなものを思い出しながら、想像して描いてるよ」

「普段見ている、色んなものか……。白坂さんが風景画とかよりも、そういう幻想的な絵が上手いのは、そこに秘密があるのかな」

「え? ええ? わたしの絵が上手いって、そんな、室木くんやめて!」

「そう? 僕は、白坂さんのそういう絵、好きだけどな」

「む、室木くん?! あ、あ、わたし、そうだ、続き描かなきゃ!」

「おっと、そうだね。僕も描かないと」


 室木くんが、わたしの絵を好きだって言ってくれた!

 あり得ない、あり得ない。だけど確かに言ってくれた。

 わたしは飛び上がりたくなるのを必死に堪えて、恥ずかしいのを隠すように、絵に向かうのだった。



 それからしばらくは、二人黙って絵を描き続けていた。

 集中できるように、背中合わせ。最初は後ろで絵を描いている室木くんが気になって仕方がなかったけど、でも気が付くと絵に集中できていた。それは、さっきまでなかなか納得がいかなかった天使の表情が、すっと描くことができたからだ。午前中あんなに悩んでいたのに、室木くんと話したあとは、すんなりと描けた。もしかしたら、イメージしていた天使のせつない表情が、少しだけ柔らかくなったからかもしれない。


 わたしは立ち上がり、ついに水彩絵の具の準備に入る。

 やっと塗りに入れるのが嬉しくて、無意識に振り返り室木くんの方を見る。


「……えっ?!」

「……あ、下絵終わった?」

 背中合わせにしていたはずなのに、気が付くと、室木くんはこっちを向いて描いていた。

「なんか、こっちの方が描ける気がして」

「そうなの? あ、うん。そうなんだ」

 疑問系で返してしまったけど、よく考えたら背中合わせで描かないといけないわけではない。別にこっちを向いていようが明後日を向いていようが、室木くんの勝手だ。そう思い、すぐに言い直した。


「驚かせてごめんね。ただ、なんとなくね。白坂さん風に言うなら、直感だよ。……そうだ。できたら白坂さんも、こっちを向いて描いてくれない?」

「えぇ?! それはその……いいけど」

 今度こそ心底驚き、でもわたしは頷く。否定する理由なんてない。

 休日の美術室、お互い向き合って絵を描くなんて。まるで夢みたいだ。


「ありがとう。お互いがんばって、絵を仕上げようね」

「う、うん。そうだね!」

 自分のイーゼルの向きを変え、ちらりと室木くんを見る。

 彼はにこりと笑って、自分の絵に向かった。

 よぉーし、と自分に気合いを入れる。

 この状況なら、わたしの恋愛の天使は、はっきりとイメージできるに違いない。


 筆を持った手を、自分の絵に向けて真っ直ぐ伸ばす。

 恋愛の天使。その色をイメージする。線だけの自分の絵と重ね合わせるようにして、自分の中に色を生み出す。


 集中は一瞬。浮かび上がった色鮮やかな恋愛の天使を、しっかりと心に写し残し。

 わたしはパレットに絵の具を出した。


 色を塗るのが、わたしは好きだった。得意だとも言えるかもしれない。

 絵はじっくりと描くもの。それはわかっているけど、わたしは色を塗るときは一気に塗る。時間をかけず、イメージが消えてしまう前に塗りきる。

 だから下絵さえ終わってしまえば、あとは早い。下絵にこそ時間はかかってしまうけど、色を塗るなら一日あれば十分。その後の手直しも、あまり必要ない。

 イメージ通りに塗る。わたしはその作業がとても好きだった。

 室木くんの存在は、わたしの心に絵の具となって、素晴らしい色を与えてくれた。

 この色を忘れないうちに、必死に、真剣に。でも色を塗るのは好きだから、楽しく、踊るように。恋愛の天使に色を付けていく。


 いつしかわたしの目には、天使の絵しか入らなくなる。

 イメージと、現実の絵が、綺麗に重なっていくその姿――。



                    ◇



 美術室で天使の絵を描く二人。

 集中して色を塗る女の子を、男の子は驚いた顔でじっと見つめる。

 そしてすぐにハッとなり、急いで自分の画用紙に鉛筆を走らせる。

 その後も何度も何度も、女の子の方を見ては手を動かす。

 一見それは、まるで集中できていないようだったが、彼には自分の絵の完成が見えたのか、嬉々として絵に色を乗せていった。

 そして女の子は男の子のそんな様子にまったく気付かず、しかし同様の表情を浮かべて色を塗り続けていた。



                    ◇



 その日の夜。

 美術室で絵をほぼ完成させたわたしは、描き上げたハイテンションのまま、自宅へと帰ってきていた。

 置き手紙を残し、いつの間にか先に帰ってしまっていた室木くんのことは残念だった。

(というか、本当に帰ってしまったことに気付かなかったなぁ。向かい合わせだったのに)

 本当に夢だったりして、とか考えて一人けらけらと笑い出す。


 疲れてるけど、アドレナリンが出まくってるのかな。まるで脳が麻痺したかのようにふわふわしていて、気分がいい。ランナーズハイってこんな感じ?

 机に座り、椅子を傾けて天井を見上げ、両手に持った室木くんの置き手紙を明かりに照らしにやにやする。我ながらちょっと危ない。

(わたしのおかげで絵が描き上げられそうって書いてあるけど、どういう意味だろう?)

 がたんと椅子を元に戻し、机の上に置かれた真っ白な便箋の横に手紙を置く。


『関係ないでしょ、そんなの。気にせず書きなさい』


 エイミーに言われた言葉が頭をよぎる。

「そうだね。そうかも。……よーっし。今なら書ける気がする!」

 ペンを執り、わたしはついに、ラブレターを書き始めた。



                    *



 週明け、月曜日の放課後。

 美術室へとやってくると、わたしの絵の前に雀部さんが立っていた。


「あ……こ、こんにちわ! 雀部さん……えっと」

 わたしらしくないと思いつつも、声に勢いが失われてしまう。

 週末のことを思い出すと、どうしても気まずい。

 雀部さんはゆっくりと振り返る。

「こんにちは。白坂さん。……描き上げたのね。この休みに」

「あ、うん。あとは背景とかを少し直すくらい。文化祭には間に合うよ」

「……そう」

 そしてすぐに、視線をわたしの絵へと戻す。

「一人で描いていたの?」

「うん……あ、ううん。土曜日に、午後から室木くんも来て描いてたよ」

 室木くんの名前を出すと、雀部さんの肩がぴくりと震える。

 あ、しまった。そう思って、笑って誤魔化す。


「あはは……わたし集中してて、先に帰っちゃったのにも気付かなかったんだけどね」

 だけどそんなわたしの声は、まるで聞こえていないかのように、雀部さんは呟く。

「すごいな。やっぱり。……彼の言ってたこと、わかる気がする」

「雀部さん……?」

「でも、それでも……私は」

 雀部さんが振り返り、わたしに見せた表情。それは――。

「私はね、白坂さん。私は――」


「あ、こんにちはー。部長に白坂先輩。……なにしてるんですか?」


 後ろから、後輩の男の子の声。雀部さんは顔を伏せ、そしてすぐに顔を上げる。


「こんにちは。ちょっと白坂さんに絵の感想を伝えていただけよ」

 いつもの、毅然とした部長としての態度。その顔には、もうさっきのような表情はどこにもない。

「え、白坂先輩描き上げたんですか? まだ塗りにも入ってなかったのに……。うわ、ほんとだ」

 後輩がわたしの絵を見ている間に、雀部さんはちょっと職員室に用があるから、と美術室を出ようとする。

「そういえば白坂さん。室木君の絵は、もう見た?」

「え……あ、まだだけど」

「そう。あとで見ておくといいわ。それじゃ、行ってくるわね」

 去り際に、そう言い残し、廊下を歩いていく。

 わたしは、職員室に行くなんてきっとウソだ、と思った。


 ……後輩が来てしまう直前。彼女はわたしになにを言おうとしたんだろう。

 あの時に見せた彼女の表情は、わたしの描いた天使の絵の表情そのものだった。



                    *



 結局その日は、雀部さんはみんなが揃った頃に戻ってきて、すぐに自分の絵に向かい、そして活動時間が終わると同時に帰ってしまった。

 それだけのことなのに、後輩たちは珍しいと軽く騒いでいたが、すぐに落ち着いてみんな帰ってしまった。

 絵の仕上げに時間がかかった、わたしと室木くんを除いて。

 そういえば、室木くんの絵……なんだかんだでまだ見てないんだった。

(それに……)

 ポケットに忍ばせたそれを制服の上から確認し、立ち上がる。


「室木くん、絵、描き上がった?」

「ああ、うん。おかげさまでね」

「おかげさまって、一昨日の置き手紙にも書いてあったけど」

「そうそう。ごめんね先に帰っちゃって。あんまりにも集中してたから、声をかけるのは悪いと思って」

 そういえば、週末にもそんなようなことがあった。その時は雀部さんだったけど。どうにもわたしは、集中すると完全に周りが見えなくなってしまう。

「わたしこそごめん! 気を遣わせちゃったよね」

「そんなことない。さっきも言ったけど、おかげでこっちは描き上がったようなものなんだ」

「うーん? やっぱりよくわからないよ、室木くん。どうしてわたしのおかげなの?」

「そうだね……。じゃあ僕の絵を見てもらおうかな」

 室木くんが手招きするので、わたしは近寄って、彼の絵を覗き込む。


 その天使は、両手をめいいっぱい広げて、手のひらから色を溢れさせていた。

 天使の顔は特によく描き込まれていて、髪を束ねているから表情もよくわかる。

 鮮やかな色に包まれた自分の手元を見て、嬉しそうな顔。

 溢れる色の中を、自由に舞っているようだ。


「うわぁ……すごい! 上手いし、すごい!」

「上手くて、すごいの?」

「うん! 上手いことがすごいんじゃなくて……あ、それもすごいんだけど、そういう意味じゃなくて、すごく伝わってくる感じがするの。この絵の色とか、イメージ、室木くんの伝えたいなにかが、絵を通じて伝わってくるの」

 わたしはこのすごさを言葉で伝えられないことが、もどかしかった。やっぱりわたしに文才は無いのである。

「なんて言えばいいのかなぁ。まるでこの天使が、絵を描くことの素晴らしさを伝えているきがする。なにかを表現することは楽しくて、伝わることは嬉しくて、そんな……感情が溢れてる気がするよ」

「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい。というか、恥ずかしいね」

 見ると室木くんは、頬を染めて頭を掻いている。


「この絵はね。芸術の天使なんだ」

「芸術の……。そっか、だからわたしはそういう風に感じたんだね」

「嬉しいな。きちんと、絵の表現が伝わってくれるのって」

「あ、それわたしもわかる! そういうのって嬉しいよね。わたしの絵は、まだそこまで達していないけど」

「そんなことないよ。白坂さんの塗りは、本当に見事だよ。部室に入った時に見て、ちょっと衝撃を受けたというか、羨ましく思ったくらいなんだ」

「え?! な、やだなぁ室木くん。室木くんや雀部さんに比べたら、わたしなんて全然だよ!」

「うーん……なんていうかな。比べるとかじゃ、ないんだよ」

「へ? それってどういう?」

 室木くんは腕を組んでちょっと考える仕草をしてから、話を続ける。


「絵って、やっぱり人それぞれだから。個性って言えばわかりやすいかな。どっちの塗りがすごいとか、上手いとか……もちろんそういう技術面の問題はあるけれど、でも究極的には、その人のセンスだと思うんだ。……白坂さんは、僕にはない、塗りの、色遣いのセンスがあるって思う」

「わたしの、センス……」

「うん。だから白坂さんの絵を見ると、いつも衝撃を受けるんだ。僕も、こんな風に自分の個性をそのまま写したような絵を描きたい、色を塗りたいって。それがすごい刺激になる。いや、刺激になってきたんだ」

「む、室木くん!? え、うそ、わたしの絵のこと、そんな風に見てくれてたんだ?」

 わたしにとっては、室木くんの絵こそ憧れで、ある意味目標だった。

 同じレベルに立って、一緒に絵を描きたい。

 でも室木くんは、わたしの絵が刺激となって、自分の絵を描くことができたと言う。


「うん。……あはは。いつかこれ、言おう言おうと思ってたんだ。ちょっと恥ずかしいから、なかなか言えなかったけど」

「そんな……わたしの方こそ――」

 言いかけて、ポケットの中身のことを思い出す。

 そうだ、わたしの方こそ、彼に伝えたいことがあったんだ。

 渡すなら、今しかない。


「あ、あの、室木くん。……突然だけど、これ、読んで欲しいの!」

「え? ……えぇ?!」


 わたしがポケットから便箋を取り出して、両手を伸ばし差し出すと、いつも落ち着いてる雰囲気の室木くんが、珍しく驚いた声を上げた。

「それって、あの」

「い、いいから読んで! お願い!」

「わ、わかったよ。じゃあ……えっと、今読んだ方がいいんだよね?」

「できれば……その」

「そっか……うん」

 室木くんは手紙を受け取って、わたしに頷いてから便箋を開いた。

 さすがに内容は予想が付いているだろう。なにしろわたしの絵、恋愛の天使の手にも、同じような手紙が握られているのだから。

「じゃあ……読むね」

 わたしは黙って頷き、ギュッと目を閉じた。

 思い出す、ラブレターの文面。



 室木くんへ


 わたしは室木くんの描く絵が好きです。

 あなたの絵を見ていると、その絵が伝えたいことが、いっぱいわたしに伝わってきて、心が満たされていきます。

 こんなに素晴らしい絵を描くのはどんな人だろうと、ついつい目で追ってしまいました。

 だから、真剣にイーゼルに向かう姿をいつでも思い返すことができます。

 かっこいいなぁって、思ってました。


 そしてわたしは、そんな室木くんが、好きです。


 白坂結絵



 絵を描き上げたあと、ハイテンションのまま書き上げてしまおうとしたラブレターは、こんな短い文面なのに、結局次の日の朝までかかった。

 何度も何度も書き直したけど、それでも全然、わたしが伝えたいことが伝えられていない気がする。

 やっぱりわたしには文才は無い。それを痛感した。

 文章なら簡単に、ストレートに伝えられるなんて思っていたけど。

 そんなに簡単なものじゃない。絵と一緒で、色々な表現があるんだって、よくわかった。

 それがわかっただけでも、一つの収穫と言えた。


 どちらにしろ、わたしにはラブレターを書くしかない。

 例え彼に恋人がいたとしても、書かずにはいられない。

 恋愛といえばラブレター。わたしは頭が悪いから、直感を信じ、その通りに動くことしかできない。

 そうじゃなきゃ、わたしじゃない。

 だからエイミーは、あの時急に意見を変えたんだと思う。


「……読んだよ。ありがとう、白坂さん」

 室木くんの声に、わたしはそっと目を開ける。ちょっとだけ気分が落ち着いた。

「うん。こっちこそ、読んでくれてありがとう」

「でも……僕は」

 室木くんの悲しげな表情に、わかっていたことなのに、胸にその光景が突き刺さる。

 そうだ、わかっていた。だからわたしの恋愛の天使の顔は、せつない表情なのだ。

 恋愛ってこんなにせつないものなんだって、携帯を忘れたあの日に、気付いたから。


「僕は、まだ白坂さんの気持ちに応えられないよ」

「室木くん……そ、そっか、あはは……うん」


 悲しくなんてない。胸が痛くなるはずがない。だけど、でも、辛くてせつない。


「僕はまだ、こっちを頑張らないといけない。集中したいんだ」

「うん……うん?」

 室木くんが指さすのは、自分のイーゼル。絵だ。

「できれば美大に行きたいしね」

「え? 美大目指してるんだ! すごい……ほんとにすごいなぁ」

「目指してるだけで、行けるって決まったわけじゃないから、すごくはないよ。だからその……ごめん」

「ううん、いいの。わたしのことは、気にしないで。わたしより……って、あれ?」


 なんだろう。なにかが、食い違っている気がする。


「えっと……室木くん? じゃあ、雀部さんは……?」

「う……もしかしてあのこと、聞いてるの? まいったな。というか、雀部とそんな話をするほど、仲良かったっけ?」

「え? えーっと……」

 よくわからない。だけど、彼の言うとおり、そこまで仲がいいとは言えない。部活が一緒だから、話はそれなりにするけど、込み入った話は……最近ちょっと、意味深な会話ならしたけど。

「実はそのことも、引っかかってて。……どっちかというと、白坂さんの気持ちに応えられない本当の理由は、それが大きいのかもしれない。あんなことがあったばかりだから」

「そ、それって? あんなことって、どういうこと?」

「聞いてるんだよね? その、雀部も、僕に……えっと」

 顔を赤くし、気まずそうに顔を逸らす室木くん。


「僕が彼女の、それを、断ってしまって。だから」

「え? え? 断ったって、まさか」

 鈍いわたしでも、さすがにわかった。わかってしまった。


「室木くん、雀部さんに告白されて、断ったってこと?」


「う、うん……。あれ? 雀部から聞いてたんじゃ……」

「ううん。聞いてない、けど」

「え?! うわ、どうしよう。こんなの人にバラしていいことじゃないよね。僕はなんてことを……」

 青ざめ、慌てる室木くんをわたしは呆然と見つめていた。

 ……付き合って、いなかった? しかも、雀部さんの告白を断った?


「む、室木くん落ち着いて。えっとでも一応確認したいんだけど、それって結構最近?」

「う、うん。先週の金曜に……って、ダメだよこれ以上は」

 金曜日! そっか、あれはもしかしたら、振られたあとだったんだろうか。

「雀部さんにも、さっきと同じ返事をしたの? 美大を目指すからって」

「え? ち、違うよ。普通に断ったんだけど……って、だからダメだよ……。あぁ、僕は最低な人間だ。人の秘密をこんな……」

「ご、ごめん。でもどうしても気になっちゃって……」

 普通に断った……。あれ? じゃあさっきの返事は、どういうことだろう。


『僕は、まだ白坂さんの気持ちに応えられないよ』


 ……まだ?


「あの、室木くん。もう一つだけ、聞きたいなぁ、って」

「な、なに? 雀部のことなら、もう……」

「ううん。もし雀部さんのことが無かったら、わたしへの返事はどうなっていたのかなって」

「それは……。だからその、言えないよ! だってそんな、僕はついこないだ雀部を振ってしまったんだ。それなのにそんな、僕には……。そんな資格ないと思うし。それに、絵に集中したいのも本当のことだから」

 室木くんは顔を真っ赤に、ちらちらとわたしと絵を交互に見ながら話す。

「それってつまり、その……室木くん」

「だから、さっきも言ったように、まだ白坂さんの気持ちには応えられないんだ。……その、もう少し時間が欲しい」


 その言葉だけで、十分だった。


「う、うん。いいよ、わたしは。いつまでも待ちます、よ? ……はい」

「あ、ありが、とう……」


 二人して気まずそうに、目を逸らす。

 まだ気持ちには応えられない。だから、待つ。

 でもそれって、ほとんど答えを出しているようなものだよね?

 そんなことを考えてしまい、わたしは頬が、いいや顔全体が熱くなるのを感じる。


 ああ、もう!

 好きとか嫌いとかの感情に敏感? そんなことを思っていた自分のことを笑い飛ばして今すぐその口を封じてあげたかった。

 全然、大ハズレだった。敏感どころかこれでは鈍感だよ。


 はぁ……。情けないやら恥ずかしいやら。

 わたしは気持ちを落ち着けようと、彼の絵に視線を落とす。


「あっ……」

 そこで、気付いてしまった。

 もしかして、この絵は。わたしのおかげで描上げられたという、この絵は。


 次の瞬間、自分の顔が今度こそ限界まで赤くなったのが、鏡を見なくてもわかった。


「もしかして、気付いちゃったかな」

「うん……たぶん」

 土曜日のあの置き手紙に、わたしのおかげと書かれていた理由。

「僕はやっぱり、想像で描くのが苦手でさ。あの時、集中している白坂さんの顔に見惚れちゃって……じゃなくて! あ、その、だから……。これは描かなくちゃって思って。だから、つい」

「うわぁ……」

 よーく見ないとわからないようにしてあるけど、でもこれは――


 室木くんはわかっているんだろうか。この絵は、文化祭で展示する絵だと言うことを。

 色んな人の目に触れることになるということを。


 ――きっと見る人が見ればわかってしまう。

 室木くんの芸術の天使の顔は、わたしの顔にとても似ていた。






短編2作目。普通の恋愛、シリーズ物っぽくしてみました。

今回は女の子視点です。

そしてごめんなさい。自分は絵を描かないので、かなり想像で書いてます。

色々間違いがあるかもしれません。

普段、絵が描ける人ってすごいなぁ羨ましいなぁと思っている身なので、逆の立場を想像しながら書くのは楽しかったですけど。

迷いながらではありましたが……。


前作と同じくらいの長さにしようと思ったのに、1.5倍くらいの文章量になってしまいました。

長くなってしまったのに、最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございます。

感想や、もちろん評価も、気軽に付けて頂けると嬉しいです。


ではでは。また次作がありましたら、よろしくお願いします。

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短編連作としてまとめました。
普通の恋愛
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