ガリレオ・ガリレイの憂鬱
「う、下痢だ」と、老人は自分の体調の異変に気付いた。もし彼、ガリレオが今いるのが教皇庁の裁判室ではなく、フィレンツェの自宅ならすぐにでも用を足せたのだが、今のガリレオが置かれている状態でそれは不可能だった。
教皇庁の異端審問官がガリレオの罪状を粛々と読み上げている。一〇名の判事は真摯な表情でそれを聞いていたが、ガリレオ本人にとっては自分の有罪無罪よりも、裁判終了まで腹痛を我慢できるかが問題だった。
「被告人は過去の裁判で下された“地動説を唱えることを禁ずる”の命令を破りました。これは神と教皇庁を侮辱する行為であり、重大な問題であると思われます」
神を敬って痛みが治まるのなら苦労はないと、敬虔なカトリックのガリレオでも悪態を吐きかけてしまった。
ガリレオの内心を察する様子もまったくなく、審問官は説明を進める。
「しかも被告は著書“天文対話”の中に、教皇様をモデルにしたと思われる愚人を登場させています。この点も、問題にすべきことであると思われます」
それ以降も、審問官はガリレオの罪状をいくつも列挙した。
長々と続く裁判に、ガリレオはいい加減辟易していた。早く、この腹痛から逃れることが、今の彼にとって一番の関心ごとだった。
そして彼には分っていた。異端審問官や判事らは、自分を無罪で釈放するつもりはないのだ。奴らは自分の唱える地動説を、徹底的に取り潰す気なのだと、ガリレオは老いてなお盛んな頭脳で考えていた。
「被告人ガリレオっ」
判事の一人、教皇ウルバヌスが口を開いた。ガリレオは力なく「はい」と返した。ウルバヌスは、諭すような優しい口調で話す。
「君は神の偉業である天動説を否定しているが、我ら教皇庁とて君のような博識な人間を投獄するのは気が引ける。そこでだ、君が唱える地動説とやらを私たちが納得できるように証明してくれ。もしそれが出来れば経典の内容を書き換えよう」
これはウルバヌスの、ガリレオに対する慈悲の心だった。かつてウルバヌスは枢機卿時代からガリレオと懇意にしており、自分が教皇と言う立場を除いてもガリレオを救いたかったのだ。
当時、天動説が信じられていたのは、月が原因だった。もし地球が太陽の周りを公転しているなら、地球の衛星である月は軌道を保てずどこかへ消えていくと言うのが、天動説の考えだった。しかしガリレオは当時最新だった望遠鏡を使い、木星の衛星を発見した。これはつまり、どうして木星の衛星は軌道を保てるのかという、地動説から天動説への反証となった。ガリレオは、そのことをかみ砕いて説明すればよかったのだ。
しかしガリレオは親友の心遣いに応えることは出来なかった。一瞬は引いたかと思われた腹痛の波が再び彼を襲い、彼の思考能力を完璧に奪っていた。この体調で地動説を説明するなど、到底無理な話であった。彼はただただ、押し黙っていた。
「は……はい」
ガリレオが言うと同時に彼の腹部から“ギュルル”と音が鳴り、彼は少しばかり前のめりの姿勢になってしまった。彼はひたすら、すまないウルバヌス殿、と心の中で謝罪するばかりだった。
「きっと怖気づいて何も言えないのだろう」
顔面蒼白のまま黙り込んでいるガリレオを高所から見下ろし、とある判事が隣の判事に耳打ちした。その声が聞こえたガリレオはムッとなり判事を睨みつけるが、同時に腹痛が襲ってくるので何も言うことは出来なかった。
結局ガリレオは地動説を説明することが出来ず、地動説を放棄することを誓う文書を読み上げさせられた。自分の学説を証明できなかった悔しさと、一刻も早く用を足したい焦りから、彼の頬には涙が流れていた。
ガリレオには無期懲役が言い渡された(後に軟禁刑へと減刑されている)。ウルバヌスは判決が言い渡される光景を、苦虫を噛んだような顔で見つめていた。
退廷を命じられたガリレオは、腹を抱えたままそそくさと裁判室の出口へ歩き始めた。そして扉に手を当てて振り返り、今にもこと切れそうな声で言ったのだ。
「それでも地球は回っている……うっ」
同時に彼は部屋を出た。そして急ぎ用を足せる場所へ、震える足で向かったのだった。