7回目
「おい」
突然の声に、オレの思考は、途切れた。
顔を上げると、テーブルを囲んでいた男のひとりが目の前に立っていた。
いつの間にか、ほかのふたりの姿は消えていた。
「なまっちろいな」
オレの顎を持ち上げて、逆の手で頬をなぞる。
ぞっとした。
酒の匂いが鼻腔を満たす。
なんだって、一旦ひとのからだに入った酒っていうのは、こんなに不快な匂いになるんだろう。
飲めないからなのか、ただからだに合わないだけなのか、素の匂いは嫌いじゃないんだけどなぁ。
「酒の匂いがだめってか」
にやりと笑う。
「お前みたいなのが好きなお大尽がいるんだぜ。酒のにおいには慣れとけよ」
いちいち眉間に皺を寄せといちゃあ、飼い主のご機嫌を損ねるってもんだ。
そういって、そいつはオレに、顔を寄せてきた。
避ける間もなかったさ。
初めてのくちづけが、男の酒臭いのなんて、屈辱もいいとこだ。
息苦しい。
気色悪い。
吐き気がこみ上げる。
舌に絡みついてくる男の舌の感触に、オレは、涙がにじむのをとめられなかった。
噛もうと思った。
けど。
顎の蝶番を押さえられた。
ぎりぎりと力を込められて、痛さにオレはうめき声を上げずにいられなかった。
涙が糸を引く。
「わからいでか」
男が口角を引き上げて笑った。
「おまえ、女も男も、知らないな」
かわいそうにな。
「それは、誰のことだね」
他人を嘲弄するかのような、氷点下の声だった。
カンテラの明かりだけの室内に、男の姿は、はっきりと見えない。
けど、声だけで、充分だった。
鈍く明かりを反射する鋼が、男の首筋に当てられている。
それをほんの少し引くだけで、男は血を流すだろう。
「陛下」
静かな声が、男の仲間を捕らえたと告げた。
「へいか?」
男が、不思議そうにつぶやいた。
「こちらはアルシード国王グレンリード陛下であらせられる」
男の首筋に刃を当てた男が、淡々と告げる。
男の驚愕が、オレの顎を持ったままの男の手から伝わった。
「国王がなぜ………」
「わが王子に、いつまで触れている」
淡々と。
しかし、潜められている怒りが、感じられた。
「おうじっ?!」
引きつった声が、耳を打った。
攫われたこどもたちは無事に助けられたらしい。
彼らだけでも助かってよかったって、そう思うしかない。
男たちは、国王直属の騎士たちに捕らえられた。
これから彼らがどうなるかなんか知りたくもない。
陛下に呼び出されたのは、次の日だった。
あの日、オレを助けた後、陛下はただオレを抱きしめただけで、何も言わなかった。けど、駆けつけていたジーンと、陛下にオレのことを知らせたテルマからは、山のようにお小言をもらった。
おしのびを止めはいたしませんが、なさりたい時は、供をお連れください。あなたはこの国にとって大切な方なのですから。
お小言の締めくくりにそういわれたら、ごめんなさい――と謝るしかない。
テルマが陛下にオレのことを報告に行ったとき、陛下は、鷹揚だったらしい。若者らしいと言ったとか言わなかったとか。
けど、昼を過ぎてもオレが戻らないとなると、陛下はすぐに騎士たちを招聘したという。
そうして見つけられたのは、古着屋で売った服だった。
女将が欲をかいたのが、オレの手がかりを騎士たちに与えることになったんだ。
呼び出されて通されたのは、お后さまの部屋だった。
オレが生まれた部屋に続いている部屋だ。
オレが入ると、扉が音たてて閉められた。
外の光に琥珀色に染まった部屋の中、窓際にたたずむ王が、ゆっくりと振り返る。
やわらかくやさしい、居心地のよさそうな室内が、凝りついたような雰囲気に、息が止まるような錯覚を覚えた。
怒っているだろう――と、予想はついていた。
オレの行動がどれだけ無謀なものだったのか、どれほど王に心配をかけたのか。
後になって、嫌になるほどわかってきたからだ。
オレが、悪い。
全面的に、オレが、悪かったんだ。
だから、謝らなければ。
礼を言わなければ。
ジーンとテルマとに忠告されるまでもなかった。
非は認めて、悪いと思ったことは、謝るべきなんだ。
腹をくくっていた。
オレは、オレなりに。
けれど、こんなにも王の怒りが重い――なんて、考えてもいなかった。
息苦しい。
王の黒いまなざしが、窓越しの光をはじいて、獣じみたものに見えた。
謝罪と礼を。
「こ、この間は……………」
頭を下げて、しかし、最後まで言い切ることができなかった。
下げた視線の先、間近に迫った王の足がある。
昨日、抱きしめてくれた時とは、雰囲気が、まったく違っていた。
昨夜の間に、なにがあったんだろう。
「オイジュス」
硬い声で、オレを、呼ぶ
何かを、抑えつけているかのような、強張りついた声だった。
オレは、顔を上げることができなかった。
全身が、ぶざまに震えているのが、感じられる。
冷たい汗が、背中をぬらす。
「我が、王子よ」
喉の奥、なにかがからんだように擦れた声で、王が、オレを、呼んだ。
それでも、顔を上げられない。
ただ、ひたすらに、怖くてならなかった。
無言のまま、オレは、ただ、うつむきつづけていた。
だから、このときの王の表情がどんなものだったのか、オレは、知らない。
王は、無言のまま部屋を後にした。
後には、オレが、残された。
王の心に芽生えた感情も、それゆえの葛藤も、オレが知ることはなかった。
オレはただ、王のまとう空気に怯えるだけしかできなかったんだ。
この時の王の決意を、オレが知ることになるのに、それほどの時間は必要なかった。
それは、思いもよらない形で、オレの身に降りかかってきた。