refrain
郷愁…というやつだろうか。
定年を間近にして、今思うのはそんな事だった。
私には妻と二人の子供がいる。
もう既に子供は一人立ちをしていて、今は妻と二人で日々平穏に暮らしている。
子供に手が掛からなくなってからは二人で旅行にも行く。今でも仲の良い夫婦だと自負しているし、これからもそう出来ると信じている。
今日は休日。私は一人居間でテレビを見ていた。
妻は今日、友人に御呼ばれして外出中。
趣味である打ちっぱなしにでも行こうかと思ったが、この間腰を痛めたことを考え断念。寄る年波には勝てないとはこのことだ。体は年々不自由になるばかりだ。
結果、私は家に居ることにしたのだ。
そう、郷愁だ。
テレビの中の恋愛ドラマを見ていて、年甲斐もなく自分の恋愛の事を考えていた。
もう数十年も前の恋愛を…。
彼女は今如何しているだろうか?
青春を彩ってくれた立役者、私の大切な思い出を作ってくれた彼女は。
─
「さーくらいく~んっ!」
「うわ、何ですか先輩、いきなり」
「えへへ、びっくりした?」
「そりゃ吃驚しますよ。何処から沸いてきたんですか」
「背後からこっそりと抜き足差し足忍び足…」
「忍者ですか貴女は」
「よく言われます。忍んでいない忍者だと」
「それは忍者じゃねぇよ!」
付き合い始めたのは今年の6月、雨が多い日に先輩に傘を貸した事から仲良くなった。
正直、彼女は僕の憧れだった。そう、櫻井蓮蒔にとって彼女は眩しい存在だった。
常に明るくて、誰にも好かれる、そして誰にでも優しく出来る彼女が。
─
そう、当時の私には彼女の内部事情など知りはしなかったからそんな事を思っていた。
実際、もっと知っていたならば…。
いや、ああしか出来なかったか。
今になって思えばそれも運命だったのだろう。
人生とは上手く行かないものだということはこの歳になれば幾らでも身に積まされている。だからそう、これもそういったことの一つなのだろう。
─
「忍んでいない忍者なんて沢山いるじゃん」
「そりゃ…沢山居ますが…」
「もう!櫻井蓮蒔!」
「はい?如何しましたか先輩」
「付き合い始めてからずっと言ってるけど…その“先輩”っての禁止!あと敬語禁止!何で抜けないかなぁ…ツッコミのときはしっかり敬語抜けてるのに」
「ああ、癖なんですよ。サーセン」
「お陰様で私がわざとボケやる羽目になっちゃってるじゃない。敬語抜けさせるための練習にさ」
「ハァ…まぁ此処は突っ込むべき所なのか分からないんでスルーしときます」
「そういうの、つらいなぁ」
「先輩のボケは自然なものだとばかり思っていましたよ」
八月
近所で夏祭りがあると聞いた僕らは二人で祭りをエンジョイすることにした。
待ち合わせ場所に時間通りに現れた彼女は、僕を驚かせようと背後から現れ、そして僕の目を後ろから手で隠した。所謂「だーれだっ?」というやつである。
今この時代にそんな事をするかというほど古典的なそれ。
彼女がやると無駄に可愛く見えるから恐ろしいものだ。
ああ、これが恋愛補正…ピンク色なんだな、僕の頭も。
「そういや、普通の服なんだね。何か着てくるかなって思ってた」
「そうですね、残念ながらそういう風情のあるものは持ち合わせていないんで。先輩は浴衣ですか」
「そう、青い蝶が可愛いでしょ~?お気に入りなんだ」
「可愛いですよ先輩」
「やだもぅ~お世辞?」
「いや、本当ですって」
「じゃあ、敬語抜きで、先輩じゃなくて名前でちゃんと言って欲しいな」
「う、じゃあ…可愛いよ、晴香」
「うわ、改まって言われると…恥ずかしいね」
「ま、全くで」
「あのね、櫻井君」
「はい?」
「残念ながら下は穿いてるよ?」
「訊いてねぇよ!」
きっとそれは恥ずかしさを紛らわすための冗談。彼女も結構恥ずかしかったんだな。
付き合い始めて1ヶ月と半。まだまだ僕らは恋愛というものに慣れない。
一緒に下校したり、デートしたりはしているものの、まだまだ理想の恋愛が出来ているかといえば否だ。
どれだけの人間が理想の恋愛なんて出来ているのかは謎だけど。
まぁ…その…キスもまだだし。
「さて、いこっか。櫻井君に林檎飴買ってもらわないと」
「僕が買うの前提ですか。それにしても林檎飴だなんて、あんな体に悪そうな物…そもそも“私、ダイエット中だから甘いものとか絶対食べないよ!”って二日前に言ったのは誰でしたっけか」
「いいのいいの、祭りだから」
「理由になってませんが…。まぁいいか。行きましょうか先輩」
「違う違う!そこは“行こうか、晴香”って言って手を差し伸べるの」
「はいはい、わかりましたよ。行こうか、晴香」
「うん、行こう蓮蒔」
僕らは手を繋いで歩き出した。
二人の距離は、大分近づいてきた気がしていた。
─
二人で歩く一歩一歩ごとに、距離が近づいていた。
あの日々は輝かしい、日々。
私にとってこの恋愛が印象に残っているのは…。
そう、彼女が余りに可愛すぎたからだ。
─
2月
雪が積もり、辺りは雪化粧を施されていた。
僕らも一応付き合うことにある程度慣れてきたかなと思い始めた頃。
葉の無い街路樹が両脇にずらりと並ぶそんな道を二人で歩いていた。
あと二ヶ月もすればこの道は桜の花で綺麗なのだが、今はまだ寂しい木々が並ぶだけだ。
「来年だね、受験」
「そうなんだよねぇ、不安なんだよね~」
「晴香の成績だったら大丈夫さ、僕はそう思ってるよ」
「嬉しいけど、そんなに良くも無いよ?全国区で考えたら全然だし」
「ほう、安藤先輩に成績ある程度聞いてるけど…あれで良くも無いか…」
「え?安藤ってそんなこと蓮蒔に喋ってるの?やだぁもう」
「僕は彼氏として誇らしいけどね。頑張れ?晴香」
「うん、頑張るよ」
「ちょっと其処で待ってて」
僕は繋いでいた手を離してベンチを指差す。彼女は頷いて座る。
僕は飲み物を近くの自販機で買う。
繋いだ手が少し震えているのを感じて、少しでも暖めた方が良いと思って温かい飲み物を買ってやろうと思ったのだ。
いつもは相手にそんな事を感づかれて気に掛けられてるからな。
今回は先制攻撃。僕にだって男としてのプライドがある。
いつだってされてばかりでは収まりが付かないというものだ。
まったく、彼女のあの家庭的で気配りが出来る性格は何処から来るものなのだろうか。
お陰様で今のうちから結婚なんて考えてしまう。
「はい、ココア好きだったよね」
「わぁ、有り難う!わざわざ買いに行ってくれたんだ?」
「寒そうだったからさ」
「嬉しいなぁ~ありがとね、蓮蒔」
「ほ、ほら…早く飲まないと冷めちゃう」
「うん、あのさ…」
「ん?」
もじもじする晴香。ココアを両手に持って赤面している。
「ニット帽」
「え?」
「似合ってるよ、ニット帽。その紅いマフラーも」
「あ、有り難う…」
「これからもさ、ずっと一緒に居て欲しいんだ」
「うわ、そんなにあらたまって如何したのさ~。もしかして蓮蒔…私が言いたい事、わかった?」
「いや?でも言い難そうな気がしてたから、もっと言いにくくしてやろうと思って。“別れよう”なんて言われたらショックで暫く勉強が身につかないと思うし」
「馬鹿だねぇ~、そんなこと言うと思った?私が言いたかったのは」
二人の距離が一瞬にして縮まる。
今二人の距離はゼロ。でも完全なゼロというのはこの状態じゃないということを僕はこのとき体感した。
いつの間にか僕の唇に触れていた彼女の唇。
そう、これが完全なゼロの距離だったのだ。
「好きだよ、これからも一緒に居ようねってこと」
「…」
何が起きたのか良く分からなかった。僕は未だに呆けていた。
「キスミントグレープフルーツ味」
「え?」
「その味だった」
「大当たり。よく分かったね!さっきまで食べてた」
僕の初キッスはキスミントグレープフルーツ味だった。
─
しかし別れは突然に来る。
彼女は私にも言えない秘密を隠していた。
両親の離別、それによって彼女は母親と共に転校する事になったのだった。
離別の理由もなんとなく勘付いてはいた。
─
6月
雨が多い時期。
今日は休日だからと思い、彼女を誘おうと携帯を手にした。
画面を開くと同時に送られてくるメール。
彼女からだった。
【今、下に来ているよ】
彼女にしては珍しくデコメされていない。顔文字も、絵文字も付いていない。
僕は二階の自室から下を見る。そこにはこの大雨の中、傘を差していない彼女がずぶ濡れのまま佇んでいた。
その光景を見た僕は、走り出した。
急いでドアを開け、彼女の元へと走る。
傘も差さず、雨に濡れて。
「何で、傘も差してないんだよ」
「ごめん、蓮蒔…お願いがあるんだ」
「どうしたんだよ?とりあえず僕の家に行こう?この状態だと風邪ひくって」
「いいの、ここで…蓮蒔…」
「どうしたんだよ…」
「私と、別れて欲しいの」
「なん…だって…?」
「もう…会えなくなるから」
「どうして?」
「私の両親…別れるの。私、お母さんに付いていくんだけど…遠くに行っちゃうんだ」
「そうか…でも何でそれで別れなきゃいけないんだ?携帯でメールだって出来るし、家に手紙だって送れるだろ?どんなに遠くたって僕は晴香と付き合っていたい」
「嬉しい…でもさ」
笑顔で、泣き出す晴香。
その涙は雨に流される。
もう泣いているのか濡れているのか分からない。
この雨は彼女の涙だろうか?
「連絡、取れなくなるんだ。住所も…教えらんないんだ?」
「そうか…」
敢えて問わなかった。
何故、という問いは今の彼女には余りに残酷だと思うから。
「わかったよ…でも僕は晴香と別れない。また会えると信じている。だからメールアドレスも変えない。また連絡できるようになったらメールしてよ。ね?」
「蓮…蒔…うわああああああああああああん!」
僕の胸で泣きじゃくる晴香。
僕は涙が出そうになるのを堪える。
あー、恋愛ってつらいなぁ…こういう時泣けないんだからなぁ。
「今日、出るんだ」
「は!?本当に?!」
「うん、ごめんね…蓮…蒔…」
「少し、時間はあるの?」
「うん…少しなら大丈夫」
「じゃあ、僕からお願いがある」
「何?」
「その格好じゃ風邪引く、僕の家で温まってから帰ろう?」
「優しすぎるよ蓮蒔は…私…好きすぎて…辛い」
「僕は晴香が思ってるより身勝手だから…ずっと好きになってもらえるように頑張るよ。たとえ、晴香が僕の事好きで辛くても」
「もう、馬鹿ぁ…」
最後のデートは僕の家だった。
僕らは…今までちゃんと恋愛を出来ていたんだろうか?
ちゃんと…彼氏を出来ていたのだろうか?
彼女が居なくなって、僕は一人部屋で泣いていた。
まだベッドには、彼女の残り香が残っていた。
─
少し、眠ってしまったか…。
見ればもう午後の二時、今日は妻の帰りも遅くなるだろうから私が夕飯を作るとしよう。と、なればそろそろ買い物に出てくるか。
まだ余裕はあるが、散歩もしたい。家でだらだらしているのはどうも性に合わない。
と、そこにインターホンが鳴る。
今の時間に誰だろうか?私はドアを開けて顔を出す。
「はい?」
「あの、こちらに櫻井蓮蒔さんという方が居ると聞いてやってきたのですが…」
「まさか…晴香?」
「蓮蒔?」
「ああ、そうだよ…良く此処が分かったね」
「…ずっと探していましたから」
「ああ、私もだよ」
その奇跡に私は驚いた。
私達はお互いの再会を喜び、大いに語らった。
「なぁ、晴香」
「はい?」
「お互い年老いたな」
「お互い様だね」
「お互い家庭を持つ身か」
「時というのは恐ろしいものだねぇ、蓮蒔」
「ああ、全くだ…」
─
雨が止んだ。
僕はもう一度晴香と会えた。
「行こうか」
「うん、あのさ蓮蒔」
「どうした?」
「今日はピンク色だよ」
「何お言い出すかと思えば馬鹿かお前は!」
思い出の二人はまた歩き出した。
─
私の想像の中で…だけどな。
もう二人で恋愛は出来ない。お互い、家庭を持つ身なのだから。
「妻を愛しているからな!」
「お熱いことで」
「晴香も、夫を愛してるんだろ?」
「勿論!」
語らいは妻が帰ってきてもずっと続いていた。妻も交えて…。
昔の私を色々と暴露されて恥ずかしかった。