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貝紅  作者: 佐野 羊
1/1

貝紅


“あちら様へ行かれてはなりません”


そのように教わりましたので、私はその言の葉をきちんと守り、こちらへ参りました。


“こちらではお受けいたしかねます”


今度は別の方より、そのように断られてしまいました。

どうやら私は、正しい方向へ向かえていなかったようです。


あちらでなく、こちらでもない方向に爪先を揃えて向かわせまして、私は姿勢を正しました。


襟をただすという美しい言葉通り姿勢も衣服も美しく整えまして、こちらを去りました。



“ご用件を、承ります”


爪先の方向へ進んで行きますと、少し重みのある足音と共に、そのような声が後方より聞こえてまいりました。


正直に申し上げますと、向かうまでもなく辿りついてしまった爪先の先に私はいささか戸惑いを覚え、そして足を止めてしまいました。


あちらでなく、こちらでもない方向には何があったのか気になりました。そうは申しましても、先の方に背を向け続けるのも失礼かと思い、ゆるりと向き直りました。


私より遥かに目線の高いそちらの方は、長い間駆け続けてこちらへ来られたようで、常とは異なり動きのある佇まいをされていました。




幾許か時計の早い針が動きまして、私は心を決めました。


歩くたび、左腰にてとんとんと揺れていた小さな籠の蓋をそっと捲りあげまして、細々とした小物を乱すこと無く、目的のものを取り出しました。


籠の内側はほんの少しささくれており、取り出す際にはごく小さなささくれが私の左の甲を撫であげました。それは痛みと呼ぶものでもありませんでしたので、私は甲に残されましたささやかな白い線をちらりと眺めるにとどめ、先ほどの声の方に向き直りました。


私は掌にすっぽりと収まりますそれを、そっと差し出しました。





花鳥画の描かれた蛤は、それはもう美しくありました。


内側に塗られた紅は、たった一度擦られた跡が見られるのみで、あとは艶々と紅く朱くしっとりと輝いておりました。



はじめてそれを見つけた時は、何よりも先にその美しさに心を奪われ、ただの一度でもこの紅をさしてみたいと、そのように思いました。


ただ一筋の擦り跡の意味を知ってしまったあと、わたくしは紅もひかれぬ口をかみしめました。




「こちらの貝紅を、元の主にお渡しください」


声の方は私をじっと見た後に、ゆっくりと貝紅へ視線を移しました。


私は姿勢を正したまま、ゆっくりと腰を折り爪先を見つめました。


これで本当の本当に終わりなのだと、

向かう先の無くなった爪先を長い間見つめるばかりの私は、

胸の内より溢れてくる何かに、じっと耐えました。





貝紅 貝紅の回

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