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とあるエンジニアの備忘Log ― 新人SE、水瀬のデスマーチ記録 ―  作者: no name


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ここからが本番

 藤堂に指摘された異常系の抜けを、水瀬は一つずつ埋めていった。

 正常系の流れは見えていた。

 だからこそ、その横にある“起きるかもしれないずれ”を足していく作業は、前よりも少し具体的だった。


 入力順の違い。

 前提データの不足。

 画面から再現できる異常系と、結合試験では扱わないケースの切り分け。

 マトリクスという考え方も借りながら、水瀬は試験仕様書の抜けを少しずつ埋めていく。


 数日かかった。

 思ったより長かった。

 けれど、そのぶん仕様書の形はだんだん整っていった。

 夕方、ひと通り見直した資料を藤堂に見せる。

 藤堂は画面を上から順に追い、途中で二、三箇所だけ確認を入れ、それから小さく頷いた。

「うん。これで始めようか」

 その一言に、水瀬は胸の奥で少しだけ息を吐いた。

 結合試験が始まった。

 最初のうちは、思っていたより順調に見えた。

 少なくとも、水瀬にはそう見えていた。

 画面から入力した値が次の画面へ渡る。確認画面へ進む。保存される。夜間バッチで整理された結果が、翌朝の一覧に反映される。

 単体試験のときみたいに、画面の中だけを見ていればいいわけではない。

 前の画面、次の画面、バッチ、反映後の見え方。確認する範囲は広かったが、それでも“流れとして通る”という感覚はたしかにあった。

 水瀬は、結合試験仕様書を見ながら一つずつ確認を進める。


 前提データ。

 入力条件。

 期待結果。

 バッチ後の状態。


 正常系を中心に、まずは太い導線を潰していく。

 単体試験のときのように、途中で細かい戻しはある。

 けれど、何が違っていて、どこを見直せばいいかは前よりずっと見えるようになっていた。

 昼過ぎ、確認をひと区切りしたところで、藤堂が水瀬の画面を見ながら言った。

「うん、ここまでは通ってるね」

「はい」

「細かい戻しはまだあると思うけど、少なくとも流れ自体は見えてきたかな」

 その言葉に、水瀬は小さく息を吐いた。

 少しだけ安心しかけていたのだと思う。

 もちろん、まだ終わりではない。

 それでも、つながらないのではなく、ちゃんとつながっているものがある。それだけで、少しだけ現場の空気も前へ進んだように見えた。

 だが、その空気を壊したのは黒川だった。

 結合試験が少しずつ進む横で、黒川は別の確認も進めていた。

 通常の導線確認とは別に、想定件数に近いデータ量での表示速度や応答時間を見ているらしかった。

 水瀬が画面の確認結果を仕様書へ記録していたときだった。

 少し離れた席で、黒川が低い声を漏らす。

「……あれ?」

 その一言に、水瀬は思わず顔を上げた。

 黒川は画面を睨んだまま、もう一度マウスを動かしている。眉間に皺が寄っていた。

「どうした?」

 村瀬が少し離れた席から声をかける。

 黒川はすぐには答えなかった。

 画面を見て、何かを再実行して、それからようやく言った。

「一回、負荷かけてみたんですけど」

「うん」

「これ、かなり遅いです」

 空気が少し変わった。

 遅い。

 たったそれだけの言葉なのに、執務室の温度が一段落ちた気がした。

 村瀬が席を立って黒川のところへ向かう。

 高橋部長もその声に反応して近づいてくる。

 水瀬も、思わず自分の席から少し身を乗り出した。

「どれくらい?」

 村瀬が聞く。

「普通の件数だと、まあ見れなくはないです」

 黒川はログと画面を見比べながら答えた。

「でも、本番想定の件数に近づけると、一覧表示がかなり遅くなります。これ、使う人かなりきついと思います」

「タイムアウトまではいってないか?」

 高橋が聞く。

「まだそこまではいってないです。でも、実用に耐えるかって言われると、かなり怪しいです」

 実用に耐えない。

 その言葉は、水瀬の胸に重く落ちた。

 結合として通るかどうかとは別の話だ。

 機能としては動いている。

 でも、現場で使う速さではない。

 それでは意味がない。

 黒川は続けた。

「特定条件のときだけ極端に重いです。たぶん一覧側の取得件数と、バッチ後の整形データの見せ方が噛み合ってない」

「一覧か……」

 村瀬が小さく呟く。

 そのタイミングで、結城も席を立ってこちらへ来た。

 黒川の画面と、自分の持っている資料を見比べるようにして、静かに口を開く。

「バッチ側の出し方も一回見直した方がいいかもしれません」

「SQLか?」

 村瀬が聞く。

「たぶん、そこが一番怪しいです」

 結城は落ち着いた声で答える。

「条件によって拾う範囲が広すぎるかもしれません。あと、整理後の持ち方も少し無駄がある気がします」

 水瀬はそのやり取りを聞きながら、嫌な予感がしていた。

 一覧表示が遅い。

 その一覧は、水瀬が作った画面の先で使われている。

 しかも、表示している内容は結城のバッチで整形された結果だ。

 どちらか片方だけを直して終わる話では、たぶんない。

 結城は黒川の出したログを見ながら、さらに言った。

「SQLの条件、見直します」

「それで済みそうか?」

 高橋が聞く。

 結城は少しだけ考えてから、首を横に振った。

「いえ、一部機能のロジックもやり直しが要ると思います」

「テーブルは?」

 村瀬の問いに、結城は短く答えた。

「修正した方がいいです。今の持ち方だと、後ろがきついです」

 そこで、村瀬が一瞬だけ目を閉じた。

 大きく感情を出したわけではない。

 でも、その短い沈黙だけで十分だった。

 重い。

 話が、予想していたより一段深いところまで入っている。

「影響範囲、どこまで出そうだ」

 高橋が聞く。

 結城はすぐには答えず、少しだけ視線を落とした。

 それから、水瀬の画面の方を一瞬見た。

「画面側も戻ると思います」

 その一言で、水瀬の喉の奥が少し固くなった。

「やっぱり……」

 思わず小さく漏れる。

 村瀬が振り向いた。

「水瀬、今の一覧ってバッチ後の結果見てるよな」

「はい」

「出し方変わるなら、画面も調整要るだろう」

 分かっていた。

 でも、実際に言葉にされると重さが違った。

 せっかく単体試験まで終わらせた。

 結合試験も回り始めていた。

 少しずつ終わりへ近づいている気がしていた。

 その手前で、また戻る。

 だが、不思議と前みたいな絶望ではなかった。

 しんどいとは思う。正直、かなりしんどい。

 けれど今は、どこがつながっていて、何が影響を受けるのかが分かる。

 水瀬は自分の画面を開き直した。

 まずは、どこがどう変わるのかを知らなければならない。


 一覧に渡ってくる項目なのか。

 並び順なのか。

 取得条件そのものなのか。


 水瀬は結城の席へ向かった。

「結城さん、すみません」

「うん?」

「バッチ側、どんなふうに変わりそうですか」

 結城は自分の画面を少しだけこちらへ向けた。

 修正予定のSQLと、テーブル定義が開かれている。

「まだ確定ではないけど、まず抽出条件が少し変わると思う」

「抽出条件……」

「あと、整理後に持たせる項目も一部見直したい。今のままだと一覧側で余計に見に行く形になってるから」

「……そういうことか」

 水瀬は画面を見ながら、その意味を頭の中で追った。

 条件が変わるなら、一覧に出る件数が変わるかもしれない。

 持たせる項目が変わるなら、画面側の取得や表示の仕方も見直しがいる。

「並び順にも影響出そうですか」

「そこも少し出るかもしれない」

 結城は落ち着いた声で答える。

「たぶん、表示側で見てる前提が今のままだとズレると思う」

「ありがとうございます。助かります」


 水瀬はそう言って席へ戻ると、そのまま藤堂に声をかけた。

「藤堂さん」

「ん?」

「結城さんに確認したんですけど、抽出条件と整理後に持たせる項目が変わりそうです。並び順も少し影響出るかもしれないみたいで」

 藤堂はすぐに水瀬の画面を覗いた。

「じゃあ、まず取得条件かな」

「はい」

「あと、表示件数と並び順。そこが変わると、見え方が一番変わるから」

「分かりました」

 藤堂はそこで、水瀬の顔を見た。

「今なら、どこ見るかは分かるよね」

「……はい」

 その問いに、水瀬ははっきり頷いた。

 前なら、ここでまた頭が真っ白になっていたかもしれない。

 でも今は違う。

 全部は無理でも、どこから追えばいいかは分かる。

 結城はすでにSQLの洗い直しに入っていた。

 黒川は負荷試験の条件を変えながら、どこで急激に遅くなるかを見続けている。

 村瀬と高橋は、修正の影響範囲と残り日程を睨みながら、低い声で何かを話していた。

 執務室の空気が変わっていく。

 少し前の張りつめ方とは違う。

 もっと具体的で、もっと切迫していて、でも妙に静かだった。

 誰かが大声を出すわけでもない。

 焦って走り回る人もいない。

 それなのに、全員が同じ一点に向かって息を詰めている感じがあった。

 高橋が低い声で言う。

「あと十日か」

 村瀬がすぐに返す。

「はい」

「厳しいけど、間に合うようにこっちも全力でフォローするしかないな」

「そうですね」

 その会話を、水瀬は画面を見たまま聞いていた。


 あと十日。

 リリースまで、最後の十日。

 結合試験で流れを見て、負荷で炙り出されて、そこから修正に戻る。

 終わりが見えたと思った場所から、また作り直しが始まる。

 でも、たぶんそれが最後の山なのだ。

 水瀬はキーボードへ手を置いた。

 結合試験は、つながることを確かめる工程ではなかった。

 つながらない現実をひとつずつ見つけて、潰していく工程だった。

 帰れない最後のデスマが、そこから静かに始まっていった。



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