ゴールデンハムスター
◆第1幕
金と朱の照明が、ゆっくりと幕を焼くように広がっていく。
客席のざわめきが、まるで神殿の祈りのように遠のいていった。
舞台中央に、ギルガメッシュが立っている。
黒地に髪と同じ金糸の刺繍が施された王の外套。
その立ち姿──わずかな重心の傾き、指先の静止──だけで、空気の温度が変わった。
照明が彼の輪郭を焼き出すと、観客の息が止まる。
誰もが悟っていた。これは演技ではない。
ただ立っているだけで、神話が始まっていた。
彼の瞳には、まだ“人間の色”が残っていた。
それでも、そこに映るものはすでに人の界ではなかった。
「我が欲望こそ、秩序だ」
その1声が劇場の空気を割る。
──だが真に観客の心を支配したのは、その前後の沈黙だった。
彼が口を開くまでのわずかな“間”に、千の観客が呼吸を止め、彼が言葉を閉じた瞬間、音響も照明も存在を忘れた。
空気そのものが、彼の言葉を待っていた。
彼は神々を睨み上げ、笑う。
「神々は我に跪け。 我こそが、人の形をした神である。」
視線が、ゆっくりと動く。
舞台上の戦士たちを見下ろすだけで、相手の肩がわずかに震える。
さらにその眼差しが客席に流れた瞬間、誰も彼と目を合わせられなかった。
神々家のノートにはこう記される。
《審判開始》
他の役者たちが砂塵を踏み、衣を翻し、声を張る中、煌──ギルガメッシュ──だけが、微動だにしない。
それが“王の余裕”として、舞台の中心に凍てつく。
スタッフの1人が思わず呟く。
「……彼が動かないと、舞台が止まる」
そのとき、背景のスクリーンに赤黒い太陽が浮かぶ。
照明スタッフが汗をかきながらプログラムを操るが、誰も気づいていなかった──その太陽は、予定されていない色を帯びていた。
舞台下手から、砂塵のような音とともに戦士達が現れる。
その瞳がギルガメッシュを射抜いた瞬間、客席の空気が震えた。
「王よ、民を苦しめて何を得る」
ギルガメッシュは、彫刻のように整った顔を微に歪め笑む。
「支配とは、愛だ。愛されることを恐れる者に、王の資格はない」
そして1歩、2歩。
光の中で、剣を抜く動作にわずかな呼吸の間を置く。
その“間”すら、観客の心臓を握る。
光が跳ね、影が踊る。
刹那、照明が一瞬だけ制御を失った。
舞台上に予定外の金の閃光が走る。
誰も気づかないうちに、1人の女性が舞台袖で身をすくめている。
イシュタル役の女──美沙だ。
彼女は袖の暗がりから、王の姿を見つめながら呟く。
「……本当に、彼、なの?」
その声はマイクに拾われず、ただ空気の中に溶けた。
圧に呑まれていた戦士たちが我に返り、一斉に叫ぶ。
「この王は、秩序ではなく腐敗だ!」
「我らは、神の遣いの奴隷ではない!」
「圧政をやめろ、干渉するな!」
観客はざわつく。
戦士たちが、本物の弓を構える。
矢が放たれる。
1本、2本、10本……。
煌は遊ぶような軽いステップで、すべてを避ける。
動きが見えない。
観客が息を呑む。
照明が金から黒へ。
神々の記録帳が《王の肉体、神話化》と刻む。
煌が静かに言う。
「我が神話に、死は届かぬ。」
戦士たちが震える。
誰かが呟く。
「……この王は、もう人間じゃない」
ギルガメッシュが再び剣を掲げる。
「この国の乙女は、我の花嫁だ。神が定めぬなら、我が定める」
観客席の奥で、誰かが小さく笑った。
けれどその笑いも、すぐに飲み込まれる。
照明が金から赤へ、そして**炎の色**へと変わった。
観客にはそれが演出だと思えた。
だが、舞台裏のモニターは一瞬ブラックアウトしていた。
スタッフが「停電か?」と囁く間もなく、ギルガメッシュが最後の台詞を吐き出す。
「我は神を越える王。
この世界に、記録など要らぬ。」
──幕が、静かに下りた。
観客は拍手を忘れていた。
ただ、熱に浮かされたように沈黙している。
それが“演技”なのか“召喚”なのか、誰にもわからなかった。
◆幕間
舞台袖に戻った煌は、荒く息をついていた。
背中に汗が滲み、衣装の金糸が肌に貼りつく。
顔を覆う化粧の下で、指先がかすかに震えている。
「……完璧だろ、今日の俺」
スタッフの1人が笑って頷いた。
だが、彼の背後──鏡の中では、ギルガメッシュがまだ笑っていた。
照明の熱が、まだ皮膚に残っている。
煌は楽屋のソファに身を投げ、無言で天井を見つめた。
スタッフが水のペットボトルを差し出すが、彼は受け取らずスマホを手に取って噛んだ。
「……は?」
隣の共演者が笑い声を漏らす。
「なにそれ、癖? それともギルガメッシュの余韻?」
煌は答えない。
スマホの角を噛みながら、鏡をじっと見ていた。
鏡の中の自分が、一瞬だけ、王冠をかぶっていた。
「俺が主役だろ。俺を怒らせるな」
その圧は、舞台の上で台詞を吐いた時と同じだった。
スタッフが一瞬、動きを止める。
だが、すぐに笑って流した。
「今日の演技、マジで神がかってたよ。SNSでもバズってる」
煌はスマホを見下ろす。
画面には、さっき投稿した写真──ギルガメッシュの衣装で剣を構える自分の姿。
だが、その投稿は"消えて"いた。
「……あれ? 消したっけ?」
スタッフが覗き込む。
「バグじゃない? 最近、アプリ調子悪いし」
煌は曖昧に笑い、スマホをポケットに戻した。
だがその背後で、鏡の中の男がまた微笑む。
「それは記録に残らない」と。
例えばコンビニでの停電。
煌が商品を落とした瞬間、店内の電灯が一斉に消える。
防犯カメラが停止し、記録データは途絶した。
「なんか変だな……」と店員が呟く。
だが、それは偶然ではない。
シャマシュの加護が、記録を拒んでいた。
SNSでも同じことが起きる。
炎上しかけた投稿が、なぜか消える。
稽古場での暴言を録音した音声が、ノイズ化して再生不能になる。
スタッフは笑って「バグかな?」と言う。
だが、神々は知っている。
加護が腐敗を覆い隠す盾になっていることを。
シャマシュは、ギルガメッシュを溺愛していた。
同時に、彼を“失敗作”として送り出した責任も感じていた。
ニンスンとの契約もある。
だから見捨てることはできない。
故に、記録を保留し続ける。
批判する神々にシャマシュは「彼が自浄を選ぶまで、記録は開始しない」と返す。
光がを煌を守り、同時に、闇を温存していた。
それが、神の愛の形だった。
報道陣のフラッシュが、金色の閃光となって乱れ飛ぶ。
CMの記者会見。
煌は白いスーツをまとい、白いステージに立っていた。
金髪は一糸の乱れもなく、溌剌とした笑顔はアイドル雑誌から出てきたかのように完璧。
「皆さんのおかげで、今日も舞台に立てました」
柔らかくマイクを握り、声に“王”の余裕を滲ませる。
記者が問いを投げる。
「理想の恋愛は?」
煌は少し間を置き、微笑んだ。
「相手を神様みたいに、大事にしたいですね」
その瞬間、会場がざわめきに包まれる。
熱心なファンの1人が涙をこぼした。
「王は優しい……!」
誰かがそう呟き、拍手が波のように広がる。
だが、煌の瞳は冷えていた。
“神々の記録帳”が静かに開かれていた。
ある夜、六本木のバー。
赤いライトがグラスを染め、流れるジャズが遠くで滲む。
ミサがバーのドアを開けた瞬間、空気が変わった。
浅黒い肌。
大きな鼻。
鋭い輪郭──まるで神殿の彫像が歩いてきたようだった。
「あの顔は神が選んだ器だ」
煌がそう呟いた瞬間、照明が金色に跳ねた。
だが彼女が口を開いたとき、神話はすぐに日常に崩れた。
「マジでさぁ! なんで私のセリフ減ってんの!? 意味わかんなくない!?」
と、コウの隣に腰を下ろした。
「お前、騒がしい。でも顔が美しすぎる」
美沙は、唇の端を上げた。
「それなら、ただ"美しい”でよろしい」
言葉の軽さが、どこか神託のように響いた。
「……お前、本当にイシュタルの器か?」
「は? なにそれ。てか、私が主役でもよくない?」
彼女は、どこでも爆音で叫ぶ。
台本に文句。
演出に文句。
共演者にも容赦なく文句。
だが──その顔が、あまりにも神話的だったため誰も逆らえなかった。
美沙がカクテルを飲み干し、声を上げた。
「私のこと、好きなら好きって言えよ!」
煌は、氷の溶ける音の中で、静かに答えた。
「俺の神話に、お前を入れる」
その言葉に、美沙は一瞬だけ黙り込む。
グラスを置き、低く問う。
「ねえ、本当なの? 恋人は“神様みたいに大事にしたい”って。あの会見で言ってたやつ」
煌は笑った。
光の中で、彼の瞳が金に濁る。
「こんな夜中に面白い冗談を言う。神は俺だ」
美沙も、笑う。
「だよね」
その瞬間、店内の照明が赤黒く揺れた。
ふたりの魂が交差した。
カルマが再び接続される。
煌は呟く。
「お前の顔が、俺を救うかもしれない」
「あんた26にもなって、まだ顔で女選らんでんの。ダサ」
その笑い声が、金色の夜を震わせた。
六本木の高層ラウンジ。
窓一面の夜景が、まるでエデンの園のように広がっていた。
煌は深いソファに身を沈め、琥珀色のグラスを軽く揺らす。
隣では、流生が足を組み、静かに氷を鳴らした。
「今日も完璧だったな、舞台」
「当然だろ。俺が主役だ」
短い会話に、妙な重みがあった。
まるで王と副官の対話。
この世界の支配権を、当然のように握っている者たちの声。
しかも、この2人はまるで対として創られたように筋肉の多い肩も彫りの深い整った顔も同じだった。
違いと言ったら、髪色が金と銀だということくらい。
そこへ、香水の濃い風が流れた。
ガーシー系のアテンダーが姿を見せる。
金のネックレス、過剰な笑顔。
業界の裏側を歩き慣れた者だけが持つ、あの“余裕の影”を纏って。
「お待たせしました。今日のラインナップ、最高です」
タブレットを差し出すと、煌は一瞥もせず言い放つ。
「メソポタミア顔以外、興味ない。性格は従順がいい」
「わかってます。
『目が深くて、鼻筋が神話。輪郭が王族。あと、魂が古代』でしょ?」
その言葉の冗談めかした響きとは裏腹に、空気がどこか張り詰める。
煌の瞳が、冗談を許さない光を宿していたからだ。
「この子は?」
煌は画面を覗き、首を横に振る。
「違う。これはギリシャ。俺が欲しいのはウルク」
その瞬間、流生が吹き出して笑い、グラスの氷が1つ音を立てて割れた。
そしてようやく、1人の女性が選ばれる。
浅黒い肌、深い瞳。
神殿の壁画から抜け出したような輪郭を持つ女。
煌はゆっくりと息を吸い、微笑んだ。
「この顔なら、俺の神話に入れる」
女が隣の席に着く。
煌は何も言わず、ただ見つめた。
彼女が「初めまして」と口を開いた瞬間、照明が一瞬、金色に揺れた。
ルイが低く呟く。
「……また始まったな」
煌はその声を無視して、女を見つめ続ける。
「お前の顔は、俺の神話に必要だ」
女は微笑み、挑発するように首を傾げた。
「それ、口説き文句?」
煌は首を振り、ムッと唇を寄せる。
「違う。召喚文句だ」
彼は彼女の肩に腕を回すと耳元で囁いた。
「俺の初夜権、使っていい?」
流生がグラスを置いた。
「お前、それキモ過ぎるよ。さすがに引いた」
煌は口角を上げる。
「ふん。俺の神話は、現実にも通用する」
その笑みの奥で、空気が少しだけ軋んだ。
遠い場所で、神々が記録している。
《傲慢、再発動》
◆第2幕
暗転ののち、金色の砂が降る。
その中心に、エンキドゥがいた。
長い髪をほどき、獣のような裸足で舞台を踏む。
彼の背後には、霞のように揺れる布。
そこから現れたのは──女神に仕える娼婦シャムハト。
彼女は微笑みながら近づく。
その指先が、野の男の頬をなぞる。
彼の呼吸が荒れ、瞳に初めて“人間の色”が宿る。
照明が淡く変わり、音楽が静かに波打つ。
──7日6夜、ふたりは舞い続けた。
それは交わりであり、儀式でもあった。
荒野の獣が、人としての最初の律を知る時間。
触れ合うたび、彼の体から野生が剥がれ落ち、代わりに言葉と理性が宿っていく。
やがて静寂。
衣の裾を整えながら、シャムハトが微笑んだ。
「人は、愛と秩序で生きているの。
欲望だけでは、王にはなれない。」
エンキドゥはその言葉を胸に刻んだ。
初めて、心に“痛み”が生まれた。
「王よ……初夜権を振りかざすな。
それは民の魂を踏みにじる行為だ」
黄金の照明が落ちる。
観客席の息が止まる。
舞台上には、荒野の風と砂の匂い。
中央に立つエンキドゥの肌が、獣のように光を反射していた。
シャムハトの言葉がまだ胸に残る。
「人間は、愛と秩序で生きている。欲望だけでは王にはなれない」
その言葉を反芻しながら、エンキドゥは拳を握った。
「王よ。初夜権を振りかざすな。それは、民の魂を踏みにじる行為だ!」
金の扉が開く音が響く。
ギルガメッシュが現れた。
黒と金の外套、王冠の下で赤い瞳が微かに笑う。
「我が欲望こそ、秩序だ」
その声は地鳴りのように響き、舞台の幕を震わせた。
エンキドゥの咆哮が重なる。
「ならば俺が、その秩序を壊す!」
舞台の床を蹴った瞬間、エンキドゥが宙を舞う。
梁や階段を使い、壁面を蹴って回転しながらギルガメッシュに斬りかかる。
その動きは、まるで舞台全体を使った立体迷路を駆けるようだ。
ギルガメッシュも負けてはいない。
天井から吊るされた旗を掴み、回転しながら剣を振るう。
その勢いで舞台上の砂埃が舞い、観客席に光の粒となって降り注ぐ。
2人は舞台装置を駆使してぶつかり合う。
階段の手すりを滑るようにして走り、柱を蹴って高く跳躍。
剣と拳が交差するたび、照明がその軌跡を追い、赤と金の光の帯が宙に描かれる。
ギルガメッシュが舞台中央の噴水を利用し、反動で宙を飛び、エンキドゥの肩をかすめる。
エンキドゥは床の傾斜を利用して滑り、逆にギルガメッシュの背後に回る。
まるで人間離れした舞踏と格闘技の融合だ。
観客の目では2人の動きを追えない。
刹那、ギルガメッシュの剣が光の筋となって舞い、エンキドゥの拳が空気を裂く。
床や柱、階段の角度を完璧に計算した動きで、互いに一瞬たりとも止まらない。
そして、舞台装置の吊り布を使った一撃。
エンキドゥは布に足を絡め、空中で三回転しながらギルガメッシュに突進。
ギルガメッシュは片手で剣を受け止めつつ、もう片方の手で柱を蹴り、体勢を立て直す。
舞台全体が2人の身体能力のキャンバスになる。
光と影、砂と布、階段と柱──すべてが戦いの一部として踊る。
衝突の瞬間、二人の視線が交わる。
ギルガメッシュの胸に手を置くエンキドゥ。
「お前の中に、人間が残っている」
ギルガメッシュの眼が揺れ、剣を下ろす。
その瞬間、照明が赤から金に変わる。
「……お前、俺を止めるために生まれたのか?」
「でも、止めるだけじゃない」
エンキドゥの瞳に、炎のような優しさが灯る。
「俺は、お前の友になるために生まれた」
沈黙。
照明が静かに落ちてゆく。
砂煙の中で、ふたりの影だけが残った。
舞台は、もはや現代の劇場ではなかった。
そこは神話そのものの、再演の場だった。
静寂が舞台を包む。
照明がゆっくりと金色に染まり、砂の粒が光を帯びて降り注ぐ。
神々の記録帳が、その瞬間を刻む。
《友情の誕生》
観客席から、嗚咽と拍手が溶け合う。
幕が降りても、誰1人として立ち上がれなかった。
ただそこに、神話が実在した。
◆幕間
舞台が終わった夜。煌は、実家の玄関を開けた。
久しぶりの空気。柔軟剤の匂い。
そして、聞き慣れない男の笑い声。
リビングの奥で、母が笑っていた。
隣には見知らぬ中年の男。
穏やかな声、少し古い柄のシャツ、そして控えめな笑顔。
煌の顔が、わずかに曇る。
「……誰だよ、アイツ」
母は一瞬ためらってから、静かに答えた。
「私の夫よ」
その言葉が、ガラスのように煌の胸で割れた。
「俺の神話に、余計な男いらない」
母はゆっくり立ち上がり、冷ややかに言う。
「神話? あんた、ただの息子でしょ」
空気がきしむ。
言い合いが始まった。
煌は、再婚相手の趣味、服装、話し方、すべてに文句をつけた。
「俺の母親にふさわしくない」
母の声が鋭くなる。
「いい加減にして! あんたも成人して何年も経ってるんだから、親の生活にまで口出すんじゃない!」
その言葉に、煌は一瞬言葉を失う。
手の中のスマホが冷たく感じた。
「……俺は、お前のこと、ずっと守ってきたつもりだった」
母は涙を浮かべながら言った。
「それは、守ってたんじゃなくて、縛ってたのよ」
沈黙。
遠くで時計の針が進む音だけが響く。
「……俺がいないと、ダメなんじゃないかって思ってた」
「私は、あんたの神話の登場人物じゃない」
その言葉は、舞台の台詞よりも深く刺さった。
煌の世界に、一瞬だけ暗転が訪れる。
やがて母が静かに言った。
「でもね、あんたが舞台で輝いてるの、誇りに思ってるよ」
煌は目を伏せ、かすかに笑う。
「……俺は、マザコンなのか?」
母は微笑んだ。
「うん。でも、それもあんたの一部でしょ。仕方ないよね」
ふたりはソファに並んで座り直した。
再婚相手の男──史郎は、気を利かせて席を外す。
リビングには、静かな夜の音だけが残った。
煌は母の手を握る。
「俺の神話に、お前はずっといる。
でも、もう“王の母”じゃなく“母”でいい」
母はその手を包み、ゆっくりと頷いた。
「それなら、コウも“王”じゃなくて“息子”でいられる」
◆第2幕_2
舞台が暗転し、黒檀の森が闇に沈む。
遠くでフンババの咆哮が轟き、枝葉が揺れ、観客の鼓膜まで震える。
「我を育てた神よ、なぜ沈黙する!」
その声は山々の記憶を揺らすようだ。
ギルガメッシュは剣を握り、エンキドゥは背を預けるように並ぶ。二人の呼吸が重なった瞬間──舞台上に風が吹いた。
照明が一瞬にして8方向に分裂する。
森の静寂を破る音響は、“風のない森”から“神の息吹”へと変化。
8つの風が舞台を駆ける──シャマシュの加護だ。
だが、それはフンババに向けて吹いていた。
フンババは叫ぶ。
「シャマシュ!我はお前の子だぞ!」
しかし風は答えず、ただその足を止めるだけ。
観客は演出だと思い込み、息を呑む。
しかし舞台裏のモニターを覗くスタッフは囁く。
「風の演出……入れてないぞ」
神々の記録帳は、この瞬間を《加護の裏切り》として刻む。
天地が裂け、黒檀の森が炎に包まれ、風が逆巻く。
フンババの咆哮が森を揺るがすたび、木々が折れ、地面が裂ける。
ギルガメッシュは血と泥にまみれた腕で天を指す。剣を構え、声を震わせる。
「おまえは知らぬか、森の番人よ!
我が名が“刻まれる”ために、いくつの神が血を黙認したかを!」
剣が火花を散らす。雷鳴が応える。
「我は“神話を刻む者”だ。
神々は記録を望んだ。
ゆえに守護者より、英雄譚を残すことを選んだ!」
エンキドゥが前に出る。
彼は跳躍し、空中で片手で倒木を蹴り、逆手で剣を受け止める。
跳躍のたびに残像が生まれ、観客は息を呑む。
ギルガメッシュも連続バク転、片手跳躍、空中受けで応戦。
2人の動きは照明を追い越し、舞台の暗闇を切り裂く。
衝撃波が森を揺るがせ、観客席の子供たちが無意識に身をすくめる。
「おまえの役は“恐怖”だ、フンババ。
エンリルにより定められた、人々の怖れの象徴。
おまえが倒れねば、恐怖は永遠に生き残る」
剣が交差し、拳がぶつかる。
エンキドゥが跳躍し、空中で剣を振り下ろす。
火花と砂埃が舞い、観客の視線を釘付けにする。
ギルガメッシュは受け止め、片手で跳躍しながらフンババの腕をかわす。
「おまえの死は“克服”として記される。
シャマシュは風を送り──その記録を“神話”として正当化した!
神々の承認が要らぬなら、我ら2人で充分だったものを」
観客は身を乗り出し、スタッフは息をひそめ、煙と光の演出が戦闘を増幅する。
──フンババの体勢が崩れる。
ギルガメッシュとエンキドゥが息を合わせ、同時に渾身の一撃を叩き込む。
舞台中央に静寂が訪れ、金色の光が森を包む。
天地が静まり返り、血の雨が森を洗う。
「我らは神々の秩序を討った。
エンリルの守りも──すべては物語を完成させるため。」
ギルガメッシュは刃を掲げ、森の奥深く、神々の記録帳へと声を届ける。
「我が剣は加護を求めぬ。
ただ、“記録される”ことを望むのみ!」
風が止み、シャマシュの沈黙が戦いの終わりを告げる。
舞台上、ギルガメッシュとエンキドゥは立つ。記録の正当化を果たした英雄として。
照明は金から白、そして無色へと移ろい、神々の記録帳がこの場面を《加護の腐敗》として刻む。
スタッフは互いに目を見合わせ、戦慄と興奮が入り混じる。
煙と光の残滓が舞台上に漂い、黒檀の森はまるで生きていたかのように揺れている。
シャマシュは沈黙したまま、ただ太陽を昇らせる。
◆幕間
舞台が終わった後、志朗は静かな楽屋を訪れた。
鏡台の前で、煌はまだメイクを落とさず、光を跳ね返すように笑っている。
「どうだった? 俺の神話。」
その口ぶりは軽い。だが志朗の目には、別のものが映っていた。
舞台の上で煌が放った言葉や動きが、どこか異界の呼吸を孕んでいたのだ。
「これは、演技じゃない」
志朗は低く言った。
「君の魂が、何かを呼び出している」
煌は鼻で笑う。
「俺は主役だ。呼び出すくらい当然だろ」
だが、その笑みは一瞬で揺らぐ。
志朗の背後──そこに、記録の神・ナブーの気配が立ち上がっていた。
静電気のような圧力。空気が、頁をめくるように震える。
「でもね、主役が記録を壊し始めたら、神々は“浄化”じゃなくて“破壊”を選ぶ」
志朗の声が冷たく響く。
沈黙。
煌は視線を落とし、鏡越しに自分の顔を見た。
その瞳に宿るのは、舞台の照明よりもはるかに暗い影。
志朗は、ゆっくりと背を向けた。
母の再婚相手──彼はただの人間ではなかった。
“記録の守り人”として、神々の帳を見守る役割を持つ存在。
その血が、いま志朗の中で静かに警鐘を鳴らしていた。
「君が母を守りたいなら、まず自分の神話を、記録可能なものに戻しなさい」
その言葉が落ちた瞬間、楽屋の灯が一瞬だけ瞬く。
煌は何も言えず、ただ唇を噛んだ。
照明の残光が、彼の横顔を銀色に切り取る。
夜。
志朗の帰り道、街灯の下に久遠が立っていた。
霊能力者にして、“魂の波形”を読む者。
「待ってたわ」
ふたりは近くの喫茶店に入った。
カップの縁に紅茶の跡が残る。
窓の外では秋の光が、まるで記憶の残滓のように揺れていた。
久遠は、カップを指でなぞりながら言う。
「最初はね、違和感に目を閉ざしてたの。
間違いなくギルガメッシュなのに、決定的に違うところが1つあった」
志朗は頷く。
「知性、ですね」
久遠は微笑んだ。
「そう。彼って……おバカさんなのよ。元王とは思えないほどに。
でも、それって後天的なものかと思って、深く考えなかった」
窓辺の光が、記録帳の影をゆらす。
久遠の声が、少しだけ低くなった。
「違和感は、警鐘のように膨れていった。
劇場で久しぶりに彼を見たとき、ようやくわかったの。
彼はシャマシュの加護を引き出すために、成長を拒否していたんじゃない。
その段階は、もう遥か昔に過ぎていた」
「つまり……?」
久遠は紅茶を置き、静かに言った。
「魂が腐敗して、己と向き合う知能が残ってない状態。
魂の質と脳機能は比例するの。
だから器だけ立派で、中身が空っぽ」
志朗は瞼を閉じた。
「それでも、記録は続いている」
「記録はね、腐敗も含めて残すの。
でも、浄化の可能性が消えたら──それは“裁き”の準備よ」
久遠は、紅茶の残りを飲み干して言った。
「ギルガメッシュ叙事詩ってね、中二病がモラトリアムへ孵化した物語なのよ。
彼は“幸せインフレ病”――愛されても愛されても、もっとを求める。
世界最古のサイコパス。
名声と女に囚われて、何千年も傲慢さを捨てなかった」
志朗は黙って聞く。
久遠の声は、もう“記録の読み手”の響きを持っていた。
「だから今、彼はヱヴァンゲリヲンの初号機からラピュタの巨人兵になろうとしてる。
半神が兵器に変わるの。
浄化じゃなく、破壊の器――終幕の使者になりかけてる」
志朗が呟く。
「それでも、誰かが止められるとしたら……?」
久遠は目を細めた。
「友情が鍵よ。これは神話の再演だもの。
でも鍵は、腐った扉にはもう、入らないかもしれない」
「もう、手遅れなのか」
「本当は、まだたくさん時間があったはず。
でも彼が自尊心を高めるために神話の再演を始めたせいで──腐敗のスピードが、早まった。
神を冒涜する行為だわ。内省しないことを天に高らかと宣言するなど」
その言葉のあと、喫茶店に沈黙が満ちた。
外の光がゆっくりと傾き、記録帳の影がページを閉じていく。
誰もまだ知らない、神話の終わりが静かに始まっていた。
◆第2幕_3
舞台上、照明が金から紅へと移ろう。
音楽は重低音を帯び、まるで地の底から神々の鼓動が響くようだった。
ゆっくりと幕が開く。
イシュタルが登場する。
その姿は、美沙──イシュタルのカルマ。
褐色の肌は金砂を散らしたように光り、神殿の衣は風ではなく祈りで揺れていた。
目の奥には、1,000年を超えても消えぬ執着の炎。
彼女の魂は、愛という名の戦争そのものだった。
「ギルガメッシュ。私の夫になりなさい」
声は甘く、しかし押し潰すような圧力を帯びる。
観客席がざわめく。
ギルガメッシュは、舞台の中央で静かに笑った。
「俺の神話に、他者の愛はいらない」
その一言で、空気が割れる。
イシュタルの微笑みが、刃のように冷たく変わった。
「私を拒む者は、神々の怒りを買う」
「ならば、俺は神々すら拒む」
照明が赤黒く揺れた。
天井のスピーカーが軋み、舞台の床が細かく震える。
観客が息を呑む中、記録の帳が開く。
神々の筆が、その場面を《傲慢の選択》として刻みつけた。
「父アヌよ――天の牡牛を貸して。
この男を地に沈めるために。」
イシュタルの祈りが響いた瞬間── ギルガメッシュが舞台中央で動きを止める。
照明が彼を照らすが、彼は何も言わない。
沈黙。
観客が息を呑む。
煌の瞳が揺れる。
セリフが出てこない。
彼はゆっくりと膝をつき、 そして──舞台の床に頭を打ちつけ始めた。
「記憶が……出てこない……俺、誰だったっけ……」
美沙が舞台袖から駆け寄る。
「やめてよ! 舞台中だよ!」
煌は静かに笑う。
「止めるってことは、俺の神話を否定するってことだよ」
その笑顔は、照明より冷たい。
ミサは一歩後ずさる。
「もう無理。あんたには耐えられない!」
──その瞬間、天井が閃光に包まれる。
音響ではない。雷が、本当に落ちたようだった。
床下装置がうなり、舞台が震動する。
炎と煙の奥から、巨大な影が現れる。
──天の牡牛──
筋肉の塊。金属のような皮膚。目は溶岩のように燃え、蹄が一歩進むたび、地が砕ける。
その重みでセットが揺れ、舞台袖のスタッフが青ざめた。
ギルガメッシュとエンキドゥが並び立つ。
エンキドゥ、その動きはまるで獣。
全身の筋肉が細やかに波打ち、呼吸一つで空気が変わる。
「来たな、神の怒り」
「でも、俺たちは神話の主役だ」
──死闘が始まる。
ギルガメッシュが跳躍した。
照明が追いつかない。
彼の体は風を裂き、数メートルを一瞬で駆け抜ける。
足音が残像のように響き、剣が宙に光の軌跡を描く。
空中剣舞。
それはもはや“演技”ではなく、“戦闘の再現”だった。
エンキドゥは地を這う。
彼の指が床を掴むたび、木の板がきしむ。
体をバネのように反らせ、牡牛の脚を狙って突進。
動きが早すぎて、照明の制御システムが狂う。
照度が上がりすぎ、観客の瞳が焼かれるほどだった。
牡牛が咆哮した。
その声で空気が押し返される。
スタッフは祈るように舞台袖で叫んでいた。
「続けろ!止めるな!」
だが、誰もが知っていた。もはや、これは芝居ではない。
ギルガメッシュが跳躍。
剣が閃き、空気が裂ける。
エンキドゥが巨体の脚を掴み、ひねる。
関節が音を立てて軋む。
牡牛が体勢を崩した瞬間、ギルガメッシュが落下しながら──
首を斬った。
刃が入る。
爆ぜるような光。
紅から白金へ、照明が一気に反転する。
エンキドゥは両手で心臓を掴み取り、それを天に掲げた。
その瞬間、神々の記録帳が開く。
《神の怒りに勝利》と、金文字が刻まれた。
舞台の上で、イシュタルが叫ぶ。
その声は女神の悲鳴か、人間の嫉妬か。
「お前は、神々の秩序を壊した!」
ギルガメッシュは静かに振り返る。
白金の光が瞳に宿る。
「俺の神話は、秩序の外にある」
その一言とともに、天井の光が弾けた。
神々は帳の上で、新たな頁をめくる。
《カルマ拒否、再発動》
◆幕間
報道陣の声が、波のように押し寄せていた。
フラッシュが金色に弾け、マイクが何本も突き出される。
煌と流生は、神殿の階段下に立っていた。
背後にそびえる劇場は、まるで神々の記録庫だった。
白大理石風の外壁が夕陽を受けて金に染まり、バビロニア風の柱が天に向かって伸びている。
頂部には、スポンサーのロゴが神話の紋章のように刻まれていた。
それは神々の支援者であり、同時に現代の祭司でもあるかのようだった。
階段は広く、踏むたびに記録帳の頁をめくるような音が響く。
屋根は半円ドーム型。上空から見ると、ひとつの巨大な“目”を形作っている。
──神々がこの場を見下ろしている。
そんな錯覚を、誰もが抱かずにはいられなかった。
記者の声が壁に反響し、質問はまるで神々の審問のように響いた。
「ギルガメッシュ役、どう感じてますか!」
「舞台の反響、すごいですね!」
「次回作の予定は?」
流生は笑顔で応じる。
煌は、無表情のまま立っていた。
フラッシュの光が金色に跳ねる。
舞台は大好評。SNSは絶賛。
記者たちは次々と質問を投げかけ、熱気が階段を這い上がる。
「今回の舞台、まさに神がかってましたね!」
「ギルガメッシュの再現度、鳥肌でした!」
煌は芸能人として最低限の礼を守る。
口角だけを上げ、目はどこか空虚に。
「ありがとうございます。皆さんのおかげです」
流生が隣で微笑み、空気を整えるように受け答える。
「演出も素晴らしかったですが、やはり主演の存在感が圧倒的でしたよ」
煌はゆっくりと頷く。
「──神話は、演技じゃなくて回帰ですから」
その一言に、記者の一人が食いついた。
「ただ、先日の公演でセリフが飛んだ場面がありましたよね。
あれは演出ですか? それとも……何かトラブル?」
次の瞬間、煌の表情が抜け落ちた。
笑顔が消え瞳が冷え、口元がわずかに歪む。
芸能人の仮面が剥がれ、舞台袖の“誰か”が顔を覗かせる。
「……演出じゃない。俺に、台本なんて関係ない」
空気が凍りついた。
記者たちがざわつき、カメラのシャッター音が一斉に止まる。
夕陽が雲に隠れ、階段の金が血のような赤に変わる。
流生が慌てて割って入った。
「彼は役と深く融合してるんです。
セリフが飛んだんじゃなくて、神話が彼を通して語ったんですよ。
舞台は魂の場ですから。人間の言葉じゃ追いつかない瞬間もあるんです」
言葉は芝居の延長のようで、どこか祈りにも似ていた。
記者たちは曖昧に頷いた。
納得したような、しかし何かを悟ったような顔でメモを取る。
けれど──煌はもう、誰も見ていなかった。
視線の先には、光も影もなく、ただ一冊の“記録帳”だけがある。
その頁が、赤黒く揺らめく照明の中で静かに開いた。
《仮面の崩壊》
《庇護の選択》
テーブルに豪華な料理が並ぶ。
主役の楽屋は、劇場の中でもひときわ広く、壁際には花束とワインが並べられている。
だが煌は箸を持ったまま、料理を見つめていた。
手は動かない。
湯気の立つ皿の中で、ソースが静かに冷めていく。
「味覚あるか?」
流生が笑いながら言った。
「舞台は体力だぞ」
煌は無表情のまま、箸を戻す。
鏡に映る自分の顔が、誰か他人のように思えた。
流生は少し黙り、柔らかく続けた。
「……あの頃は違ったよな。
地方の子役だったお前が、初めて東京に来たとき。
母親の弁当、うまそうに食ってたじゃん」
煌の目が、わずかに揺れる。
沈黙が落ち、楽屋の照明が少しだけ暗く見えた。
ノックの音がして、扉が静かに開く。
黒いワンピースのミステリアスな女──クオンが現れる。
芸能関係者のように通され、無言で席に近づいた。
「久しぶりね」
クオンの声は低く、乾いていた。
「君が前の事務所にいた頃、私は“君はギルガメッシュの転生者だ”と告げた。……あれは、間違いだった」
煌が顔を上げる。
「間違い? 俺は選ばれた。神話の器として」
クオンは静かに首を振る。
「選ばれたのは、君の魂じゃなくて、君の顔だ。
その顔に、政治家とスポンサーが“神話”を貼り付けたんだよ」
流生の箸が止まる。
空気が変わった。
「君が移籍したのは、舞台のためじゃない。
舞台を“造る”ために、君が神話の契約に組み込まれた」
煌は笑う。
その笑いには、熱も響きもなかった。
「俺の神話に、政治なんて関係ない」
クオンの瞳がわずかに光る。
「でも、君の舞台は“政治的神殿”だ。
君が動くたび、スポンサーが動き、国が揺れる。
それはもう神話じゃなくて、神話の模倣だ」
沈黙。
煌はゆっくり立ち上がる。
背筋を伸ばしたまま、出口へ向かう。
「俺は模倣なんかじゃない」
その背に、クオンの声が落ちる。
「だが、君が信じている“神話”は、もう君を食い尽くしてる」
扉が閉まる。
照明が赤黒く揺れ、記録帳が刻む。
《拒絶の選択》
クオンは、静かにルイへ向き直った。
「君だけが、彼を止められる」
流生は顔を上げる。
「でも、ヤツは、もう……壊れてる」
クオンは一歩、近づく。
「友情は、ギルガメッシュを変える唯一の鍵だ。
けれど、その鍵は“使う意志”がなければ開かない」
その瞳は、まるで記録帳の頁をめくるように深く、古かった。
「君は、エンキドゥの生まれ変わりだ」
流生の目がかすかに揺れる。
「……そうだろうと思ってた。
アイツの相手、できるの俺だけだから」
クオンの声が淡く響く。
「半神も、分霊も、記憶にはロックがかかっている。
君は知らない。彼も知らない。
でも魂は覚えている。
君の魂は彼と共に長く輪廻を繰り返し、そして共に腐った。
カルマを、消化しなかったせいで。
君のパートナーは近い将来、とんでもない化物になる」
流生は息を呑む。
クオンは、最後に囁くように言った。
「もし君が死ぬなら、この世は終わる。
でも君が信じるなら──未来は、まだ変えられる」
静寂。
赤い照明が、ゆっくり白へと溶けていく。
実家の玄関を開ける。
柔軟剤の匂い。
古い壁掛け時計の音が、懐かしいほど正確だった。
母がキッチンに立ち、包丁の音が響いている。
テレビの音が遠くで混じる。
その全てが、彼には異国の神話のように遠かった。
コウは、少しだけ声を震わせて言う。
「……お前の料理が食べたい」
母は驚いたように振り返る。
「久しぶりに、甘えるじゃない」
コウは笑わなかった。
ただ、椅子に座る。
湯気が上がる。
白い光が、金色の幻を溶かしていく。
◆第2幕_4
舞台上、天の牡牛が倒れた。
金色の粉が宙に散り、照明がゆっくりと白金から灰色へと変わっていく。
観客の息が止まり、沈黙が劇場を満たす。
神々の記録帳が、風の音とともに――静かに、ひとりでにページをめくった。
その場面は、審判。
舞台上空に、天を象徴する光の環が現れる。
その中心から、シャマシュの加護がふたりを包む。
淡い金色の霧が揺れ、観客席にまで漂ってくるようだった。
だが、記録帳の声は冷たく響く。
「浄化の代償として、エンキドゥに死を賜る」
シャマシュが叫ぶ。
「彼はまだ語っていない! 友情は、記録を変えるはずだ!」
だが風は止まり、光は沈み、音が消える。
神々は沈黙した。
そして、死が、静かに確実に舞台へ降りてきた。
エンキドゥが、ギルガメッシュに向き直る。
その瞳は、もはや演技ではなかった。
“現実”を見ていた。
彼はアドリブで語り始める。
「──煌。お前は、もう戻れないのか?
それでも、俺はお前を信じたい」
観客席がざわつく。
ざわめきが、波のように広がる。
台本にない台詞。
だが、空気が一変した。
舞台袖で、演出家が立ち上がる。
「……これ、台本にないぞ」
スタッフがモニターを見つめながら呟く。
「でも、止められない。空間が……揺れてる」
エンキドゥが、一歩前へ踏み出す。
その声は震え、しかし真っ直ぐだった。
「なぜ俺たちは、4,000年も一緒にいた?
お前にとって、俺は何だ? 俺にとって、お前は友だ」
客席の一部が息を呑む。
涙を拭う音が混じる。
照明が金から白へと揺れ、記録帳が一瞬──“頁を戻そうとする”……。
その瞬間、舞台全体が淡く震えた。
観客には気づけないほどの小さな震動。
だが、神々は確かにそれを見ていた。
ギルガメッシュは、目を伏せた。
しばらくの沈黙。
そして、顔を上げた時には、もう“王”だった。
「俺は王だ。
信じるなど、弱者の言葉だ」
その声に、観客は凍りつく。
照明が、王の影を巨大に伸ばす。
舞台袖の音響スタッフが震えながら呟いた。
「……これ、演技じゃない。魂が拒絶してる」
エンキドゥが膝をつく。
胸を押さえ、かすれた息を吐いた。
「死を……賜ったか……」
ギルガメッシュが、思わず一歩近づく。
その顔に浮かぶのは、演技ではない“絶望”だった。
「なぜ……お前が……」
エンキドゥが微笑む。
その表情は、舞台上のどんな演出よりも美しかった。
「俺の死が、お前を記録に戻すなら……それでいい」
光が、彼の頬を撫でるように消えていく。
最後の息が、静かに空気へ溶けた。
照明が、完全に落ちた。
客席は沈黙。
誰も拍手しない。
誰も動かない。
ただ、記録帳の声だけが響く。
《友情、断絶。浄化、失敗》
幕は降りない。
光は戻らない。
そして観客の誰もが、知らずに立ち会ってしまった。
“神々の記録”の、更新の瞬間に。
◆幕間
楽屋は、まだ舞台の熱気を残していた。
煌が流生に掴みかかる。
「アドリブ入れるなって言っただろ!」
流生は押し返す。目に炎が宿っている。
「お前にとって、俺はその程度か!?」
拳がぶつかる。コウの頬に当たり、次の瞬間、彼も殴り返す。楽屋は一瞬で騒然となった。
スタッフが慌てて飛び込む。
「顔はやめろ! 商品だぞ!」
次の瞬間、ドアが開く。
マネージャーが立っていた。声は震えていた。
「煌さんの……お母様が、亡くなられました」
沈黙。
煌も流生も誰も動かない。
拳を握ったまま、鏡の破片の中で立ち尽くす。
雨が夜の車窓を叩きつける。
ワイパーのリズムだけが、静かに時を刻む。
流生が運転する傍ら煌は、助手席で項垂れていた。母の死を確認してきたばかりの帰り道だ。
流生は静かに言う。
「葬式の準備、手伝うよ」
煌はしばらく黙っていたが、ぽつりと語り始める。
「小さい頃、親が離婚して、金がなくなって……アイツは、いつもため息ばかりついてた」
拳を握りしめる。
「だから俺は、自分で最所の事務所に応募した。
俺は、アイツを守ってきたんだ」
拳が震える。怒りと悲しみが混ざり合う。
「なのに今になって、変な男がしゃしゃり出てきて……俺からアイツを奪っていった。
あの男が、俺のアイツを殺したんだ!」
叫びと同時に、コウは窓を殴る。ガラスが砕け、雨が車内に吹き込む。
ルイはため息をつく。呆れ、しかし優しさを隠さずに言う。
「好きなだけ泣けばいい。
手続きや準備は、なるべく俺がやっておく」
コウは何も言わない。
砕けた窓の向こうで、雨に濡れた世界をただ見つめていた。
◆第3幕
荒野に立つギルガメッシュは、砂に沈むように膝を折り、 その肩は震え、目は虚空を彷徨っていた。
死の恐怖が、王の魂を蝕んでいた。
照明がゆっくりと落ち、 音響は“風のない砂漠”を低く奏でる。
舞台全体が、時間のない空間に変わっていく。
サソリ人間が現れる。
背丈は異様に高く、衣装は黒曜石のように光を吸う。
声は舞台全体に響き渡る。
「なぜこんな所まで来たのか?
この先の山は暗闇に包まれ、入れば出ることは出来ない」
ギルガメッシュは答えない。
ただ、山の門へと歩み寄る。
舞台装置が動き、巨大な門が開く。
照明が完全に落ち、舞台は漆黒に包まれる。
観客の視界は奪われ、音響だけが“孤独の足音”を刻む。
暗闇の中、ギルガメッシュは歩き続ける。
舞台上では、回転床と映像投影によって、 果てしない旅路が視覚化される。
120kmの暗闇は、時間と空間の圧縮として演出される。
やがて、照明が一点に差し込む。
宝石とブドウで満ちた木々が浮かび上がる。
楽園のセットは、金属と光の反射で幻想的に構成されている。
ギルガメッシュは立ち尽くす。
その背に、神々の視線が降り注ぐ。
シャマシュが上空に現れる。
衣装は光の織物。
声は天井から降りてくるように響く。
「どこまで彷徨い歩くのか?
求める生命は見つからぬだろう」
ギルガメッシュは天を仰いだまま答えなかった。
砂浜のセットに切り替わる。
酒屋の女将シドゥリが現れる。
舞台の空気は一転し、静かな絶望に包まれる。
ギルガメッシュは旅の目的を語る。
だが、シドゥリは答える。
「求める生命を、あなたが見つけることは出来ないでしょう」
彼女は船頭ウルシャナビを紹介する。
ギルガメッシュは視線を上げ、次なる航路を思案する。
その瞬間──ギルガメッシュ、いや煌が演技を逸脱した。
共演者に向かって、本気で殴りかかった!
観客は一瞬、演出だと思った。
だが、舞台裏のスタッフは凍りつく。
照明は制御不能となり、舞台全体が赤黒く揺れる。
音響は暴走し、風のない砂漠が悲鳴のように響く。
セットが軋み、幕が揺れる。
神々の視線が集中する。
煌の動き、息遣い、怒りの波──
すべてが舞台を超え、観客の胸と神々の記録帳に刻まれる。
観客席では、誰かが悲鳴を上げた。
誰かが泣き出した。
誰かが立ち上がり、出口を探した。
舞台袖では、演出家が叫ぶ。
「止めろ! 照明を落とせ! 音響を切れ!」
だが、誰も動けなかった。
照明は赤黒く揺れ続け、 音響は“風のない砂漠”を繰り返す。
記録帳が刻む。
《器の逸脱》《神話の暴走》《命の侵食》
舞台上、照明が青白く揺れ、音響が“水のうねり”を低く奏でる。
中央には、巨大な船の骨組みが浮かび上がる。
それは木ではなく、記録の断片と古代文字で組まれた方舟。
柱の1つ1つが、粘土板の記憶を抱えている。
その周囲を、家族役・船大工・動物たちが静かに囲む。
呼吸さえも演出の一部。空気が、まだ嵐の前の静寂を保っている。
天井からナレーションが降り注ぐ。
声はウトナピシュティム。
古代の語り部が、頁をめくる指先のように静かで、どこか砂の匂いがする。
「神々の怒りが天を裂いた。
エアの助言により、私は船を造った。
家族と職人と、すべての命を乗せて」
その瞬間、照明が白熱化する。
舞台装置が爆発するように稼働し嵐の再現ではなく、嵐そのものが生まれる。
プロジェクションが天井まで拡張し、客席の壁に水紋が広がる。
観客の足元には冷たいミストが流れ、音響は重低音の渦を描く。
──劇場全体が、海底神殿に沈む錯覚。
照明が水面を模して揺れ、波紋の間から、古代の文様が一瞬だけ浮かび上がる。
その1つ1つが“命の記録”──神話のデータが解凍されていくように。
人々が倒れる。
だが、それは死ではない。
肉体が粘土のように溶け、金色の粒子へと変わる。
光となった人間たちが、水に還る。
「6日6晩、嵐は続いた。
人間は光となり、記録は水に溶けた」
その声に応えるように、劇場上空から金色の雨が降る。
一粒ごとに小さな文字が刻まれ、観客の髪や手の甲に触れては、すぐに消える。
まるで観客自身も、神話の頁の1部に書き込まれていくかのよう。
やがて嵐が止む。
照明が静かに金へと変わる。
船がゆっくりとニシル山の頂に着地し、その骨組みが、神々の記憶で編まれた金の器へと昇華する。
ウトナピシュティムが手をかざす。
舞台上空から、鳩・ツバメ・カラスの光の群れが放たれる。
鳥たちは客席上空を飛翔し、観客の頬に微かな風を残す。
──命の記録が、空を渡る演出。
「私は船を開け、命を解放した。
神々に生贄を捧げると、香りに誘われて彼らは集った」
舞台からほんのり香が焚かれ、観客の嗅覚までも神話に巻き込まれる。
天井から降りてくる神々は、光と煙の衣装をまとい、声を重ねて語る。
それは言葉ではなく、空間そのものが発する祈りだった。
「「なぜ生き残った者がいる?」」
「「誰がこの禁を破った?」」
エア神が前に出る。
声は静かだが、空気を震わせる。
音響が一瞬だけ全てを吸い込み、真空のような静寂が訪れる。
「私は夢を見せただけ。
洪水など起こさずとも、人間を減らす術はあった。
彼らが賢かっただけだ」
その言葉に呼応して、舞台の水紋がゆっくりと消えていく。
観客席の壁面も再び乾き、照明が現実の明るさを取り戻す。
──それでも観客の心のどこかで、まだ波が打ち寄せていた。
誰もが、ほんの一瞬だけ思う。
自分の魂も、少しだけ無に還った気がする。
誰も知らない劇場の最奥。
暗幕のさらに奥、埃をかぶった照明機材の影で、霊能力者・クオンが膝をついていた。
血を垂らし、円陣を描く。
口の中で何百年も封印されてきた言葉を唱える。
それは、命と引き換えに魂の記憶ロックを解除する術式──。
「……解錠、始動」
その瞬間、劇場全体が震えた。
照明が白金から紫へと変わり、音響が“記録の頁が裂ける音”を奏でる。
観客はそれを“演出”だと信じ込む。
だが、舞台上では記録そのものが書き換えられていた。
神々の記録帳が脈動を始める。
頁の隙間から光が漏れ、文が生き物のように蠢く。
《記録の解錠》《契約の再起動》《魂の暴走》
神々の筆が震え、過去と現在と虚構の境界が崩れていく。
ギルガメッシュ――煌がのたうち回る。
観客は息を呑む。迫真の演技だと思い込む。
だが、彼の中では記憶の奔流が始まっていた。
¤ ¤ ¤ ¤ ¤
イシュタルを拒んだ日。
シャマシュの加護を盾に、成長を疎んだ記憶。
転生のたびに、同じ顔の女=カルマ=イシュタルを追い、執着し、手に負えず、捨て、恨まれ、また繰り返してきた記録。
そのすべてが、いま一つに重なっていく。
──そして、心の奥で声がする。
「俺たちは、世界の終幕後に再び王になるつもりだった。
加護を失わないために、成長を拒んだ。
魂が腐ると知らなかった。
気付いてからも、俺の気持ちは変わらなかった」
「だから、エンキドゥも諦めた。
一緒に腐ることにした。
再び別れないために」
何千年分の“逃げ”が、彼の内側に雪崩れ込む。
¤ ¤ ¤ ¤ ¤
照明が赤黒く揺れ、舞台の空気が変質する。
観客の視界が歪み、現実が劇に吸い込まれていく。
「このままでは、俺が世界を壊す」
煌の声が──演技ではないポツリと漏れた声は、誰にも届かない。
記憶の解放とともに、ギルガメッシュの魂が古の契約を思い出す。
封印されていたシャマシュの加護が再接続され、太陽の力が肉体に宿る。
照明が暴走する。
光はもはや照明機ではなく、実際の太陽光だった。
客席の観客が顔を覆う。
舞台の熱気が現実の温度を侵食していく。
音響が焦げ、マイクが爆ぜる。
空調が狂い、劇場全体が息を詰めるように止まった。
スタッフが非常灯を点けようとする──だが。
電源が、消えていた。
暗闇の中、ひときわ眩しい光の中心で、
煌──ギルガメッシュが、静かに笑う。
その笑みを、神々の記録帳が刻む。
《器の覚醒》《加護の暴走》《現実の侵食》
その瞬間、舞台と世界の境界は──完全に失われた。
ギルガメッシュは城壁を築く。
その中で独り、己の存在を問い続ける。
「魂を浄化するのではなく、破壊の使者になる」
彼が手にしたのは自戒ではなく王冠。
それは神の意志を象徴するものだったが、彼の掌で軽く震えた。
天井の高みに、低く響く声が落ちる。
「神の子よ、聞くといい」
煌──ギルガメッシュは、声の正体が神であると理解した。
「俺は……最初から……壊すために作られた……?」
問いの瞬間、王冠が粉々に砕ける。
破片が空中で光を反射し、神の声がさらに厳かに響く。
「確かに私は、壊すためにお前を設計した。
だが、更正するチャンスは何度となくあった。
それを選ばなかったのは――ギルガメッシュ、お前自身だ。
ニンスンは見守り、シャマシュは守り、エンキドゥは信じた。
選んだのは、神ではなく魂だった。」
ギルガメッシュの周囲に、光と影が渦を巻く。
王冠の破片が舞台の空気を切り裂き、城壁の一部が現実に侵食する。
その時、舞台の暗部が音もなく裂ける。
照明が一瞬、全方向から吸い込まれ、劇場全体が“記録の空白”に沈む。
空気が凍り、観客の鼓膜に**無音の圧力が走る。
そして、設計者たち──神の影が顕現した。
冥界の女神・エレシュキガルが立つ。
衣装は黒曜石の霧。
その足元から、舞台の床が死の砂に変わる。
「終幕は人間を創った時から計画されていた」
記録の神・ナブーが現れる。
彼の周囲には、文字の残骸が宙に浮かぶ。
「エンリルもエンキ無断で洪水を起こした。
あの世には人間を愛し子とする者ばかりではない。お前の守護者のように」
声が重なる。
それは神々の言葉ではなく、 記録帳そのものが語っているような響き。
「「最初の神の子よ、聞け。
お前の母は、王の覇気に耐えられなかった。
神話の波動が、彼女の魂を押し潰した。
それは、愛ではなく圧。
守られることで、彼女は壊れた」」
その言葉が落ちた瞬間、 舞台の空気が金属のように軋む。
照明が赤黒く揺れ、観客の心拍が、音響に同期する。
煌は言葉を失う。
自分の魂の腐敗が、母の崩壊をもたらしたとは知らなかった。
その胸痛は、演技ではない。
──舞台全体が、彼の痛みに共鳴して震えた。
舞台の壁が轟音と共に崩壊する。
現実が舞台に侵入し、観客席が揺れる。
観客席に異常な振動が走る。
椅子が軋み、床が波打つ。
誰かが悲鳴を上げた。
誰かが立ち上がり、出口へ走った。
だが、扉は開かなかった。
照明が赤黒く暴走し、 天井から降り注ぐ光が皮膚を焼くような熱を帯びる。
照明が暴走し、赤黒い光が天井から降り注ぐ。
音響は破裂し、風のように割れた声が劇場を包む。
劇場全体が“風のない嵐”に包まれる。
神々の記録帳が刻む文字。
《記録不能体、現実侵入》
舞台と現実の境界が消え、ギルガメッシュの咆哮が、世界に直結した瞬間だった。
観客の視線は凍りつき、誰も息をつけない。
王は、自らの破壊と真実を、目の前で体現していた。
ギルガメッシュの体は膨れ上がり、もはや人の形を保てなくなる。
筋肉と骨格が軋み、衣装は裂け散り、覇気が劇場を渦巻く嵐となる。
照明は粉々に砕け、天井が軋み、観客席は吹き飛ぶ。
劇場の壁は、王の意志によって瓦礫と化す。
悲鳴が上がる。
逃げ惑う人々。
観客たちは出口を求めて押し合い、階段を踏み外し、倒れ、互いを引きずりながら這い出そうとする。
舞台袖では、スタッフが泣きながら祈っている。
「神様、これは演出じゃない……やめて……!」
火花が散り、落ちた照明が観客の上に崩れ落ちる。
コウの体は1.5倍に膨張し、その足音は地鳴りとなり、息遣いは竜巻となり、視線は都市の構造を歪ませた。
天井を突き破り、光が逆流する。
その瞬間、劇場全体が空間ごと反転した。
「俺の神話に、世界は不要だ」
舞台を踏み砕き、壁を突き破り、外へと進む。
その一歩ごとに、現実の都市は崩壊する。
各都市の空は裂け、電波塔が折れ、言語は意味を失い、人々の記憶は混線する。
室内で祈る者、家族を抱き締めて泣き叫ぶ者、膝を折って「赦してくれ」と誰にともなく呟く者。
高層ビルが倒壊する度に、つんざくような悲鳴が上がった。
海は逆流し、山は沈み、太陽は複数に分裂して昼と夜が同時に存在する。
建物は砕け、道路は空洞となり、街灯は光を失う。
人々は逃げ惑いながら、崩れ落ちる街を見上げた。
誰もが理解していた。──神が、帰ってきたのだと。しかも破壊神となって。
地殻が軋み、大地が裂け、嵐と火山と津波が同時に襲いかかる。
世界は、ギルガメッシュの意志に合わせて変貌と崩壊を繰り返す。
天に祈りを捧げた者は、その声が雷鳴に呑まれた。
その混沌の只中に、ひとつの影が立つ。
流生──エンキドゥ。
髪は血に濡れ、体は裂かれながらも、その目には原初の怒りと友情が宿っていた。
「ギルガメッシュ! もうやめろ!
この世界は、お前の遊び場じゃない!」
叫ぶと同時に、拳が炎を纏う。
その一撃は天を裂き、雷鳴のようにギルガメッシュの胸を打つ。
爆ぜた衝撃で空が2つに割れ、嵐が吹き荒れた。
だが、王の体はびくともしない。
むしろその表情には、退屈を払うような笑みすら浮かんでいた。
「……やはり、お前しか俺に立ち向かえんな」
ギルガメッシュの掌から、金色の円環がいくつも展開する。
そこから古代兵器が雨のように出現し、空を覆い尽くす。
エンキドゥは両腕を広げ、地を蹴る。
「ならば、俺も誠意を捧げよう!」
大地が反転し、根が逆巻き、地表から緑の巨獣が生える。
その背に乗り、エンキドゥは天へ跳躍した。
光と影が交錯する。
炎が降り注ぎ、水が噴き上がる。
神々が築いた古代都市の残骸が、次々と蒸発していく。
──人類の記憶そのものが燃えていた。
「貴様の祈りは過去の遺物だ」
ギルガメッシュが指先を弾く。
その衝撃波が世界を横断し、ビル群を吹き飛ばす。
爆風に巻かれながらも、エンキドゥは立ち上がり、吠えるように詩を唱えた。
「風よ──我らを赦せ、命をもう一度刻め!」
風が逆巻き、崩壊した都市に一瞬だけ緑が芽吹く。
だが、それもすぐに黒く染まり、灰となる。
ギルガメッシュの目が冷たく光った。
「赦しなど不要だ。
俺は、もう“創造”すら超えた」
王の足元に円環が広がり、次の瞬間──光速の剣群が空を埋め尽くす。
天と地が繋がるその瞬間、エンキドゥが吠えた。
「俺はニンスンの加護を受けた!」
突き合わせた拳が衝突し、世界の骨格が軋む。
ギルガメッシュが一瞬だけ動揺し、後退った。
「まさか。嘘だ。母が俺を見捨てるはずがない」
「お前の現世の母は──先日死んだ。
目を覚ませ! 元に戻れ! お前は失敗作ではない!」
空が震え、星々が一斉に明滅する。
ギルガメッシュが蹲り、頭を抱えて唸った。
「……違う……俺は……王だ……!」
「しっかりしろ! 取り込まれるな、戻れ!」
エンキドゥが近付き、ギルガメッシュの肩に手を置く。
その一瞬、ふたりの周囲にかつてのウルクの街並みが幻のように浮かび上がった。
黄金の塔、民の笑顔、夕焼けに染まる川──。
と、その時。
拳が閃光となり、エンキドゥの胸を貫く。
血が舞う。
それは液体ではなく、赤い星屑だった。
「ぐっ、はっ……それでも、人間は……滅び……ない……」
エンキドゥの体が光に変わり、風に溶けていく。
最後に残った声は、祈りにも似た断片。
「……俺は、ただ──お前を……一人にしたく……なかった……だけだ。
……この4,000年間、ずっと……」
その言葉が空気に消えた瞬間、世界が一段階深く沈黙した。
ギルガメッシュが、まるで不思議なものを見るように手を伸ばす。
その力に触れた瞬間、流生の体は光に包まれ、命ごと砕けるように消滅する。
記録帳が刻む。
《友情、断絶》《浄化、失敗》
ギルガメッシュは流生の残骸を見下ろす。
沈黙。風も止まり、光も揺れない。
「……俺は永遠の王だ」
その言葉と共に、神々の記録帳は静かに閉じる。
頁はもう二度と開かれず、記録は終焉を迎えた。
神話は、孤独のまま完結した。
建物が空中で粉砕され、道路が裂け、橋が落ちる。
川が逆流し、湖が蒸発し、森林が火焔と化す。
都市の残骸からは電光が迸り、空間が歪み、現実そのものが震える。
人々は逃げ惑う間もなく、街は神話の圧倒的な力によって完全に書き換えられる。
地殻が軋み、大地が裂け、嵐と火山と津波が同時に襲いかかる。
世界は、ギルガメッシュの意志に合わせて変貌と崩壊を繰り返す。
◆最終幕
舞台は崩れ、劇場は沈黙していた。
記録帳は灰になり、神々は去った。
世界は終わった。
楽屋の片隅。
倒れた檻。
その中から、一匹のハムスターが這い出る。
照明はない。
音響もない。
ただ、足音だけが響く。
小さな足が、焼けた床を踏む。
誰も止めない。
誰も見ていない。
ハムスターは、
舞台の残骸を越え、
客席を通り抜け、
劇場の出口へ向かう。
その歩みは、神話の終焉を越えた生命の出発だった。
□完結□