九
舞はこれまで、男性とお付き合いをしたことがなかった。
それ以前に、男性を特別な感情で好きだと思ったことすらなかった。
高校生の頃、クラスの華やかな女の子たちは、早くも彼氏彼女の関係になり、服を買い、メイクをし、どんどん綺麗になっていった。
舞はそれを横目で見て、彼女たちが楽しそうだなとは思ったが、自分もそうなりたいとは思わなかった。
彼氏と出かけるくらいなら、少しでも本が読みたかったし、服やメイクにお金を使うなら、友達とおいしいケーキでも食べに行きたかった。
大学に行ってもそれは変わらず、むしろ本に対する探究心はもっと強くなった。
清潔な身なりであれば、華美に着飾る必要はなく、自分に似合えば、流行など関係なかった。
多くはないが友人はいたし、気の合う子は大抵、服より本にお金を使う子だった。
大学の課題と、本と、新たな興味、たまに遊ぶ友達とのおしゃべり、それらで舞は構成され、また充分に満足していた。
そんな舞が、出会って間もない男性を好きになるなど、舞自身も信じられなかった。
何しろ、慎と初めて会ってから、まだ二ヵ月も経っていないのだ。
だが、何をしていても、ずっと慎のあの顔が頭から離れない。
それどころか、今までの慎の、いろいろな表情が次々と浮かんでくる。
舞はもう認めるしかなかった。
慎はよく拗ねる。本当に拗ねているわけではないだろうが、舞に対して甘えるようにわがままを言ったりする。
自分よりはるかに大きな慎を、つい可愛いと思ってしまうのはそのせいだろう。
出会ったときは、恐怖すら感じていたというのに、今となってはその印象こそ思い出せない。
そうかと思えば、慎はたまに舞をハッとさせるような大人びた態度をとるときもある。
いつも舞を笑わせてくれる慎だが、そんな話の中にも、親へのいたわりや、友達への愛情を感じることがある。それは大人になって、苦労して初めて実感する類のもので、舞も一人暮らしを始めてから改めて気付いたことだった。
それを慎はごく自然に受け止めていて、まだ高校生なのにと、その思考の細やかさに舞は驚いたものだった。
ベッドに入ると、ますます舞の心は慎に支配された。
特に思い出すのは、慎に抱き締められたときのことだ。
──ちがった、抱き留められた……もうどっちでもいいや
どんな表現をしようが、舞が慎に触れられたいと思っていることに変わりはない。
そう思い至ったとき、舞はどれだけ自分が恥ずかしかったか。
あの時は片腕だけだったが、もし、両方の腕で正面から抱き締められたら……。そう考えるだけで、舞の体は熱くなった。
実際には、まだ手すら繋いだこともないというのに。
毎週水曜日のひととき。当然のことながら、慎と手を繋いで歩いたりなどしない。
だから、今度は肩を引き寄せられたときの感触を思い出し、慎の手の平の大きさを想像してみた。
ぎゅ、っと手を握られたら、舞の手はすっぽりと包まれて見えなくなってしまうのではないか。
そうしたら慎は何て言うだろう。自分は何て答えるのだろう。
舞の楽しくも恥ずかしい想像は続く。
自分一人で楽しむ分には、どれだけ恥ずかしくても破廉恥でもいいじゃないか。
舞は開き直って、初めての甘い時間を堪能した。
またか……
霞がかった視界に、私はうんざりした。
これは夢。あれから、たびたび見るようになった、ひどく気分の悪い夢だ。
夢の内容はほぼ同じで、場所やシチュエーションは違っても、いつも同じ男に怒鳴られ、怯える私が謝り続ける。
男の方は相変わらず靄に包まれてよく見えないが、どうやら私とこの男は夫婦らしい。
私はいつも部屋にいて、夜は男と一緒の寝室で寝ている。
毎回どうでもいいようなことでイライラと私に当たる男。
どうせ夢ならば、もっと素敵な男性と結婚する夢が良かった。
そう思っても、目覚めるまで強制的に見させられる夢からは逃げられない。
休日の昼間だろうか。窓から射す光は明るい。
私はキッチンでコーヒーを淹れていた。インスタントじゃない。何かいろいろと面倒な手順で、時間をかけて淹れている。
私はコーヒーはあまり好きじゃない。それなのになんでだろうと思っていると、答えはすぐにわかった。
男の分だ。
男が部屋に入ってきて、何やら私に言っている。
私はコーヒーをテーブルに置き、何かぼそぼそと呟いた。
すると突然、男が声を荒げた。
テーブルを拳で叩き、目の前の私に顔を近付けて怒鳴りつける。
またこのパターンか。いつもと同じだ。
いい加減見慣れてきてしまった私は、男にも、夢の中の私にもうんざりする。
私が何か言うと、すぐに怒鳴りつけてくる男。
反論もせずに謝ってばかりで、夢の私は本当に情けない。
こんな理不尽なことばかりされていて、なぜ何も言い返さないのか。
どうせ何も言えないのなら、もういっそ黙ってればいいのに、と思う。
だが、今日の夢は違った。
夢の私は、怒鳴られながらも、男の顔を見て、さらに何かを言ったのだ。
そうそう!ちゃんと言い返せばいいのよ!
と思ったその瞬間、男の拳が飛んできた。
「!!」
頬に重い衝撃を感じて、舞はハッと目を覚ました。
呼吸が荒い。はあ、はあ、と何度も息を吸っては吐き出す。
心臓はどくどくと鳴り、血液の流れる音までも聞こえるようだった。
──殴られた……?
舞は自分の頬を触る。だが、もちろん痛みもなく、違和感もない。
夢の中の話だ。現実の舞に何かあるわけはなかった。
でも。
──あの痛み、覚えてる……
殴られた経験などないが、なぜか知っているような気がした。
とりあえず、日曜の朝の目覚めとしては最悪である。
いや、こんな夢、いつ見ても最低最悪の気分になるのだが。
舞は、首筋にじっとりと汗で張り付いた髪を払った。
七月に入り、急に暑くなったように感じる。
最悪な夢の記憶を消したくて、舞は思い切ってシャワーを浴びることにした。
長い髪をたっぷり濡らしながら、舞はどうしても夢のことを考えてしまう。
──なんであんな夢をみるんだろう
舞の周りに、暴力をふるう男性はいない。参考にすべき人物像もないのに、こんなにもリアルな夢をみることが、舞には不思議でならなかった。
しかも、起きてしばらくは、その夢の感覚が抜けないことにも困っていた。
通常の夢なら、いくら夢の中で恐怖を感じていても、起きてしまえばケロッとなるものだ。
辻褄があわなかったり、登場人物が荒唐無稽だったりして、夢の恐怖を引きずることは少ない。
だが、この夢だけは、どちらが現実かわからなくなるほど、どっぷりと夢にはまってしまう。
目が覚めたときの疲労感は尋常ではない。それも、夢を見るたびに酷くなっていっているようだった。
──この悪夢、いつまで続くんだろう
舞は時間をかけてシャワーを浴び、悪夢で強張った体をなんとかほぐすことに成功した。
ゆったりとした部屋着に着替え、今日はもう何もしない、と決める。
ごろりと再びベッドに横になったところで、スマホのランプが点滅していることに気付いた。
慎からのメッセージだった。
舞は嫌な気分が一気に吹き飛んだ。