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近頃の舞は、どこかおかしかった。

仕事をしていても、ご飯を食べていても、勉強をしていても、ふとした時に、慎に抱き締められた時のことを思い出してしまうのだ。


──ちがうちがう、市倉くんは抱きとめてくれたの!人命救助、変な意味はないの!


そう何度も自分の中で否定しても、また次の時には甘い記憶となって甦ってしまう。その度に、舞はあたふたと記憶の訂正を試みた。


背が高いとは思っていた。自分と比べると、二十センチは違うだろうか。

だが、あんなに逞しいとは思わなかった。


慎はいつも、舞と並んで歩くとき、ちょっと屈むようにして話しかけてくる。そうすると、ルーズに着たワイシャツがだぶついて、かえって慎を華奢に見せていた。全体的にスラリと細いシルエットをしているので、舞には余計に痩せて見えたのだ。

ところが、慎の胸に抱かれた時、その印象は見事に裏切られた。女性とは明らかに違う、硬い筋肉の躍動がそこにはあった。

舞の体を、右腕一本で支えられるほど、慎は逞しかった。


男の人は、みんなそうなのだろうか、と舞は思う。誰でも、女性を軽く抱きとめて、支えてしまうのだろうか、と。


そのせいで、翌週の水曜日は、舞は目のやり場に困ってしまった。慎は先週と何も変わらないのに、舞の見る目が変わってしまったようだった。

鞄の紐を肩に賭け直す仕草、ちょっと首を傾げた時の筋の動き、たまに上下する喉ぼとけ、意外にもごつごつと骨ばった大きな手。

目につく全てのことが、慎が男であると舞に訴えてきて、舞は慎から目が離せなくなってしまう。


駅に着くと、いつも、あの時のことが頭をよぎってしまう。もうヒールで滑ることなんてなかったけれど、それをどこか残念に思う気持ちが生まれ、舞は一人赤面した。


よく考えれば、今まで、年頃の男の子と、こんなに近い距離で一緒に過ごすことはなかった。舞は、今さらながら、男女の体の違いについて、改めて実感させられていた。


そんなふうに戸惑ったりどきどきしながらも、水曜日の帰り道は、舞にとっても楽しいひとときになっていた。

慎は聞き上手なだけでなく話し上手でもあり、特に、親友だという川原達也の話にはいつも笑わされた。


「それで次の日の達也の弁当が、白飯のみで、おかずがなーんも入ってなくて、ちくしょー!って言いながら食ってたんですよ」

「ええー!それで、達也くんはお母さんに謝ったの?」

「いや、なんかもう意地になっちゃて、『絶対折れない!』とか言って、その次の日は茹でたキャベツがいっぱい詰まってましたね」

「あははは、茹でてくれるだけ優しいじゃない」

「ほんとですよね。弁当作ってくれるだけでありがたいですよ。まあ、今は普通の弁当持ってきてるんで、多分謝ったんでしょうね。俺には言わないけど」

「うーん、達也くんとしては、市倉くんに知られたら恥ずかしいのかな?」


十七歳の男の子の意地を想像すると楽しくて、舞はくすくす笑っていた。

ところが、そこで、慎が急に立ち止まってしまい、舞の方を見て言った。


「それ」

「え?どれ?」


何かと思い、舞も立ち止まって慎を見上げると、慎はなにやら口をゆがめて難しそうな顔をしていた。


「市倉くん?」

「ほら、それ!」

「え?何?」


それと言われても、舞にはなんだかわからない。どこかおかしいのかと、自分の姿を確認するが、何もなかった。


「ちがうちがう、『市倉くん』て、その呼び方」

「え?呼び方?」


そこで慎は大きく息を吸うと、


「会ったこともない達也のことは『達也くん』て呼ぶのに、どうして俺は『市倉くん』なの?」


急に拗ねたようにそんなことを言い出した。呼び方など、何も意識していなかった舞は慌ててしまう。


「え?だってそれは、市倉くんが『達也、達也』って呼ぶから、つられちゃって」

「じゃあ、俺は友達なんだから、それこそ名前で呼んでもいいんじゃない?いつまでも『市倉くん』じゃなくてさ」

「え、でも……」


見ず知らずの達也を名前で呼ぶことには何の抵抗もなかったが、今、目の前の慎を名前で呼ぶのは、舞にとってはひどく難しいように感じた。


「俺も『舞さん』って呼んでるじゃん。あ、それとも、俺の名前忘れちゃった?あーー!ショック!!」

「覚えてるよ!もちろん、当たり前じゃない」

「じゃ、呼んで」


慎は、にこりと笑って両手を広げると、舞の言葉をじっと待った。

呼ぶまで動かない、とでもいうような慎の笑顔に、舞は、一度ぐっと口を結んでから、ちょっと息を吸い、そしてまた口を閉じ、また息を吸ってみて……とうとう諦めた。

仕方なく、慎に言い訳する。


「そうやって構えられると、余計に呼びずらい……」

「ええ……うーん、そっか……」


舞の言葉に、慎はがっかりして両手をパタリと下ろすと、それでも諦めきれずに、少し寂しそうに言った。


「じゃ、次に俺の名前呼ぶ時は、名前で呼んでね」

「うん、わかった……」


よし、と言ってやっと慎は歩きだした。


その後も慎は、学校の話で舞を楽しませてくれたが、話を聞きつつも、舞の頭は慎の名前のことでいっぱいだった。


たかが名前だ、さらっと呼べばいいのに、一瞬戸惑ってしまったせいで余計に呼びにくくなってしまった。


──美咲の時は、すぐに呼べたのに……


相手が慎に変わるだけで、なぜこうも躊躇してしまうのだろう。それはただ『相手が男の子だから』という理由だけなのか……。

そんなことを考えているうちに、十分間の道のりは、あっという間に二人を目的地に到着させてしまう。


改札を入り、階段の上り口のところで、いつものように別れる。


「じゃ、舞さん、また来週の水曜日ね」


明るく手を振る慎に、舞は思い切って言った。


「ま、またね、……慎くん!」

「あ!」


そのままくるりと踵を返すと、舞は一度も止まらずに階段を駆け上がった。


一瞬だけ見えた、慎のびっくりした顔。でもそれは嬉しい驚きで、少しだけはにかんだような表情だった。

その慎の表情が、写真のように舞の頭に残っている。


──かわいいっ!


舞は思わずそう心の中で叫んだ。自然と笑いがこぼれる。


──好きだな、慎くん


そう思って、ハッとする。

駆け上がった階段の先で立ち止まり、そのまま舞は動けなくなってしまった。


私は今、何を思ったの?

好き……?まさか、だって相手は、十七歳だよ?




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