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頬にネクタイの感触。

薄いワイシャツを通して感じる、厚い筋肉の弾力。

舞は今、片腕だけで力強く閉じ込められていた。


がっしりとした慎の腕が背中を回り、大きな手で肩を掴まれている。

さらにぎゅっと引き寄せられ、舞はその感覚に眩暈をおこしそうだった。


どくどくと痛いほどの鼓動に、慌てて息を吸う。すると、慎のワイシャツから、若い雄らしい匂いが立ち上った。

慎は、乾いた草原のような匂いがした。太陽をいっぱい浴びて、熱く乾いた、芳しい匂い。

男の人はもっとべたべたとした匂いだと思っていた。舞は、初めて嗅ぐ心地よい匂いに、頭の中が霞んでいくようだった。


できることなら、もっと顔を押し付けて、その薄いシャツのボタンを外し、直接肌を確かめたかった。

そして、体全体に行き渡るまで、胸いっぱいに慎の匂いを取り込み、全身を包んでほしかった。


「舞さん、危ないから、とりあえずこっちに」


突然、慎の声が頭に響き、同時に駅の喧騒が戻ってきた。

舞はハッとして我に返る。

気付けば、慎に支えられ、駅構内の端の方に誘導されていた。

もう慎に抱き締められてはいない。慎の匂いも届かなかった。


「舞さん、大丈夫?足ひねってない?」

「あ、う、うん、大丈夫……」


ヒールが滑ったときに、足首がガクッと曲がったが、今は痛みもなく捻挫などはしていないようだった。


「ごめんね、俺が引っ張ったから」

「ううん、気にしないで……支えて、くれたし……」


自分の言葉に、また慎に抱き締められた感覚を思い出して、舞は今更ながら恥ずかしくなってしまった。


あの瞬間、自分が何を感じて、何を考えたか、舞はしっかり覚えている。あんなふうになるなんて、自分で自分が信じられなかった。

だいたい慎は、舞を助けようと抱きとめてくれたというのに、自分は何てはしたないのだろう。今も慎は心配そうに舞の様子を窺っている。

舞は、あんなことを考えただなんて、慎には絶対知られたくないと思った。


「舞さん?本当に大丈夫?」


体を屈めて舞をのぞき込む慎に、舞は無理矢理気持ちを切り替えた。


「大丈夫。ごめんね、心配させて」

「いや、俺のせいだから……」


舞に怪我をさせるところだったと、慎はうなだれてしまう。舞は、そんなしょげた慎を見たくなかった。


「本当に大丈夫!それより、何か用だったんでしょ?」


明るく笑って話題を変えると、舞は自分を呼び止めた理由を聞いた。

すると慎は、「あ……」と、言いにくそうに下唇を噛んで、照れたようにはにかんだ。


「舞さん、って、名前で呼んでもいいかなって……」


そう言って、それから今度は悪戯っ子のように、


「でももう呼んじゃった」


と笑った。

その無邪気な笑顔に、舞もつられて笑ってしまう。


「名前くらい、別にいいよ」

「よかった。ずっと、ずっと呼んでみたかったんだ……」


噛み締めるように言う慎に、舞は、大袈裟ねぇ、と呟いた。






霞がかった視界に、ぼんやりとキッチンが見える。

女性が食事の支度をしているようだ。

よく見ると、それは私だった。

見慣れぬキッチンで、私が料理を作っているのだ。

リビングのソファには、男性が座っている。

誰かはわからない。男性の全身には、さらにぼんやりと靄がかかっているのだ。

どうやら私は、その男性のために朝食を作っているようだった。

恋人もいない私が、男性に料理を?

あり得ない光景に、あ、そうか、夢か、と気付く。

夢の中の私は、朝から忙しそうだ。

炊きたてのご飯、鮭の焼き物、ほうれん草のおひたし、具だくさんの味噌汁。

それを時計を気にしながら、必死に作っている。

えー、すごい夢だわ。私朝からこんなに食べられないなぁ。

そんなことを考えながら夢の中の自分を眺めていて、ふと気付いた。

私が震えているのだ。

青い顔をして、恐怖のあまり小刻みに震えている。

なぜそんなに怯えているんだろう。

そんなにびくびくしていたら、お椀を落としちゃうよ。

案の定、私は手を滑らせて味噌汁をこぼした。

あーあ、やっぱり。

その瞬間、ソファにいた男性が勢いよく立ち上がる。

熱い味噌汁だもん、そりゃあ心配するよね。

と思った私の予想は大きく外れた。

男性は、物凄い剣幕で私を怒鳴り付けたのだ。

私が心配で様子を見にきたわけじゃない。味噌汁をこぼした私を怒るためにきたのだ。

夢の中では声も音もないが、男性が私を見下ろしたまま怒鳴り続けていることがわかる。

なんで?そこまで怒ること?

朝食を作る関係だなんて、夫婦か、少なくとも恋人ではあるはずだ。

好き合って一緒にいる相手に対して、たかが味噌汁をこぼしたくらいでここまで攻撃することはない。

その男性に私は強く反発した。

しかし、反発したのは私だけで、夢の中の私はひたすら小さくなって謝っている。

体を丸めて床に這いつくばり、怯えてガタガタと震えながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返していた。

見ているこっちが可哀相になるほど、ひたすら。






ハッと目を覚ますと、目覚まし時計が鳴っていた。


──最悪な夢……


舞は全身にじっとりと嫌な汗をかいている。

なぜあんな夢を見たのだろうか。昨日はせっかく楽しい気分で眠りについたというのに。


舞は夢の中の嫌な気持ちを振り切るために、えいやっ!とわざと声を出して起き上がった。

その勢いのまま、ワンルームの狭いキッチンで、朝食のパンと紅茶の準備を始める。

食パンにはたっぷりのチーズとマヨネーズ、それをトースターにいれてから、ティーパックを入れたマグカップにポットのお湯を注いだ。砂糖は多め。ミルクも多め。

焼きあがったとろとろのチーズパンを皿にのせ、紅茶をちびちびと飲みながらテーブルに運ぶ。

がぶっと一口食いついたところで、また夢のことが甦ってきた。

妙にリアルな気がしたが、冷静になれば、こんな手抜きの朝食しか作らない自分が、朝からきっちり和食を用意しているなんて、設定に無理がありすぎる。だいたい、あんな酷い男と付き合う人などいないだろう。


──夢は夢だ


舞は、残りの紅茶と一緒に夢の残骸を飲み込み、出勤の準備にとりかかった。




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