六
頬にネクタイの感触。
薄いワイシャツを通して感じる、厚い筋肉の弾力。
舞は今、片腕だけで力強く閉じ込められていた。
がっしりとした慎の腕が背中を回り、大きな手で肩を掴まれている。
さらにぎゅっと引き寄せられ、舞はその感覚に眩暈をおこしそうだった。
どくどくと痛いほどの鼓動に、慌てて息を吸う。すると、慎のワイシャツから、若い雄らしい匂いが立ち上った。
慎は、乾いた草原のような匂いがした。太陽をいっぱい浴びて、熱く乾いた、芳しい匂い。
男の人はもっとべたべたとした匂いだと思っていた。舞は、初めて嗅ぐ心地よい匂いに、頭の中が霞んでいくようだった。
できることなら、もっと顔を押し付けて、その薄いシャツのボタンを外し、直接肌を確かめたかった。
そして、体全体に行き渡るまで、胸いっぱいに慎の匂いを取り込み、全身を包んでほしかった。
「舞さん、危ないから、とりあえずこっちに」
突然、慎の声が頭に響き、同時に駅の喧騒が戻ってきた。
舞はハッとして我に返る。
気付けば、慎に支えられ、駅構内の端の方に誘導されていた。
もう慎に抱き締められてはいない。慎の匂いも届かなかった。
「舞さん、大丈夫?足ひねってない?」
「あ、う、うん、大丈夫……」
ヒールが滑ったときに、足首がガクッと曲がったが、今は痛みもなく捻挫などはしていないようだった。
「ごめんね、俺が引っ張ったから」
「ううん、気にしないで……支えて、くれたし……」
自分の言葉に、また慎に抱き締められた感覚を思い出して、舞は今更ながら恥ずかしくなってしまった。
あの瞬間、自分が何を感じて、何を考えたか、舞はしっかり覚えている。あんなふうになるなんて、自分で自分が信じられなかった。
だいたい慎は、舞を助けようと抱きとめてくれたというのに、自分は何てはしたないのだろう。今も慎は心配そうに舞の様子を窺っている。
舞は、あんなことを考えただなんて、慎には絶対知られたくないと思った。
「舞さん?本当に大丈夫?」
体を屈めて舞をのぞき込む慎に、舞は無理矢理気持ちを切り替えた。
「大丈夫。ごめんね、心配させて」
「いや、俺のせいだから……」
舞に怪我をさせるところだったと、慎はうなだれてしまう。舞は、そんなしょげた慎を見たくなかった。
「本当に大丈夫!それより、何か用だったんでしょ?」
明るく笑って話題を変えると、舞は自分を呼び止めた理由を聞いた。
すると慎は、「あ……」と、言いにくそうに下唇を噛んで、照れたようにはにかんだ。
「舞さん、って、名前で呼んでもいいかなって……」
そう言って、それから今度は悪戯っ子のように、
「でももう呼んじゃった」
と笑った。
その無邪気な笑顔に、舞もつられて笑ってしまう。
「名前くらい、別にいいよ」
「よかった。ずっと、ずっと呼んでみたかったんだ……」
噛み締めるように言う慎に、舞は、大袈裟ねぇ、と呟いた。
霞がかった視界に、ぼんやりとキッチンが見える。
女性が食事の支度をしているようだ。
よく見ると、それは私だった。
見慣れぬキッチンで、私が料理を作っているのだ。
リビングのソファには、男性が座っている。
誰かはわからない。男性の全身には、さらにぼんやりと靄がかかっているのだ。
どうやら私は、その男性のために朝食を作っているようだった。
恋人もいない私が、男性に料理を?
あり得ない光景に、あ、そうか、夢か、と気付く。
夢の中の私は、朝から忙しそうだ。
炊きたてのご飯、鮭の焼き物、ほうれん草のおひたし、具だくさんの味噌汁。
それを時計を気にしながら、必死に作っている。
えー、すごい夢だわ。私朝からこんなに食べられないなぁ。
そんなことを考えながら夢の中の自分を眺めていて、ふと気付いた。
私が震えているのだ。
青い顔をして、恐怖のあまり小刻みに震えている。
なぜそんなに怯えているんだろう。
そんなにびくびくしていたら、お椀を落としちゃうよ。
案の定、私は手を滑らせて味噌汁をこぼした。
あーあ、やっぱり。
その瞬間、ソファにいた男性が勢いよく立ち上がる。
熱い味噌汁だもん、そりゃあ心配するよね。
と思った私の予想は大きく外れた。
男性は、物凄い剣幕で私を怒鳴り付けたのだ。
私が心配で様子を見にきたわけじゃない。味噌汁をこぼした私を怒るためにきたのだ。
夢の中では声も音もないが、男性が私を見下ろしたまま怒鳴り続けていることがわかる。
なんで?そこまで怒ること?
朝食を作る関係だなんて、夫婦か、少なくとも恋人ではあるはずだ。
好き合って一緒にいる相手に対して、たかが味噌汁をこぼしたくらいでここまで攻撃することはない。
その男性に私は強く反発した。
しかし、反発したのは私だけで、夢の中の私はひたすら小さくなって謝っている。
体を丸めて床に這いつくばり、怯えてガタガタと震えながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返していた。
見ているこっちが可哀相になるほど、ひたすら。
ハッと目を覚ますと、目覚まし時計が鳴っていた。
──最悪な夢……
舞は全身にじっとりと嫌な汗をかいている。
なぜあんな夢を見たのだろうか。昨日はせっかく楽しい気分で眠りについたというのに。
舞は夢の中の嫌な気持ちを振り切るために、えいやっ!とわざと声を出して起き上がった。
その勢いのまま、ワンルームの狭いキッチンで、朝食のパンと紅茶の準備を始める。
食パンにはたっぷりのチーズとマヨネーズ、それをトースターにいれてから、ティーパックを入れたマグカップにポットのお湯を注いだ。砂糖は多め。ミルクも多め。
焼きあがったとろとろのチーズパンを皿にのせ、紅茶をちびちびと飲みながらテーブルに運ぶ。
がぶっと一口食いついたところで、また夢のことが甦ってきた。
妙にリアルな気がしたが、冷静になれば、こんな手抜きの朝食しか作らない自分が、朝からきっちり和食を用意しているなんて、設定に無理がありすぎる。だいたい、あんな酷い男と付き合う人などいないだろう。
──夢は夢だ
舞は、残りの紅茶と一緒に夢の残骸を飲み込み、出勤の準備にとりかかった。




