五
約束の水曜日、舞は朝からそわそわしていた。
相手は高校生で、舞に恋愛感情はないとはいえ、初めての異性との待ち合わせである。
待ち合わせ場所は、舞が働くビルの前、道路を挟んだ向こう側にあるコンビニだ。
その場所を提案してきたのは慎だが、舞にとっても都合が良かった。
車通りの多い道路なので、目的がなければコンビニの方まで注視することはないし、駅までの往来で待ち合わせるよりはよほど目立たないだろう。
そのままいつもと反対側の歩道を歩いていけば、会社の人と遭遇する可能性も低い。
退勤時間がせまってくると、いよいよ落ち着かなくなってきた舞は、それが外にも出ていたのだろう、安川に心配されてしまった。
「藤野さん、何か問題あった?」
「え?いえ、何も問題ありません」
「そう?何か様子が変だから」
んー、と言いながら舞を観察する安川に、舞は申し訳ない気持ちになる。
「いえあの、仕事は大丈夫ですので」
「じゃ、プライベート?」
「え?」
さらりと訊かれたが、まさか安川に慎のことを説明するわけにはいかないし、また説明するつもりもなかった。それに、ただ単に初めての待ち合わせで緊張しているなどと、こんなくだらないことを言えるわけがない。
──そうだ、こんな、たいしたことないのに、動揺してる私がいけないんだわ
そんなふうに結論を出している間に、安川が穏やかに言った。
「ごめん、これってセクハラだよね。ごめん。ま、でも、話せることなら何でも聞くからさ、藤野さんが困ったときは、頼りにしてよ」
にこにこと微笑む安川に、舞は気持ちが温かくなる。
──仕事もできて、指導もうまくて、部下にも優しいとか、教育係が安川さんで本当に良かった
安川の穏やかな空気にあてられて、舞も落ち着きを取り戻した。
「ありがとうございます。その時は、相談させていただきます」
「うん。あー、じゃあ、そろそろ上がっていいよ。また明日」
「はい、お先に失礼します」
舞はさっとデスクを片付けて会社を出た。
歩道橋を渡って待ち合わせのコンビニ前まで行ったが、慎はまだ来ていないようだった。
時計を見ると、十七時四十分。よく考えれば、慎は駅の向こうからここまで歩き、またここから駅まで戻っていくことになる。なんという無駄なのだろう、と思いながらも、
──そこまでして、私と帰りたいのかな……
ついそんなことを考えてしまい、ハッと我に返って、舞は自分が恥ずかしくなった。
だが、そんな自惚れが、時折、舞の胸をゆるく締め付けてきて、何ともいえない気持ちにさせてくるのだ。
交際経験がない舞は、異性から好意を向けられた経験もない。慎のメッセージを見ていると、人に好かれるとはこういうことなのかと、くすぐったくも楽しい気持ちになる時がある。そしてすぐに我に返り、さっきのように自分を恥じる、この繰り返しだった。
恋愛のときめきも切なさも知らないが、もし自分が恋愛をしたら、もっと甘酸っぱく、幸せな気持ちになるのだろうか、と思いふけってしまうこともある。
ただし、十七歳の男の子相手に、そんな感情になることはない。それだけはわかっていた。
舞が、慎が来るであろう駅の方を窺っていると、コンビニの中から慎が現れた。
「藤野さん、すみません、お待たせしました」
「あ、中にいたのね」
ほんの一分くらいしか待っていないが、慎はやけに申し訳なさそうに舞に謝る。
「あの、全然待ってないから」
「でも俺から誘ったのに。あの、これに懲りて、来週はもうナシ!とか言わないでください」
「ふふ、大丈夫だよ」
「良かった!じゃあ、来週も同じ時間で」
さらりと来週の約束をさせられてしまったことに、舞はその時気付いた。だが、にこにこと嬉しそうな慎を見ると、今回限りで、とは言えなかった。
二人はゆっくり歩きだした。
「あ、これ、よかったら」
慎はコンビニの袋から紅茶のボトルを出すと、舞に手渡した。
「え?あ、ありがとう」
慌ててバッグを探り財布を出すと、慎に止められる。
「いいですよ、ジュースくらい」
「だめよ!高校生から貰えない!」
舞は百五十円を無理矢理慎に押し付けて、ぎゅっと握らせた。
慎はばつの悪そうな顔をしていたが、頑なな舞に折れ、「ありがとうございます」とポケットにしまった。
「かえって、気を遣わせちゃいましたね」
「そんなことない。これ、私が好きなメーカーなの。いつも飲んでるから嬉しい。ありがとね」
慎は舞の言葉に嬉しそうに笑った。そして、
「 」
何か呟いたようだったが、舞には聞こえなかった。
そういえば、こんなことが以前にもあったな、と舞は思う。
──あの時も、安川さんが紅茶をくれて
安川と慎、全く関わりのない二人なのに、同じようなやりとりをしたな、と思うと、舞から、ふふ、と笑いが漏れた。
「どうしたんですか?なんか楽しいこと?」
「うん、あのね、会社でも同じようなことがあったなーって思って」
「へえ、どんなことです?」
舞は「教育係の人が、紅茶の」と言ってから、あれ?これって話しても大丈夫だっけ?と思い、言葉をのんだ。
──私に好意を持ってくれている人に対して、会社の男性社員から飲み物を貰ったなんて、自慢でもしてるみたいじゃない?
だが、もう途中まで喋ってしまった。ここでやめたら余計あやしいだろう。仕方なく続きを話す。
「紅茶のボトルをくれてね、同じように財布をだしたら止められたなーって」
「へぇ~、同じ状況ですね」
「うん、そうなの」
慎は特に気にしていない様子だった。舞は、自分の考えすぎだったな、と安心した。
「ところで、新澤さんとは会社で話したりするんですか?」
「もちろん。だいたい二人でランチするかな。実は市倉くんと会った時、あの日初めて美咲とちゃんと喋ったの」
「へぇ、そうなんですか。二人はずっと以前からの友人みたいでしたよ」
「不思議よね、私もそんな気がしちゃうのよね。あれがなかったら、美咲と親しくしてなかっただろうな」
「じゃあ、俺のおかげですね」
「え、まあ、そうかな」
会う前は不安で仕方なかったが、会話は一度も途切れることなく、沈黙に気まずくなるようなこともなかった。
慎は聞き上手で、舞からうまく話を引き出す。意外にも慎と話が合うことに、舞は内心驚いていた。たわいない話をしているうちに、あっという間に駅に到着した。
「話しながらだとすぐですね」
「ほんと。楽しかった、ありがとう。じゃあ、私こっちだから。市倉くんも気を付けて帰ってね」
慎は舞とは反対方面なので、改札を入ったところで別れることにする。
「そうですね、じゃあまた来週」
「じゃ、さよなら」
ちょこんと手を振ると、舞は自分のホームへ続く階段に向かって歩き出した。
だがすぐに、慎に呼び止められる。
「藤野さん」
舞は腕をぐっと引かれ、慎の方に引き寄せられた。
びっくりしてバランスを崩し、その拍子にヒール部分が床で滑ってしまった。
「「あっ」」
よろけた舞は、そのまま慎の胸に支えられる。
「ごめん、そんな強く引いたつもりなかったんだけど」
慌てた様子の声が、舞の頭上から降ってくる。
舞は抱き締められていた。