四
翌朝、エレベーターで美咲と一緒になった舞は、そのまま休憩室に連れ込まれた。
始業時間までまだ三十分以上ある。舞も改めて美咲にお礼を言いたかったので、二人で一番奥の椅子に座って話すことにした。
「新澤さん、昨日は本当にどうもありがとうございました」
「どういたしまして。凶悪なストーカーじゃなくてよかった!」
そわそわと落ち着かない様子の美咲に、舞はちょっと首を傾げた。
「新澤さん?どうかした?」
「あー、あのね、せっかくだから、私たちも連絡先を交換しない?ほら、何かあったらすぐ連絡できるでしょ?」
そう言われて初めて、美咲の連絡先を知らないことに思い至る。
昨日迷惑をかけてしまったばかりなのに、この先のことも心配してくれるなんて、と舞はとてもありがたかった。
二人はスマホを出して、お互いの連絡先を登録すると、すぐに美咲から、『よろしく』という可愛いスタンプが送られてきた。舞も、ぺこりとお辞儀をするスタンプを返す。
「よかったら、これから仲良くなれたらな、って思ってるの。まずはランチとか、どう?」
美咲の誘いは舞には願ったり叶ったりだ。もちろん二つ返事でオーケーした。
「でー、本題なんだけどー」
にやりとしながら美咲が言いかけたところで、休憩室に人が入ってきた。二人はなんとなく口をつぐむ。
「お、藤野さん、新澤さん、おはよう」
声をかけてきたのは、舞の教育係、安川祐也だった。舞と美咲は揃って安川に挨拶をする。
安川は舞より四年上の先輩で、明るく爽やかな好青年だ。
ヒールを履いた美咲と並ぶと、わずかに安川の方が高いくらいだろうか。ふわふわとしたねこっけが、安川の穏やかな性格を表しているようだった。
「あれ?二人、仲良かったっけ?……あー、そうか、同期だもんな」
安川は自動販売機でコーヒーを買うと、二人の側にやってきた。
「はい、お互いに情報共有していこうと思いまして」
「そっか。いいことだよな。二人ともセンスあるから、この代は優秀になりそうだな」
美咲の言葉に、安川はいつものように穏やかに話す。
舞の指導をしているときもだが、安川はいつもにこにこしていて、イライラしたり、焦ったりということがない。
舞が失敗しても、仕事が遅くても、「大丈夫だよ、そのうち慣れるから」と優しく指導してくれる。
安川自身は非常に優秀であり、無駄のないシンプルなコードを書くと、上司の評価も高かった。大きな開発の仕事の時は、ベテランのリーダーの右腕としてチームを引っ張っていく。
「おっと、ごめんな、話の邪魔して。じゃ、あとで」
そう言って安川はすぐにオフィスに戻っていった。
時計を見ると九時二十分だった。始業まであと十分。そろそろ準備をしておかないといけない。
舞と美咲は今日のランチの約束をして、それぞれのデスクに戻った。
舞が席につくと、安川がやってきた。
仕事の指示だと思い安川の方に体を向けると、ひょい、と紅茶のボトルを渡される。
「さっき一緒に買ったんだけどさ、新澤さんの前で、藤野さんだけに渡すわけにいかないでしょ?」
「え、ありがとうございます」
舞が慌てて財布を取り出すと、すぐに安川に止められる。
「え、ちょ、なにしてんの。いいよ、あげるあげる」
「え?で、でも」
「前飲んでたのそれだったよね?今日、仕事忙しいからさ、飲めるならもらっといてよ」
確かにその紅茶は、舞がいつも飲むメーカーのもので、休憩室の自動販売機にはミルク、レモン、ストレートが売られている。舞は買うときはだいたいミルクだ。安川はそれを覚えていたらしい。
安川の気遣いが嬉しかった舞は、素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます。では、いただきます。仕事も頑張ります!」
「うん、よろしく」
安川はひらりと手を振ると、今度こそ自分のデスクに戻った。
舞も仕事を始めるべく、モニターに視線を戻した。
昼休み。舞と美咲はビルを出てすぐの和食屋に来ていた。
『きなり』というこの店は、六十代の姉妹が切り盛りしており、ふっくらとした焼き魚がうりだった。
二人は揃って今日のおすすめを注文し、食事が運ばれてくるまで、しばし女子トークとなった。
「でーー?連絡はきてるのー?どんな感じーー?」
「あはは、ちょっと待って」
いつの間にか、美咲も舞も、長年の友人同士のような振る舞いになっていた。元々、互いに意識していたのもあって、晴れて友人関係になれたのが嬉しかったのだ。さらに、互いに名前で呼び合うと、親密度が一気に増した。
一見、正反対に見える二人だが、凹と凸が綺麗に一致するように、二人は妙に気が合った。
慎という共通の敵に立ち向かった経験も関係しているのかもしれない。昨日初めてまともに会話をしたとは思えない程、二人は親しくなっていた。
今も慎は、二人の話題に一役買っている。美咲は興味津々といった感じでテーブルに体を乗り出し、舞の話を待っていた。
舞はスマホを操作しながら、しばらく考えて、それから画面を見せてくる。
そこには、慎からのメッセージがずらりと並んでいた。
[藤野さん、改めて宜しくお願いします。もちろん、友達として]
[水曜日は定時ですか?会社から駅まででいいので、送ってもいいですか?]
[休みの日は何してますか?俺、図書館とか行くんですけど、藤野さんは本好きですか?]
[隣駅にあるでっかい本屋行ったことあります?今度行きませんか?おすすめの本、教えてください]
[もうすぐ公開の映画、あれ小説が原作なんですよね。藤野さんは読みましたか?原作がかなり面白かったので、映画も期待できそうです。よかったら観に行きませんか?]
美咲はそれを見て、あっけにとられた。
「なにこれ……」
だが、徐々に可笑しくなってきたのか、笑いを堪えきれなくなり、とうとう、くっくっ、と肩を震わせだした。
しかも、
[俺のメッセージはこのまま新澤さんに見せても全然オッケーですから!むしろ見せて、俺の好感度上げてください]
美咲のチェックは織り込み済みで、さらに
[俺と楽しいお友達関係、築いていきましょう!]
と堂々と宣言していた。
もう我慢できずに、美咲は声を出して笑った。
慎は、『友達』なんて関係に全く納得していない。そしてその意図を隠そうともしていないところが、また面白かった。
舞は大笑いしている美咲を見て、やっぱりこのメッセージはおかしいんだなと納得した。
舞の趣味に合わせて、本や映画の話題をふってくれる慎の気遣いは嬉しかった。とりあえず連絡先を交換したものの、高校生と社会人、共通の話など何もないので、すぐに会話が止まるだろうと思っていたからだ。まあ、それならそれでいいのかもしれないが……。
とにかく、一生懸命、舞の関心を引こうとしている姿は健気で、会ったときのしょんぼりした姿を彷彿とさせる。舞も話を合わせて、なるべく返信しようとしているのだが。
「ねえ、どうしたらいいと思う?」
ひとしきり笑って、やっと落ち着いてきた美咲は、お茶を一口飲んで考える。
「そうねぇ……」
美咲は何と言おうか迷っていた。
美咲から見た慎は、見かけはアレだが、真面目に舞を想っているようだった。何でも美咲に開示していいというオープンなところもポイントが高い。
できれば慎を応援したいし、この初心な友人が恋に目覚める様子も見守りたい。
「結婚するわけじゃないんだから、付き合ってもいいんじゃない?」
「ちょっと!!」
美咲は本音を言っただけだったが、舞はたちの悪い冗談だと受け取った。
「高校生、十七歳、そんなのありえないから」
「じゃ、なんで連絡先教えちゃったの?デートの誘いのオンパレードじゃん」
「あの姿見たでしょ?突き放すなんてできないよ……」
こういうところが付け込まれるんだよな、と美咲は思いながらも、同時にそこが舞の良いところでもあるので、どうしようもなかった。
舞は恋愛経験はないが、それでも、このメッセージの意図することくらいわかる。
ただ、誘われている場所が、本屋だの図書館だのでは、はっきり断りにくいものがあった。いかにもデートという場所ならいざしらず、友達同士で行くのに何の問題もないからだ。
──この中でいうと、映画はアウトね
そうは思うが、はっきり拒絶して、画面の向こうでまたあんなふうにしょげられたら、と思うと、舞は決定的なことは言えないのである。
「全部断るのが無理なら、これくらいならいいんじゃない?」
そう言って美咲が指さしたメッセージは、水曜日に駅まで送りたいというもの。
「会社の人に見られないかな……」
「誰も見ないし、見たって詮索なんてしないし、それに、『友達』じゃん、全然平気よ」
「そうだよね、せいぜい姉弟かなって思うくらいよね」
「うん……」
それはない、という言葉を、美咲は心の中にしまっておいた。