十四
舞は安川と共に会社に戻った。
休憩室の奥で、とりあえず向かい合って座る。
座った途端、肩から圧力でもかけられたように、舞の体が急に重くなった。
思えば今日は、一日ずっと緊張していた気がする。いや、それを言うなら、慎と女の子を見かけた月曜日からずっとだ。舞はここのところ、いろいろな感情に揺さぶられ、心が落ち着く時間がなかった。
コトリ、と目の前に紅茶のボトルが置かれ、舞はハッとした。どっと疲れて、少しぼうっとしてしまったようだ。
安川が自動販売機で買ってくれた紅茶に、舞は慌ててバッグを探ったが、前回の時と同じく、すぐに安川に遮られた。
「藤野さん、とりあえず飲んで。すごく疲れた顔してる。そんな時は甘い物だよ。ね?」
「……ありがとうございます。いただきます」
舞にはそれ以上、何か言う気力が残っていなかった。素直に安川の善意を受けることにした。
舞の大好きなミルクティー、それがゆっくりと口内にひろがり、喉を潤していく。
いつも買う、飲みなれた紅茶のボトルを見ていると、慎とのことを思い出した。そういえば慎も買ってくれたな、と。舞はその日の楽しかった帰り道がなんだか懐かしかった。
今日、まさか慎のあんな一面を見るとは思わなかった。いつも舞を気遣い、笑顔にしてくれる慎。見た目の印象と違い、普段の彼は礼儀正しくて、常識的なのに……。
そこで舞は、「あ……」と声を上げた。すぐに飲みかけのボトルをテーブルに置き、深々と安川に頭を下げる。
「安川さん、私の友人が酷い態度をとりまして、本当にすみませんでした」
舞の姿に、安川は苦笑して声をかける。
「ちょっと、藤野さんが悪いわけじゃないでしょ?頭あげてよ、僕は気にしてないからさ」
「でも、……はい、すみません。普段はあんな子じゃないんですが……」
「うん、そうなんだろうね」
安川がそう言って穏やかに笑ってくれたので、舞は少しだけほっとした。
それから安川は、自分のコーヒーをぐいっと一口飲むと、でもさ、と口を開いた。
「ああいう男の子は、いつ豹変するかわからないからさ。藤野さんも、気を付けた方がいいと思うよ?」
「……」
「まあ、藤野さんの友達を悪く言うのは気が引けるんだけどね。でも、初対面の相手に、あんな態度とれちゃうってのはさ、ちょっと心配だよ。今日のターゲットは僕だったようだけど、そのうち藤野さんがターゲットになるかもしれないだろ?高校生とはいえ、あっちは体も大きいし、手をあげられたりでもしたら……」
安川の言葉は当然の反応だと思った。確かに慎の態度は酷かったし、舞を心配してくれる安川には感謝の気持ちしかない。
だが、慎はそんなことをするだろうか、と舞は疑問に思う。安川に対するあれだけの態度を現実に目にしたあとでも、舞にはどうしてもその想像ができなかった。
慎が、舞に手をあげるなんて、そんな人道にもとる行為をする想像が。
それでも、安川のその言葉には素直に頷いた。安川は、本当に自分を心配しているだけなのだ。
「今後、付きまとわれたり、何かあったら、遠慮なく相談してね」
「はい。安川さん、ご心配いただきありがとうございます」
舞の返事に満足したのか、安川は姿勢を正すと、
「さて、仕事の話をしようか」
と切り出した。
「藤野さんを連れ出す口実でもあったけど、仕事の話も本当なんだよ。本当は明日にでも話そうと思っていたんだけど、ちょうどいいから今話してしまおう」
話はこうだった。
今、新しい案件のためのチームが編成されている。それは、チェーン服飾店のインターネット販売に伴うウェブサイトの開発で、そのチームに安川と共に舞が参加することになったのだ。
リーダーは山内という大ベテランで、舞は安川の指示のもとコーディングをすることになる。
コーディングとは、コードを書くこと。つまり、設計書に従って、プログラミング言語で、コンピューターへの指示を記述していくのだ。
舞にとっては初めて参加する大きな仕事だ。
「今まで通りの定時退社はもう無理だと思っておいて。水曜日も、まあ、なるべく帰れるようにはするけど、難しいだろうな」
「そんな、大丈夫です!頑張って働きますから!」
「うん、その意気」
舞は、やっと大きな案件ができる、と嬉しくてたまらなかった。また、今後も安川について働けることも安心だった。
安川には入社時からずっと面倒を見てもらっている。舞の実力をよく把握しているし、舞からしても、安川の指導は丁寧でわかりやすかった。
翌日から、舞の環境は一変した。早々にチームが発表され、さっそく仕事にとりかかることになったのだ。
安川とは今まで以上に、密に打ち合わせを重ねていった。
毎日学ぶことだらけで、残業も少しずつ増えていったが、舞は今とても充実した日々を過ごしていた。
慎とは、あの水曜日の夜にメッセージを送ったきりだった。
[これから仕事がとても忙しくなる予定で、しばらく帰りも遅くなるの。また落ち着いたら連絡します]
仕事が忙しくなるのは事実だったが、文章にしてみると、なんだか言い訳のように感じた。もしかしたら、仕事を口実に距離をおいていると誤解されるかもしれない。
そんな不安はあったが、でも、舞にはこれ以上どうしていいかわからなかった。
慎からは、了解したということと、舞の体調を心配すること、それから、連絡を待っているという内容が返ってきた。
仕事が忙しくなったことと、慎と会わなくなったこと、それ以外の舞の生活はおおむね順調だった。
変わったことといえば、仕事の話の延長で、「じゃあこのまま昼飯を」と安川に誘われることが多くなったことだ。
最初は休憩室で食べながら、午後の仕事の確認や進捗などを話していたが、そのうち、外の店にも二人で食べに行くようになった。
それまではほとんど美咲と食べていたので、たまに美咲から『寂しいメール』が飛んでくる。
でも、この仕事の話をしたときに、美咲もとても喜んでくれていたので、本当のところは理解してくれているのだ。
もちろん、舞も寂しい。たまには、美咲と二人の女子会を楽しみたいとも思っている。
だが、ずっと指導を受けている身としては、先輩の誘いを断ることはなかなか難しかった。
仕事の指示の延長で、「今のうち飯行っちゃおう」と言われれば、「そうですね」と返すしかなく、しかもたまにご馳走になったりすると、ますます次回が断りにくいのだ。
奢りはなるべく遠慮したいので、丁寧にお礼を言ったあと、今回限りでと言うのだが、それも、
「まあまあ、藤野さんが今度は後輩にご馳走してあげればいいんだよ」
と言われてしまう。
安川は、とても面倒見のいい人なのだろう。仕事の面でも細やかにサポートしてくれるし、先輩として、後輩を気遣ってくれているのがよくわかる。
なかには気分屋で、イライラしていると後輩に嫌味を言うような先輩もいるのだから、安川のように、穏やかで、優秀な人から指導を受けられる舞は、本当に幸運だと思った。
そんな忙しい日々が続いているある日、安川と二人で外にランチに出た時だった。
舞は安川にこんな提案をされた。
「いつも仕事の話ばかりだから、ランチの時は違う話をしよう」
その言葉に、舞はなんとなく違和感を覚えたが、確かにずっと仕事の話しかしないのでは息が詰まると思い、了承した。
それからは、たいした話ではないが、プライベートの話もするようになった。
安川は話題が豊富で、お互いの趣味の話などをしていると、あっという間に時間が経ってしまう。
しばらくして、社内では、まことしやかにある噂が流れ始めた。
それは、舞が仕事を口実にして安川に付きまとっている、というものだった。




