二
時刻はもう十七時半。退勤時間である。
しかし舞は、デスクについたまま、憂鬱な顔でため息をついた。それからのろのろと帰り支度を始める。
まだ新人の舞は、特別なことがない限り、なるべく定時であがるよう指示されている。しかも水曜日の今日は、ノー残業デー。全社員が残業を控える日だった。
──早く退勤しないと
そう思いながらも、舞はなかなか会社を出ない。昨日もそうしたように、エレベーター前の休憩室で、うろうろと歩き回っていた。
舞だってできれば早く帰りたい。帰って家事や勉強などやることはたくさんある。プログラミングの勉強は、時間がいくらあっても足りないのだ。だが……
──どうしよう、今日もいるのかな……
退勤できない原因である鮮やかな金髪が、舞の頭に浮かんだ。
高校生のあの男の子に声をかけられたのは、先週の金曜日だった。
突然腕を掴まれ、逃げようにも逃げられない恐怖は、休日二日間かけてじっくり自分を甘やかすことでなんとか克服した。
それにどうせもう会うことはないんだから、そう思って出社した月曜日。その日も定時であがらせてもらった舞は、帰り道に彼を見つけて飛び上がるほど驚いた。
高い身長と、整った顔、なにより目立つキラキラの金髪は、間違いなくあの男の子だった。
彼はガードレールに腰かけて、きょろきょろと通行人をチェックしている。その様子を見て、舞の心臓がどくどくと鳴った。
──なんでいるの?もしかして……私を探しているとか?
ちょっとからかっただけなのに、自分が強引に逃げたことで気分を害し、かえって執着されてしまったのだろうか。
舞は頭が真っ白になった。
──まさか社会人になってまで、あんな怖い人に目を付けられるなんて
読書好きのおとなしい舞は、何も言い返さないことから、派手なグループに声をかけられることがたまにあった。
といっても、「何読んでるのー?」「面白い?」「藤野さん真面目だよね」と言われる程度で、それ以上からまれたり、ましてやからかわれるなんてことまではなかった。
それでも舞にとっては、いつもは関わりのないキラキラ集団から、突然話しかけられてひどくドキドキしたものだ。
そんなちょっとしたハプニングはあっても、なんとか無難に学生生活をやり過ごしてきたというのに、社会人になって、こんなことになるとは思わなかった。
だが、どうやら彼の方はまだ舞を見つけられずにいるようだ。待ち伏せするには派手すぎる金髪が、舞にとっては幸いだった。
このまま道を進めば、間違いなく彼に見つかってしまうだろう。駅まで続く歩道はそれほど広くはない。
舞は少しだけ考え、くるりと踵を返した。かなり遠回りになるが、ちょっと道を戻れば脇道からぐるっと回って駅まで行く道があるはずだった。
舞はその日、初めてその回り道を使って駅まで歩いた。
翌日の火曜日は、待ち伏せのことがずっと頭から離れず、退勤時間になっても帰る気になれなくて、うろうろと休憩室を歩き回り、やっと覚悟を決めて会社を出た。舞は暗い気持ちで慎重に駅までの道を歩き、月曜日に彼がいたガードレールにさしかかったところで、じっくりと見まわしてみる。
派手な金髪は見えない。どうやら彼はいないようだった。
──よかった!もしかしたら、昨日は偶然そこにいただけなのかも
自分のことは関係なかった、と希望を見出し、舞はやっと一歩を踏み出す。
実は、昨日遠回りした道は、やけに薄暗く、小さな空き地とビルの背に挟まれた、人通りもほぼない細い道で、こちらの方が余程犯罪に巻き込まれそうだったのだ。しかも普段十分ほどでつく駅に、二十五分もかかってしまった。できればもう歩きたくないと思っていたので、今日は普通の道で帰れることに舞は安堵した。
とりあえずこれで安心だと、舞は人の波に紛れながら駅までの道を歩いていた。いわくのガードレールを通り過ぎ、不安が大きかった分、珍しくうきうきとし始めたその時、なんと前方にきらりと光る金髪が目に入ったのだ。
「あっ……」
思わず声がでてしまい、舞は慌てて自分の口を押さえる。
その金髪は、間違いなくあの男の子だった。
──なんで……
これはいよいよ本当に待ち伏せの可能性が高くなってしまった。
でもここまで来て、いまさら人の流れに逆らって道を戻ったら、余計目立つのではないだろうか。
舞は顔を下に向けて、出来る限り速足で歩いた。たまたま舞の隣に並んだ会社員が、恰幅のいい男性だったので、その影に隠れるようにして、なんとか男の子の前を通り過ぎることができた。
無事に駅まで辿り着いた舞は、念のため後ろを振り返る。金髪は見えない。
少し安心して、舞はやっと電車に乗った。
これがこの二日間の出来事である。舞がいつまでも休憩室でうろうろとしている理由だった。
帰らないわけにはいかない。しかし彼に見つかるのは怖い。遠回りすればいいのだが、あの道もとても怖かった。
どうしよう、どうしようと、舞はなかなか決心がつかず、鞄を抱えたまま、落ち着きなくその場で足踏みしていた。
その時、休憩室に人が入ってきた。同期入社した新澤美咲だ。美咲はショートカットの似合うハキハキとした美人で、百七十近い長身のためもあり、入社式ではひときわ人目を惹いた存在だった。かくいう舞も、隣に座った美咲に思わず見惚れてしまったほどだ。
新人は部署が分かれるので、普段の仕事は別だが、たまに研修で一緒になることがある。まだ挨拶程度の関係で、同期仲間という意識は低い。舞からすれば、見るからに優秀そうな彼女に気後れしている状態だった。
美咲は休憩室の自動販売機でコーヒーのボトルを買うと、すぐに帰ると思いきや、くるりと舞の方を振り返った。
「藤野さんですよね。ずっとここにいたけど、何かあったんですか?」
「え?」
少し低めの落ち着いた声は、美咲によく合っている。今まで挨拶しかしてこなかった相手に突然話しかけられて、舞は驚いた。
「実は昨日も見かけてて。藤野さん、ずっとここでうろうろしてたでしょ?休憩してるようにも見えないし、何かあったのかと思って」
見られていたのか、と舞は恥ずかしくなる。
休憩室はエレベーターの真ん前で、しかもドアは開けておく規則なので、ちょっと意識すれば簡単に覗くことができる。わかっていたのに、そんなことも忘れてみっともなく狼狽えるほど、昨日の舞は頭がいっぱいだったのだ。
「あ、ごめんなさい。いえ、なんというか……」
何と説明していいかわからない舞は、視線を彷徨わせてもごもごと口ごもった。そんな舞に、美咲は心配そうに寄り添う。
「何かありました?仕事のこと?せっかく同期なんだから、何かあれば情報共有しましょう。私の勉強にもなるし」
「あ、仕事のことじゃないんです。仕事は、今のところ何とか」
「そう、じゃあ……」
そこで一度言葉を切った美咲は、ふー、と一息ついた。
せっかく心配して声をかけてくれたのに、ろくな返答ができない舞に呆れてしまったのだろう。舞はいたたまれなくなって下を向く。ところが美咲はこう続けた。
「プライベートで悩んでる?もちろん言いたくなければ無理には聞かないんだけど。藤野さん、昨日も今日も様子がおかしいでしょう?私、そういうの放っておけないたちで……。もし力になれることだったら協力したいし、話すだけでも落ち着いたりしない?」
「新澤さん……」
「ほら、意外と私が解決策を持ってるかもしれないじゃない?」
そう言って笑った美咲は、普段のクールな近寄りがたい印象とはガラリと変わり、頼れるお姉さんのようで、ずっと不安だった舞はじんと胸が熱くなった。
「あの、ご迷惑じゃ……」
「私から声をかけてるのに、迷惑なわけないじゃない。ね」
そう美咲に促され、舞は迷いながらも、思いきって話してみようと思った。ここまで心配してくれることが嬉しかったし、本心では誰かに頼りたかったから。
うまく説明できる自信はなかったが、舞は金曜日からの出来事を、ぽつぽつと話し始めた。美咲は相槌を打ちながら、根気よく最後まで聞いてくれた。
話しながら、美咲の顔つきが険しくなっていく。そして舞が話し終わると厳しい口調で言った。
「それはストーカーじゃない。放っておくとよくないわ」
「あの、でも勘違いかも……まだ二日だけだし」
「声をかける前から見張っていたかもしれないわ。そうだとしたらここ二日三日の話じゃなくなるわよ。自宅周辺はどうなの?変なことはない?」
「それは、大丈夫だと思う」
真剣な顔で尋ねる美咲に、舞は考え考え返答する。思い返してみても、電車や自宅の最寄り駅でおかしなことはなかった。
美咲は一つ大きく頷くと、気合いをいれるように姿勢を正した。
「藤野さん、今日は一緒に帰りましょう」
「え?」
まさかそんなことを言ってくれるとは思わなかった。話を聞いてくれるだけでも舞には充分ありがたかった。しかも美咲は、舞と違う駅を使っているんじゃなかっただろうか。以前、出社時に美咲を見かけたことがあったが、確か違う方向から来ていたはずだ。
舞は駅名を言って確認する。
「新澤さん、違う駅を使ってなかった?わざわざ来てもらったら申し訳ないから」
しかし美咲は譲らなかった。
「何言ってるの。そんなの遠回りのうちにも入らないから大丈夫よ。私のお節介かもしれないけど、心配だから、今日は一緒に行きましょう」
それとも迷惑?と悲しそうに訊かれると、舞は慌てて否定した。
もちろん、美咲についてきてもらったらこんなに心強いことはない。
「すみません。ありがとう。宜しくお願いします」
舞は素直に頭を下げた。