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翌日出勤すると、俺を取り巻く環境がすでに変化していることに気付いた。
あいつを殴るだけ殴って放置してきたのだ。予想はついていた。
腫れあがった顔の言い訳に、俺をどのように利用したかなんてわかりきっている。
あっちは俺より十年も長く会社に貢献していて、人当たりも良く、妻を亡くしたばかりの哀れな男だ。
どんなでっち上げの内容だろうが、信用されるのはあいつの言葉だろう。
もう、どうでもいい。
真実を突き止めようが、あいつに復讐しようが、彼女はもう戻らない。
もういいんだ。もうどうでもいい。
冷たい視線にさらされても、すれ違うだけで怯えられても、俺の感情は動かなかった。
上司に呼ばれて事情を訊かれたが、俺はただ「よく覚えてない」と繰り返した。
最初から俺に非があると決めつけて、ただ一応、上司として事情を訊いたという体裁を取り繕いたいだけなんだ。
あとは勝手に俺を悪者にして話をまとめれば終わりだ。
処分とか人事とか、何か言っていたような気がするが、もう興味もない。
俺はその後も黙って粛々と仕事に取組み、定時には席を立った。
エレベーターには待っている人たちがいたが、自然と道が開き、誰も乗り込もうとはしなかった。
オフィスのあるビルを出て、駅までの道を歩く。
ただ規則的に足を出しているだけで、俺はただの抜け殻だった。
自宅に帰ると、一気に力が抜けた。
彼女がいなくなってから、心休まるときはなかった。いつも焦燥感にかられ、ろくに眠ることもできなかった。
真実を知ったところで、俺のしたことといえばあいつを激情のままに殴っただけ。
そして、何をしても、彼女が戻らないということに気付いてしまった。
俺の中にピンと張り詰めていたものが、ぶつりと切れて、もう何もする気がおきない。
『幸せになって』
彼女の最期の言葉が、頭の中にこびりついている。
無理だ、彼女のいない世界で、どうやって幸せになれというんだ。
俺はあいつを殺すことさえできない。
俺は家にある酒を全て出して、片っ端から飲み始めた。
缶ビール、ワイン、焼酎、テーブルに並べたそれらを、ひたすらあおる。
この一ヵ月、いつもいつも彼女の最期を思っていた。
悩み、苦しみ、痛みに耐える彼女を思った。
また涙がこぼれる。
泣きながら、それでも飲み続けた。
異変に気付いていながら、何もできなかった自分。
ああ、やり直したい。次こそは必ず救うのに。
彼女に辛い思いも、怖い思いもさせずに、幸せだけをあげるのに。
俺が先に出会っていたら、絶対離さないのに。
せめて付き合う前だったら、いや、付き合ってたとしても、全力で奪ってやればよかったんだ!
なんで俺はそれをしなかったんだ。あそこで諦めてしまったから、彼女はこんな最期を迎えることになったんじゃないか。
浴びるように酒を飲み、支離滅裂なことを思いながら、俺は必死に彼女を救う手段を考え続けた。
意識が朦朧とする。
気付くともう零時近い。
そういえば俺の誕生日だったなと気付く。
四月九日。八月生まれの彼女とは、四ヵ月だけ年齢差が五つになると、俺はくだらないことに喜んでいた。
焼酎の残りを、俺は一気に喉に流し込んだ。
彼女に会いたい、絶対に、絶対に、救うのに、どんな手段を使っても、今度こそ、絶対に救うのに。
秒針が進み、全ての針がまっすぐに揃った。
二十七歳になった瞬間、俺の意識は途絶えた。
雑踏のざわめきにハッとする。
俺はガードレールに軽く腰をかけ、スマホを見ていた。
日付は五月一二日、時刻は一七時三〇分。
「……?」
さっきまで家で酒を飲んでいたはずだ。
いつの間にか日付が進んでいる。
まさか一ヵ月も気を失っていたのか?しかも、ここはどこだ?
周りを見ると、見覚えのある道路だった。というか、会社の最寄り駅だ。
なんでこんなところに?
改めてスマホを見て、ふと気付く。
「俺のじゃない……」
正確には、俺が今使っているものじゃない。
これは、何台も前の、学生時代に使っていたやつだ。
慌てて自分の姿を確認する。
見覚えのある鞄、制服、まさか、金髪?
信じられない、信じられないが、間違いなく高校時代の俺だ。
これは夢か?酒の飲み過ぎでとんでもない夢を見てるのか?
試しに腕を思い切りつねる。痛い、すげー痛い。
てことは、本当に?まさか、本当なのか?
これが現実なら、一ヵ月進んだんじゃない。戻ったんだ。
俺は今、過去に戻ってるんだ!!これで彼女を救える!
学生証を見ると二年になっている。ということは、もう彼女は入社しているから、あいつが教育係についているはずだ。
でも、実際に付き合い始めたのは二十六のクリスマスだと言っていた。
「あと、三年七ヵ月……」
それは奇しくも、彼女の結婚生活と同じ期間だった。
彼女は三年七ヵ月で地獄を見ただろうが、今度は俺がその時間で幸せにしてやりたい。
とりあえず彼女と出会って、なんとか付き合って……そこまで考えて、俺は改めて自分の姿を確認した。
「だめだ、これじゃだめだ」
二十二歳の彼女が、十代の俺と付き合うわけがない。しかも見るからに軽そうでチャラそうだ。
「しかもなんで金髪なんだよー!」
成績さえ良ければわりと自由な校風、そこが気に入って入ったのだが、やりたい放題の過去の自分に悪態をつく。
「落ち着け、大丈夫だ。髪は染めりゃいい」
まずは髪を黒くして、校則通りに制服を直し、鞄に教科書をつめて……。
とにかく一旦帰ろう。実家まで六駅だ。
そうして駅に向かおうとしたその時だった。
彼女がいた。
俺の知っている彼女より、ちょっと若い。
でも間違いなく彼女だった。
俺の体は無意識に動いた。
彼女を見失わないように、逃がさないように、その腕を掴む。
掴んだあとに、我に返った。
どうする、何て言うんだ、彼女は俺のことを知らないんだぞ。
いきなり説明するのか?このままいくと不幸になるので俺と結婚しましょう、って?
なんだよそれ!あやしい宗教かよ!
どうする!どうする!
彼女がゆっくりと振り返る。
パニックになった俺から出てきた言葉は、今でも後悔している。




