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あることを疑って始めたことだった。

それでも、俺の勘違いであればいいと思っていた。

噂話にも注意した。頭から信じないように、全部がデマの可能性も高いんだと。


だが、あの男の表情は見逃せなかった。

妻を亡くした男を励ます同僚、その同僚に向ける顔ではない。


俺自身も冷静ではなかった。いや、彼女がいなくなってから、冷静な時なんてなかった。

俺はその日、就業後の男の後をつけた。


見失わないように同じ電車に乗り、駅を数駅やり過ごす。

ちょうどよく混雑していた車内で、ずっとスマホをいじっている男が、俺に気付くことはなかった。


異変はその時起きた。

男は最寄り駅で降りずに、さらに三駅を乗り過ごした。

どこに向かっているんだ?

彼女の自宅は、通夜の席でなんとなく話題に上っていた。何しろベランダから飛び降りたのだから、近くでサイレンが聞こえたなどと話している人がいたのだ。

だから俺もだいたいの位置を知っている。

もしかしたら、男はすぐに引っ越したのかもしれない。

冷静に、冷静に、と繰り返しながら、さらに男の後を追った。


四駅目で降りると、男は迷うことなく駅から真っ直ぐに進んでいく。

飲み屋が立ち並ぶ、雑然とした通りを抜け、人通りの少ない住宅街に入り、そして、一軒の古びたアパートまで来ると、その階段を上っていった。

二階建ての木造のアパートは、下に五部屋、上に五部屋ある。

こんなところに引っ越したのか?

新築マンションに住んでいた男が、いきなりこんな所に住めるだろうか。それほど、このアパートは古く汚かった。

そう考えていた俺は、すぐにその答えを知る。

二階の真ん中、男が乱暴にノックすると、その部屋のドアが開いた。

姿を見せたのは、ぽってりと男好きしそうな、だらしない体の女だった。


いかにも下着というスリップを着て、男に向かって笑いながら何やら言うと、急に男に抱き着いた。

そして、アパートの廊下だというのに、そのまま唇を合わせたのだ。

男は少しだけ左右を窺うような素振りを見せてから、女の腰をぎゅっと抱き、キスを深くしたようで、そのまま部屋の中になだれ込んだ。


俺は、今見た光景が信じられなかった。

脳がゆっくりとこの事実を処理していく。

握りしめた拳がぶるぶると震えた。俺の全身が怒りで震えていたのだ。


あの女は何なのか、今あの部屋で何が行われているのか、俺は想像もしたくなかった。

だが、確実な証拠を得るために、俺はアパートの裏に回り、部屋の窓が見える位置まで移動した。

カーテンは閉められていたが、窓は開けたままだった。風に煽られたカーテンが、時折部屋の内側にそよぐ。

その風にのって、女の忌まわしい声が聞こえてきた。

甲高く、下品な、嬌声が。


もう充分だった。俺は再び玄関の方に回り、男が出てくるのを待った。


男が部屋から出てきたのは、二時間後だった。


下卑た笑いを口にのせ、女の肩を抱きながら、二人でもつれるように階段を下りてきた。


「お前、今度は飯くらい作っとけよ」

「お弁当買ってきてくれればいいじゃん、あたし料理嫌いだから」

「それでも女かよ」


いやらしい手つきで女の腰を撫でまわしながら、男は吐き捨てるように言った。


「料理上手の奥さんと一緒にしないでよね。あ、元奥さんか、死んじゃったから」


そう言って、女は「あははは」と下品に笑った。


「ふん、手を掛けてしつけてやったのに、とんだ無駄骨だった。ああ、今度はお前をしつけようかな?」

「やだ!私のことぶったら承知しないから!」

「あはは、お前にはやらないよ」


その時の俺を、何と表現すればいいのだろうか。

信じられない会話に、俺は全身が氷のように冷たくなった。そのあと、ゆっくり熱が戻ってくると、煮えたぎる怒りが渦を巻く。

俺はもう吐き気を抑えるので必死だった。

彼女の死を笑いものにする二人を、今すぐ殺してしまいたいと思った。


階段を下りきると、アパートの門まで歩き、そこで二人はまた抱き合った。


「次はいつ?」

「またすぐ来るよ。もう邪魔な女もいないしな」


男は女に再びキスをして、やっと別れた。


もう我慢できなかった。

俺はすぐに男の後を追って走った。


「おい!」


俺は後ろから男の肩を掴むと、強引に引っ張る。手加減などとてもできない。

勢いあまってバランスを崩した男が、盛大に尻もちをつき、俺を睨み上げた。


「何すんだテメェ!」


会社とはまるで別人だ。女の部屋で酒でも飲んだのか、男の態度は酷かった。


「お前、ずっと彼女を裏切っていたのか!彼女が死んでまだ一ヵ月だぞ!何やってんだ!」


俺の剣幕に一瞬怯んだ男だったが、ゆっくりと俺の言葉を理解すると、男の口が、にやりと、下品な笑みで歪んでいく。


「あー、お前、そうか、あいつの部下か、はいはい、そういうことか」


男はふらつきながらのそのそと立ち上がり、スーツの汚れを乱暴に払った。


「やっぱりそうか!お前、あいつが好きだったのか!で?俺の後をつけて?何のつもりだよ」


乱れたスーツを整えながら、へらへらと嘲ってくる。

俺は拳を握りしめ、今すぐ殴ってやりたい衝動を必死でこらえる。

怒りを喉の奥で殺しながら、落ち着け、落ち着け、と繰り返す。


「彼女を虐待してたのか……」

「虐待?なんのことだよ」

「とぼけるなよ、彼女を死に追い詰めたのはお前じゃないのか……」

「あいつは勝手に死んだんだよ!全く、自宅から飛び降りるんじゃねーよ。売りたくても売れやしねー。毎日あの不気味な家に帰る俺の身にもなれよ!」

「お前……!」

「だいたい俺はなぁ、あいつが新人の頃から、そりゃー優しくしてやったんだよ。今時、ああいう従順な女はなかなかいないからな。こっちばっか努力すんのはフェアじゃねーだろ。今度はあいつが努力する番だ」

「努力って……それで殴ってたのか?」

「しつけだよ!俺の言う通りできねーからしつけたんだ!」

「それを虐待っていうんだ!」

「おいおい、夫婦のことに他人が口出すんじゃねーよ。あいつはそれを望んでたんだよ。俺好みになりたいってな」

「……っ」


口を開けたら殺してしまいそうだった。拳も口も、全身を硬くして荒れ狂う怒りに耐えた。

口を閉ざした俺を、やり込めたとでも勘違いしたのか、酔って気分のいい男は、そこからぺらぺらと喋り始めた。


「初めが肝心だからさ、すぐにしつけをしたんだよ。俺だって最初から殴ったりしないぜ。何日も何日も、根気よく説明してやってさ、それでも理解できねーようだから、一発、やってやったんだよ。愛の鞭だよなぁ。それでやっとあいつも気付いたんだな、おとなしく言うこと聞くようになったんだ。ほら、あいつ、俺が初めての男だからさ、無知なんだよな、いろいろと。俺が仕込んでやらねーと、って思うだろ?」


下卑た笑いに吐き気がする。

血の気が引いているのか、頭に血が集まっているのか、寒いのか、暑いのか、感覚すらもなくなっていく。

男はさらに、どんなしつけをしたのか、どれほど彼女が愚かなのかを、笑い話のように語っていた。


「どんどん陰気になっちまって、あー、失敗したなと思ってたんだよ。期待外れだったよ、全く。しかも最後の最後に飛び降りって!どんだけ俺に迷惑かければいいんだよって、ぐぅっ!!」


気が付くと、男を思い切り殴っていた。

殺そうと思った。もういい。こんな奴死んだ方がいい。

倒れた男をさらに殴り、馬乗りになって何度も何度も殴りつけた。

みっともなく鼻血を出して、吐きながら倒れる男を見下ろしても、俺の煮えたぎる怒りは治まらなかった。


「て、めぇ、」


吐きながらも悪態をつく男をさらに殴って黙らせた。

うめきながら、もぞもぞと逃げようとする情けない姿に、俺の頭は急に冷えた。



多分、こいつを殺しても、俺の怒りはなくならない。



そのまま男を放置して、俺はその場を去った。



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