5
あることを疑って始めたことだった。
それでも、俺の勘違いであればいいと思っていた。
噂話にも注意した。頭から信じないように、全部がデマの可能性も高いんだと。
だが、あの男の表情は見逃せなかった。
妻を亡くした男を励ます同僚、その同僚に向ける顔ではない。
俺自身も冷静ではなかった。いや、彼女がいなくなってから、冷静な時なんてなかった。
俺はその日、就業後の男の後をつけた。
見失わないように同じ電車に乗り、駅を数駅やり過ごす。
ちょうどよく混雑していた車内で、ずっとスマホをいじっている男が、俺に気付くことはなかった。
異変はその時起きた。
男は最寄り駅で降りずに、さらに三駅を乗り過ごした。
どこに向かっているんだ?
彼女の自宅は、通夜の席でなんとなく話題に上っていた。何しろベランダから飛び降りたのだから、近くでサイレンが聞こえたなどと話している人がいたのだ。
だから俺もだいたいの位置を知っている。
もしかしたら、男はすぐに引っ越したのかもしれない。
冷静に、冷静に、と繰り返しながら、さらに男の後を追った。
四駅目で降りると、男は迷うことなく駅から真っ直ぐに進んでいく。
飲み屋が立ち並ぶ、雑然とした通りを抜け、人通りの少ない住宅街に入り、そして、一軒の古びたアパートまで来ると、その階段を上っていった。
二階建ての木造のアパートは、下に五部屋、上に五部屋ある。
こんなところに引っ越したのか?
新築マンションに住んでいた男が、いきなりこんな所に住めるだろうか。それほど、このアパートは古く汚かった。
そう考えていた俺は、すぐにその答えを知る。
二階の真ん中、男が乱暴にノックすると、その部屋のドアが開いた。
姿を見せたのは、ぽってりと男好きしそうな、だらしない体の女だった。
いかにも下着というスリップを着て、男に向かって笑いながら何やら言うと、急に男に抱き着いた。
そして、アパートの廊下だというのに、そのまま唇を合わせたのだ。
男は少しだけ左右を窺うような素振りを見せてから、女の腰をぎゅっと抱き、キスを深くしたようで、そのまま部屋の中になだれ込んだ。
俺は、今見た光景が信じられなかった。
脳がゆっくりとこの事実を処理していく。
握りしめた拳がぶるぶると震えた。俺の全身が怒りで震えていたのだ。
あの女は何なのか、今あの部屋で何が行われているのか、俺は想像もしたくなかった。
だが、確実な証拠を得るために、俺はアパートの裏に回り、部屋の窓が見える位置まで移動した。
カーテンは閉められていたが、窓は開けたままだった。風に煽られたカーテンが、時折部屋の内側にそよぐ。
その風にのって、女の忌まわしい声が聞こえてきた。
甲高く、下品な、嬌声が。
もう充分だった。俺は再び玄関の方に回り、男が出てくるのを待った。
男が部屋から出てきたのは、二時間後だった。
下卑た笑いを口にのせ、女の肩を抱きながら、二人でもつれるように階段を下りてきた。
「お前、今度は飯くらい作っとけよ」
「お弁当買ってきてくれればいいじゃん、あたし料理嫌いだから」
「それでも女かよ」
いやらしい手つきで女の腰を撫でまわしながら、男は吐き捨てるように言った。
「料理上手の奥さんと一緒にしないでよね。あ、元奥さんか、死んじゃったから」
そう言って、女は「あははは」と下品に笑った。
「ふん、手を掛けてしつけてやったのに、とんだ無駄骨だった。ああ、今度はお前をしつけようかな?」
「やだ!私のことぶったら承知しないから!」
「あはは、お前にはやらないよ」
その時の俺を、何と表現すればいいのだろうか。
信じられない会話に、俺は全身が氷のように冷たくなった。そのあと、ゆっくり熱が戻ってくると、煮えたぎる怒りが渦を巻く。
俺はもう吐き気を抑えるので必死だった。
彼女の死を笑いものにする二人を、今すぐ殺してしまいたいと思った。
階段を下りきると、アパートの門まで歩き、そこで二人はまた抱き合った。
「次はいつ?」
「またすぐ来るよ。もう邪魔な女もいないしな」
男は女に再びキスをして、やっと別れた。
もう我慢できなかった。
俺はすぐに男の後を追って走った。
「おい!」
俺は後ろから男の肩を掴むと、強引に引っ張る。手加減などとてもできない。
勢いあまってバランスを崩した男が、盛大に尻もちをつき、俺を睨み上げた。
「何すんだテメェ!」
会社とはまるで別人だ。女の部屋で酒でも飲んだのか、男の態度は酷かった。
「お前、ずっと彼女を裏切っていたのか!彼女が死んでまだ一ヵ月だぞ!何やってんだ!」
俺の剣幕に一瞬怯んだ男だったが、ゆっくりと俺の言葉を理解すると、男の口が、にやりと、下品な笑みで歪んでいく。
「あー、お前、そうか、あいつの部下か、はいはい、そういうことか」
男はふらつきながらのそのそと立ち上がり、スーツの汚れを乱暴に払った。
「やっぱりそうか!お前、あいつが好きだったのか!で?俺の後をつけて?何のつもりだよ」
乱れたスーツを整えながら、へらへらと嘲ってくる。
俺は拳を握りしめ、今すぐ殴ってやりたい衝動を必死でこらえる。
怒りを喉の奥で殺しながら、落ち着け、落ち着け、と繰り返す。
「彼女を虐待してたのか……」
「虐待?なんのことだよ」
「とぼけるなよ、彼女を死に追い詰めたのはお前じゃないのか……」
「あいつは勝手に死んだんだよ!全く、自宅から飛び降りるんじゃねーよ。売りたくても売れやしねー。毎日あの不気味な家に帰る俺の身にもなれよ!」
「お前……!」
「だいたい俺はなぁ、あいつが新人の頃から、そりゃー優しくしてやったんだよ。今時、ああいう従順な女はなかなかいないからな。こっちばっか努力すんのはフェアじゃねーだろ。今度はあいつが努力する番だ」
「努力って……それで殴ってたのか?」
「しつけだよ!俺の言う通りできねーからしつけたんだ!」
「それを虐待っていうんだ!」
「おいおい、夫婦のことに他人が口出すんじゃねーよ。あいつはそれを望んでたんだよ。俺好みになりたいってな」
「……っ」
口を開けたら殺してしまいそうだった。拳も口も、全身を硬くして荒れ狂う怒りに耐えた。
口を閉ざした俺を、やり込めたとでも勘違いしたのか、酔って気分のいい男は、そこからぺらぺらと喋り始めた。
「初めが肝心だからさ、すぐにしつけをしたんだよ。俺だって最初から殴ったりしないぜ。何日も何日も、根気よく説明してやってさ、それでも理解できねーようだから、一発、やってやったんだよ。愛の鞭だよなぁ。それでやっとあいつも気付いたんだな、おとなしく言うこと聞くようになったんだ。ほら、あいつ、俺が初めての男だからさ、無知なんだよな、いろいろと。俺が仕込んでやらねーと、って思うだろ?」
下卑た笑いに吐き気がする。
血の気が引いているのか、頭に血が集まっているのか、寒いのか、暑いのか、感覚すらもなくなっていく。
男はさらに、どんなしつけをしたのか、どれほど彼女が愚かなのかを、笑い話のように語っていた。
「どんどん陰気になっちまって、あー、失敗したなと思ってたんだよ。期待外れだったよ、全く。しかも最後の最後に飛び降りって!どんだけ俺に迷惑かければいいんだよって、ぐぅっ!!」
気が付くと、男を思い切り殴っていた。
殺そうと思った。もういい。こんな奴死んだ方がいい。
倒れた男をさらに殴り、馬乗りになって何度も何度も殴りつけた。
みっともなく鼻血を出して、吐きながら倒れる男を見下ろしても、俺の煮えたぎる怒りは治まらなかった。
「て、めぇ、」
吐きながらも悪態をつく男をさらに殴って黙らせた。
うめきながら、もぞもぞと逃げようとする情けない姿に、俺の頭は急に冷えた。
多分、こいつを殺しても、俺の怒りはなくならない。
そのまま男を放置して、俺はその場を去った。




