4
自宅マンションのベランダから飛び降りたという彼女の棺は、最後まで開けられることはなかった。
明るく笑う彼女の遺影は、最後に出た会社の忘年会の時のもので、三年以上の結婚生活の間に、彼女の朗らかな写真が一枚もなかったのかと怒りを覚えた。
彼女が命を絶ったのは、日曜日の夜だった。
彼女は、最期に俺に電話をくれたのだ!
どうして俺だったのかなんてわからない。
退職の時の心残りを解決するためだったのか。
いや、理由なんてどうだっていい。
なぜ俺は止められなかったんだ!!
思い出せ、彼女の様子を。おかしなところはなかったか。
考えれば考えるほど、彼女の言葉全てが最期の別れを示しているように思えた。
なんで気付かなかったんだ!
あのとき強引にでも会う約束をして、いや、すぐに家を飛び出して会いに行ってれば!
俺は愚かにも浮かれて、彼女との実現しない未来を夢見て……
その時彼女は、最期の道を選ぶ苦しみの中にいたってのに!
唇が切れるほど強く噛みしめながら、なんとか通夜から戻った。
自宅玄関の扉を閉め、鍵をかけるカチャリという音と同時に涙が溢れた。
ぼたぼたと涙が床に落ち、それと一緒に俺の体も床に落ちた。
「うっ……ぐっ……」
堪えようとしても堪えきれずに嗚咽が漏れる。
喪服の膝がぐしょぐしょになっても、俺の涙は止まらなかった。
「なんでだ……なんでだよ……」
電話の声が甦る。彼女の優しい声が頭を巡る。
『市倉くん』と俺を呼ぶ声。
『優しいね』と言ってくれた言葉。
あなたこそ、優しい人だ。
あなたこそ、幸せにならなきゃいけない。
最期にあんなメッセージを俺に贈るほど、あなたは優しさに飢えていたのか!幸せではなかったのか!
明るい彼女が自ら命を絶つなんて、どれほどの事があったっていうんだ!!
俺は声を上げて泣いた。
二十六年生きてきて、これほど泣いたことはない。
彼女がいない。
それだけで絶望が襲ってきた。
泣いて、泣いて、廊下に声が漏れるのも構わず、大声で泣き続けた。
「なんで……なんで……!!」
悔しいとか悲しいとか、そんな言葉で表せるような感情じゃない。
彼女への想いが、どろどろに溶け、渦を巻き、黒ずんで、腐臭を放ちながら、また俺の心に戻っていく。
愛しい人、最愛の人、誰よりも幸せになってほしい人。
でもいない、もう彼女はいないんだ。
どうしてこんな最悪の選択をしたんだ。
最悪の選択が逃げ道だと思えるほどの、過酷な日々を過ごしていたのか。
飛び降りる瞬間、恐怖はなかったのか。
彼女は何を考えたのか。
何を願って飛び降りたのか。
いくら叫んでも、いくら嘆いても、答えは出なかった。
声が枯れ、喉がひりつく。棍棒で殴られているようにガンガン頭が痛む。
それでも、涙は枯れることなく、壊れた蛇口のようにいつまでもポタポタと目から溢れていく。
どれほどそうやっていたのか。疲労が重力となって全体にのしかかっている。
俺は玄関に座り込んだままのろのろと上着を脱いだ。大きく息を吸うと、喉の痛みで盛大に咳き込む。
ぐらぐらと揺れる視界のまま、俺はやっとの思いで立ち上がった。
衣服を脱ぎ捨て、そのまま頭からシャワーを浴びる。
冷水をいくらかけようと、ぼやけた視界は変わらなかった。
タオルで水分と涙を一緒に拭き、台所で水道の蛇口をひねると、そのまま手で掬ってガブガブと飲んだ。
ボロボロになりながら、それでも何とかソファに座る。時刻はもう二時を回っていた。
さすがに、明日は仕事に行く気にならない。
パソコンを立ち上げると有給申請を出し、ログアウトも面倒でそのままディスプレイを閉じた。
秒針の音だけが響くなか、しばらく思考を放棄した。
カチ カチ カチ カチ
カチ カチ カチ カチ
だんだんと大きくなる秒針の音。
ゆっくりと、頭の中が冷えていく。
ふと、結婚直後の彼女の様子を思い出した。
休み明け、決まって体調の悪かった彼女。
あれは何だったのか。
初めて違和感を感じたのは、新婚旅行の後だった。
嫉妬に目が曇った、俺の個人的な感覚だと思っていたが、もしかしたら、あの時から何かが始まっていたのではないか。
俺はハッとしてパソコンを開き、すぐに有給申請を取り消した。
時刻はもう三時半。そのままソファに横になり、目を瞑る。
疲れきっていた体は、意思とは関係なくすぐに眠りに落ちていった。
翌日から、俺は情報を集めた。
とは言っても、誰かに直接尋ねたりするわけではなく、仕事の合間のちょっとした雑談や、給湯室や喫煙室の噂話を意識的に収集していったのだ。
やはり話題は彼女のことばかりだった。
彼女の同期、親しい同僚、さほど親しくない同僚、男側の友人、同僚や上司。
俺は吸えもしない煙草を無理矢理吸って、たびたび喫煙室に行く。
様々な人間が憶測だらけの話をするが、ほとんどは彼女を悼む話だった。
だが時折、悪質な言葉がのぼる。特に、男の同僚の話は興味深かった。
「あいつ散々愚痴ってたけど、こうなると可哀相だよな」
「愚痴っていうか、のろけだろ。嫁さんを落として謙遜するやつ。ま、今の時代には合わねーけど」
「酔うとぽろっとこぼすんだよ、うちは亭主関白だってな」
「奥さん、従順そうだったもんなぁ、俺も素直な嫁が欲しい」
「お前は尻に敷かれるのが好きなんだろ」
「仕方なく敷かれてやってんだよ」
そう笑いながら喫煙室を出て行った二人は、彼女の死などまるで他人事だった。
通夜から一週間も経つと、少しずつ生前の様子が話題にのぼるようになった。
ある日、昼休みの給湯室で、こんな会話を聞いた。
「ねえ、亡くなった人いたじゃない?あれって、やっぱり旦那に問題があるのかなぁ」
「うーん、一概にはそうとは言えないけど……うーん」
「……実は私さ、一度あの人に訊かれたことがあるのよね」
「え?なになに?」
「『男性は、家ではゆっくり休みたいものですよね』って。その時は、まあそりゃそうだと思ったから、そうですねって言ったんだけど、よく考えたら、女だって休みたいよね」
「うん、共働きなら尚更そうでしょ」
「なんかさ、男だけが休む権利あるみたいな、そんなふうに誤解されたかなーって」
「いやいや、普通、自分で気付くでしょ、それはおかしいなって」
「そうだよねー、私の一言で事態が悪化とか、そんなことないよねー」
「ないない、大人なんだから。自分で考えられるって」
二週間近く、俺は様々な噂を聞いた。
無責任な噂など信用してはいけないとわかっているが、ある一つの結論が頭にこびりついて離れない。
いや、そうと決まったわけじゃない。妊娠説だってデマだったじゃないか。簡単に決めつけるな。
いつものように喫煙室に向かった時だった。
彼女の夫と、その同僚がちょうど扉を開けて出て行くところだった。
俺は咄嗟に廊下の角に隠れる。
「落ち込むな、とは言えないが、あまり思いつめるなよ」
「ああ、ありがとう……」
「何度も言うけどさ、今は奥さんのこといっぱい考えてていいから、でも、絶対復活しろよ!」
「ああ、そうだな……」
「元気出せよ!あ、元気出ないか、えーと、いつでも相談のるからな!」
「うん、いつもありがとうな……」
同僚はそのまま俺のいる場所と反対の方に去っていった。
しばらくして、バン、と乱暴に扉が閉まる音がした。そして、
「チっ!」
と不快そうな舌打ちが聞こえてきた。
俺はゆっくりと喫煙室の方を覗き込んだ。
そこにあったのは、苛立ちに顔をゆがめた彼女の夫の姿だった。




