一
「おねーさん!俺と付き合おうよ」
突然腕を掴まれ、藤野舞は驚きのあまりヒュッと喉を鳴らした。
朝と夕方、毎日二回歩いている道だが、今まで誰かに声をかけられたことも、ましてや腕を掴まれたことなど一度もなかった。
それどころか、舞は生まれて二十二年間、往来で男性に声をかけられたことすら一度もなかったのだ。
スーツの上から握ってくる相手の大きな手の感触と、明らかに男性だとわかる声に、驚きと怯えと恐怖が襲ってくる。
できることなら、このまま腕を振りほどいて逃げてしまいたいが、今もがっちりと掴まれている腕は、簡単なことでは外れないだろう。
仕方なく、舞は相手を確認する決意をした。
恐る恐る、ゆっくりと、舞は後ろを振り返った。
入社してから一ヵ月が過ぎ、会社から駅まで続くこの上り坂にもやっと慣れてきたところだ。
一人暮らしのアパートから駅まで徒歩十五分、電車に乗って六駅、そこからさらに十分ほど歩いたビルの中に、舞が働くオフィスが入っている。
文系大学出身の舞が、そこそこ大手のIT企業、「インサイトマッチ」に就職できたのは、ひとえに舞の真面目な性格と勤勉さのおかげである。
舞は小さな頃から本が大好きで、絵本、漫画、小説と、順調に文学少女へと成長していった。高校では古典の奥深さに目覚め、さらに究めたいと文学部に入学し、大学時代は時間さえあれば、それこそ休み時間も休日も、ずっと本を読んでいた。
専攻は古典文学だが、興味のままあらゆるジャンルを手にとり、現代小説含め、恋愛ものや推理小説、冒険もホラーも何でもござれの本の虫になっていく。本の世界にどっぷりと浸かり、読後の余韻に浸る時間が至福だった。
大学二年の夏、たまたま古本屋である本を手にとった。タイトルに惹かれ、どんな話なのかとその場でパラパラとめくってみると、書いてあることが全くわからなかった。明らかに小説ではないことだけはわかったが、英語のような、数学のような、不思議な文字列に、舞は強烈に惹かれた。
「本は出会い」だと、舞は思っている。たまたま手に取った小説のおかげで、新たなジャンルの面白さを知り、そこから自分の世界が広がっていく瞬間は、何度味わっても代えがたいものがある。今までの経験則から、舞はそう学んでいた。
今回も、舞はそこに賭けてみようと思った。こんなわけのわからない本、読み解いたらきっと楽しい。勢いで購入し、舞は何日もその文字列を指で追って楽しんだ。
今となっては、なんてことはない、それはコンピューター言語の本だったわけだが、この出会いのおかげで、舞の人生は大きく変わることとなった。
一転してプログラミングに興味を持った舞は、他大学の一般向け講座やプログラム入門、情報基礎なども受講し、様々な言語の本を購入して学び、大学卒業後の進路を、司書からプログラマーに変えた。
IT系の仕事は、たしかに工学系の大学出身者が多いが、それでも自分のような文系出身者がいないわけではない。
努力を惜しまず真面目に学ぶ舞は、教育係の先輩の指導の元、大変ながらも充実した毎日を過ごしている。
定時であがらせてもらう分、自宅でも業務の確認は忘れずするし、プログラミングの勉強も続けている。
だから舞は、早くこの得体のしれない男性から逃れて、帰宅後の時間を確保しなければいけないのだ。
振り返った舞の目に最初に映ったのは、着崩したワイシャツだった。
そして鎖骨が見えるほど外されたボタンに、かろうじて引っかかっているネクタイ、さらにはぺったんこの軽そうな鞄。
この時点で、舞は「終わった!」と心の中で叫んだ。
中学、高校、大学と、明らかに付き合ってはいけない人種という者が確実にいる。それはただ単にカースト上位のキラキラしたグループだったり、素行が悪く年齢にそぐわない言動をしている人たちだったり。
本人の良し悪しというよりも、確実に舞とは合わないだろうという人種だ。
今、舞の腕を掴んでいるこの男性は、明らかにその人種である。
舞を捕まえている理由はきっとこうだろう。何かが気に入らないとか。何かをさせようとしているとか。
振り向いたまま固まった舞に、その男性は
「おねーさん?」
ともう一度呼び掛けてくる。
舞の腕を掴む手に、さらにぐっと圧力がかかったような気がした。
舞は、どうせ逃げられないなら、と意を決して顔を上げた。そして再びヒュッと喉を鳴らしてしまう。
彫刻のように整った顔が、舞の目の前にあった。
ひげのないすべすべの肌に、意思の強そうな瞳、きりっと上がった眉に、通った鼻筋と、薄い唇。きらきらと輝く金髪が、こんなにも似合う人がいるだろうか。
「やっとこっち見た」
にこにこと笑った顔にはややあどけなさが残っており、男性的な外見に、少年のような人懐っこさが見え隠れする。
舞はさっきまでぐるぐると不安に押し潰されそうだったことも忘れ、思わず、じっと彼を観察してしまった。
実際の経験はなくても、舞は本の中で何度も経験している。
見知らぬ素敵な男性から、突然声をかけられ、そこからラブストーリーが始まる。
「おねーさん、ねえ、俺と付き合おうよ」
そう、そうやって関係が始まるのだ。今、目の前の男性は、舞の想像通りの台詞を言っている。
しかし、これは本の中じゃない。現実の話だ。
今声をかけられているのは、特別な美貌を持つ女の子でも、飛び抜けた能力を持つ女性でもない、ただのプログラマーの卵、どこにでもいる新入社員。
──そうか、からかわれてるんだ……
舞はやっとこの男性の意図を汲み取った。
それさえわかってしまえば、少しは冷静になれる。しかも落ち着いてよく見てみると、彼が着ているのは制服だった。
舞のオフィスは駅の北口、オフィスビルやコンビニ、ランチにちょうどいい飲食店などがある。対して南口には、高校に専門学校、本屋や雑貨屋、チェーンのファミレス店などがあった。
舞が南口の本屋に行ったとき、この制服をよく見かけたことを思い出す。
ということは、信じられないことだが、この子は高校生だということになる。
──なんてこと、いくらなんでも、高校生にからかわれるなんて
リクルートスーツを着て、最低限とはいえきちんと化粧もしているのに、この男の子には自分が社会人だとわからないのか。もしくはわかったうえで、あえて自分を選んでからかっているのか。
舞はあまりの情けなさに、小さくため息をついた。
そして、一刻も早く家に帰ろうと決意する。
自分のどのような部分が、この子に「からかってもいい対象」だと思わせたのかはわからないが、ここは毅然と拒否しなければいけないと、舞は自分に気合いを入れる。
大人として、社会人として!……でも穏便に、地味に速やかに……。
「あの……」
「うん?」
「すみませんけど、忙しいので……」
そして舞はさり気なく掴まれている腕を引いた。しかし、舞の腕はびくともしない。
掴まれている部分に痛みはないが、絶妙に逃げられない力がこめられている。
──やだ、どうしよう
さすがに舞は少し怖くなった。これ以上何かされたりしないだろうか。
思わず周囲を窺うと、通りには仕事終わりの会社員がたくさんいる。いざとなったら叫ぼうと舞は決めた。
恥ずかしいとか、情けないとか言ってる場合ではなかった。
「あ、あの、離し……」
警戒しながら視線を目の前の男の子に戻すと、彼は、舞の予想とは全く違う表情をしていた。
唇をきゅっと結び、真剣な眼差しで舞を真っ直ぐに見つめている。食い入るように、という表現がぴったりの、熱のこもった眼差しだった。
そして苦しそうに眉を寄せて、掠れた声で懇願する。
「本気なんだ。お願い、俺と付き合ってください」
舞から視線を外さずに、同じ言葉を繰り返す彼に、舞は戸惑いを隠せなかった。
真剣な表情は舞をからかっているとは思えない。だが、初対面の自分に、突然ここまで執着するのはどう考えてもおかしい。とても信じられない。
「もう彼氏いる?お試しでもいいから、お願いします」
「あの……」
「ね、本気なんだ。俺と付き合って」
距離も近く迫ってくる彼に、舞はパニックになる。
やっぱりからかっているんだ。慌てる自分を見て楽しんでいるんだ。
舞は勝手にそう結論をだすと、今度こそ渾身の力で腕を振りほどき、
「す、すみませんっ!!」
拒絶の言葉を叫んで逃げた。
パンプスで走りにくくても、どんなにみっともなくても、舞は振り返らずに駅までの道を走る。
改札に駆け込んでから、荒い呼吸もそのままに来た道を確認する。
幸い、目立つ金髪は見えない。追いかけられてはいないようだ。
それでも舞は、少しでも早く帰りたいと、ホームまでまた走った。
これが運命の出会いになると、知っているのはただ一人だけ。