偶然と必然
「ときにエマよ、モンテカルロの誤謬って知ってるか?」
「……知らねえよ。今忙しいから話しかけんな」
ヒゲを生やした中年のオヤジを見向きもせず、あたしは商売道具のキーボードにエアーダスターを吹き掛ける。
「モンテカルロの誤謬ってのは、その昔ラスベガスのモンテカルロ・カジノで起こったゆゆしき事件でな、……」
まーた始まったよ、このオッサン。聞いてもないのにうんちくを垂れ流しやがって。しかも、始まると長ぇんだよ。ありがたい神父の説教でもなけりゃ、選挙前の大統領演説みたいに聞き入る魅力も無ぇ、中身の無いその辺のネットに転がってるような浅い知識をダラダラと無理矢理耳にねじ込んで来やがる。
「ルーレットって基本赤か黒だろ?2連続で同じ色が出る確率は4分の1。3連続だと8分の1。エマ、モンテカルロ・カジノで同じ色が何回連続出たと思う?」
「さぁな。興味ねぇ」
あたしは少し苛立ちながら空になりかけているエアーダスターのスプレー缶をわざとドンッ、と大きな音を立てながら机に置いた。
このオッサンにイライラしているのもあるが、昨日からキーボードの「enter」が上手く押せなくなって、ついにさっき全く効かなくなったこともムカついてる要因の一つだ。仕事にならねぇ。依頼の返信メールも打てないし、Web検索も一苦労だ。いつもなら、こいつのくだらねぇうんちくなんざ、このパソコンでちょちょいと調べてこのオッサンを黙らせられるんだが、今はそれを問屋が卸さない。
「27回だ。連続で黒に。その確率は6600万回に1回。考えられるか?まさに天文学的確率ってわけだ」
「だから何だってんだ。たまたまだろ」
「世間じゃ『偶然』で片付けて笑い話になってるが、本当にたまたまだと思うか?俺は何か裏があるんじゃねぇかって思う」
「はっ、何を言い出すと思えば。胡散臭い見た目の奴が陰謀論唱えるんじゃねぇよ。Qアノンも真っ青だぜ」
鼻で笑いながらキーボードの差し込み口をパソコン本体に繋ぎ直して、直ったか試しにメールの下書きのタブを開いて文章を打ち込んでenterキーを押してみた。……ダメだ、クソ!このキーボードめちゃくちゃ使いやすかったのに。廃盤になってるから新しく買い直せねぇしよ。クソ!
「世の中には因果関係ってもんがある。今お前が直してるキーボードだって、壊れた原因が何かあるわけだ。心当たりはないか?」
「……んなもんねぇから必死に色々試してる最中だろうが!あぁ?あんまりおちょくってると、殺すぞ」
あたしはジャケットの内ポケットからスタンガンを取り出して威嚇しようとした、つもりだった。スタンガンを持った左手の小指を小型のナイフが掠めた。指に血が滴る感覚と、額に嫌な冷や汗がじんわりと滲む感覚が、同時に襲いかかる。そして凍てつくような視線をオヤジが向けてきた。こいつ、次はマジで手の甲を狙いに来る。
「……もっとよく『考えろ』クソガキ。パスカル曰く、『思考が人間の偉大さをなす』だ。頭に血が上っちゃあ、出来るはずの冷静な判断も出来なくなる。因果関係も雇用関係についても、な」
「……チッ。わかったわかった、申し訳なかったですリュウさん」
棒読みでそう言った、いや言わされた。こいつにはやはり敵わない。
リュウ。この男はそう名乗っている。顧客に名乗るときも、あたしを雇い入れたときもその名を使っていた。本名かどうかは分からない。不揃いに伸びた顎ヒゲと、似合ってもない銀縁の丸メガネをかけた、端からみたら怪しいただのオジサン。だが、見た目からは到底想像出来ないほど俊敏な動きをこんな風にたまに見せる。
「まあ、原因を追及したところで今は仕方ない。似たような代物を探して、俺が買ってきたから、これ使え。金はいらねえ」
そういってオッサンは段ボール箱から新しいキーボードを取り出し、あたしに放り投げた。なるほど、なかなかに今までのものに似た造りだ。打感も……結構良い感じじゃねぇか。わざわざあたしのために、探して買ってきてくれたんだな。良い上司だと初めて思ったかもしれない。……いや、待てよ?
「おい、なんで新しいキーボードが用意してあるんだよ、壊れたって知ったの、ついさっきだろ?」
「……あ、あぁ、それは、消耗品だからストックをだな」
「タバコ無くなってから買いに行くようなやつがそんな気の利くことするか?てめぇ、まさか……」
あたしは壊れたキーボードのenterキーの蓋を、投げられたナイフで、てこの原理でこじ開けた。……やっぱりだ。
「おいおい、なんだこの黒いシミは?まるでどこかの誰かがミスっていつも飲んでるブラックコーヒーを溢してしまったような跡だなぁ?おい!」
「だから!新しいのを自腹でやるっつってんだろ!悪かった!すまん!」
あたしは「本業用」のスタンガンを逆の内ポケットから取り出した。……観念ならねぇ、こいつが雇用主だろうが上司だろうが年上だろうが関係ねぇ。処す。亡き者にする。殺す。
ピンポーン
すると、事務所のインターホンが鳴る。オッサンもあたしもその呼び鈴を皮切りに動きを止めて玄関の方を見る。だが、あたしたちはあえて返事をしない。ここから先の動向で対応が変わるからだ。
ピンポーンピンポーンピンポーン
3回、鳴った。あたしは悲嘆のため息を、オッサンは安堵のため息を漏らした。
「依頼だ、エマ」
「……チッ、はいはい、出るよ」
あたしはインターホンの電話口に立って話しかける。
「受付番号は?」
「45329。山口です」
「了解」
玄関に向かいドアを開けると、冴えない30代とおぼしき細身の男がそこにはいた。ヨレヨレの背広に曲がったネクタイ。髪はボサボサで何日間も風呂に入ってないのか、悪臭が鼻をつんざく。清潔感という言葉とは程遠い見た目だった。オッサンと良い勝負の見た目のやばさだな、こいつ。これで既婚者とは、世の中何があるか分かんねぇなという心の声が伝わったのか、男は重そうに口を開いた。
「すみません、妻が風呂に入ったら歯を追加でへし折ると言うものですから……」
「そういうプレイが好きなのか?」
「とんでもない、メールでの内容の通りで……」
「冗談だっての。さあ、あがってくれ」
あたしはサラリーマンのようなみてくれのそいつを客間に通した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「で、要は自分で妻を殺すから、その日のアリバイをウチで作ってくれって、そういう話でいいんだな?」
「そうです、リュウさん。もう、私限界なんです。毎日毎日虐げられて、罵倒されて、人権なんてとうの昔に剥奪されてて。でも、私が捕まるなんておかしい。だから『絵描き』をしてほしいんです」
「なるほど、なるほど」
オッサンはタバコをプカプカふかしながら、天井を仰いだ。オッサンが差し出した新しいタバコにあたしは火をつけながら、依頼者の顔をまた注意深く見た。なんて幸の薄そうな顔なんだ。頬には青アザ、首元には火傷の跡が数ヶ所ある。形から見るに、アイロンとタバコってとこか。手首には数ヶ所切り傷がある。なるほど、自殺も視野に入れてたけど、なんで自分が死ななきゃいけないんだって火がついたわけだ。にしても、痩せすぎじゃないか?ベルトも変な穴の位置で止めてるし、こいつは相当キてるな。なんでこんなになるまで追い詰める?理解できねえな。ほんとに。
「で、どうやって殺すんだい?」
「包丁でめった刺しにしようと思っています。憎すぎてバラバラにもしようかと」
「おいおい、待ってくれ。ウチにもできることとできないことがある。あまり派手にやってくれると、こっちまでお縄につくことになる」
「依頼料は、言い値で払います!私は、あの女を絶対に許さない!だから!」
そう、この男は依頼料を言い値で払う、とメールに書いてあったから、あたしが優先的に依頼を受諾した。
山口樹。大手食品メーカーの課長を勤めるエリート、だった男。数年前、大学の同級生だった美香と結婚した直後、勤め先の食品偽造がニュースで大々的に取り上げられ、株価が大暴落。その食品がたまたま彼の部署の部門であったことから、整理解雇の対象となりリストラされる。その後美香は依頼者を毎日のようにDVするようになり、この有り様だというわけだ。
おそらく美香は、金目当てで結婚したからこその仕打ちなんだろうが、あまりにもこいつが不憫だよ。たまたま解雇の対象になっただけなのにな。
「1億」
「……え?」
「1億円で引き受ける。言い値なんだろ?払えないんなら、帰った帰った」
あたしは思わず口を挟もうとした。同情なんて性に合わないが、これじゃああまりにもこいつが救われない。
「お、おいオッサン。からかうのはあたしだけにしろって、な?」
「エマ、俺たち『絵描き屋』は完璧なアリバイを作って提供する。ときに指紋を捏造したり、ときにカメラの映像を合成したり。今回は話利く限り、ぶちまける範囲が広すぎて尻拭いしきれねえよ。それともなんだ、お前が全部責任もってやってくれんのか?あ?」
オッサンはまたナイフを投げたときのような鋭い目でこちらをギロリと睨んだ。
仕事の件になるとオッサンはかなりストイックになる。失敗は絶対に許されないというプロ意識からだとは思うが、あたしが容易に口出しすると、マジで殺されかねない。だから基本、言われたことしかやらない。でも……
「やるよ」
啖呵切ってすくっと立ち上がった。かっこつけて言ったつもりだったが、多分声は震えていたと思う。
「ほう。言うようになったなお前も」
「あたしは……許せないんだよ。自分の勝手な理由で無差別に暴力を振るうやつが。オッサンが引き受けないなら、あたしが、やる」
武者震いなのか恐怖による震えなのか分からないまま、しゃがみこんで依頼者の顔を覗き込んで尋ねる。
「あたしなら、半額の5000万でやる。どうだい、山口さん?」
「5000万円で、ほんとに、ほんとに妻を殺したあとの完璧なアリバイを作ってくれるんですよね?5000万円なら、なんとかして払います」
すると、オッサンは突然ソファーから立ち上がり、わざとらしく大きな声で笑いながらゆっくりと拍手をし始めた。
「ならば、交渉成立だ。山口さん、助手のエマと打ち合わせをして当日を迎えてくれ。なお、この契約は機密性が非常に高いため、何かしらの原因で外部へ漏れた場合……」
「お前ら二人を消して俺のアリバイとする、いいな?」
いつの間にか背後を取られていた。あたしの喉元に右手のナイフ、依頼者の頸動脈付近に左手のナイフが添えられた。さすが元軍人、その気になればいつでも殺せるってか。てか、あたしも殺されんのかよ。それは聞いてねえぞ。
「わかりました。……よろしくお願いします」
依頼者は真っ直ぐな瞳であたしを見つめた。その瞳の奥には、生半可なことでは消せやしない怨嗟の炎が宿っていた。