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香月清司

香月清司(かつききよし)略歴


  明治 十四年 佐賀県に生まれる

  明治三十五年 陸軍士官学校卒業

  大正  元年 陸軍大学校卒業

  大正 十二年 陸軍大佐

  昭和  四年 陸軍少将

  昭和  八年 陸軍中将

  昭和  十年 第十二師団長

  昭和 十一年 近衛師団長

  昭和 十二年 支那駐屯軍司令官

         第一軍司令官

  昭和 十三年 予備役


 本日は殿下の御前でございますから遠慮なく、ありのままを率直に申し上げたいと思います。もとより、すでに退役したこの身です。何も隠し立てすることはございません。あるいは、お聞き苦しいこともあるかと存じますが、どうぞお聞き逃しを願います。

 盧溝橋事件が発生いたしましたのは昭和十二年の七月でしたが、その直前の五月、わたくしは満洲北支方面を一ヶ月かけて視察いたしました。すでに支那駐屯軍司令官の内命を受けておりまして、その下準備でございました。帰国したわたくしは陸軍三長官に次のように報告いたしました。

 北支の情勢は逼迫しているので熱河省方面の兵力を増強し、万一の事態に備える必要がある。特務機関や軍事顧問や駐在武官などの各種機関が支那駐屯軍司令部によって統一管理されていないのは不都合である。北京郊外で初年兵を訓練しているが、これは支那人の侮蔑を招きかねないので中止すべきである。しかし、三長官の反応は鈍く、これといった指示はございませんでした。ともかく、わたくしとしては北支情勢をひととおり頭に入れることができたのでございます。

 ご承知のように、七月七日に北京郊外では盧溝橋事件が発生したのですが、そのときわたくしは東京におりました。その四日後です。午前四時半、陸軍省人事局長の阿南中将から電話があったのです。

「貴官は支那駐屯軍司令官に親補せらる」

 謹んで大命を奉じますと応答したわたくしは、午前七時半、陸相官邸に出頭し、杉山元陸軍大臣と梅津美治郎陸軍次官から指示を受けました。それは形式張ったものではございませんでした。

「ともかく困ったことになった。ご苦労なことだが根本方針を不拡大において現地で解決してもらいたい」

 こうおっしゃる杉山陸相に対しまして、わたくしは次のように意見を申し上げました。

「これは支那側の計画的行動ではありますまいか。したがって、現地解決というような生温いことでは片が付かないかも知れません」

「かも知れぬが、ともかく現地に行って様子を見て現地解決してほしい」

 そう言われて、わたくしには幾つか疑問が浮かびましたので二つ三つ質問したのでありますが、杉山陸相は「急いで行け」、「不拡大」、「現地解決」と繰り返すばかりでした。冷や酒で乾杯をした後、わたくしは陸相官邸を辞し、参謀本部へ向かいました。

 参謀本部では参謀総長の閑院宮載仁親王をはじめ、参謀次長、第一部長、第二部長、第三部長が列立し、別室には多くの部員が集合してわたくしを出迎えてくれました。参謀次長の今井清中将の説明によると任務は二つありました。

 ひとつは渤海湾から北京にいたる交通線を確保し、主要都市に所在する帝国官民を保護することです。これは支那駐屯軍司令官の通常任務であります。そして、もうひとつ任務がありました。

「新たに増加せらるべき兵力を併せて指揮し、本任務を実行すべし」

 今井参謀次長によれば、内地三師団のほか朝鮮軍と関東軍からも増援がくるとのことでした。これら新戦力を指揮するのが新任務だったわけですが、具体的に何をするのかは判りませんでした。

「細部に関しては各部長をして指示せしむ」

 とのことだったのであります。ともかく戦略単位の大兵団がわたくしの指揮下に入るわけであります。そこで、わたくしは疑問を口にいたしました。

「さきに陸軍大臣から不拡大の方針を指示されております。一方では不拡大と言いながら、他方では大兵団を集中する。これは矛盾ではありますまいか」

 わたくしの質問に対して今井参謀次長はハッキリと回答してくれました。

「参謀本部では増派が必要だと考えている。この増派部隊を以て山東方面に作戦する予定である」

 確かに今井参謀次長の言うとおりでありました。数十万の支那軍に囲まれている支那駐屯軍の兵力は、わずか数千名に過ぎませんでしたから、これに朝鮮から第二十師団、関東軍から第一独立混成旅団と第十一独立混成旅団、内地から第五、第六、第十師団を増派するというのは必要にして十分な増派計画でありました。

 ただ、当時のわたくしが感じました懸念は、陸軍省と参謀本部との間に意見の食い違いがあるらしいということであります。さらに、政府と陸軍の間にも合意がなさそうだという感触がございました。現場で指揮をとる軍司令官としては、後顧の憂いなく、眼前の敵と戦いたいのでありますが、当時の状況では、どうしても後方の上級司令部の情勢を気にせざるを得ませんでした。さらにわたくしが頭を悩ませたのは現地交渉です。現地解決せよというからには、現地の支那軍閥と交渉し、合意をつくらねばなりません。政府を代表しての外交は軍人には荷の重い任務です。

 その日の午後、わたくしは立川飛行場を発ちましたが、荒天のため京城に一泊しました。このとき「北支派兵に関する日本政府の声明」に接しまして、政府の態度を了解したのであります。その声明によれば現地交渉は決裂している様子でありました。しかも政府は「今事件は全く支那側の計画的武力抗日なることもはや疑いの余地なし」と断定しておりました。それでも政府声明は「交渉の希望を捨てていない」としておりましたから、わたくしは現地交渉をせねばならぬと覚悟を決めたのでございます。

 翌十二日の早朝に京城を発ち、正午に天津に着き、支那駐屯軍の司令部に入ったのは午後二時でした。さっそく支那駐屯軍参謀長の橋本群中将から現状報告を聞いたのでありますが、現地交渉がまとまりつつあるとのことでした。交渉相手は第二十九軍の宋哲元(そうてつげん)であり、支那側が日本に対して謝罪し、責任者を処罰し、今後の安定を確約するという好ましい内容でした。わたくしは直ちに橋本参謀長に命じ、参謀会議を開かせました。

「支那駐屯軍は何をなすべきや」

 という主題で参謀たちに議論をさせました。軍の方針について司令部内に合意を形成しておくことがわたくしの意図でした。会議は紛糾したようです。参謀それぞれ見解が違っていたのです。現地交渉は有望だとする意見、一戦やむなしとする意見、宋哲元は信用できるとする者、全く信用できないとする者、侃々諤々(かんかんがくがく)の様子でございました。わたくしは、紛糾する参謀会議の様子を横目で見ていて、

(これでよし)

 と思っておりました。新任軍司令官のわたくしとしましては、各参謀の性格を知る必要がありました。すべての参謀たちに意見を吐かせ、誰がどんな考えを持っているかを確認できました。そして、皆に納得のいくまで議論させ、司令部内に一定の合意をつくりあげておくという狙いもありました。

 参謀たちは深更まで議論を重ね、翌早朝、「七月十三日における支那駐屯軍状況判断」という文書を作成してくれました。これを一読したわたくしは、全面的に同意し、この方針を全部隊に徹底するよう指示を出しました。これによって支那駐屯軍の意思統一を図ったのであります。

 その状況判断の内容を簡単に申し上げれば、支那駐屯軍の数少ない兵力を要地に集中させておき、万一の場合には迅速な機動作戦を実施できるように準備する。これとともに現地交渉を進めるということでございました。

 現地解決できるか、戦端が開かれるか、予断を許さぬ状況でございましたので、わたくしは万一の事態を覚悟しておりました。しかし、是が非でも現地解決せねばならぬと考えるようになったのは十四日です。この日、侍従武官長の宇佐美興屋中将の信書が軍司令部に届いたのです。畏れ多くも陛下におかれましては事変の拡大を深く御憂慮なされているとの内容でございました。わたくしは、この信書を橋本参謀長にも見せ、次のように指示しました。現地交渉を進めて宋哲元に協定の履行を徹底させること、我が軍と支那軍との距離をできるだけ離隔させること、朝鮮から増派されつつある第二十師団を天津にとどめ、北京の支那軍を刺激しないこと、などでございます。現地軍司令部としてはギリギリの増兵抑止措置でした。

 同じ日、陸軍中央から「事変処理に関する方針」が電報されてまいりました。その内容は、現地解決の方針を堅持すべし、しかし支那側に協定履行の誠意なき場合には膺懲(ようちょう)すべし、というものでした。従来の方針と同じ内容でしたので「なにをいまさら」と思いました。それから、わたくしとして承服し難い一項目がありました。

「兵力使用の場合には中央部の承認を受くべし」

 これは心外でございました。いやしくも軍司令官の身であります。兵力使用の判断は軍司令官の権限であるのは当然であるのに、どうして改めて中央の承認が必要なのか。そんなことで緊急事態に即応できるのか。わたくしは大いに不満を感じたのであります。

 翌七月十五日、参謀本部の中島鐵蔵少将と陸軍省の柴山兼四郎大佐が天津に飛んできました。わたくしは、ふたりに疑問の点を聞き質したのであります。

「支那駐屯軍と軍中央とで状況判断に差異があるのか、ないのか」

「差異なし」

「ならばなぜ、屋上屋を重ねるかのごとき方針を出したのか」

「これは中央の事情によります。陸軍省と参謀本部においては硬軟両論が入り乱れ、容易に一致せぬ状況です。よってやむを得ず、省部の部局長にて談合し、この方針を決め、軍中央の方針としたのです」

「事情は了解するが、穏やかではない。それでは出先は実に困る。出先の意見に重点を置いてもらわぬと処理ができぬ。支那駐屯軍は中央の指示どおり不拡大と現地解決に努めている。しかし、支那側の計画的挑発が続くならば不拡大方針を放擲せざるを得ぬ事態も生ずる。その場合、小官は現地将兵と生死を共にする覚悟である。小官は不拡大方針にあわせて最大限の措置をとっている。これにご不満があるのならば具体的にご指摘くださるよう、帰庁の上、報告されたい」

「了解しました」

「なお事変処理方針中、兵力使用に関してはあらかじめ中央部の承認を受くべし、とあるが、この承認とは何か。参謀総長の承認か、それとも陸軍大臣の承認か。もし陸軍大臣の承認が必要だとするなら、これは統帥権干犯ではあるまいか。そもそも軍司令官の統帥権限は畏くも天皇陛下より付与されるものであって、陸軍大臣といえども容喙(ようかい)すべからざるものだ。突発事態が発生した場合、参謀総長と陸軍大臣にそれぞれ状況を報告して、それを省部で検討し、総長と大臣の連署をもって兵力使用が許可されるとすれば、小官としては状況に即応できない。いったい何のためにかくのごとき方針を設けられたのか。小官、憂慮の念を禁じ得ず。不肖といえども香月はロボットに非ず、木偶の坊に非ず。貴見如何」

 わたくしの詰問に対して中島少将は「同感です」と答えましたので、一応、わたくしの怒りも収まりましたが、軍中央に対する気苦労を強いられるのは実に苦々しいことでありました。

 会見後、中島少将は中央に対して「軍司令官および軍参謀長は事変不拡大に努力しあり」と打電していたようでありますが、「当たり前だ」と怒鳴りつけてやりたい思いでありました。

(中央はいったい何を心配しておるのか。そんなに俺が信用できないのか)

 そんな気持ちでありました。

 さて、問題の現地交渉であります。わたくしは十八日、天津偕行社において、支那第二十九軍の宋哲元と会見したのであります。宋哲元は盧溝橋事件の発生を謝罪し、恭順の意を示し、現地協定の履行を約束しました。その数日後、宋哲元から連絡がありました。

「協定履行を部下に徹底させるため北京へ赴きたい」

 そう言うので、わたくしはこれを諾しました。

「何ら異存なし。速やかに協定を履行させるべく部下に徹底せられたし。なお、北平特務機関長の松井太久朗大佐と密に連絡をとられたし」

 そのように伝えておきました。宋哲元の第二十九軍が現地協定を守りさえすれば現地解決ができるのですから、わたくしは疑いを抱きつつも、宋哲元に一定の信をおいておったのでございます。

しかしながら、これは後に判明したことですが、宋哲元が日本軍との協定を守ろうとしたのに対し、蒋介石が妨害工作をやっていたようであります。

 二十一日、参謀総長から意外な電報が届きました。

「内地動員中の三個師団をいかに使用するか」

 との質問でした。これを見たわたくしは、陸軍中央が明確な作戦方針を持っていないことを知り、少なからず驚いたのでありますが、ともかく現地軍としての考えを伝えておきました。宋哲元が協定を守れば現地解決の希望がありましたから、わたくしは次のように返電いたしました。

「日本が不拡大方針を放棄せぬ限り、内地師団の一部を朝鮮および満洲に、主力は内地に待機せしめるを要す」

 支那軍を刺激しないためには内地からの師団派遣を延期する方が良いと考えたのであります。

同時に、情勢が緊迫しておりましたから支那駐屯軍の現有兵力による作戦を考究いたしました。わたくしのもとには、支那駐屯歩兵旅団、第二十師団、臨時航空兵団のほか、関東軍から来援した独立混成第一旅団と同第十一旅団がありました。総兵力は二万三千ほどです。わたくしは、支那駐屯歩兵旅団を通州と豊台に、第二十師団を天津に、独混第一旅団および第十一旅団を北京の北郊に配置しておきました。

 もし不幸にして日支間に戦争が始まるとしたならば、緒戦は是が非でも勝たねばなりません。そこで数少ない兵力を要点に集中しておき、いざという場合には疾風迅雷的な機動作戦を実施すべく計画を立てました。目標は北京とその周辺地域の平定です。

 なお、その際、居留民と交通線の保護をどうするかが問題でした。悩んだのですが、兵力が不足していたため割り切るほかはありませんでした。

「作戦中は一時的に居留民保護と交通線保護を放棄してよい」

 と参謀に指示しておきました。

 

 廊坊(ろうぼう)事件が発生したのは七月二十五日です。廊坊駅において通信設備補修中の我が歩兵中隊が支那軍から銃撃を受け、多数の死傷者が出ました。わたくしは直ちに陸軍中央に対して兵力使用の指示を仰ぎつつ、その返答を待つことなく天津から第二十師団の一部を廊坊に駆けつけさせました。わたくしは中央からの返信を待っておりましたが、中央は何も言ってきませんでした。ただ参謀本部第一部長の石原莞爾少将から電報が届きました。

「徹底的に膺懲せらるべし。上奏等いっさいの責任は参謀本部にて負う」

 わたくしにとっては心強い電報でしたが、他方、軍中央の混乱ぶりが目に浮かぶようでございました。その後、支那軍の挑発は止むことなく、北京の近郊でも小さな事件が何件か発生しました。このため翌二十六日、わたくしは宋哲元に対して強硬に抗議を申し入れたのであります。

「現地協定を履行せよ。兵力を引き上げさせよ。これを二十八日正午までに実施せよ。さもなくば誠意なきものとみなす」

 ところが、その日の夕刻、広安門事件が発生しました。我が歩兵部隊に対する計画的な銃撃でありました。ここに至ってわたくしは宋哲元に対する抗議を撤回し、「即刻自由行動をとる」と通牒したのであります。また、支那駐屯軍の各部隊には「二十七日正午から攻撃を開始せよ」と命令を下達いたしました。開戦の初頭に疾風迅雷的機動を実施して敵を撃滅し、以後の戦局を有利に導くのがわたくしの企図でした。

 ところが、ここにひとつの問題が起こってまいりました。北平特務機関から攻撃開始を一日延期せよと言ってきたのであります。北京には四千名を越える居留民がおりましたが、その避難が間に合わぬというのです。わたくしは迷いましたが、攻撃開始を二十時間だけ延期させました。軍事的には予定どおりに攻撃を開始したかったのでありますが、居留民保護が駐屯軍の任務であってみれば無視もできず、苦渋の選択でありました。

 攻撃は二十八日の朝から開始されました。第二十師団は天津から鉄道を利用して北上し、支那駐屯歩兵旅団は豊台と通州から行軍を開始、北京に向かいました。攻撃目標は北京南郊の南苑にある支那軍陣地でした。一方、独立混成第一旅団と同第十一旅団は北京北郊の支那軍を攻撃しました。

 作戦は順調に推移し、八月二日までに平津地方の平定を終えたのであります。しかし、必ずしもわたくしの狙いどおりというわけにはいきませんでした。わたくしの意図は、第二十師団と支那駐屯歩兵旅団が南苑に対して猛攻を加え、永定河方面へ逃走するであろう宋哲元を独立混成第一及び第十一旅団が捕捉するというものでありました。しかし、兵団相互の連絡不備などがあり、宋哲元を取り逃がしてしまいました。わたくしも軍司令官として日が浅かったし、各軍から寄せ集められた兵団による協同作戦はなかなかうまくいきませんでした。実戦で最大限の実力を発揮するためには日頃から人の和をつくりあげておかねばならず、そのためには軍編成を固定しておいて、平時から以心伝心の信頼関係を構築しておき、その軍団をそのまま実戦に投入するのでなければ作戦意図の達成は困難だと思うのであります。

 この間、大変に遺憾でありましたのは二十八日未明、各地で大規模な暴動事件が発生しておったということです。天津、太沽、通州で発生した襲撃事件の一報は、交通通信途絶のため、二十九日の午後になってようやく軍司令部に届いたのであります。どうしようもございませんでした。悔やんでも致し方のないことではございますが、予定どおり二十七日正午から攻撃を開始しておれば、あるいは防止できた暴動かも知れず、この点、十分に研究していただきたいところであります。

 支那第二十九軍を北京周辺から短時日のうちに撃退した我が軍の死傷は一千二百名にのぼっておりました。しかし、内地では通州事件に大きな関心が集まったようであります。日本人と朝鮮人あわせて二百名ほどの民間人が残酷な方法で虐殺された通州事件は、帝国議会においても議論の的になったようであります。

「用兵に欠陥あらざるや、現地軍の失態にあらざるや」

 帝国議会で追及の矢面に立たされた杉山陸相は、ついに「はなはだ遺憾」との答弁をなされたわけであります。その杉山陸相は、作戦遂行中のわたくしに対しまして「遺憾の意を表明せよ」と再三再四にわたって電話をし、また電報を送ってきたのであります。わたくしは少なからず失望し、あきれもし、立腹もしまして、これを拒絶したのであります。確かに通州において遭難した邦人の災難は甚だ不幸なことであります。しかし、支那駐屯軍としては不拡大方針のもと、兵力を最小限に抑制しつつ交渉を進めていたわけであり、何の失態もありません。責められるべきは暴動襲撃を働いた支那軍であり、支那保安隊であります。しかるをなんぞや。日本軍司令官に遺憾の意を示せとは。だれに対して、何に対して遺憾の意を表するのでありましょう。軍司令官がそんなことをすれば将兵の士気が阻喪し、作戦遂行中の軍の統率が弛みかねません。わたくしはあくまでもこれを拒絶したのであります。しかしながら、これが杉山元陸軍大臣の心証を悪くしたようであります。

 八月上旬、陸軍政務次官がわざわざ通州を訪れ、調査をしたようであります。わたくしの責任を追及するための証拠探しだったようであります。そのほか、代議士や新聞記者なども通州に来訪して取材をしておったようでありますが、通州事件の原因を支那兵の暴虐に求めず、日本軍の過失に求めようとする彼らの姿勢には辟易させられ、実に不愉快でありました。

 杉山陸相の要請を拒絶したことに関しまして、いま振り返りましても、やましいところはございません。しかし、杉山陸相の心証を悪くしたために、こののち何度も煮え湯を呑まされることになろうとは予想しておりませんでした。


 さて支那駐屯軍が北京城に入城したのは八月八日でしたが、八月十日、遠く上海において大山事件が発生し、日本政府は十五日に上海派兵を決定したのであります。これは戦略的な大変化でありまして、日本軍は北支だけでなく中支にも戦略兵団を展開することになったのであります。極東ソ連軍に備えつつ、支那との全面戦争に入るとなれば、事実上のソ支二正面作戦であります。しかし、そのような大作戦を遂行する兵力を日本陸軍は保有しておりません。したがって、北支駐屯軍の今後の作戦について中央から指示があってしかるべきだと考えていたのですが、なしのつぶてでありました。

 そこで、わたくしは次のように北支の戦況を判断し、それを参謀本部に意見具申したのであります。すなわち、北方の長城線から北支へ侵入する支那軍を撃退するため第五師団をチヤハル方面へ向かわせる。一方、第十師団を津浦鉄道線に沿って天津から南下させ、また第二十師団と第六師団を京漢鉄道線に沿って北京から南下させる。こういう作戦方針を立てまして参謀長の橋本群中将を東京に派遣して説明させたのであります。しかし、この意見具申に対して何の応答もありませんでした。

 そうこうするうち、八月二十六日、大規模な軍の再編が実施されました。北支那方面軍と中支那方面軍が設置されたのです。これに伴い支那駐屯軍は解消され、わたくしは第一軍司令官に任命されました。

 この軍再編に際して残念だったことは、歴史の長い支那駐屯軍司令部が完全に解消されてしまい、その資料もスタッフも雲散霧消してしまったことです。これは参謀本部の判断だったようです。北支那方面軍司令官の寺内寿一大将も、わたくしにこう告げられました。

「新しく方面軍司令部を編成するのでなく、既存の北支駐屯軍司令部の機構を拡大して北支の作戦を担当させる方が有利だと述べたのだが、採用されなかった」

 わたくしは寺内大将に全く同感でありました。支那駐屯軍をそのまま北支那方面軍に拡大しておけばなにかと至便であったと思います。ところが解消されてしまった。このため支那駐屯軍の残務整理をする組織さえありませんでした。実際、あのとき天津に大洪水が起こったのでありますが、支那駐屯軍司令部には洪水対策のノウハウがあったのであります。しかるに、いざというときにその書類もスタッフも行方不明になっておって役に立たなかったのであります。まことに残念でした。

 わたくしにしましても北支駐屯軍司令官となって一ヶ月、ようやく参謀たちとも気心を知り合うようになってまいりましたところ、優秀な和知鷹二中佐参謀と池田純久中佐参謀を失うことになりました。仄聞するところでは、この二名は対支強硬論者であったために後方へ下げられたということでした。

 このような人事のやり方は好ましくないと思うのであります。確かにふたりは強硬意見をもっておりました。しかし、参謀は軍司令官の幕僚であるに過ぎず、命令権はないのであります。決断し、命令するのはわたくしでした。議論の中で強硬論を吐く者がいても良いのです。わたくしは有能な部下を失い、司令部の意思統一を再びやり直すことになりました。作戦中の軍司令部では妄りに人事を動かさぬ方が得策ではないかと感じた次第でございます。

 何かと下剋上的風潮が云々される昨今でありますが、これは部下の問題というより上級指揮官の問題であるとわたくしは考えています。上官が部下に迎合するから下剋上が生まれるのであります。わたくしは、部下には大いに意見を言わせますが、最後の決断はあくまで軍司令官たるわたくしが決定し、その決定を部下に命令します。いやしくもその決断を部下に譲るような無責任は一度もしたことがありません。この点においては現場に近い司令部ほど統制がよく、現場から遠い後方の上級司令部ほど部下任せの風潮が強かったのではないかと観察しております。

 ともかく軍の再編がなされ、わたくしは第一軍司令官として北支那方面軍司令部の指揮を受けることになりました。第一軍に与えられた兵力は、第六師団、第十四師団、第二十師団、第百八師団および臨時航空兵団でありました。

 そのときは、北京周辺の平定が終わった段階でありました。わたくしは、北支の治安維持と内政とを有力な支那軍閥に担わせようと思いました。なにしろ軍司令部が軍事から外交から内政までやるというのは負担過重でした。それに北支の治安を支那軍閥に担わせれば日本軍の兵力を節約できます。宋哲元はすでに蒋介石に籠絡されておりましたから、これに代わる軍閥をさがしたのであります。支那通の参謀や支那浪人、また日本に留学した経験のある支那人などから知識を習得したのでありますが、いくつかの軍閥に意向を確かめたところ、呉佩孚(ごはいふ)萬福麟(ばんふくりん)などと連絡が付きました。

「日本軍に敵対はしない。日本軍の援助があれば蒋介石に対抗できる」

 との返事でありましたから、これら支那軍閥を支援して利用しようとわたくしは考えました。呉佩孚などは「日本軍の援助さえあれば、閻錫山(えんしゃくざん)も自分のもとに来る」と申しておりましたし、萬福麟はかつて陸軍大学校でわたくしの教え子だった男でございます。彼らは口先だけでなく、実際の戦闘においても戦闘開始前に自主的に退却して見せるなど、恭順の態度を明確に示しておったのであります。

 そこでわたくしは、呉佩孚や萬福麟との間に密約をなし、一定の機密費を与えて味方につけようと考え、軍中央に意向を打診したのであります。しかしながら中央からは何の返答もありませんでした。そうこうするうちに戦局が推移し、日本側が態度を明らかにせぬうちに呉佩孚も萬福麟も閻錫山も蒋介石側に寝返ってしまいました。

 話は飛びますが、わたくしが第一軍司令官を解任され東京に戻りました際、陛下に拝謁させていただき、戦況をご報告させていただいたのですが、そのとき陛下から御下問がありました。

「閻錫山はどうにかならぬか」

 わたくしは(ほぞ)()む思いでございました。わたくしに任せてくれていたら、どうにかなったのです。ともかく軍中央の支那軍閥に対する政略があまりに粗雑すぎたのではないかと感じております。


 軍編成のため八月中の作戦行動は一頓挫していたわけでございますが、九月から保定作戦が始まりました。第一軍としての初陣です。わたくしは九項目からなる軍司令官指示を発出し、幕僚及び各部隊長に撤退させました。その中の一項目でわたくしは次のように軍司令部参謀たちを戒めました。

「会戦のあいだ絶えず第一線に赴いて相互の連絡を密にすべし。その際、第一線兵団長、ことに師団長に対してはその人格を尊重し、絶対に督戦または督戦的の言辞を弄すべからず。また、参謀の立場にして軍命令を下達することなかれ。ただ師団長の判断材料となるべき情報を伝達すべし」

 軍司令官が手綱さえ締めておれば、参謀たちは実に優秀な部下となってくれます。幸い作戦は順調に推移し、九月下旬には保定の攻略が終わりました。その一因は敵軍の中に先ほど申しました萬福麟がいたためです。攻撃開始の前に支那軍は自主的に退却を始めましたので、我が軍はこれを追撃するだけでした。

 なお方面軍司令部からは何ら作戦指導もなく、これといった指示もございませんでした。よって第一軍司令官には大いなる裁量権が与えられていたと信ずるのであります。にもかかわらず、作戦終了後、北支那方面軍司令部においては第一軍が突出したため敵軍を包囲殲滅する機会を逃したとの評価がなされているとの風聞が伝わってまいりました。

(まさか)

 とは思いましたが、実に不愉快でもあり、部下の士気に影響するのではないかと心配でもあり、方面軍司令部に対して少なからず不満の念を生じたことは確かであります。適時適切な命令を与えもせずにいて、後になってから徒に愚痴を述べるとはいかなる了見か。もしこの風聞が事実だとするなら方面軍司令部はどうかしていると思いました。

 保定占領後、第一軍はさらに南下を続けました。次の目標は石家荘でした。石家荘の陣地には敵の大部隊が籠城しておったのであります。

 第一軍司令部は作戦を立案し、十月四日、命令を各部隊に下達するとともに、方面軍司令部にも報告しておきました。方面軍司令部から十月六日に命令が届きました。

「第一軍は適時攻撃を開始し、重点を石家荘に指向すべきこと。敵の退避を捕捉するに遺憾なきを期すべく、敵線を突破せば順徳付近に向かい急追すべきこと」

 方面軍の命令と第一軍の作戦計画との間には何らの矛盾もありませんでしたから、わたくしは作戦になんらの変更も加えませんでした。

 我が軍にとって好都合だったのは石家荘に例の萬福麟がいたことです。十月六日、萬福麟の指示により支那軍は退却を始めました。これに乗じて我が第一軍は攻撃を開始し、十日には石家荘を占領し、以後、追撃戦に移りました。その勢いはすさまじく、元氏、趙州、内邱と進撃し、方面軍の命令にあった順徳を越えてさらに猛進し、沙河、邯鄲、肥城、成安を抜いて、十七日に漳河の北岸に達し、ようやく進撃を止めました。これは(いくさ)の勢いというもので、これを利用するのが戦術であり、また止めようとしても止めようのないものであります。

 しかしながら、この間、方面軍からは現場の実情に合わぬ命令が次々と下されたのであります。十一日、追撃戦の主力たる第六師団に転用準備の命令がくだり、同師団は追撃を中止せざるを得なくなりました。第六師団は上海へ転用されました。また第十四師団と第百八師団には順徳以南への追撃中止命令が下されたのであります。とはいえ現場の将兵は奔流の如く勢いに乗っており、わたくしとしては勢いの赴くに任せて漳河まで進ませたのであります。

 わたくしは、いま思い返しても自分の指揮が間違っていたとは思いません。敵を追撃して戦果を拡大するのは戦術のイロハであります。しかるに、これが方面軍司令部の不興を買ったらしいであります。

 北支那方面軍の寺内寿一大将が第一軍司令部に来訪せられたのは十月十七日であります。当時、第一軍司令部は石家荘にありました。追撃戦の直後でしたから、わたくしはいま一歩の追撃を意見具申したのであります。敵は大混乱に陥っておりましたから、あと一押しすれば敵は漳河の陣地を維持できない。騎虎の勢いで追撃すれば彰徳から新郷を陥れ、一気に黄河の線に到達することも可能な情勢でありました。ところが寺内大将は山西省の戦況を重視しておられました。当時、関東軍の東條兵団と第五師団が山西の山岳地帯で苦戦中だったのです。

「まずは太原攻略を実施する」

 これが方面軍司令部の判断でした。このため第一軍は南への進撃を止めることになり、第二十師団を西方の太原へ向かわせることになりました。

 第一軍は、先に第六師団を上海へ転出させられ、いま第二十師団を太原方面に割かれ、第百八師団の半数も方面軍直轄とされて後置されてしまいました。このため第一軍の兵力は半分以下に削減されてしまったのであります。もはや敵に対する追撃は不可能となったばかりか、順徳と石家荘のあいだに軍事的空白を生じてしまい、十月下旬以降、宋哲元軍の侵入を許すようなことになりました。第一軍に対する方面軍の措置は、第一軍の将兵を憤激させました。

「順徳線超過に対する処罰だろうが、あまりにもひどい」

 それから間もない十月二十一日、寺内方面軍司令官の命令が届き、わたくしが太原攻略を指揮することになりました。第二十師団を主力とする部隊は、まず娘子関を抜き、太原を目指して西進しました。第二十師団が南から、第五師団が北から太原を包囲する作戦でありました。

 第二十師団は十一月四日に太原の南郊に到達しました。第五師団が太原北郊に到達したのは六日であります。第二十師団司令部は太原城攻撃の許可を頻りに求めてまいりましたが、わたくしはこれを却下し、太原攻略の軍功を第五師団に譲らせたのであります。それというのも第五師団は北支の山岳地帯において難儀な山岳戦を長く続けてきており、損害も大きいと聞いておりましたから、太原攻略の名誉を与えてやりたいと思ったのであります。そのため第二十師団からはずいぶん恨み言をいわれました。

 太原攻略が成功しましたので、わたくしはただちに主作戦方面である平漢鉄道沿線に主力を移し、南方から侵入する敵軍を防止しようと考えました。そこで太原には第百九師団と第五師団を残し、第二十師団を石家荘に戻そうと考えたのであります。ところが方面軍司令部から「第五師団に休養を与えよ」との命令が下りましたので、第二十師団は太原を動けなくなりました。第一軍は作戦らしい作戦行動をとれなくなりました。

 どうもこの頃から第一軍に対する方面軍の干渉と拘束が激しくなったように記憶しております。方面軍からの命令が飛躍的に増えたのでありまして、しかも時機を失したものや現場の実情に合わないものが少なくありませんでした。第一軍司令部は、この対応に疲労困憊させられました。方面軍司令部に照会したり、さきに下達した命令を取り消したりで、敵ではなく方面軍に振り回されたのです。しかも、さきの命令を取り消すことによって現場部隊に少なからぬ混乱をきたし、このため第一軍司令部の信用が低下したりもしました。

 軍内の信頼関係に亀裂を生じたことは、わたくしがもっとも遺憾とするところであります。すでに申し上げましたとおり、わたくしは人の和こそが作戦遂行の最重要因子だと信じておりました。だからこそ軍司令部参謀を頻繁に現場に出し、意思疎通を密にさせ、督戦は禁止し、ひたすら情報提供せよ、と指導してきたのであります。そうやって第一軍が構築してきた人の和に混乱を生じたのであります。

 わたくしは幕下の参謀を方面軍司令部に派遣し、意見交換を緊密にさせ、円満なる協調関係の構築に努力させたのであります。しかるに方面軍司令部の幕僚は傲岸不遜な態度をとり、聞く耳を持たぬ風でありました。

「方面軍司令官は、軍司令官をあたかも一下士官と同様に待遇しあるの観あり。否、上等兵とみなしおるべし」

 と、憤激とともにわたくしに報告した参謀もいたくらいであります。方面軍司令部内の規律に大きな問題があったと言わざるを得ません。寺内方面軍司令官は後方の北京あるいは天津で料亭酒にふけっておったようでありまして、方面軍司令官の実権を参謀長の岡部直三郎中将に任せきりにしておったらしいのです。その自由放任が傲慢さを生んでいたようであります。

 岡部参謀長の傍若無人ぶりは、戦線視察のやり方に如実に現れておりました。岡部参謀長は現場に到着すると師団長に対して面接時刻を一方的に通告してきたのであります。現場で指揮をとっている師団長が時間を指定されても守れるはずがありません。それに、そもそも師団長が方面軍参謀に状況報告する義務はありません。あくまでも方面軍司令官が指揮権を有しておるのであります。

「なにごと、方面軍参謀長などに師団長が状況を報告するということがあるか」

 そういって激昂した師団長もいたようであります。さらに岡部参謀長は、参謀でありながら命令を下すという越権を平気でやっていたのであります。これによって現場はますます混乱させられました。第一軍司令部に岡部参謀長が来たときの言葉をわたくしは忘れることができません。

「軍司令官は暇で困るでしょう。何をしておられますか。方面軍では寺内軍司令官が退屈しないように本でも読ますようにしております」

 雑談中の放言とはいえ、わたくしは唖然たらざるを得ませんでした。方面軍司令部の弛緩ぶりには目に余るものがあったのです。

 方面軍の放埒な命令によって第一軍は散々に苦しめられたのでありますが、なかでも最悪だったのは石家荘会戦直後の措置であります。第一軍の保有する会戦準備弾薬をほとんどすべて他へ転用されてしまったのです。事変勃発以来、第一軍は弾薬の節約に努め、会戦準備弾薬を大切にしておったのでありますが、それをそっくりそのままとりあげられたのであります。

「ことごとく残存弾薬を引き渡すべし」

 との厳命でありました。確かに上海方面や山西方面において弾薬が不足しておった事情もわかります。とはいえ弾薬をことごとく吐き出してしまった第一軍はどうするのか。まさに茫然自失でした。敵が本格的な反撃を加えてきたら逃げるほかなくなりました。あのときは上から下まで全将兵が寒心に耐えなかったのであります。

 わたくしは参謀を方面軍司令部に派遣して何度も再考を促すよう働きかけました。しかし、第一軍の意見はことごとく無視され、しかも第一軍の弾薬補給は来年正月になると通告されました。その数ヶ月間、どうやって戦えというのか。第一軍は実質的に二個師団の兵力しか与えられておらず、それでいて平漢線方面と山西方面の二正面を担当させられ、しかも会戦用準備弾薬がないのであります。第一軍司令部の不安は極に達しました。司令部でさえそうでしたから、最前線の将兵はいかばかりでありましたろう。士気沈滞、戦意消耗もやむを得なかったのであります。

 幸いだったのは敵軍からの大規模な攻勢がなかったことであります。大事には至らなかったものの、運が良かっただけであり、統帥上の大問題だったと考えております。

 北支那方面軍司令部の横暴は、ほかにも数々ございました。たとえば戦闘序列すなわち軍編成は畏くも天皇陛下の御命令に基づくものであり、妄りに変更できるものではございません。ところが方面軍司令部は、第一軍司令部に無断のまま第一軍から部隊を引き抜くことを繰り返しました。例えば、野戦重砲兵第一旅団は第一軍の戦闘序列にありながら第二軍の隷下に属せしめられておりました。独立山砲兵第三連隊も第一軍の戦闘序列にありながら方面軍直轄の第五師団に属しておりました。また、石家荘会戦後、第六師団を上海方面へ転出させられたのでありますが、天皇陛下の御命令に先だって方面軍の直轄軍に編入されていたのです。こんなことでは第一軍司令官としては作戦指揮ができないのであります。

「戦闘序列は天皇の令する作戦軍の編組にしてこれにより統率の関係を律す」

 という統帥の基本を方面軍は知らなかったのでありましょうか。また作戦の実施に当たりましても方面軍司令部が細々と第一軍司令部に介入してきたのでありますが、これまた統帥原理の根幹に反しております。

「軍司令官は戦闘の始終を主宰する」

 とありますとおり、あくまでも軍司令官が作戦を行うのであって、方面軍司令官が戦闘指揮に容喙するべきではないとわたくしは信じております。

 このような内憂外患の状況下、第一軍は宋哲元軍の掃蕩を実施したのですが、兵力不足のために敵に対する打撃力はどうしても弱く、敵の主力は南へ逃れていきました。第一軍司令部はひたすら弾薬を節約し、補給を待つほかありませんでした。


 昭和十三年の正月を迎えて、待ちに待った弾薬供給が始まりました。第一軍司令部は河北掃討戦の作戦を立案しつつ、弾薬と糧秣を貯めに貯めました。ちなみに「蒋介石を相手とせず」の近衛声明が出たのはこの頃でしたが、将兵のあいだからは落胆の声が湧きました。

「蒋介石を叩くためにいままで戦ってきたのに、その作戦目標を捨ててしまったら、この先いったい何を目標にして(いくさ)をするのだ」

 近衛声明は「賠償金も領土的野心もない」と言っておりましたが、これも兵隊たちを怒らせました。

「われわれは何のために戦っているのか」

 日本軍の兵隊のなかには高い教養の持ち主がたくさんいます。学校の教師や技師や新聞記者もいます。政府声明が出れば、その意味を考え、批判ができるのです。他国の兵隊とは大いに異なる点であります。一介の武人に過ぎぬわたくしには近衛総理の深い意図はわかりませんが、正直なところ士気を下げるような政府声明は迷惑であります。

 河北掃討戦の目的は黄河北岸の敵を一掃することにありましたが、その作戦正面は約五百キロ、縦深は六百キロです。この広大な戦域の各地に宋哲元や共産党の兵隊たちが籠もっていました。それらを掃蕩するのです。第一軍の作戦兵力は五個師団でした。およそ十万の大兵力です。しかし、これだけの大兵力でも不足を感じるほどに支那大陸は広大でした。このため第一軍司令部は食糧弾薬三ヶ月分を集積して作戦実施に備えたのであります。

 昭和十三年二月十一日の紀元節に攻撃を開始した河北掃討戦は、順調に推移しました。第十四師団、第百八師団、第二十師団、第百九師団は敵を駆逐しつつ進み、ややおくれて第十六師団も戦列に加わりました。第一軍が黄河以北の一帯を確保して黄河河畔に日章旗を揚げたのは三月八日です。誠に感慨無量でありました。

 このように作戦は成功したのですが、実は第一軍と北支那方面軍との間には様々な意見の相違、いや軋轢があったのも事実でございます。作戦こそ成功しましたものの、統帥上の問題からいえば決して順風満帆ではなかったのです。その一例を申せば、河北掃蕩戦の戦域には日本軍への帰順を望む支那軍閥が少なからず存在しておりました。すでに申しました萬福麟のほか石友三、商震竝、蔡培徳、李英、李福和などであります。これらの敵将たちに所領を与え、ほどほどの金を渡して懐柔すれば、何かと都合が良かったはずであります。しかしながら方面軍司令部は頑として聞き入れてくれませんでした。

「支那軍閥に旧領を認めることはない。また帰順部隊に対して地域を与え、将来を約束することを禁ずる」

 これでは支那側を分裂させて味方につけるどころか、逆にますます支那人を抗日に結束させるばかりです。事実、日本への帰順を望んだ軍閥も後には匪賊化して日本軍に牙を剥いてきたのであります。

 わたくしは河北掃討戦の頃から戦力低下の兆候を感じ始めまして、このまま事変が継続すれば陸軍全体の戦力低下になると思いました。つまり、なるべく早く武力行使をやめるべきだと感じたのです。そこで二月十三日、彰徳の第一軍司令部を寺内方面軍司令官が巡視された際、わたくしは支那事変の全般状況を分析し、黄河北岸を平定し終えた段階で支那事変を打ち切るべきだと意見を申し上げたのです。しかし、寺内大将には真剣に聞く様子もなく、ただ「大本営が承知せぬ」との一言でございました。

 このほかにも方面軍に対して頻繁に意見具申をいたしたのでありますが、そのたびに一顧も与えられずに却下されるということの繰り返しでありました。

 あれは作戦遂行中の二月十四日でしたが、方面軍司令部から唐突な命令が届きました。

「保定西方山中の共産軍根拠地を攻略するため第一軍司令官は歩兵二大隊、砲兵一中隊を方面軍兵站監の指揮に入らしむべし」

 第一軍司令部では、敵による後方撹乱を事前に予想しておりまして、弾薬食糧を前線に運搬しつつ作戦を遂行しておりました。あらかじめ敵の後方撹乱を予想し、ある程度まではこれに目をつぶって南下しようと考えていたのです。そこで方面軍に対して第一軍の作戦意図を説明し、兵力派遣を若干延期して欲しいと要請いたしました。しかるに方面軍参謀長からの返電は容赦のないものでした。

「命令は直ちにこれを実行すべきものなり」

 わたくしは、やむを得ず後方部隊から兵力を捻出して所要の兵力を二月十八日に方面軍兵站監に渡したのであります。若干の遷延があったのは確かでありますが、わずかに数日のことです。しかるに方面軍司令部はこれを大いに問題視したのであります。

 作戦終了後、北京にて開催された参謀長会議において方面軍参謀長は第一軍参謀長を面罵非難し、大恥をかかせたのであります。

「第一軍は命令の履行確実ならず。誠意乏し。謝罪してしかるべし」

 こういって猛烈に責める岡部直三郎中将に対し、我が第一軍参謀長飯田祥二郎少将は反論いたしました。

「第一軍は常に方面軍命令に忠実であり、今回の兵力派遣については派遣遷延の事情を説明してあることでもあり、作戦中の第一線部隊に対しては許容さるべき問題なりと信ず。したがって謝罪の必要なし」

 これに赫怒した岡部中将は飯田少将を方面軍司令官の前に連行し、「第一軍に誠意なし」と訴えたのです。飯田少将は寺内寿一大将から直々の叱責を喰らうことになりました。

「すべて命令は直ちにこれを実行せざるべからず。将来、厳に注意すべし。なお軍司令官にこの旨伝達せよ」

 飯田少将は、よくぞ我慢したと思います。参謀長会議の記録には「第一軍は命令を直ちに履行せざることあり」と大書されてしまい、この議事録が方面軍の各部隊のほか参謀本部と陸軍省にも配布されました。

 第一軍司令部に戻った飯田少将からいっさいの事情を聞いたわたくしは、北支那方面軍司令官寺内寿一大将にあて長文の書簡をしたためて送付いたしました。その手紙を、いま、殿下にお渡し致しますが、大要を申せば、典範令に照らして第一軍司令部の判断には何ら瑕疵(かし)がないことを訴え、抗議したのです。

「小官不肖なりといえども、大命を拝して作戦軍司令官の重任を辱うす。今回、図らずも閣下の叱責をこうむり、慚愧の至りに堪えず。はたして小官に罪あらば死をもってこれを償うにやぶさかならずといえども、愚昧、いまだその罪を覚えるを得ず。あえて閣下の御示教をねがう所以なり。軍の行動は細大もらさず軍司令官の責任にして、軍参謀長は小官の一補佐官たるに過ぎず。ゆえに参謀長に謝罪を求め、またこれを叱責するは当たらず。いわんや貴軍参謀長が謝罪を要求するが如きは非常識極まれり。公正なるご賢察を願いて止まず。典範令等によれば、受令者において命令の実行に困難を感ずる場合、ことに作戦中のもっとも重要な時期において状況に即せざるがごとき命令を受領したりとすれば、受領者は全般の状況を判断して命令者に対して意見を具申するは、むしろその命令に対して忠実なる所以にして、場合によってはその命令の一部を変更もしくは中止する場合も生ずることあるべし。これは前後に敵をひかえて雌雄を決しつつある作戦中においては誠にやむを得ざることなり。

 二月十四日の方面軍命令は第一軍にとって予期せざる命令なりし。しかも、軍は作戦中にて、種々研究の結果、方面軍に対して意見を開陳し、その容れられざるをもって兵力抽出に手段を尽くせしも、数日の遅延を生じたものなり。このわずか数日の遷延にかくも激烈なる叱責が果たして必要なりや。閣下の将来の作戦指導のために当時の状況を回顧せられ、公正なる判断を下されんことを切望す。なお、今後、閣下が直接的に作戦を指導せらるる場合には、方面軍司令部を作戦地まで推進し、親しく刻々の最前線を視察され、第一線と同一の雰囲気のうちに指導せらるれば、これらの紛糾を防止するを得べしと愚考するものなり」

 数日後、この手紙は寺内方面軍司令官からそのまま返送されてまいりました。やがて、わたくしは第一軍司令官を解任されるのですが、その理由は方面軍司令部との意見の衝突にあったことは確かだと思います。

 黄河北岸まで占領域を拡大した後も戦闘は続きました。敵の敗残部隊が各所に居ったからです。その粛清をせねばなりません。第一軍の各師団は疲労困憊していたでしょうが、この第二期作戦の実施をわたくしは命じました。その担当地区は、第百九師団が太原平地以北、第二十師団が南山西平地地区、第百八師団が潞安山地地区、第十四師団が新郷平地、第十六師団が彰徳および大名の周辺でした。ともかく戦域が広大でしたから、各師団相互の隣接地域における連携体制が緊密になるよう軍司令部は様々な配慮をいたしました。軍司令部としては四月下旬までに第二期作戦を終了する計画でした。

 大進撃が成功した直後でもあり、士気は旺盛でした。各部隊は疲れていたでしょうが、それでも敵を掃蕩し、大きな戦果をあげていきました。なにしろ敵軍は敗戦の直後であり、相互の連絡もなく、個々バラバラだったのです。この機に乗じて第二期作戦を完遂する予定でした。

 ところがです。この間、北支那方面軍と中支那方面軍は徐州作戦を遂行しておりました。北支那方面軍の主力は第二軍でしたが、第一軍から第十六師団を抽出せよと命令されてしまいました。このため第二期作戦は停滞し、黄河の一部を敵に委ねることとなりました。

 こちらの戦力が低下したため守りに間隙を生じ、敵に時を与えてしまったのです。このため敵軍は徐々に勢いを盛り返してきました。これに反して我が第一軍には惰気を生じてまいりまして、士気の低下が明らかになってきました。戦場心理の難しさではありますが、統帥の拙劣に一因があったと考えております。

 五月、第一軍は北支那方面軍から徐州作戦への協同を命令されました。つまり、第一軍が黄河を渡河し、北方から徐州に迫る勢いを示すことによって敵を陽動せよというのです。

 机上作戦としては正しいのですが、第一軍は戦力の不足に直面しておりました。占領地域の粛清がまだ不十分でしたから、最悪の場合には、敵軍の北支侵入を許してしまいます。

 それでも命令は実行せねばなりません。第一軍司令部は第十四師団を渡河部隊とし、この渡河を掩護させるための一支隊を編成しました。渡河作戦を成功させるためには掩護支隊がどうしても必要になります。ところが方面軍は、この掩護支隊を第二軍へと転用してしまったのです。例によって勝手な戦闘序列の変更です。これでは第十四師団の渡河ができません。第一軍司令部内は方面軍に対する憤激に満ちました。わたくしは方面軍司令部に意見具申し、早急に掩護支隊を原隊復帰させるよう切望いたしました。ここまで上級司令部から干渉されれば、作戦らしい作戦は実施できません。

 わたくしの意見具申に対して方面軍は叱責で応じてきました。結局、第十四師団は掩護支隊なしで渡河作戦を強行いたしました。これが成功したのは天佑というしかありません。第十四師団は黄河を渡り、蘭封に進出いたしました。

 徐州では北支那方面軍と中支那方面軍の共同による包囲作戦が成功し、敵軍は徐州を放棄して敗走し始めておりました。この敗軍は実に大量の敗兵集団であり、行く先の集落を略奪しながら、まさにイナゴの群れのように進んでおりましたが、これが黄河方面へと雪崩れ込んできたのであります。そこに第十四師団の守る蘭封がありました。支那の敗走兵たちは蘭封を包囲して攻撃をしかけてきました。敗軍とはいえ大軍であります。しかも指揮命令系統を失った巨大匪賊集団といってもよい相手でした。第十四師団は陣地を構築し、黄河を背にして必死の防戦を実施するほかありませんでした。

 第一軍司令部としては蘭封に援軍を送るべきでしたが、手元には予備軍がありません。蘭封の現場をその目で確認してきた参謀は「至急、増援を送るべきです」と必死の形相でわたくしに献策したものです。しかし、増援すべき予備隊はなく、黄河の北を空き家にするわけにもいかず、この献策をわたくしは却下するほかございませんでした。わたくしは第十四師団に対し「軍司令官みずから混成旅団を率いて増援する意図なり」と電報し、部下にはなんとか工夫して混成旅団を編成するよう命じました。しかし、これが無理であることはわかっていました。ただ祈るばかりでした。

 そんな頃です。五月二十九日、杉山元陸軍大臣からの電報に接したのです。

「貴官は二十九日付け第一軍司令官を免じ、参謀本部付きに補せらる」

 青天の霹靂のようなこの電報のため、わたくしは茫然自失となりました。それでも気を取り直して指揮を執り続けました。幸い、第二軍に転属させられていた第十六師団が徐州方面から開封へと進撃中でありました。わたくしは第十四師団に対し、蘭封を脱出して開封に向かい第十六師団に合同せよと命じました。これが第一軍司令官としてのわたくしの最後の命令となりました。以後、第十四師団は危機を脱し、戦局は好転に向かったのであります。

 なお、わたくしの更迭は、陛下の命令ではなく、杉山陸軍大臣の軍政命令によって実施されたのでありますが、これは統帥秩序の紊乱(びんらん)ではありますまいか。六月四日、わたくしは石家荘にて後任軍司令官梅津美治郎中将と交代し、孤影悄然、支那の地を去りました。

 それから、いささか愚痴めいた事柄ではありますが、この際、お話しいたしましょう。わたくしが軍司令官として働いたおよそ一ヶ年の間に内地から陸軍大臣をはじめとする高等官が現地視察に来訪されることがしばしばございました。杉山陸相は二回でした。その他、陸軍次官、参与、各部課長などが来訪されました。そのたびに軍司令部で応接したのであります。彼らは新鋭飛行機を縦横に使い、作戦地域を思うままに移動したものです。

 しかるに作戦遂行のために第一軍が飛行機を使いたいと思いましてもなかなか利用できず、たとえ利用できても劣悪な旧式機ばかりでした。これが軍中央の横暴でなくてなんでしょう。傲慢でなくてなんでしょう。視察より作戦を重視すべきです。

 冬が始まりつつある頃、補給の遅れから最前線の将兵に冬服がなかなか行き渡らないことがありました。さすがに軍司令部には冬服がございましたが、着用するのを遠慮しておったのです。しかるに軍中央の高等官らは酷寒期に着用する官用防寒被服を着用して出張してくるのです。その無神経に現場将兵はだれもが(まゆ)(ひそ)めたのであります。

 方面軍司令部の視察団もこれと同類でありました。彼らは安全な地区を移動し、司令部内で的外れな質問をし、些細な落ち度を見つけては叱責し、危険地帯には赴かず、現場の声を聞こうとしませんでした。彼らは概して無知であり、倨傲でありまして、督戦ばかりいたしました。平安時代の検非違使が来たかと思ったものです。こうした軍中央の独善を正さねば、陸軍は泥田に落ち込むのではありますまいか。

 最後に、人事について申し上げたいのであります。軍の本分は戦闘でありますから、軍の人事も戦闘をもって基準とせねばなりません。従って、人物査定の基準は軍隊の統率と指揮の良否におくべきであります。しかるに現実は、戦績による評定は閑却され、学閥、私閥、風評、私見による人事が横行し、怪奇なる任免が横向しておるように見受けられるのであります。北支那方面軍司令部を観察しておりましても、戦闘に優れておるというよりは事務に優れておる者、あるいは政治に興味を持っておる者が目立ったように思います。

 戦闘力を最大化するには人の和が何よりも大切であることから、なしうれば戦役間を通じて各部隊を同一部隊長の下におくことが適当と考える次第であります。人事異動の時期だからと、戦闘中の部隊長を交代させるのは得策ではありません。

 これでわたくしの話を終わります。



―*―



 香月中将は、軍司令官として直面した様々な軋轢と苦衷をあますところなく語ってくれました。その血を吐くような証言を聞き、竹田宮大尉は、満腔の同情を禁じ得ず、また空恐ろしくなりました。

(陸軍は、このままではダメだ)

 香月中将の批判の矛先は、方面軍司令官、陸軍大臣、陸軍参謀総長など陸軍上層部に向けられていたからです。おそらく香月中将には切腹の覚悟さえあったと思われました。そうでなければ言えないような内容です。それだけに、まさに竹田宮大尉の問題意識にピタリと合致する証言です。それを喜ぶとともに、他方、自分はとんでもないことをやっているのではないか、と迷いをも感じました。なにしろ、竹田宮大尉が研究結果を報告する相手は参謀総長なのです。

(果たして、この研究成果が日の目を見ることがあるだろうか)

 竹田宮大尉は、自分の努力が徒労に終わるであろうことを予感しました。


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