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石原完爾

石原完爾(いしわらかんじ)略歴


  明治二十二年 山形県に生まれる

  明治四十二年 陸軍士官学校卒業

  大正  七年 陸軍大学校卒業

  昭和  三年 歩兵中佐

         関東軍参謀

  昭和  十年 参謀本部第二課長

  昭和 十二年 陸軍少将

         参謀本部作戦部長

         関東軍参謀副長

  昭和 十三年 舞鶴要塞司令官

  昭和 十四年 陸軍中将

         第十六師団長


 昭和十年、わたくし石原が参謀本部に参りまして、まず驚きましたのは、日本の兵力が足らないこと、特に在満兵力がまことに不充分なことでありました。日本の輸送力の方がシベリヤ鉄道の輸送力より優れているという古い前提のもとで兵力が算定されており、日本軍の方が有利に兵力集中を実施できると考えておったのです。それで陸軍は安心しておりました。しかし、いろいろ調べました結果、この前提が非常な考え違いで、むしろ逆だとわかったのです。日ソの極東兵力均衡は甚だしくソ連側に傾いており、日本の在満兵力が不足しているとわかりました。わたくし石原の前任者である鈴木率道大佐は非常に努力して、在満兵力を二個師団から三個師団に増強しておったのですが、こんなものではとても不充分だとわたくしは考えまして、直ちに軍備拡張をせねばならぬという気持ちになりました。

 具体的には、バイカル湖以東に所在するソ連極東軍の八割に相当する兵力を満洲および朝鮮に配備しようと考えました。そこで満鮮師団を五個師団から八個師団に増強しようと考えたのが昭和十年です。

 そこで満鮮八個師団整備に基礎を置き、必要な軍事予算を積算したところ、最高で十三億円という結果が出ました。この金額は、当時としては驚天動地の金額でありました。とても予算が通らぬと思われましたが、二二六事件が起こりましてのち、陸海軍の軍事予算は二十五億円となり、何とか充当できることになりました。しかし、今日では軍事予算は七十五億円にもなっており、これに比べれば三分の一でございます。いま思えば、わたくしの軍備拡張案は不充分だったと思います。あの時点で七十億円を投入できていたら、今日このような事態にはならなかったでありましょう。

 わたくし石原は、兵力の増強だけでは戦争はできないと考えておりました。つまり、作戦の遂行を支える軍需的工業を日満に育てる必要があると考えたのです。そこで満鉄調査部に経済計画の立案を依頼いたしました。いわゆる宮崎機関の献身的努力によって日本の計画経済の基礎固めができました。これは偉大な功績であると思います。宮崎機関は昭和十一年に「満州産業開発五カ年計画」を完成させました。以後、この計画を基礎として経済計画を具体化していき、能力の低い企画院をリードしてきたのであります。

 満洲事変後の日本の行き方には二つの道があったとわたくしは思います。ひとつは蒋介石と外交折衝をおこなって満州国の独立を認めさせ、その代わりに支那の権益を蒋介石にすべて返してやる。そのうえで蒋介石と東亜連盟の合意を形成する。

 ふたつ目の案は、満洲事変のあと、引き続いて支那へと進攻し、北京から南京まで攻略して蒋介石を屈服させ、蒋介石に代わる支那政権を樹立し、その後に支那から撤兵して支那を独立させ、その後に東亜連盟を結成するというやり方です。

 しかしながら、事実は、そのいずれをも実行し得ず、その日暮らしというべき状態のまま時間だけが推移いたしました。このため北支が満洲撹乱の根拠地になってしまい、関東軍が北支に武力を行使するような結果を招いてしまいました。

 民族協和精神からいえば、日満支相携えて東亜連盟を結成すべきでした。思想の一元化、国防の共同化、経済の共通化、政治の独立という四条件について合意ができれば東亜連盟は可能でした。そして、三国が相助けつつ西欧列国に対抗すべきでした。これができていたならば、支那事変は起こさなくてすんだと考えます。

 このことを実現できなかった原因は、強い政治力の不存在が根本です。政党はすでに地歩を失っており、これにかわるべきものがなかった。つまり政治を指導する政治体がなかったことであります。

 昭和十一年の暮れ、わたくし石原は作戦指導課長として北支への出張を命ぜられまして、現状を見て参りました。わたくしは、蒋介石との間に国交調整の道があると感じました。具体的には、蒋介石に満州国の独立を承認させ、そのかわりに日本は支那の独立を援助するという合意が必要だと考えたのです。蒋介石が満州国を承認するなら、日本は直ちに冀東を支那に還してやればよいと考えました。この調整さえできれば日満支は東亜連盟の方向に進んでいく。そして、満州産業開発五ヶ年計画を進めて産業を拡充する。さすれば英米ソといえども恐れることはない。そう考え、その線で国防国策大綱を作成いたしました。

 戦争計画については、対ソ戦についてのみ大綱を立案しておきました。対支戦の戦争計画については、その必要を感じてはおりましたものの、ついに作成せぬうちに今次事変が起きてしまったのであります。

 昭和十二年五月頃、妙な噂が参謀本部に聞こえて参りました。

「支那駐屯軍が宋哲元(そうてつげん)軍と衝突する」

というのです。たとえ噂話であっても放置はできぬと考えまして、陸軍省に申し入れ、軍事課の岡本清福中佐を北支に出張させ、現場の状況を確認させました。その結果、噂は民間のもので、支那駐屯軍に不穏な動きはないとわかりました。ただ、民間に妙な気分があったのは確かなようです。

 日支の提携は可能であるとわたくしが考えておるときに盧溝橋(ろこうきょう)事件が発生したのであります。日支は戦うべきではないし、本格的な戦争になればただでは済まないとの考えがあったため、ともかくわたくし石原としては不拡大方針を以て事に臨みました。それと申しますのも、日支の戦いが長期化し、そこへソ連軍が加わってきた場合、日本にはソ支二正面作戦に対する準備がなかったからであります。

 陸軍のなかには満洲事変の例をあげ、支那事変も容易に片付くとの通念を持つ者もありましたが、この通念ほど支那の国民性をわきまえぬ議論はなく、わたくしは全面的戦争になることを秘かに予感しておったのであります。

 事変が始まって間もない頃、支那の電信を傍受しました。解読すると、支那が数千万ドルもの武器を発注しておることが判明いたしました。支那を侮ることはできないと思いました。もし戦争になれば行くところまで行くことになるとわたくしは考え、何とかして避けたいと思いました。また、蒋介石とて戦争を避けたいとの思いがあったようでありましたので、不拡大を念じておったのですが、今日、ついにこのようになったのは誠に残念であり、非常な責任を感ずる次第であります。そして、これは無責任な言い方ではありますが、結局、東亜は尊い鮮血を流さねばならぬ宿命だったと、諦めてもおります。

 不拡大主義のわたくしが動員を実施した理由は、万一に備えるためでした。現場ではドンパチやっている、派兵するとなれば数週間はかかる、こちらが不拡大を希望しておっても形勢の逼迫に圧されて動員するほかはございませんでした。

 現地軍と参謀本部の間に齟齬はなかったと思います。支那駐屯軍の橋本群参謀長は不拡大方針に従っておりましたから、これに信をおいておりました。

 ただ、一部の少壮者は動員すなわち武力行使であると短絡していたようでありまして、その空気が不拡大方針の上級者の決心に影響を与えたことはあったと思います。

 それで内地三個師団に動員を下令したのですが、現地の情勢にあわせて動員を一時的に見合わせることもいたしました。現地で和平成立の見込みがあったからです。どちらかと言えば参謀本部が慎重で、陸軍省が積極的でした。

 支那駐屯軍は現地解決に努力しておりましたが、廊坊事件など数次にわたる支那側からの銃撃に遭い、宋哲元に誠意なしと判断せざるを得ず、ついに武力行使を決断したのです。陸軍中央は直ちに内地師団の派兵に踏み切りました。その編成をしたのは作戦課長の武藤章大佐でありまして、派遣軍に強力な戦闘力を持たせるよう努力してくれました。

 北支だけで事変は解決するだろうというのが周囲の空気でありましたが、わたくしは上海で事が起こると確信し、機会あるごとに発言しておりました。上海には海軍の第三艦隊がおりましたが、その編成はひと昔まえの劣弱な支那軍を想定したものでありまして、すでに近代化を進めた蒋介石軍と対峙した場合には居留民の保護を全うできず、艦隊も海に浮かんではおれないと考えたのであります。

 蒋介石は第三艦隊の弱体を知っておったでありましょう。蒋は満洲事変の際にも第一次上海事変を惹起しておりますから、またやるだろうとわたくしは思っておりました。これを避けるには、事変に先駆けて揚子江流域の諸都市から居留民を引き揚げさせ、第三艦隊そのものを引っ込めておくしか手がございませんでした。

「支那と全面戦争するよりは居留民の損害を補償してやった方が安い」

 こう言ってわたしは引き揚げを提案したのですが、当時、わたくしの主張は暴論とされ、また海軍も面子にこだわっておりまして、第三艦隊をそのままにしておりました。つまり、上海出兵は陸軍が海軍に引き摺られたと言えると思うのであります。

 わたくし石原は、上海には絶対に出兵したくなかったのでありますが、すでに陸海軍間に協定が定められておりまして、どうしてもそれを修正できませんでした。結局、わたくしは作戦部長として五個師団を上海に増兵いたしましたが、ずいぶんと遅疑逡巡いたし、決断を遅らせてしまいました。

 いま考えますと、不拡大を唱えておったこのわたくしが現地に出て行って支那側と交渉したら良かったと思うのであります。これをしなかったことは、わたくしとして誠に申し訳ないことであったと思っております。

 その後、近衛総理が南京に出向いて蒋介石と交渉し、蒋に反省を促したら効果的ではないかと考えまして、多田参謀次長に提案いたしました。近衛総理の御先代の篤麿公は孫文と浅からぬ御間柄でありましたから、篤麿公の御長男と孫文の弟子が交渉すれば事変は解決できると考えたのであります。幸い、多田参謀次長の賛同を得られまして、すぐさま風見章書記官長に電話をいたしたのであります。

「考える」

 という回答でありましたが、翌日になって「取り止めになった」とのお返事が風見書記官長からもたらされました。このことはいま考えても残念であります。

 事変が始まりましてすぐ、講和条件について確定しておくべきだと考えまして、その講和条件を笠原幸雄閣下や本間雅晴閣下と議論いたしました。しかし、ご同意を得られずに講和条件の確定ができませんでした。

 わたくし石原は、持久戦争回避の観点から緩やかな条件を提示すべきと考えておりました。これに対して支那課では戦争の短期終結を予想しており、講和条件に賠償金や権益など厳しい条件を付しておりまして、種々議論したのでございますが、ついにまとまりませんでした。

 わたくしの考えは当時も今も変わっておりません。昨年十一月に近衛総理が声明されました「東亜新秩序の建設」と同様でございまして、東亜連盟の結成です。つまり、中華民国が満洲国を承認する代わりに、日本が中華民国の独立を支援するのです。これに加えるに日華防共協定、内蒙の特殊防共区域化、北支内蒙の経済開発について同意ができあがれば、東亜連盟が結成できたのです。

 ところが参謀本部しかり、政府しかり、国論しかり、意見が一致しておらなかったのでございます。

 わたくし石原が第二課長から第一部長になったのは昭和十二年三月でございましたが、わたくしの統制力は微弱であったようでありまして、当時は気づきませんでしたが、部下のなかにも相当な反対意見の持ち主がいたようであり、至らぬ点であったと責任を感じております。このことは日本軍部の通弊とも言えるのでありますが、下が上に従わない、信念もないのに意見を申す、こうした通弊を日本軍部の幕僚は持っていると思うのであります。この通弊のために参謀本部は方針の一致、意見の一致をみることのできない組織になってしまった。大綱にのっとって本当の判断をする人間がいなかった。総合判断を為し得る者がいなかった。これは陸軍大学の教育が悪かったのかも知れません。陸大の教育が実際の戦争に沿っておらなかったのです。

 実際、陸軍大学校では指揮官としての戦術教育が徹底して行われておりまして、決戦戦争の指導はできておるのでございます。しかし、今次事変のような持久戦争の指導ができておったかといえば、何も指導されておらなかった。つまり、持久戦争を指導できる者が参謀本部内にただのひとりも養成されていなかった。加えて、持久戦争は軍部だけではできません。政府との協力がなければ持久戦争の指導はできぬのであります。

 意見は出るがまとめる者がいない、持久戦争の研究ができていない、政府と軍部との協力体制ができていない、要するに無い無い尽くしのまま支那事変に突入したのです。

 

 ともかく北支で戦端が開かれ、中支の雲行きも怪しくなりましたので、ソ連に備えつつ支那事変を遂行するため十五個師団の軍需動員を発令しました。参謀本部は、昭和十二年度の予算額を二十五ないし三十億円と積算いたしました。

 ところが陸軍省はわずかに三億円の予算しかつけていませんでしたので、驚愕いたしました。増兵に積極的だった陸軍省が予算をけちるとは何事か、こんな貧弱な動員で蒋介石が参ると考えて強硬論を唱えておったのかと不審に思いました。本当に地に足の着かぬ戦争指導をやっておったと言うべきで、事変処理の困難はここに原因があったと思います。

 この予算に制約せられ、参謀本部は六個師団の範囲で作戦を遂行する方針を定めました。作戦範囲は北京から保定までです。わたくしとしては事変の初期から国家総動員の必要性を感じておったのですが、陸軍省は概して事態を軽視しておったようであり、初期段階では国家総動員を実行できませんでした。

 戦端が開かれてしまった以上、全面戦争の可能性がありました。これに備える意味で十五個師団の動員が必要だと考えたのであります。動員兵力は輸送力によって決定せられますが、全面戦争となれば国家総動員の能力によって動員兵力が左右されるからです。

 わたくしの方針は不拡大主義でありましたが、万一の場合を考え、いや、かなり高い割合で全面戦争になるかも知れぬと心配し、長引くことを予想しておりました。

 しかし、参謀本部第二部支那班は楽観的でありまして、北支をとれば支那は経済的に参るとの判断をしておりました。支那班にもそれなりの判断根拠があり、色々な数字を挙げておりました。少ない兵力で大丈夫だと支那班が考えた理由の一つは満洲事変の経験でした。

 しかし、わたくしは自身の満洲事変の経験からして支那は満洲のような具合にはいかんと確信しており、開戦初頭に敵に対して大打撃を与え、それでも敵が屈服しなければ使用兵力に応じた地域を領有して、その治安を確保するという考えでございました。もし決戦を行い得て、一挙に黄河の線まで抑えれば敵が参ることも考えられましたが、それは望み薄だと考えておりました。

 支那事変の初期、満洲事変の経験が何かと作戦指導に影響を与えておったと思います。満洲事変の現場にいたわたくしにとって満洲事変の経験は実に苦いものでありまして、決して楽ではなかったのであります。そのことがあまり研究されておらず、吟味もされておらなかった。これが支那事変初期の作戦指導に徹底を欠いた一因であろうと思うのであります。

 これに加えて申し上げれば、参謀部に参謀が多すぎてはいかんということであります。満洲事変の際、関東軍には参謀長の下に五人の参謀がおりましたが、五人程度ですと議論がしやすく意思統一もやりやすい。結果、うまくいきました。参謀本部でも参謀の数を少なくして、その分、事務官を増加したら意思統一も容易だったと思われるのです。

 わたくしの戦争指導方針は、支那とは決戦ができないから長期戦になる。だから極力少ない兵力で支那の要域のみを抑えておき、ソ連が出てきたならば、これを徹底してやっつけるという考えでありました。

 支那を大兵力で一挙に片付けるという考えはありませんでした。そもそも準備ができておりませんでした。大兵力を輸送することができません。参謀本部としては可能な限りの大動員をやった結果が実際の経過でございまして、あれ以上の大動員は不可能だったのです。

 かえすがえす遺憾に思いますのは、平時の研究が貧弱であったことです。これが参謀本部の意見不統一の原因になりました。例えば兵要地理の研究不足が各地で明らかとなりました。チヤハル作戦では大行山脈の山地内にあれほどの大兵力を展開できるとは思っておりませんでしたし、上海戦でも泥濘のために作戦ができぬという兵要地誌が誤っておって、実際には作戦が可能だったのであります。兵要地理の研究はもっと熱心にやらねばならない。作戦計画以上に兵要地理の研究を広範囲にやっておかねばならぬと痛感いたします。

 作戦も同じことでございました。作戦の責任者として誠に申し訳のないことです。日支戦争が起きる可能性を参謀本部はほとんど考えておりませんでした。ために対支作戦計画は事実上ございませんでした。作戦部では対支作戦の必要性を感じ始めてはおったのですが、その感覚が痛切ならず、さきに申し上げたとおりの次第となったのであります。

 方面軍を編成したことに特別な意味はございません。第一軍と第二軍を編成したから、これを統一指揮する方面軍司令部を置いただけでございます。わたくしは、阿部信行大将が御出かけになると思っておりました。詳しい事情は存じませんが、寺内寿一閣下が東京に居られると杉山元閣下にとって勝手が悪い、寺内閣下は真崎大将の件で面倒があり、外に出て行きたかったなどという事情があったようです。参謀本部の知らぬところで寺内大将が方面軍司令官に決まったのです。わたくしは誠に不愉快な印象を受けました。

 陸軍省と参謀本部の間は円満にいっていたと思いますが、それでもやはり問題はありました。あの大切なときに今井参謀次長がご病気でありました。そこでやむを得ず、このわたくしが様々な関係者と折衝をいたしましたが、これが具合の悪いことでした。今井次長のような円満な性格の方がやるべきでした。わたくしのように生意気な者がやったためにうまくいかないことが生じました。わたくしが申し上げることを陸軍大臣は「うん、うん」と聞いてくださいましたが、その実、腹の内では不同意だったのです。これでは省部間に意思統一ができません。陸軍省では、とくに軍事課の田中新一課長あたりが強いことを言っておりました。軍事課は予算を握っておりますから強いのです。

 大本営は、その機能を明確にし、大本営と政府との間の連絡を緊密にすべきです。どうしてもまとまらないのならば御前会議を開いて決定し、国策の統制をとるべきであります。 意見の一致を前提とした御前会議ではなく、こんがらがった問題をこそ御前で討議させていただき、御聖断を仰ぐべきであります。

 今の御前会議は形式的であって、軍部は天皇機関説を批判しておきながら、自分が天皇機関説を実行しておるのです。こんなことでは大本営があっても、ほとんど無きがごとしという印象であります。

 二年前のことを思い起こしますと、いろいろな錯覚があったと思い、手前味噌もあったと思います。要するに事変当初、作戦部長の重責を担いながら、わたくしは人格が低く、真に部下の心からなる一致協力を得られなかったのです。なんとなく薄暗がりの中で仕事をやったような気持ちがいたします。なんとも申し訳のない次第でございます。


   ―*―


 自他ともに斬り捨てるような石原中将の率直な証言に竹田宮大尉は感動し、また驚嘆しました。

石原完爾といえば満洲事変の英雄として世に知られた天才的作戦家です。その石原中将が参謀本部内で発生していた意見の不一致や準備不足、さらには自身の力量不足といった反省まで洗いざらいに証言してくれたからです。

(石原閣下でさえ、そうなのか)

 竹田宮大尉は事態を深刻に受け止めました。事は最前線の中隊や連隊で起こったのではありません。作戦の中枢たる参謀本部で起きたのです。

(我が国の最高統帥を見直す必要があるのではないか)

 竹田宮大尉は数日のあいだ考え込み、ひとつの企画書を書き上げ、編纂部長の決裁を仰ぎました。

「武力戦的見地に基づく支那事変最高統帥の研究」

 竹田宮大尉は概略を口頭で説明しました。石原中将の証言から明らかとなった最高統帥レベルの問題を、様々な資料と証言から再構成し、その問題と対応策を明らかにしたいと考えたのです。

 数日後、編纂部長はこの提案を認めてくれ、さらに研究班も設置してくれました。とはいえ、作業そのものは従来の戦史編纂作業と変わりありませんでした。要は問題意識の持ち方なのです。

 研究班はさっそく編纂されたばかりの戦史をひもとき、収集された資料を見直しました。これと並行して研究班は、この観点からする関係者への再度の事情聴取を実施しようとしました。

 しかし、これが思い通りにはいきませんでした。統帥部における誤判断や決断の遅れ、意見の不一致などの原因を追及しようとする研究班の意図は、将軍たちの警戒心を買ってしまいました。軍人は名誉を重んじるものです。誤りを根掘り葉掘り聞き出そうとする事情聴取そのものが我慢できません。これに加え、上官に対する遠慮や自己保身の配慮から証言を拒む者もいました。

 事情聴取は難航しましたが、その実施者がほかならぬ竹田宮恒徳王殿下であることから、応じてくれる将官も現れました。軍人は、大元帥閣下たる天皇陛下に対して忠誠を誓っています。その尊崇の念は皇族にも及んでいました。陸軍大尉竹田宮恒徳王殿下の御下問は、軍人たちの反骨心を和らげ、その名誉心を満足させ、重い口を開かせました。


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