プロローグ
満洲の北方、海拉爾に駐屯していた騎兵第一旅団に動員命令が下ったのは昭和十三年七月です。
「河南省帰徳へ進出せよ」
との命令です。帰徳といえば黄河の南です。直線距離にして千六百キロ以上もあります。この長距離を主に鉄道を利用して南下することになりました。軍馬六千頭を伴う騎兵旅団の大移動が始まりました。
行く先々の鉄道駅では六千頭分の飼い葉と水を確保し、その糞尿を処理せねばなりません。その兵站は大仕事です。人馬とも慣れない列車移動に疲弊しました。それでも騎兵第一旅団は一週間で帰徳に到着することができました。
この騎兵旅団のなかに皇族の陸軍大尉がいました。竹田宮恒徳王殿下です。竹田宮大尉は騎兵第十四連隊第三中隊長です。
「宮様に怪我をさせてはまずい」
陸軍中央は竹田宮殿下を安全な東京へ異動させようとしましたが、竹田宮大尉は陸軍省人事課に電話を入れて猛抗議しました。実際の戦場に立って実戦を経験したかったのです。竹田宮大尉は望みどおり戦場の空気を吸い、敵軍の銃砲弾が飛び交う下に日を過ごすことができました。しかし、まもなく第一軍司令部参謀を命ぜられ、第一軍司令部のある石家荘へと異動しました。
第一軍司令官は梅津美治郎中将です。竹田宮大尉は北支掃討作戦を立案するよう命ぜられました。北支の各地には支那軍閥の残党や共産匪賊が散らばっています。これらを討伐せねば日本軍の背後が脅かされることになります。竹田宮大尉にとっては初めての参謀任務です。しかも軍単位の大兵力を動員しての作戦立案です。竹田宮大尉は大いに張り切って作戦案を作成し、梅津軍司令官に提出しました。しかし、無言で突き返されました。梅津中将は寡黙で知られていました。竹田宮大尉の作戦案には赤鉛筆で多くの訂正が入れられていました。竹田宮大尉は修正して再提出しましたが、梅津軍司令官は納得せず、さらに修正が要求されました。修正は四度くりかえされ、五度目の提出でようやく決裁が下りました。この作戦は、昭和十四年一月に発動され、第一軍は北支の残敵を掃蕩しました。
その翌月、第一軍司令部は山西省の太原へ移り、大行山脈の要害に盤踞する支那軍閥と対峙しました。竹田宮大尉の戦場生活は一年に達していました。みやびだった竹田宮大尉のうらなり顔も、すっかり日焼けして真っ黒になりました。ときどき髭を剃ると、髭のあったところだけが真っ白になりました。そんな頃、竹田宮大尉に転任の命令が届きました。配属先は参謀本部支那事変史編纂部でした。
戦史の編纂は、参謀本部の重要な任務のひとつです。戦史を残し、後世の参考にするのです。支那事変が始まって早くも二年が経過しています。参謀本部は戦史編纂に着手し、記録や資料や証言を収集しはじめていました。
戦史編纂部には、参謀本部をはじめ各軍司令部や師団司令部などの電報綴り、最前線部隊の戦闘詳報、日支双方の政府声明、外務省や海軍などの動向を示す資料などが集められています。また、関係者の証言を記録する作業も進められていました。
戦史編纂は必ずしも安全な任務ではありません。むろん戦死する心配はありませんが、人事的には危険な任務です。なぜなら、凱旋将軍たちは得てして功を誇りたがるものだからです。
「俺のことをもっと良く書け」
「このことは書くな、伏せておけ」
「我が部隊の戦功を過小に評価するな」
戦史編纂に露骨な要求をする豪傑がいるのです。それを拒絶することは、上下関係の厳しい軍隊組織にあっては官僚人生を棒に振る覚悟が要ります。実際、日露戦史の編纂者たちは、凱旋将軍からの種々の要求に悩まされ、ついには作戦や行動の評価を放棄し、客観的な記述のみに徹することを余儀なくされました。誰のことも良く書かぬ代わりに、誰のことも悪く書かなかったのです。しかし、これがたたって戦史編纂の責任者は左遷されたといいます。
この意味で、陸軍大尉竹田宮恒徳王殿下は戦史編纂に適任だったといえます。皇族の殿下に対しては、どんなに意気軒昂な凱旋将軍も遠慮します。また、竹田宮大尉の方は、生まれながらの貴族であり、出世にこだわる気持ちがありません。
竹田宮大尉は、山のように積まれた書類を読み込み、支那事変の経過、動員された部隊、そのときどきの人事、兵要地誌などを頭に詰め込んでいきました。そして、竹田宮大尉の研究班が、石原完爾中将から事情を聞いたのは昭和十四年の秋でした。