彼女の花と僕の花、散る前にそっと交換しよう
僕が初めて彼女に出会ったとき、彼女は川の中にいた。
長く、まっすぐな黒髪が水面に浮かび、白色のワンピースは白魚のように泳いでいる。頬は寒さから血の気がなく、またそれが、彼女を人間ではないように見せつける。
「何を、しているのですか?」
彼女はこちらに顔を向ける。人形のような顔だ。整っているだけではない。その目から、何の感情も受け取れない。
「洗っているの。だってほら、私、汚れているから」
彼女は水をぼたぼたと垂らしながら、ワンピースの裾を上げる。よく見ると、そこは赤茶色に汚れている。
「なぜ、汚れてしまったのですか?」
彼女は顔を水面に向けると、ワンピースの裾を擦り始めた。川の水がじわりと汚れる。
「人を殺したから」
アスファルトに打ち付けた水が、ゆらゆらと動く。遠くのほうでチリリンっと音がする。音が多く、色も多い季節なのに、ここはどこか寂しげだ。
三日前、川で一人の女の子を見かけた僕は、その子を連れて帰った。帰る場所がないと言った彼女は、放っておくと死んでしまうような気がしたから。
全室和室の縁側付き。1階建てのこの昔ながらの家には、寝たきりのおじいちゃんと僕しか住んでいない。
彼女は部屋に案内すると、ほんの少し口の端をゆがめて、ありがとうと言った。
朝、起きるのが遅かったので、朝食を抜いて少し早めの昼食にする。今日は3人分、冷やし中華。
彼女を呼んで、2人でテーブルにつく。いたってシンプルな冷やし中華。飲み物は、麦茶。
「いただきます」
彼女が小さく手を合わせる。
「はい、どうぞ」
彼女はあまりしゃべらない。彼女の名前も出身も、生い立ちだってわからない。それでもいい。ほんの少し、彼女が休めたらいいなと思う。
「午後から畑に行くのだけど、よかったら一緒に来ない?」
「行ってもいいの?」
きゅうりを一口。かしゅっと音が鳴る。水が出てくる。これも畑でとれたものだ。
「トマトの収穫を手伝ってほしいんだ。手伝ってくれる?」
彼女はちゅるんと、麺をすすると、こくりと頷いた。
僕は食器を洗うと、彼女と一緒に川沿いの畑に向かった。彼女は収穫かごとスコップを持っている。
「今から行く畑は、あなたの物なの?」
「そうだよ。僕の父と母が譲ってくれたんだ」
飛行機雲が、青色の空に切れ目を付ける。この景色は最近あまり見ていない。きっと、僕が見つけられていないだけだろうけど。
「あなたは何でこっちにいるの?ご両親は健在なのでしょう?」
「元気にしているよ。僕はね、もう少し都会に住んでいたんだ。14歳になったとき、理由がわからないのだけど心を病んでね。両親が気をきかせて、自然豊かなこの街に住まわせてくれたんだよ」
「そう、大変だね」
「そんなことないよ」
トマトを収穫した後、秋に向けて少し、土を作った。帰り際、ネットを張っていたスイカが熟しているのを見つけて、持ち帰ることにした。
「すっかり日が暮れちゃった」
「家に帰って、急いでご飯を作るよ」
右手で抱えるようにスイカを持っているから、Tシャツがもう、スイカのにおい。全身が、夏の色に染まる。
「蛍を見ない?いいところがあるよ。夕飯、遅くなっちゃうけど」
「君が案内してくれるの?」
「うん」
彼女と僕は橋を渡ると、3日前、彼女がいた川がある山に入った。
足元を見ると、ちょろちょろと小さな湧水があちらこちらから流れている。
「蛍、見たことある?」
彼女が振り向きながら言う。暗くてよくわからないけど、微笑んでいるのだと思う。
「実は、ない」
「じゃあ、今日が初めてなんだ」
彼女の足元で水が跳ねる。彼女のまわりが優しくなった。きっと、喜んでいるのだろう。
「到着」
彼女が右手を上げて見せてくれた景色は、怖いくらいに静かで、強かった。
「綺麗だ。。」
少し大きめな水たまりくらいの湖の上で、蛍がふわふわと飛んでいる。周りは水に反射した月明かりで、ぼんやりと光っている木々や岩。彼女くらいしかなじむことができない、減菌された世界。そこはとても、幻想的。
「そこにかけて。濡れずに済むから」
僕は彼女が指さした、湖の端にある岩に腰を掛けた。スイカを膝に置くと、立ったままの彼女が僕の顔を覗き込んできた。
「怪しむことなく、ついてきたね」
彼女はなんだか、泣き出しそうな顔をしている。ほんの少しでも触れたら、音を立てて崩れてしまいそう。彼女は脆い。
「なんで怪しまなきゃいけないの?」
僕は彼女に聞く。しっかり目を見て、彼女が無くなってしまわないように。
「だって私、人を殺したんだよ」
彼女は泣いていた。それでも目をそらすことはなかった。彼女は強すぎるから、脆いのだろう。
「君が故意的にしたわけではないでしょう?冷酷な殺人犯は、いただきます、なんて言わない」
「あなたは甘いよ」
蛍はすごく小さい。でも、夜にある、ほんのわずかな光だから自然と目がひきつけられる。彼女とは蛍は、似ている。
「お父さんがお母さんを殺したの」
彼女がつぶやいた言葉は、ゆらゆらと光る湖に吸い取られていく。最も似合わないと思っていたものが、案外似合うものだってある。ここは少し、死に近い。
「君は殺していないじゃないか」
「私がいなかったらお母さんは離婚していたと思う。だから私が殺したの」
「お母さんはどこにいるの?」
「まだ、家の中」
きつかったのだろう。苦しかったのだろう。でも、今が一番むなしいのだろう。彼女が持つものはあまりに大きく、僕の手には余ってしまう。それでも、両手で水をすくうように、彼女を包みたいと思う。僕にはそれくらいのことしか、できない。
「お祭りに行こう。明日、あるんだ」
僕は彼女の頭をなでながら言う。小さく小さく震えていた彼女はとうとう、しゃがみこんでしまった。
水紋が広がる。ワンピースの色が濃くなっていく。
彼女は会ったときと変わらない、びしょぬれだ。
「取り消し。あなたは優しすぎる」
彼女は音を立てずに泣いた。持っていたトマトは湖に浸かってしまっている。彼女の涙が混じったこの湖は、ものすごく澄んでいるのだろう。でも、きれいすぎて、どんな生き物も中では住めない。住めるのは小さく光る、蛍だけ。
「君の名前を聞いてもいいかな?」
「紫だよ。あなたの名前は?」
「蓮樹。花の蓮に、樹木の樹と書くんだ」
帰ってから、紫はスイカだけ食べると寝てしまった。
おじいちゃんの部屋に、お粥と小さく切ったスイカを持っていくと、珍しく呼び止められた。
「あの、女の子は、危うい子、だね」
「うん。あと少しだけ、彼女を休ませてあげたいんだ。迷惑かけてごめん」
おじいちゃんはゆっくりとスイカを口に運んだ。口をもぐもぐしながら、窓の外の、遠い場所を見ている。
「しっかりと、な」
「そうするつもり」
僕もひとつ、スイカをもらう。今年のは水分が多い、シャリシャリとしたスイカだ。
「明日、彼女とお祭りに行こうと思っているのだけど、彼女が着れそうな浴衣、ある?」
おじいちゃんはゆっくりと僕のほうを見ると、微笑んだ。
「おばあちゃ、んのが、あったと、思うよ。探して、ごらん」
「ありがとう、おじいちゃん」
「楽しんで、おいで」
そういっておじいちゃんはまた、窓の外を見た。
夏はもう、終わりに近づいている。
朝、僕は紫と朝食を食べると、商店街に買い物に出かけた。商店街から、お祭りのやる神社までが近いため、お祭りムード一色だった。普段見かけないたくさんの人の間をすり抜け、手早く買い物を済ませると、卵を割らないように気を付けながら家に帰った。
「おかえり」
紫が竹箒を持って、玄関に立っていた。
「ただいま。掃除してくれて、ありがとう」
紫と手分けして、トマト入りのつけ汁のそうめんを作って食べた後、浴衣探しに取り掛かった。
おばあちゃんが使っていた箪笥の中を探していると、一枚の浴衣が出てきた。白地に金色の金魚と、紺色の水紋が描かれている。
そろそろ日が落ちる、いい時間帯だったので、さっそく紫に着せてみると案の定よく似合った。彼女は少し照れ臭そうに笑うと、袖をひらひらと揺らして見せた。
神社はものすごい人だった。油断していると、足を踏まれる。紫は僕のTシャツをつかんでいるから、多分はぐれない。
紫は、子供向けの屋台の前で、客呼びのお姉さんに桃色の古典柄の折り紙をもらった。口の端を少しゆがめて、ありがとうというと、大事そうに持ってきていた手提げの中に入れた。
りんご飴を一本ずつだけ買うと、人のいない、森に続く階段に座った。
「りんご飴、本当に久しぶり」
紫が目を細めて言う。遠くのほうで鳴る、太鼓の音は夏の終わりを知らせている。今年の夏が終わる。
「私、お祭りの後、警察に行くよ。全部話す」
「そっか」
「お母さんを早く供養してあげたいしね」
「それがきっと正しいよ」
人々の賑わいの声が一層高くなる。あと数分で提灯の明かりが消えだすだろう。そうしたら、蛍の光が見えるだろうか。わからない。だけど、提灯が消えてからしか輝けない、小さな光しか持たない蛍は、寂しいように思える。
ポケットから取り出し、彼女の髪にそっとつける。黒だけだった世界に紫色が灯る。
「プレゼント。君がこれからも君でありますように」
紫は手提げから手鏡を出すと、そこに顔を近づけた。
「きれいなつくりのお花。すごく、うれしい」
「今朝、商店街で買ってきたんだ。気に入ってくれたみたいでよかった」
彼女は手鏡をしまうと、さっきもらった折り紙を出した。
シューシュー。しっかりと折り目を付けて折っていく。紫といられるのもあと少し。人生の中で、とても大切な時間だろう。それほどまでに、僕は彼女に救われた。
彼女がこちらを向き、僕の手を握る。
「お返し。あなたがこれからもあなたでいられますように」
僕の両手に乗せられたそれは、桃色の蓮の花だった。
彼女は僕の両手を握ったまま、ほほえみかけてこう言った。
「さようなら」
僕も笑ってこう言った。
「さようなら」
お祭りの帰り道、花の裏を覗くと、小さな文字でありがとうと書かれていた。
遠くのほうで風鈴の音に紛れて、鈴虫の声が聞こえる。
秋はもう、目の前だ。
*
僕は16歳の秋、両親が暮らす街に帰った。おじいちゃんはまたいつでもおいでと、言ってくれた。あの家には、僕の代わりに叔母が住むらしい。
今、紫がどうしているかはわからない。
笑っていられたらいいなと思う。
今度紫のように重たい荷物を背負っている子がいたら、ほんの少しでも手伝ってあげられる人になりたいと思う。
見て、考えて、やさしく、やさしく、行動しよう。
そのために帰ってきた。
僕は人ひとり、救えるくらいに強くなりたい。
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読んでくださりありがとうございます。
夏の雰囲気だけでも、楽しんでもらえたらなあと思います。
私は苦めのお話が好きで、趣味全開で書くとどうしてもこんなお話にしかなりません。
紫の両親を掘り下げるかどうかで、悩みました。
二人だけの世界にしたかったので、結局、書くことはやめにしました。
アドバイス、評価などいただけると、これからの励みになります。Twitterもやっているので、良かったら声をかけてください。
また会える日を楽しみにしています