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ニッポンロックヒストリー

ニッポンロックヒストリーその1「はっぴいえんど」と「内田裕也」の「日本語ロック論争」

作者: Tanaka-KOZO

 70年代のニッポンの音楽シーンにて、「日本語は果たしてロックにのるか否か!?」という論争が「ニューミュージックマガジン」の誌上で、細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂、率いる「はっぴいえんど」と「内田裕也」との間で、熱いバトルを繰り広げられていた。


事の発端は、前年から始まったニューミュージックマガジン誌の“第一回日本のロック賞”受賞ミュージシャンがURCレコードの岡林信康『わたしを断罪せよ』で、第二回受賞が同じくURCのはっぴえんど『ゆでめん(俗称)』が受賞したことで内田が「そんなにURCがいいのか?!」と噛み付いてきたのが始まりだった。


(ちなみに第三回もURCの遠藤賢司『満足できるかな』が受賞)当時、はっぴいえんどは業界関係者から「日本語とロックを見事に融合させた」と評価されていたのだが、内田は「そうは思えない!」とこれを断固拒否。


そこで、ニューミュージックマガジン誌上で、はっぴえんどの大滝詠一、松本隆と、内田裕也、ミッキー・カーチス、他多数が集まり、「日本語ロック論争」なる対談が行われるのである。


この議論はその後、何度となくニューミュージックマガジン誌上で繰り返し行われるのであった。


内田の持論はこうだ。


「ロックは英語でやるべきである」

「日本語で歌えばチャック・ベリーのカッコよさも消えうせて単なる歌謡曲になってしまう」

「日本語で歌えばGS(グループサウンズ)時代と同じく、商業主義に走り、ロックの成長を阻んでしまう」


彼は、ロックは英米などの本場で成功する事が大事であり、その為には英語で歌うことは不可欠であるという考えであったのだ。


内田は当時(60年代)、歌謡曲と化してしまったGS(グループサウンズ)に決別し、本格的なロックバンドを立ち上げるべく「フラワーズ」を結成。


だから余計に日本語のロックに対して警戒心を抱いていたのかもしれない。


その後「フラワーズ」は70年春に「FTB(フラワー・トラヴェリン・バンド)」と改称し、ニッポンにおける海外進出バンドの先駆けとなった。(※事実上、内田はプロデュースへと回る)


だが当時のメディアはFTBに対して特に関心も無く、またFTBは海外遠征の間に入った人物とのトラブルで

経済的に音楽活動を進めるにピンチに陥っていたのだ。


そんな内田の苛立ちもあり、「俺達だって頑張ってるんだ!」と叫びたかったのだろう。


この座談会を期に?H1>日本は「日本語派」と「英語派」で二分された。


この論争の争点は、「ロックを何語で歌えばいいのか!?」という事ではなく、いかにロックという異文化を取り入れて行くべきなのかという話しだったのだ。


「はっぴえんど」にとってロックは目的ではなく、ひとつの表現方法であり、内田にとってのロックとは目的であり全てであったのだ。


この水と油を呈した論争はその後、うやむやに終結するが、2つに分かれたこの構図はその後も遺恨を残すこととなったのである。

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