遊戯
早朝、昨日聞き齧った話では青の森に行くギリアンを「お気をつけて」と見送ったレティーシャは、迷った末に部屋に戻った。
借りていた歴史書を引っ張り出して捲り、折り畳まれた地図を見つけたので広げてみた。
この地図も、たぶん正確ではない。
昨夜王とギリアンが話していたこと。戦は珍しいことではないと、レティーシャも知っている。
赤の国や青の国のみならず、大陸の国々は昔から領土の奪い合いを繰り返している。繰り返し、その先に望むは大陸の支配。
しかし未だに一国が全ての国を支配したという歴史が各国には一度として刻まれたことはない。時代が移ろう度に、国々の力関係は変動するからだ。
国の頂点の力量は国全体の力を表す。互いに国の頂点が変わる度に力関係が変わると言っても良いため、赤の国は先代王の御代では決して小さくはない領土を奪われていた。
だが、先代王は崩御。現王の力量はと言うと――王の地位について何年になろうか。領土の減少は許さず、むしろじわじわと増やしている。
だからこの地図よりも赤の国の領土は広い、かもしれない。
閉じた本を含めて図書室に返しに行こうと部屋を出ると、ノアに会った。彼は普段は庭園の手入れを始め外で済ませる用事を優先して行い、他の日や時間をベスと役割分担して邸内の仕事をしている。
ところで今のノアににこやかな笑顔が薄かったものだから、レティーシャは見間違えたかと思って瞬いた。少しびっくりした。
ノアはすぐにレティーシャに気がついた。
「レティーシャ様」
瞬く間にいつもながらの笑顔が戻る。
「今、ベスに行かせるところでした」
「私のところにですか?」
「はい。恐れながら、今日は応接間付近にはお近づきにならないようにお願い致します」
「はい、分かりました」
応接間というと、お客様が来ているのだろう。公爵邸に来る人は限られた身分の人だ。
(応接間は確か……)
広い邸内の主な部屋の配置を思い出そうとするところ、ノアが「応接間はあちらの方です」と自らが行こうとしていた方を手のひらで示した。
「危険ですので、今日だけは念のためお願い致します」
危険?
引っかかる要素もなかったわけではないが、近づかなくとも不便はないのでノアの念押しに了解の旨を伝えて、彼とは別れた。
(危険とは、一体どういうことかしら)
「危険とは褒め言葉だと思うか?」
本を取り落としかけた。借りたものなのに危ない。
急いで後方を向くと、記憶に焼きついて新しい、この邸にはあまりに見慣れない鮮やかすぎる真っ赤な色が見つかった。
「陛下……?」
紛れもなく王が、赤い髪を揺らして廊下の先からここが彼自身の邸のように歩いてくる。
まさかここで王に会うとは思ってもおらず、レティーシャは咄嗟にどう対応すべきか頭が混乱する。
結果、窓の外をちらと見てまだ朝だと確認した。
「あの、おはようございます」
とりあえず朝に相応しい挨拶を述べた。
王からは挨拶は返ってこなかったが、返ってくると期待したわけではない。何より段々と距離が縮まっていくことが、今一番気にするべきことである。
「ギリアンは不在のようだな」
「はい。昨日……」
「ああそうだったな。私が行かせたのだった」
ギリアンに対すると同じく、相手の身分も関係無しの自然な様子で言葉を交わしてくる王に、さすがに戸惑いが隠せない。この国の頂点に立つ方だ。こんなに近くにいる方が、突然であることも手伝って違和感めいたものが生じて仕方ない。
(あ、そうだわ……)
お客様とは王のことではないだろうか。ノアはあれだけ厳重にしていたのにどうしよう。会ってしまった。
「どちらにせよ用があったのは、お前にだ」
「――え」
手を掴まれた、と気がつくには一拍の遅れを要した。
手、腕と辿った相手はもちろんのこと王だ。見上げた距離に、こんなにも近かったかと別のことにも瞠目する。
「陛下、何を……?」
「もうここに用はない。城へ戻る」
レティーシャを見下ろす王は、唇に笑みを描いた。
城へ戻るにしては、なぜ手を掴んでいるのか理解が及ばない。
「あの、」
「陛下、お待ちを」
戸惑うレティーシャに代わり、しっかりとした様子で制止をかけた人物がいた。声の方を見ると、つい数分前に別れたばかりのノアがいるではないか。いつ現れたのか、王の背後の廊下を歩いてやって来る彼はにこやか。
「いらっしゃられなかったため、お探し致しました。どうぞ、このような廊下ではなく主が戻るまで部屋でお待ち下さい。……レティーシャ様から手をお離しになってから」
掴まれているレティーシャの手を一瞥したときの目は、表情と同じ感情は乗っていなかった。
「レティーシャ様をお連れになることは、お控え願いたく存じます」
「ここの使用人は相変わらず面白い。私に楯突くか?」
両者、受ける印象は違えども笑っている。笑っている、のに、空気が雰囲気として冷え冷えとしてくるのはどうしたことか。
王の機嫌が若干違う方向へ傾きはじめたことは感じたので、ノアが丁寧にも一歩も引かない対応をしていることが心配だ。大丈夫だろうか。
レティーシャの心配も他所に、ノアは顔色一つ変えずにやはり笑顔も動かさずに続ける。
「いいえ、まさか。私達はこの邸の使用人。ギリアン様に仕える者。ギリアン様が貴方様の元につくというのなら、私共は従います。しかしギリアン様が望まないことが不在の状況で成されようとしているのならば、それを未然に防ぐことは仕える者の仕事というもの。私共は主が不在の間、レティーシャ様の安全を守る役目も申し付けられております。どうか、レティーシャ様をお離し下さい――赤の王」
「使用人ならば使用人の躾がなっていないな、言葉が過ぎる」
漂うのは剣呑な空気だとようやく察した。
ここまで聞いて把握するに、なぜか王はレティーシャを連れて行こうとしており、ノアは阻もうとしてくれている。
疑問なのは、なぜに王が連れて行こうとしているのか。要因を探ろうとすると昨日の出来事からになるが……。
「お前は私と行くことを拒否するか?」
「………………あ、私、でしょうか?」
「今私はお前以外に誰を見ている」
心当たりを探していて、何と王の問いかけを無視しかけた。これこそ危ない。
苛烈な眼に間近で見下ろされて、早く返答しなければと一生懸命に頭を働かせる。
(あら……? もしかしてこれは答えは一つしかないの……?)
王の行動を拒否する案は国民であれば、一切持っていないだろう。だって相手は王だ。国で最も力を持ち、国を率い、国を守ってくれる方でもある。
「……拒否は、もちろんしません。しかし、陛下はなぜ私を連れて行こうとなさっているのでしょう?」
「興味本位だ」
興味本位。それは、つまり……?
「……興味本位……思いつきで……?」
「本人が断らぬと言うのだ。これで文句はあるまい」
言質取ったりとでも言いそうな王の隣でぶつぶつと呟いていたレティーシャは、はっと顔を上げる。ノアと目が合う。
「ノア、すみません。出来るだけすぐに戻ります」
レティーシャに出来るせめてものことだった。それはノアにも分かったのだろう。目を伏せて渋々といった了承が返る。
「くれぐれもお気をつけ下さいませ」
横の方では、王が笑っていた。
*
とはいえ、出来るだけすぐに戻れるかどうかはレティーシャによって決められるのではなく、王次第である。
移動魔法で城まで一瞬。王に連れて来られて廊下を歩くが、どこか心もとない。昨日はそんなことはなかったのに。
加えてすれ違う人の視線が気になる。きっと王が隣にいることで向けられる好奇の視線だからだ。
「座れ」
「……こちら、ではなくてでしょうか?」
「そうだ」
大いに困った。昨日来た部屋で王が示した位置は長椅子の隣だったのだ。先に王は座っており、確実に隣。王の隣に座するとは、当然恐れ多いことだ。困る。
「命令だ」
王の側にいる人はいずれも魔法族、貴族のはず。レティーシャの生家より位の高い方がいるのは明白で、周りの視線がもっと気になる中王の隣に座ることになるのは一体何の罰なのかと本格的に悩みたい気分だ。
恐る恐る、ぎこちなく浅く腰かけたものの、座っている心地がしない。
「そろそろ来るな」
次は何だというのか。
興味本位で連れて来たとのことで目的のようなものも見えず、何やら暇潰しの相手にされる暇もなく、「陛下、フェリックス・カッセロ公爵が参りました」と白髪を綺麗に纏めた年老いた男性が王に面会するために来た者を知らせる。
「フェリックスだけか。まあいい、通せ」
男性が一礼し下がると、部屋の中に現れたのは一人の若い男性。
「陛下、呼び出しに応じ馳せ参じました……」
まともに目が合った。王を視界に入れれば自動的に共に見ることになる位置のレティーシャに気がついた目は、ちらりと見たはずが釘付けになり、口がおろそかになった。
居たたまれない。
「どうした」
「どうしたもこうしたも……ああいいえ何でもありませんはい」
「ヴァネッサはどうした。共に来るはずだろう」
「ヴァネッサ様は陛下を探しています。問題ありません。知らせました」
持ち直した男性は「先にご報告を」と王に述べる。
「青の国の方を優先するとのことで、兵は置いて、事のついで――と言っても白の国との国境付近から戻るのに青の国を通る必要なんて全くないのですが、ヴァネッサ様が見に行こうと言ったので青の国の国境沿いを行きました。途中でギリアン殿を見ました。離れた国境沿いで青の国の魔法族が兵を率いていたので、一掃しました。ヴァネッサ様が」
淡々と、単調な報告が終えられたタイミングで扉が派手に開き、
「フェリックス、どうして先に入っているのよ」
今度は派手な美人が入ってきた。まず目を引くのは真っ赤なドレス、深紅の扇。
「ヴァネッサ様、待ってました」
「待っていたって何よ」
優雅に巻かれた長い赤い髪に目は橙。助かったとでも言うような反応をした男性に対し、怪訝そうにした女性は横に並び立ち止まる。
「見れば分かりますよ」
「見れば……? それよりお兄様どこにいらっしゃったの。誰も分からないなんて言うのよ――」
女性の気の強そうなつり気味の目がレティーシャに気がつく。
「お兄様、その者は」
「これか? これは私の妃になる予定の者だ」
「え」
赤の王はレティーシャの肩を抱き、髪に唇を寄せた。端からは恋人のような距離。
新たな状況に急に巻き込まれ、しかし当事者のはずが早くも置いてきぼりにされてレティーシャは呆気に取られる。意味を成さない音をぽつんと出した口は数秒たっぷり閉じることを忘れた。
「え、あの、違いま」
急いで発言を否定しようとすると、耳に熱いものが触れ、勝手にビクリと体が震えた。
言葉が阻まれた隙に耳元で囁く声がある。
「ただの戯れだ。どうせギリアンはすぐに戻ってくるからそれまで付き合え」
注意深く隣にいる王を見上げると、にやりと見るからに人の悪い笑みが返された。
「当然、私の嘘だと暴露することを禁じる」
(そんな……)
これは困ったことになった。しかし抗うわけにもいかないもの。
王はレティーシャが口を閉じたことを確認して、顔を離した。
そんな会話の内容が聞こえなければ、距離からして仲睦まじく内緒話をしていたように見えていたとでもいうのか。王とそっくりな色を持った女性は橙の瞳を驚きに大きく瞬き、目だけで自分の隣にいる男性を見上げる。
「何年目の春なの」
「何年目ってどこから数えるんですか、それ。まぁ下手すれば生まれて以来じゃないですか。――それより陛下、本当ですか」
「もちろんだ」
「それは……その、おめでとうございます」
「フェリックス、受け入れるのが早いわよ」
「いや実にめでたいことですね」
「もう! お兄様、どういう風の吹き回しなのかしら」
「どういう風の吹き回しも何も、そのままだ。この娘を私の妃にする」
王はレティーシャが魔法の炎の影響を受けなかったことを明かした。
「ギリアンの推測ではそれがこの者の生まれつきの魔法であるそうでな。相応の魔力があるからこそ魔法を無効にする。魔法を無効にする魔法の例が現在見られぬ故、この者固有の魔法と言っても良い。どうだ、私の妃に相応しいだろう」
「確かに……そうかもしれませんわ。お兄様、おめでとうございます」
信じ込んだ二人を見て、王は楽しそうにくつくつと笑っていた。
ああ、この人は子どもなのだとレティーシャはこっそり思った。子どもにしては無邪気さが欠落した確信犯だけれど、人の反応を見る目が心底笑っていたり、ノアのときみたいに思った通りに事が進んでしてやったりといった笑みをしたり。子ども扱いしているわけではないが、失礼ながら子どもなのだと感じざるを得なかった。
(ギリアン様、早く帰って来てください)
王の望み通りにボロが出ないように、出来るだけ黙りのレティーシャは強く素直に願った。