赤の王
ベスに連れられ一度部屋に戻り支度を整え、十五分後、ギリアンと合流した。
「ギリアン様、差し出がましいようですが……」
ベスが躊躇いがちに、しかし声音はいつも通りしっかりとギリアンに前置きをした。
「問題ない。それにこの際陛下に話を通し、認めてもらった方が確実だ」
何事か具体的な言葉は出ないままにやり取りは終わり、ギリアンはレティーシャに手を差し伸べる。
「レティー、手を」
手を重ねると、ギリアンは空いている手で何も無い目の前を撫でる動作をした。彼が手が引いた直後、まずは何もないところに透明な輪郭、徐々にその何物かの輪郭ははっきりとし、瞬きをしたときには大きな姿見が現れているではないか。
「魔法道具だ。対とした鏡のある場所なら自動的に正確に出られるから、普段はこれで行き来している」
銀色に縁取られた姿見の頂点で大きな魔法石が輝いていた。
「行こうか」
「はい」
ギリアンが足を踏み出すのに習い、レティーシャも姿の映らない鏡の中に入っていった。
*
「……あ」
鏡に入った、と思った次の瞬間には通り抜けていた。真っ暗な、おそらく部屋。細部が見えず足元も見えずに、変わらずある手の感触にすがると、隣のギリアンは部屋の構造を熟知しているためか歩き続ける。
ドアが開いたと分かったのは、灯りで照らされた向こう側がドアの四角に切り取られた形で見えたからだ。
広く長い廊下に出ると、廊下の壁には灯りがかかり行く人に明るさを提供していた。
ここは城だ。国の中央、政治の中心、王都。王の住まう城。
長く広い廊下には、レティーシャとギリアン以外の人はいなかった。
こんな風に城の中を見られることはそうそうないので、レティーシャは見回したい気分に駆られたが堪えた。見るならこっそり。
何気なく窓の外を見たら、ちょうど窓の向こうを過ったものがあった。
「馬が」
馬が飛んでいた。見間違いではないだろうかと思っても、形が馬である。
「ああ、あれは最近の流行らしい。あえて馬に乗り、馬を浮かせて移動する。中には馬車を浮かせている者もいたな」
何ということ無しにギリアンが教えてくれた。馬を、魔法で。
城、特に王の周りには一定以上の魔力がある者しかいないと聞いたことがあるが、地位が高く魔法に優れた人はそんなことをしているらしい。あえてとは、まさに魔力が大きく、優れた貴族にしか出来ない道楽。馬は飛ばされて怖くないのか、訓練されているのか、どんな気分なのか思うところはあったが見る分には……。
「素敵ですね」
「レティーもしたいか?」
すごいなという気持ち半分で見ていたレティーシャが言われて考えたのは、それ以前に出来ないということ。
「私にはその魔法は使えません」
「俺がしてあげると言ったら?」
「ギリアン様であれば、出来そうですね」
といより、出来るのだろう。さっき飛んでいた(飛ばされていた)馬が真っ白で、日中晴れた日に見るとそれは空に映えるはずだと見た目だけを考えると、ギリアンは様になるだろうなと思った。
仕事を終えた者は帰るだろう時刻ゆえか、廊下で人とはすれ違わなかった。やっと他の人を見たのは両開きの扉の側。揃いの衣服を着て立つ者が二名。
「ギリアン・ウィントラスだ。陛下に呼ばれ、参上した」
「暫しお待ちを。お知らせ致します」
二名の内一名が一礼し、扉の中へと入っていった。もう一名は真っ直ぐに前を向き、微動だにしない。
「緊張しているか?」
囁きが落ちてきて隣を見上げると、ギリアンの黒紫の瞳がレティーシャを見ていた。
「少し、してします」
「陛下に会ったことは?」
「……いいえ」
そうか、と呟いたギリアンは中から人が戻ってこないうちに続ける。
「挨拶は求められない限り、しなくてもいい」
「いいのですか?」
「陛下の機嫌は読めない部分がある。求められないのに挨拶をして機嫌を損ねた例は未だに絶えない」
「……分かりました」
「陛下は悪い人ではない。だが人を威圧するものを持っている。怖いかもしれないが話は収めることが出来るから、そこは安心してほしい」
「はい」
「しかし」
潜められた声に改めて見たギリアンは、間違いでなければ、気がかりそうな目をしていた。
「これから君を怖い目に合わせてしまうかもしれない」
それは陛下が他を威圧する雰囲気を持っている人だから?
聞き返す前に、扉から人が戻ってきた。
「遅くなりました。どうぞ、中へ」
扉が両方とも開かれて、部屋の様相を詳しく見るより先に声が聞こえた。
「――役立たずは今すぐ失せろ」
あの声、鳥が発した声だ。直に聞く声は、少し前に聞いたよりもずっと重く低い声に聞こえた。
ギリアンに導かれるままに先に進むと、出ていこうとする人とすれ違った。逃げるような去り方で、どのような人かは分からなかった。
そうして一瞬だけ逸れた意識と視線を戻すと、今度は強く真っ赤な色に引き寄せられた。
私室のような作りでいて、完全なプライベートな空間とまでは行かず仕事用といった雰囲気の部屋。奥のソファーに堂々と座る男性が一人。
真っ赤で鮮烈な髪は、以前一目だけ見た記憶と比べるまでもなく強烈だ。髪よりもっと強烈なのは、意思を持つ眼。優しい温かな色とは言い難く、燃え盛る炎の移り変わる色の一端、橙。
髪と目に炎の色彩を持った男性は、確か二十代半ばほど。この国の王である。
「ギリアンか」
仏頂面だった王は、ギリアンを見るや口許が弧を描いた。
「直ちに参れと言ったが、及第点としよう」
「それは良かった」
「それにしても久しぶりか」
「陛下は西の戦場に指揮に行き、俺は青の森に行った後は城に来ていたが、城に戻る時間が俺とはずれていたのだろう。だから会わなかった」
レティーシャの住む国が『赤の国』と呼ばれる所以は、王の――もっと言えば昔から王の座を守り続ける一族の髪の色から来た呼び名である。他の国も同じく。
一目で王と分かる男性とギリアンの挨拶の延長の会話は続いている。
(あら……?)
矛先を向けられない限り黙っている予定のレティーシャは、とあることに気がついた。
ギリアンに「陛下」以外に相手を敬うような言葉遣いが見受けられないこと。あまりに自然に話が進んでいるので、気がつくのが遅すぎたくらい。
まるで対等に話す様は、気がついてしまっても不自然さより自然な流れに聞こえて見えてしまうのは不思議だ。
相手は、王だ。室内に控える者もいることで、この部屋の主であることは確実。
いいのだろうか、とギリアンの様子と王の反応を窺っていると、橙の眼がレティーシャの視線を捉えた。
「それがお前が青の森から連れ帰った者か」
会話の内容は追えていなかったので、急に話題が変わったのかその兆しはあったのかは分からない。
油断していたレティーシャが固まると、まだ重なっている手が大丈夫だと言うように手を握る。
「その話で、陛下は俺を呼んだのだろう。話をしよう」
ギリアンが言うと王の視線が離れ、レティーシャは目が合っただけで緊張させられていたと実感した。
「座れ」
ギリアンが座る横にレティーシャも座り、先ほどは目が合う顔を見ていた反省を踏まえて、失礼のないように適当な場所を見ておくことにした。
「陛下、見ていたのならもっと早くに俺に先に言ってくれれば説明していた」
「説明? 青の国から拾った者をなぜ殺さない。何か見所のある者だとでも言うのか?」
「青の国の森にいたと言っても、彼女はこの国の人だ」
「ではなぜ青の国にいた。青の国が仕組んだ間者か」
「陛下、違う。彼女にも事情がある。先に身元の保証――俺が身元の保証というのもおかしい気はするが、保証をしておくに貴族の子女だ」
「ほう」
一歩も引かずに説明してくれるギリアンに、王が興味を示したような声を出す。
「貴族の娘は一年か二年か三年ほど前に国中から集められたはずだが、見た覚えがないな」
「年数のうろ覚えの様子から言っても、元々陛下はそんなことは覚えていないだろう」
「それもそうだ」
吠えるような笑い声が響いた。
何だろう。この王は、笑うと存外怖くない。笑い声だけでなおさら仏頂面との落差が激しくて、安心してもいいのか迷わせられる。気安くも聞こえる会話をするギリアンと一緒だから、機嫌が良いのだろうか。
笑い声は少しの間続き、止むと盗み見た王は唇に笑みを刷いたまま頬杖をついて問いかける。
「して、事情とは」
「実は彼女は貴族の家に生まれたが、生まれたときの魔力測定で魔力ゼロとの結果が出たようだ。それにより青の森に置き去りにされていた」
「それはいつの話だ。話の流れで考えるについ一週間程度前の話のはずだが、その者は見たところ成人に近い。それまで、どこにいた」
「生まれた家に」
酷薄に鼻で嗤う音がした。
「魔力は生まれたときから変わらない。魔力が無いならば生まれたときに平民に落として然るべきだ。置いておくとは愚かなことをする」
王の言葉は、この世の常識だ。
魔力が無ければ、貴族として生まれてもいずれは身分がかけ離れてしまう。また、魔力が無い者が貴族の家に生まれることは位が高ければ高いほど恥とされる。そのため生まれてすぐに魔力測定が出来るようになってからは、魔力が無いと分かれば家の子とはせず平民にするそうだ。
レティーシャがたった一つもっと特異だったのは、生まれなかったことにされた点。この世に存在しない存在と同義。
ギリアンはそのことは伏せていた。王の端的で容赦の無い指摘を静かに聞いた後、王が要求した青の森にいた理由を説明した上で、後の事情を続ける。
「しかし陛下、彼女には実は魔力があった」
「魔力測定で魔力無しとの結果が出たと、私はたった今お前の口から聞いた気がするが?」
つまらなさそうな声音だ。
この王が一言「話はいい。平民に落とせ」と言えばすぐにでもそうなり、それに収まらず罰せられるのではと感じさせられる様子に傾いていると、緊張するレティーシャは敏感に察知した。
「彼女は青の森にいた。陛下が俺が彼女を連れ帰るどのくらい前から見ていたかは知らないが、彼女はあの炎の中、森にいた」
「何が言いたい」
「陛下の炎が効いていなかった。彼女は魔法を無効にする魔法を無意識にだが使え、それは生まれつきのもののようだ」
「……ほう」
声はまたさっきまでとは変化した。どんな感情かは顔を見ずには推測出来ない声だったが、つまらなさそうな雰囲気が払拭されたことだけは分かった。
「なるほど。その生まれつきの魔法ゆえに、生まれたときの魔力測定の際、魔力を測る魔法を無効にしたと言うか」
「そうだと俺は考えている」
「つまり、こういうことだな」
王の言葉は前触れだった。
視界に赤が揺らめき、熱を感じた。視覚と感覚に異変をもたらしたものの正体を理解するより前に本能が危険なものだと察知したが、レティーシャが王のいる方を見たときには紅蓮の炎が視界を占拠し、身に襲いかかってくるところだった。
(燃やされる……!)
いつかも思ったこと。
瞬きよりも早く逃げ場を塞いでくる炎を避ける時間も、反射神経も持ち合わせていない。
レティーシャが目で捉えた通りに本能から燃やされると思い、感じる熱と真っ赤な色に燃やされたとも思った。仮説が立てられていたとしても、本能的には疑うべくもなかった。
しかし圧倒的な力を誇る炎はどれほど近くまで迫ろうとも、レティーシャの肌を舐めるには至らない。
意思を持ちレティーシャを燃やそうと髪の先、衣服、肌に移ろうとする先から炎が消える。対象を焼き尽くそうとする炎に対して、決して触れさせまいとする力が働き、炎が周りを囲むという状況が出来上がっていた。
炎の中心にいるレティーシャは恐々と背もたれからも背を浮かせながら、燃やされないように身を小さくしようとしていた。
「レティー、大丈夫だ。燃えない」
ギリアンの声が聞こえてそちらを見ても、炎の壁で横の方に座っているはずの彼はぼんやりと揺らめいているだけで、はっきりとは見えない。ただ炎の中でレティーシャの手を探し出して触れた手があり、声と握られた感覚を自覚して安堵が胸に広がった。
この手があるだけで、まだ炎に囲まれているのにほっとする。
「陛下、もういいだろう」
再度のギリアンの声の直後、見えていた全ての炎が跡形もなく消え、ギリアンの姿が現れた。
ギリアンが見据えている先を追うと……王の姿がある。炎を操っていたのは、この人だ。
この国の王族の血統、特に濃い血を持つ者にのみ許され、他の者には使えない『固有の魔法』。普通の火なら初歩の魔法の部類に属するが、それとは一線も二線も画す別次元の代物だと誰もが知る。魂までも燃やし尽くすとまで言われ、後には何も残らない。戦場に置いては敵に最も恐怖を抱かせるという魔法の炎。
(青の森の炎も、陛下のものだったのね)
かなりの広範囲に渡りそうだったあれは、自然に炎が燃え広がったものではなかったに違いない。
王は炎が広がる前とは打って変わって、口許が深く弧を描き愉快げに笑っていた。
「これは面白い」
良い玩具を見つけた瞳そのもので、橙の色彩が煌めいた。
「決めた。その娘を私の妃にする」