優しい人
昨夜は「今日は寝るといい」というギリアンの言葉で、一室に通されて眠りについた。寝室の窓からは星空が見えた。曇り空だった青の森からは正反対の位置にある土地と聞いたから、この地の空が曇っていなくても不思議ではない。
ベッドに横たわったレティーシャは様々な出来事が頭の中に過りながらも瞼を下ろし、眠りについた。
疲れていたのだろう。夢も見ず、深い眠りに沈み、朝まで一度も起きなかった。
*
目を開くと、朝陽に照らされた空が見えた。普段はカーテンを閉めて寝ているのに、と思って寝惚け眼で探したカーテンの色が見慣れない色だったことで疑問が生じた。
続けて窓の意匠も異なることに気がつき、天井も異なることに――。
「あ……そう、だったわ」
ここは家ではない。
身を起こすと、部屋の中は物があまりなくても昨日までレティーシャがいた家の部屋とは明らかに違っていた。
起きなければと思いつつも、ぼんやりとしているとふいにドアがノックされた。我に返って返事をしてドアを開くと、外にいたのは昨夜この部屋に案内してきてくれた女性だった。
「おはようございます」
挨拶を返すと、彼女は「お着替えをお持ち致しました」と言う。
「着替えを……」
「主がレティーシャ様の保護を申し出たのですから、これもその内と捉えてくださいませ。主の厚意です」
手持ちが無いとはいえ、昨日に引き続き衣服を用意してもらうのは悪い気がしてならないレティーシャに対し、女性は遠慮を払拭する様子で述べる。
そのままの様子で着替えを促し、あっという間に簡単な作りの衣服を脱がせて着替えさせてしまった。用意されていた衣服は、ふんだんにフリルのあしらわれた純白のブラウスに胸元にはブローチがつけられ、腰に大きなリボンを結び、下からは赤いスカートが広がるものだった。
髪までもさっと整えてくれる。
「靴のサイズは……こちらのようですね」
靴も二つあった箱の内、一つを開けるとぴったりと合った。
「朝食の準備が出来ております。案内致します」
廊下は昨日は夜に通ったので蝋燭の灯りのみだったこともあり、今通ると全く別の雰囲気だ。
案内された明るい部屋の中には、朝日に照らされ椅子に座る優美な姿があった。ギリアンが入ってきたレティーシャに気がつく。
「おはよう、レティー」
「おはようございます、ギリアン様。この服、ありがとうございます」
「よく似合っている」
気遣いを自然に溶け込ませるギリアンは微笑みかける。
レティーシャがテーブルにつくと、朝食が運ばれてきた。
「よく眠れただろうか」
「はい」
それは良かったと優雅な所作でティーカップを口に運ぶギリアンの前で、レティーシャは若干緊張していた。
普段家族と食事を摂ることもまれだったのに、家族以外の貴族、それも公爵その人の前で食事をするのはこんなにも緊張することなのかと何分初めてのことで驚いた。初めてだからだろうか。
そうやって心配していても、当のギリアンの微笑みは崩れなかったから一安心だ。
残すのは忍びないけれど、レティーシャが食事の手を止めたところでギリアンに呼びかけられる。
「朝食後なのだが、時間をもらってもいいだろうか?」
もらうも何も、出来ることをやらせてもらおうと思っていたところなので、レティーシャの時間は空いている。
食後、ギリアンに連れられて来たのは昨日入った部屋のどこでもない一室。一人、緑のドレスを身につけた女性がおり、ギリアンに一礼した。
「待たせたな」
「いいえ。行き来の魔法を頂き美味しいお茶をご馳走になり、もったいないことです」
部屋の中は中央が広く、故意に空けられたようになっており、端の方に衝立と大きめの机がある。机の上には布が巻いたまま置かれていたり、広げられていたりしている。窓から離されて影にあっても、布の色は鮮やかだ。
また、女性の近くには大きなトランクがあることが気になった。
この人は、貴族のようにもそれ以外のようにも見える。
「そのお方でしょうか」
「そうだ。いくらか頼む」
「では早速」
言うや否や、女性がなぜかレティーシャに歩み寄り、立ち止まると全身に順に視線を下ろしはじめた。
「お髪と瞳の色はお聞きしているだけでしたが、よくお似合いです」
袖やリボンをいじりつつも満足そうに頷くと、今度は後ろのトランクに歩いていく。
「俺は出ているから、終わったら知らせてくれ」
「お任せください」
と、横ではギリアンがレティーシャを置いて部屋から出ていこうとするので、置いて行かれそうなレティーシャは「え?」となる。これは今から何が始まるのか。どうして連れて来られたのかもさっぱりのままだ。
「ギリアン様」
ギリアンを呼び止めたのはドアを開こうと準備しかけの、昨日と同様の使用人らしき男性の方。ドアノブは彼が握っているため、ギリアンが立ち止まり、男性を見た様子が分かった。
「説明をお忘れです」
「説明?」
「レティーシャ様が、状況がお分かりになっていないご様子です」
言われて、振り向いたギリアンは自分を見ているレティーシャを見て「……そうだった」と僅かに決まり悪げに向き直った。
「すまない。どうも俺は説明を後にするか忘れる癖がある」
「いいえ。これは、どういうことなのでしょう……?」
「まず、彼女は貴族でありながら魔法を駆使して洋服を作る針子だ」
「しがない子爵の身です」
魔力のある者は、土地などが授けられるかは別として、少なくとも成人すれば男女共に全員が魔法能力に応じた位が授けられる。魔力ある者の中できっちり階級を決めるためだ。
この女性は、貴族であるが魔法を使えるからこそ能力を洋服作りにいかしているのだそうだ。
「個人が魔法で出来ることにも得て不得手があるからな。さすがに俺はドレスは作れない。その点彼女は以前からデザイナー兼針子として有名で、評判を思い出して今日レティーの服を作ってもらうために来てもらったということだ」
「ま、待ってください」
最後の一言に、とっさに制止の声をあげていた。
レティーシャの服を作ってもらうために、とは。さすがにそこまでしてもらうわけにはいかない。外部の者に見られるわけにはいかなかったレティーシャは、服を作ってもらうということが初めてであることもあり、慌てる。
「心配しなくても彼女は君のことを外に洩らさない」
「そういうことではなくて……」
ギリアンは本気で分かっていない様子で、そこではないと言うレティーシャに首を傾げる。
レティーシャは悟った。昨日から今朝にかけての気遣いの数々と言い、たぶん彼にとってはそれらは「気遣い」との意識がないのだ。
これははじめに言っておかなければ、レティーシャにはもったいない気遣いが続いてしまう。ギリアンが迷惑を迷惑と思っていなくても迷惑をかけているのだから、まるで客のような扱いを受け続けるわけにはいかない。
「ギリアン様、私がここでお世話になる間使用人にしてもらえませんか。何もかも、すでに有り余ることをして頂き、もらってばかりではいられません」
ここにいる間、大したことは出来ないけれど出来ることをやらせてもらおうと思っていた。料理や洗濯はしたことはない。掃除はずっと離れの方をやり続けていたから、この大きな邸であるならその点だけでも働かせてもらわなければ、と。
しかしレティーシャの言葉を受けたギリアンは黒紫の目を少し丸くした。
「使用人? 君を使用人にしろとは悪い冗談だ」
彼は首を振った。
「そうか……レティー、君はもしかすると俺がすることを『してもらっている』と思い、申し訳ないと思っているのかもしれない」
もしかしなくても、そうだ。
「それらはあくまで俺がしているだけのことだと捉えることは出来ないか? 俺は君を保護するからには、君の環境は整えてあげたい。今日用意した服は持ってきてもらった既製品だ。しばらくはいてもらうことになるから、折角ならぴったりのドレスを作った方がいい」
これがギリアンの考えていることだったらしい。なるほど、身分による余裕の他、彼はするなら良いようにとの人柄なのだと性格が垣間見えた気分になった。
「……ギリアン様」
「何だろう」
「それでも、ここにいるだけということは出来ないので何かお手伝いをさせてください。私は大したことは出来ませんが……そうです、掃除が出来ます」
それだけで返せるとは思わないけれど、流されるままは良くないとこの先のことを思い重ねて主張すると、ギリアンは瞳を伏せ、黙った。
(もしかして、使用人として邸の何かを任せるのは嫌かしら)
使用人とは、邸の維持をする大切な役割を担う人々でもある。古参ともなれば、邸に欠かせず、主に信頼を置かれる者ともなる。
言ったものは言ったものなので思案しているようなギリアンの出方を見守っていると、やがて彼は視線を上げ、ゆっくりと唇を開いた。
「……分かった。出来る限り君の意に沿おう」
「ありがとうございます」
受け入れられたことにレティーシャが表情を明るくさせれば、ギリアンは弱い笑みになった。
ギリアンが部屋を後にすると、念のためとドアの方に衝立が立てられて採寸がはじまった。
好みと要望を聞かれ、好みは無かったので動き易い簡単な作りのものにしてくださいと採寸はものの五分で終わった。早いと思うのは勘違いではないだろう。
「今日中には一着お届け出来ます」と言って、売れっ子デザイナーは帰って行った。
ギリアンの邸のある敷地はとても広い。窓からは木々がずっと先まで続き、最初の印象の通り森の中に邸が建っている。
邸を囲むようにしてある庭も広かった。よく晴れた空の色を映したかのような澄んだ水の張った大きな池には、水の底から埋め込まれた石の道によって真ん中に続く四阿があった。
「ここにいる間にレティーには魔力の制御を教えよう。魔力の制御を学べば一つとはいえ、今無意識に自分に害を加えようとする魔法だけに働いている魔法が意のままにできる足掛かりともなる」
レティーシャを庭に誘い、しばらく歩いたギリアンは四阿に向かう石の道に入り、両側は水ということでレティーシャに手を差し伸べる。彼は少しの段差であったりする場所でも手を差し伸べてくれる自然体の紳士であった。
「私に出来るでしょうか」
「今まで行ってきていなかったことを思うとおそらく難しいだろう。本来は魔法が暴走しないように幼い頃から身につけるものだ。魔法道具での魔力測定をしていない時代にも、魔法を使えることが分かるのは幼い頃だったというからな」
今の世は生まれたときに魔力があると分かるからなおさらに、幼い頃から読み書きと同じく当たり前に身につける。
一つだけ歳が違う妹が、文字を読むより前にそうしていたのではないかという記憶が甦る。レティーシャは読み書き等は習ったけれど、もちろん別の部屋で、妹が魔法を習っている光景を直接見たことはなかった。
「それから君が魔力を持っていると穏便に証明できそうな方法が一つある。そちらも同時に進めていこうと思う」
四阿の屋根の下に着き、足を止めたギリアンはポケットから何かを取り出し手のひらの上に乗せてみせた。
「これは魔法石だ」
丸い、宝石のようにも見える色のついた透き通った石だった。
「昨日使った魔力測定の魔法道具にも埋め込まれていた。魔法石は魔法を込めたり、魔力そのもののみを込められるものだ。つまり魔法を使えなくとも、魔力を魔法石に込めることは出来るのではないかと俺は考え、現在身に危険のある魔法しか防がない魔法で魔力があることを証明するよりこちらの方が余程安全だと思う」
彼はレティーシャの手をひっくり返して石を置いた。ひんやりとする。
「魔法石に魔力を込めることは、人によっては新たな魔法を習得することより難しいと言われている。レティーは魔法の使い方の根本、魔力の使い方も分からない状態だからとても難しいだろう。だが、魔力を扱うという点では相乗効果が期待される」
試しにやってみるか?と言われて、初めて見る魔法石を見つめていたレティーシャは顔を上げる。
「やってみる、とは」
「魔法石に魔力を」
「そう簡単には出来ないのですよね?」
「うん」
すんなり頷かれる。
「一度やってみるのもいいだろう?」
促され、手にした魔法石に再度視線を落とす。この石に、まだ自分の中にあるかどうか実感が湧かない魔力を。
やってみよう、と思ってレティーシャは石を握る。
握って――
(あれ……?)
そういえば。
「あの、どういう風にするのですか……?」
やり方が分からないと気がついて、ギリアンを見上げ直すことになってしまった。
「詳しい順序は後日踏んでいってみるとして……そうだな、内側から力を込めるようにしてごらん」
「内側から……」
意識を包み込んだ魔法石に。
力を、内側から、手の中に。懸命に、ぎゅっと目を閉じ石を握り、出来るだけ言われた通りにしようとする。
けれど実感は湧いてこない。
「レティー、もういいよ」
ギリアンの声が聞こえて、瞼を上げると同時にかなり体に力が入っていることを感じ、息も止めていたと自覚した。
ほっと息をつく。
「何も具体的に言わなかったのに一生懸命やってくれたんだな」
「ギリアン様、やっぱり出来ていませんか……?」
「そうだな。でも気に病むことはない。こつこつやっていこう」
ギリアンは止めていた分の息をするレティーシャの頭をそっと撫でた。
次の話が短めなので、0時頃にもう一度更新します。