公爵
眼前に炎が迫り、目の前が炎で占拠されたとき、すでに燃やされたとまで思ったのに燃えていない。炎に触れたとさえ感じなかった。
無理もない。炎はレティーシャの周りの軽く手を伸ばしても届かない距離を円を描くように残して、他の見える一帯を炎の海にしていた。
「……それよりどうすればいいのかしら。これはこれで困ってしまうわ」
どうもこの炎のお陰で運よく殺されずに済んだにしても、今度は炎のせいで容易には動けそうにない。
辛うじて周りの安全だけは確保されているとはいえ、理由が分からないから安易に動くわけにもいかない。見える限りの遠くまで埋め尽くす四方の炎に自ら飛び込む人間があろうはずないのだ。
「でもこのままいるのも……」
触れずとも、壁のように立ちはだかる炎は熱い。いつ襲いかかってくるのか分からない恐怖もある。だが、やはり一分の隙なく炎が周りを囲んでいるので動けないという結論に至ってしまう。
待つしかないようだ。レティーシャはため息をついた。
それにしてもこの炎は、おかしい。
燃えるものなどない地面がこれほど激しく燃えるものなのだろうか?
草のない土が剥き出しの地面一面を炎が高く燃え盛り、異常な速さで燃えた木が倒れる。煙が上がり、レティーシャは軽く咳き込む。熱い。少し、息苦しい。
ローブを引き上げ顔の前を覆うといくらかましになる一方で、容赦なく囲む熱で頭がくらくらしてきた。露な顔は当然として、衣服を越えて伝わる圧倒的な熱。燃えるか燃えないかの問題ではない――。
「炎が、避けている?」
声が聞こえたのは、受け続ける熱で立っていることを止めたとき。
顔を覆っていたローブをゆっくりと下げると、真っ赤であり続けていた景色に変化があった。前方から、人影?
何度も瞬いて、ぼやけそうになる視界をはっきりさせようと努める。
「君は」
炎の中に現れた『誰か』は驚いた様子でレティーシャの前にやって来て、膝をついた。
火照った頬に触れた手が冷たい。
「熱いな……。怪我はしていないか」
「……ええ、はい。ご心配なく」
声からしても、男性だった。
跪いた男性は気がかりそうにして、レティーシャの頬を両手で包み怪我がないかどうかを確かめるように乱れた髪を後ろによけた。
「あの、あなたは……」
「待ってくれ。熱いだろう、すぐに火を抑える」
髪を避けたついでに頭を撫でた男性が顔を上げたので、レティーシャも追い視線を上げる。
男性がすっと指を向けるのは、依然としてレティーシャたちを囲む炎。その炎が指の動きと共に後退していき、やがて木々の奥まで引っ込んだ。まだ向こうでは燃えているようではあるが、少なくともレティーシャの周りからは炎は去り、涼しくなったように感じた。
呼吸を妨げる熱がなくなりほっと息をつくと、安堵が胸が広がった。これで本当に助かった。
「それでどうしてこんなところにいるのか聞いてもいいか?」
熱せられていた顔や熱の籠っていた衣服の内側の温度もまだ冷めやらぬ中、問いかけに改めて前を向く。
突然現れた男性は黒髪に黒紫の瞳、貴族と一目で分かる衣服を身につけている。先ほど彼が指を向けて炎が抑えられたのは、魔法によるもの。きっとこの人は貴族だ。
「大丈夫か? 具合が悪いか?」
「あ、いいえ。危ないところを助けていただきありがとうございます。私が、ここにいるのは……」
黙っていたためにあらぬ心配をされ、レティーシャは慌てて首を横に振る。
次いでここにいる理由を答えようとして、口ごもる。どう言ったものか。
炎に巻き込まれる前に去っていった男性を思い出した。あの男性によれば、自分は魔力無しという本来は貴族であるべきではない身であるがゆえに、この森で処分される予定だった。青の森であれば、レティーシャが逃げても青の国に捕らえられる。平穏に生きられる道は潰された上でのこと。
レティーシャは我に返った。
ここは青の森。レティーシャが住んでいる国の隣の、青の国と呼ばれる国だ。つまり目の前にいる男性は……。
「少し、事情があり、ここに置いて行かれました……」
結局、答えを待つ男性に返せたのは曖昧なもの。
自分でも上手く整理出来ていない事情を始めとして、この男性が青の国の人であるのなら異なる国の者だと明かすことは避けるべきことだった。それらによって、漠然として答えているとは言えない答えになってしまった。
レティーシャは一気に緊張して、黒紫の眼を見られなくなった。沈黙が続いて、相手の様子もみられないから余計に緊張する。さっきまでは暑かったのに、冷や汗をかくような。
「行くところは」
「……ありません」
「では俺の邸に来ないか」
「……え……」
予想外の言葉に、緊張を忘れてレティーシャは視線を戻す。
「ここは危険だ。一先ずここから君を離したい。行くところがないのであれば、俺の邸に来ないか」
どうだろうか? と問われたことに咄嗟には答えられなかった。どうしよう。青の国に入ってしまうのは良くない。
レティーシャが迷っていると、「この状況ですんなり信用出来るはずもないか……」という呟きが聞こえた。
「いいえ、違います。助けてくださった方を信用していないのではなく、」
「いや、こんな状況とはいえ正体が分からない男に着いていくには抵抗も不安もあるだろう。――俺はギリアン・ウィントラス。赤の国で公爵をしている者だ。これくらいしか差し出せる情報はないのだが、信用してもらえるだろうか?」
「赤の、国の方だったのですか?」
レティーシャは瞬いた。
レティーシャが住んでいる国は『赤の国』と呼ばれる国だ。今いる森と国境を接してはいるが、青の国の森で出会った人が赤の国の人という可能性は低かったために、とても驚いた。赤の国の人だったとは。
呆気にとられた、と言う方が正しいかもしれない。
「ああ、ここは青の国の森だったか。実は今ここは領土争いの真っ只中にあるので、そのために俺はここにいる」
ギリアンは遠巻きにある炎を見て、息を吐いた。
「そんなところに置いていくとは……」
「領土争いの邪魔になりますね」
「いや、そういうことではない」
領土争いの中に自国の人間がいたことで何か止めさせてしまったのであれば、とても申し訳ない。罪にもなり得る。
しかしギリアンは全くそういう意味ではない、と否定した。
「とにかく争いの場でもある。君の保護を申し出たい」
手のひらが差し出された。
「君の事情を含めて詳しいことは邸で聞こう。どうだろう?」
どうも何も、炎に囲まれた場所から出ていく術は見当たらなかったのだからレティーシャにとってはありがたいことだ。
「――お願い致します」
そっと手を取るとギリアンは頷き、立ち上がる。
「では行こう」
行こう?
つられて苦も無く立ち上がったレティーシャは内心首を捻る。
「移動魔法を経験したことは?」
「移動魔法……いいえ、ありません」
移動魔法とは、場所を移動する魔法だ。物や動物、人によって難易度が変わるとされ、移動出来る距離や思ったところに着けるかどうかは個人の魔力の大きさと技量に左右される。
魔力がないレティーシャには知識としてしか知らないものだ。
「そうか。初めてでは目を回す者もいると聞く。一瞬だ、少し堪えてくれるか?」
「はい。……今からどこに?」
「俺の邸だ」
「ですがここにいらっしゃるのは領土を争いのためなのでは……。私が言えることではないとは承知なのですが、よろしいのでしょうか……?」
離れても良いのか。
ギリアンは「構わない」と言う。
「俺の役目は終わった。森にいる者を焼き尽くそうとするこの炎を運びに来たようなものだった。――本当に君に怪我がなくて良かった」
「いえ、炎は避けてくれたので……」
「その話も、後でしよう」
「その話?」
「君があの炎の中で無事にいられたことについて」
彼が仰いだ空に、火の塊が過る。
あれは、鳥? ――一見すると火の塊に見えたのはよくよく目で追うと、火に包まれたがごとき鳥であった。
真っ赤な鳥は悠々と空を飛んでいった。
「では移動するが、良いか」
「はい。――あ」
「何だ?」
「私は、青の森にいたのに、青の国の人間だとは思わないのですか?」
普通、そう思う。レティーシャが思ったように、この場で争いが起きているのならその人員でなさそうな様子の者がいればなおさらに思うはず。
しかし問いを受けたギリアンは「思わない」と即答する。
「君はおかしなことを聞くな。そんなことを聞かずに、疑われていないのなら疑われていないままにしていた方がいいに決まっているのに」
「そう言われると、そうですね」
言われもしないなら、わざわざ聞かなくてもいいことだ。言われて気がつくと、ギリアンはレティーシャの手を握る。
「それに、俺は君が違うと知っているからな」
視界がぶれて、移動魔法によりレティーシャはその場から離れた。
*
「大丈夫か」
気がつけば体を支えられながら、誰かにもたれかかっていた。
「す、すみません」
「謝ることはない。意識ははっきりしているか?」
「はい」
自分の力だけで立ったレティーシャは、周りの景色が様変わりしたことに続いて気がつく。木々が生えていることは同じかもしれないが炎はどこにも見当たらないし、雰囲気が異なる。
「ここは、どこですか?」
「国で言えば王都からはほど遠い端の地だ。青の国がある方とは正反対の土地になる」
正反対ほどの距離を魔法で移動してきた事実に、辺りを見回していた視線をギリアンに向ける。移動魔法を行使出来る距離として段違いであることは、実際に魔法を使えないレティーシャにも分かるレベルだった。
そうか、彼は《公爵》だと言っていたではないか。魔力が大きいのは当たり前。
魔力のないレティーシャとは世界が違う人に助けてもらったのだと理解が及んだ。
「この先に家がある。あれだ、見えるだろうか」
「少し歩くことになってしまった」と言うギリアンの示した方を見れば、木々の向こうに覗く建物が目に入った。
「大きい……」
全容はまだ見えなくとも、お城のような家だ。レティーシャの家も親が侯爵とあって小さくはない部類の家だが、大きさもさることながら外観の造りから優美さが異なる。綺麗だ。
侯爵と公爵は無論地位にも隔たりがあるとレティーシャは知っている。決められた地位は絶対的であることも知っているつもりではあったが、階級の違いを目にしたようだった。
思わず感嘆の声を上げると、ギリアンは自慢するでもなくレティーシャの手をとり導きながら単に事実を語るだけみたいな口調で言う。
「陛下に頂いたものだ。公爵というのも、陛下の気紛れでもらったような地位だが」
気紛れで地位は決まらないので、十中八九ギリアンの冗談だ。冗談には聞こえない語り口だけれど。
敷地が森なのか、木々の間を抜けて出て来て現れた邸は、森の中にあるおとぎ話の中の城そのもの。素敵な住まいに近づくと、立派な扉が見えてくる。
「そういえば、名前を聞いてもいいか」
「あ……名乗らず申し訳ありません。レティーシャと、言います」
名字を名乗らなくても、ギリアンは聞こうとも怪訝そうにもしなかった。何も気にしていない様子。ただ「レティーシャ」と名前を呟いた。
「愛称はレティーか?」
レティーと、確かに家族はレティーシャを呼んでいた。
「はい。どうかお好きなように呼んでください」
「好きなようにか」
扉の前に着くと、扉がひとりでに開く。
「ではレティー。どうぞ、我が邸へ」
微笑みと共にギリアンはレティーシャを邸の中へ誘った。