時を越えた事実
「その前に話しておきたいことがある。いいだろうか?」
レティーシャが小さくうなずくと、微笑むギリアンは首飾りを仕舞って、レティーシャが開けたときのままだった扉を閉じた。
「二年前」
いきなりの年数に何の話だろうかと思わないこともなかったが、それより先に無意識が年数にひやりとした。
それに気がついていない様子でギリアンは話を続ける。
「俺は城で、ある女性に声をかけた。あまりに俯いているので気分が悪いのかと思ったこともあるが、それなら侍女が来るまで任せればいいことだった。声をかけた理由はいくつかあり、髪の色を不自然に感じたことと他の者に比べて俯いてばかりいたこと。残りは……そうだな、興味だったのだろう」
城のとある廊下。他にいた者がいなくなり、ぽつんと残った女性がしばらく立ち続けていたので、もしやどちらに行けばいいのか分からないのだろうかと声をかけたそうだ。そのとき近辺には供の者らしき姿はなかったが、時間が経てば城の者が気がつくはず。けれど声をかけた。
控えめに左右を見ていた女性はびっくりしたようで肩が跳ね、ギリアンを見るや顔を伏せがちにして今にもその場を去りたい様子だったが「何か、ご用でしょうか」と小さな声で尋ねてきたのだとか。
「俯いているのは気分が悪いからではなかったようで、道が分からなかったのは当たったらしい。道案内をした」
女性はやはり俯きがちに、ギリアンもその辺りは追及せずに単に道案内したと言う。
「けれど別れる前に礼を言われたとき微笑んでくれて、そのときにはもう俺は惹きつけられていたのだろう。あまりに柔らかい笑顔だったから」
ギリアンは思い出すようにことさら柔らかく笑った。
「名前を聞くと、彼女は『シャルロット・フレール』と名乗った。その名前の通り、栗色の髪にブルーグレイの瞳は君の妹の色の組み合わせだった」
妹が母親から受け継いだ栗色の髪は、レティーシャとは違っていた。レティーシャは父親から灰色の髪を受け継いだ。
全てを知っている目をした人は灰色の髪を丁寧に撫でて、レティーシャを見ていた。
「けれどレティー、俺が出会ったのは君だ。陛下の妃選びに君は来ていたな」
その言葉の後に何か続くならば「なぜか妹の振りをして」と続いただろう。
レティーシャは暴かれた秘密に、目を伏せた。
――それはそれは俯いていたに違いない。ろくに人の顔も目に入らなかっただろう。初めての城、大勢の人、大きな緊張に心臓まで締め付けられていたのだ。
二年前、王の妃選びのため国中の一定以上の貴族の娘が城に集められた。
元々王というものは、その魔力と魔法を受け継ぐ者を子をもうける義務がある。最早王の色、特有の魔法は国そのものを表すものであったからだ。
しかし今の代の王はと言えば、とても選り好みが激しかった。最も優秀な者をと公爵の娘を婚約者に据えようとしても、嫌だと言う。
そこで、誰ならばいいのかと奮起した臣下によって作られた妃選びの場。一定以上の位の娘は全員城へ来るようにと命が下された。全員、だ。
レティーシャはぽつり、と話しはじめる。
「妹が熱で、身代わりをしていました」
「身代わりを? なぜ」
妹がとてもではないが城に上がることができる状態ではなかった、とレティーシャは二年前を思い出した。
思い出しながら、真相を伝える。
「私は当時魔力無しと思われていましたから、誰かにそれが知られようものなら恥だと本来家の外にも出せないような娘でした。しかし妃選びのために国の貴族の娘が一様に城に来るようにとの命の期日、城に参るはずだった妹が酷い熱を出し、城に行くどころか歩けもしませんでした。……私は、そうです。魔力というものは生まれたときから変わりません。生まれたときに魔力無しと判断された私は、生まれていないものとされていたため、当然命令の中の貴族の娘には入っていませんでした」
大慌てで、邸中ひどい騒ぎだった。妹が前日になって病にかかり、倒れたのだ。医者に見せると、どれだけ早かろうと明日はまだ熱が続くと言うではないか。
「両親は慌て、青ざめていました。王命とあっては必ず参上させなければならない。どんな理由であろうと、命令を無視した形になればどうなるか分かりません。過去に、陛下の命令を忘れていた者が魔法で焼きつくされたという噂も流れていました。一方で、その状態で妹を参上させたなら粗相をしないとは全く言い切れず、失礼をしたことにより陛下の機嫌を損ねるわけにはいきません」
妹を城に行かせても行かせずとも、家に暗雲が立ち込めることは間違い無かった。
「そこで取られた苦肉の策が身代わりです。幸運にも、妹の登城は初。命令では年齢問わず指定された貴族の令嬢全てとの仰せでしたから」
「陛下の周りも躍起になっていた節がある。それゆえの幕切れだったが」
「最終日に陛下が初めていらっしゃったとき、幼い子が泣き、陛下の機嫌を損ねたと聞いています。二年前のことですから、妹はそれほど幼くはありませんでした。それでも十四でした。次の年になれば社交界デビューのようでした。貴族の子ども同士の付き合いはあったかもしれませんが、そこはどうとでもなるということだったのでしょう。陛下の機嫌さえ損ねなければ良いのですから。
私は当時十五、一つ違いで顔の作りや色彩に違いはあっても年齢の齟齬を感じさせることはありませんでした。私は妹の髪色にこの髪を染め、顔立ちを寄せるように化粧をされましたが、ずっと俯いているようにと言われていました」
一度だけ王を見たことがあったのは、二年前にレティーシャがいた期間の間中、連日令嬢が集められた大広間には来なかったが、廊下を歩いている姿を見かけたことがあったからだった。
しかし――まさか、ギリアンに道案内させていたとは。
レティーシャは伏せていた目を上げて、そっとギリアンを見上げる。
「ギリアン様がお会いになられたのは妹ではなく私、ですか?」
妹なら、しきりに俯くことも道案内させる失態もしなかっただろうが。念のため聞く。
するとギリアンは目を細めた。
「レティーの目の色は、シャルロット嬢のそれとは違うだろう。一言でブルーグレイと表しても、君の目の方が灰色味が強い」
ギリアンが伸ばした手がレティーシャの目尻の辺りを軽く撫でていった。
「俺が君に会ったのは初日。陛下の妃候補となる令嬢が集められていたことを、君に会ってから知った。だが、四日目に見かけた君は別人だった」
「妹の熱が下がり、妹と入れ替わりで私は家に戻りました。そのせいでしょう」
他の人に知られていなくて良かった。
それにしてもギリアンと会っていたとは、思ってもいなかった。
「……すみません。あのときのことは目まぐるしくて、あまり覚えていないのです」
「いい。俺は覚えている。それで十分だ」
自分は失礼をしなかっただろうかと、覚えていないからこそ心配だ。
「いなくなってしまった君を探そうかと、一時思った」
「私を……?」
頷きが返ってくる。
「だが探さなかった。探してどうすると思ったからだ。俺はこの国に居続けるべきなのか、不確かな見通しの中だった」
その言葉に、この国を出ていくかもしれないと、王が言っていたことが頭に甦ってきた。
「ギリアン様、この国を出て行ってしまわれるのですか?」
「どうして?」
質問が唐突に思われたのだろう。ギリアンが首をかしげる。
とっさに尋ねたレティーシャは、彼のいない間に王に聞いたことを伝えた。黒の国の出身で、この国には彼が留まり続ける根はない。
「確かに、俺がこの国に居続けながらも、この先もこの国に腰を落ち着けていいのかどうかとどこかで迷っていたのは、それが理由だ」
ああなるほど、それを聞いたのかとギリアンは少しだけ息を吐いた。
「そうだな、レティーには聞いてもらっておこうか。君のことは事情と共に聞いていたが、俺は君に自分のことを何も言わなかった」
レティーシャはギリアンのことを何も知らなかった。知らないことに気がつくには遅く、ギリアンと長く話すときもなく家に戻ってきた。
もう無理だと、思っていた。
「陛下が言った通り、俺は黒の国の出身だ。王の息子でもある」
「王の……王子様、ですか?」
「『元』とつけるのなら一応その通り、だ」
王子だったのかと驚く反面、王がギリアンは黒の国出身だと言った時に気がつくべきことだったかもしれない。
国に冠される色は、その国で最も強き王が持つ色。力が強い者の遺伝子は強く、子どもにも必ずと言っていいほど同じ色が出る。ギリアンの力の大きさと髪の色を考えて、気がつけた事項だった。
「一番目の息子であり、魔力も兄弟の中では一番大きかった。順当に行けば次の王だった頃があった」
「では、なぜこの国に……?」
「俺の生まれた国で『順当に』『自然に』『穏便に』といったことはあり得ないことだったからだ。所謂亡命に近いことになるか、弟に命を狙われたことをきっかけに国を出た。俺は特に王位に執着はなかったからそこまで欲しいのならやる。俺は消えてやろうと消えてきた。本音では、この先も命を狙われ落ち着いて暮らすことが出来ない国にいたくはなかった」
ベスとノアは黒の国からついてきたらしい。元は上位侯爵。どうりで使用人めいていなくて、魔法を使って仕事をこなしているはずだ。
呼び捨てにしていてもよかったのだろうか、と今さらにも気になる。
(だからギリアン様は、一の公爵にもなれたのだわ……)
ヴァネッサを差し置いて、王の次に力を持つ者としての地位にあるギリアン。当たり前だ。王にもなれた位置にいたのだから。
「赤の国に来て――祖国を出てみると、あの国は中々異常だったのだと分かった。国外とも覇権を奪い合い戦うが、国内でも権力争い等が酷く、毒殺暗殺……俺の父はそれを推奨していた。大陸の覇権を得ようとしている国同士であれば未だしも、国内があれほど殺伐としている国はおかしい」
「とても想像がつきません」
「そうだろう。この国は良い国だと俺は思う。この国の陛下のあの性格もまだまし――俺の父が汚く濁っているとすれば、陛下は気持ちの良い種類で綺麗なものだ。崇高な目的までもある。他の国から来た俺を警戒するどころか公爵の地位まで与えたのにはさすがにどうかと思うが、それもあっての陛下だろうか」
初めは周りの反対と警戒も強かったが、公爵として力となるにつれて受け入れられていったらしい。そして彼という人を赤の国に居続けさせるためにと、裏切らない証としてこの国の者と結婚するようにとは常々言われていたとも言う。
「結婚などというものは周りから言われようとするつもりはなく、これ以上なく煩くなるというのなら国を出ることも視野に入っていたかもしれないな。俺はどこでも良かった。元々国を出てきた身だ。――ああレティー、そんな顔をしないでくれるか」
国を出る、と口にされると悲しかった。
話の運びがまるで別れの直前のようだと進むにつれて感じてくるから、辛くなってくる。
けれどギリアンの方は微笑みかけてくる。
「俺には、今欲しくてたまらない生活があるから」
いつからか彼は微笑みを柔らかくも、甘く変え、レティーシャを見つめる。
「レティー」
「――はい」
「俺は陛下の前で、君を取られたくなくて『婚約者』という嘘をついた」
そんなこともあった。
取られたくなくてとまるで自然に言われたことが、あのときに重なる。
笑みが消えそうな顔をして、いつにない表情でレティーシャに話し、切ない微笑みが向けたギリアン。
「それが嘘では満足出来なくなって、幻として消してしまいたくなくて今日、ここに来た」
今日のギリアンはとても深く微笑む。
切なそうだったり、消えそうなそれではなくて、レティーシャを包み込んでしまうような微笑みだ。
レティーシャは黒紫の瞳から目が離せなくなる。
「二年を経てレティーにまた会えて嬉しかった。レティーと過ごした時間は愛しくて仕方がなくて、君が側にいるこのような結婚生活ならいいと思った。陛下に忠誠を誓い、この地にいることを決めても余り余るものを得られる」
そしてギリアンは、『欲しくてたまらないもの』を明かす。
「俺は、君が側にいる、その生活が欲しい」
――どうしよう、と思った
聞いたことがいつまでも消えなくて、撤回もされなくて、ギリアンがずっと見ているからどうやらこれが現実らしい。
「私がいる、生活」
「そうだ。レティー、俺は君のことが好きだ。二年前に惹かれ、そして二年を経てしばらく共に過ごした今、俺はレティーを愛している」
その瞬間、もっとあの日に重なってレティーシャは泣きそうになった。ずっと心に引っかかっていた日、あのときレティーシャは何も言えなかった。
その後も言えず、会えなくなってから気がついた。
「ギリアン様……」
「うん」
「私が、ギリアン様のことが好きになっていたと言って、信じてくださるでしょうか」
会えなくなってから胸の中に留まり続けた言葉は、見つめた彼に届くだろうか。
レティーシャの微かに震える言葉を聞いたギリアンは一度大きく瞬き、微笑みを溢した。
「俺はもう、君を知らなかったときには戻れそうにない」
声はとても近くから聞こえた。抱き締められた腕の中は温かくて、ほっと息をついた。帰りたかった場所に帰って来られた心地がしてならなくて、身を寄せた。
レティーシャを抱き締める彼の手が、頭を撫でてもう一つ温かさが増える。
「レティー、結婚を前提に俺の側にいてくれるだろうか」
「私でよろしければ……はい」
君だからいいのだと、囁きが落とされた。




