二人
王の妃候補であるという誤解は解けたはずだった。
「お兄様、レティーシャを連れて来たわ。休憩になさってはどう?」
「気が利くな、ヴァネッサ」
兄妹は全く同じ色で、異なった笑い方をした。
「あの、ヴァネッサ様?」
「レティーシャ、お兄様の休憩に付き合ってあげて」
部屋にやって来たヴァネッサと会うのは実に数日振り。連れてこられたのが、王の元だから困惑は大きくなるというもの。おまけに休憩を共にしろと言って当のヴァネッサは部屋を出ていってしまった。
「どうした、座れ」
「――はい」
ヴァネッサが来た時点でこうなる運命だったのだろうが、ここに来て、命じられてしまってはもう逃げられない。
長椅子に腰かけて、記憶にあるあの時間の始まりかと思うと気が重い。休憩のお供といっても、レティーシャに何が出来るというのだろう。つくづく人選を間違えたとしか思えないのだが……。
「婚約はまだ嘘か?」
座った途端にかけられた言葉が衝撃的すぎた。
王がレティーシャを妃にすると発言したことで、それを避けるための詭弁でギリアンがついた嘘。あれ以来は特に言われることもなく、このまま行けばギリアンが一時をしのぐためについてしまった大層な嘘も風化していくのだと、嘘をついて庇ってもらう立場になってしまったレティーシャは安堵していふ部分もあった。
王がなぜ知っているのか、と表情にも出して思わず凝視したレティーシャを見た王は横で笑う。
「私が気がつかぬとでも思ったか。『婚約者』とは嘘だろう。さすがのギリアンも咄嗟の嘘を完璧に取り繕うことは出来なかったようだな」
初めから気がついていたと言われる。
レティーシャは認めてしまうべきか否かと急な混乱の淵に立たされ、とりあえず何か言わなければと口を開くが、しかし何と言ったものか見当がつかなくて何も言えない。
虚言は、王に対すれば完全なる罪だ。内容にもよるだろうが、レティーシャのせいでギリアンは罰せられてしまうのだろうか。悪い想像が駆け巡る。
「陛下――」
「嘘ならば嘘で良い。私の妃になるつもりはないか、レティーシャ」
やっと開いた口を閉じることになった。
ここまではっきりと、名前を呼ばれ言われれば聞き間違えることはあり得ない。王はレティーシャを見ていた。
王の妃。向けられるには身に覚えのない言葉だ。レティーシャからは遠く、縁があるとは思えない言葉。
王の目を見て、あちらからも真っ直ぐに見られていながら、レティーシャは王の発言が冗談と取るべきか否か判断がつかない。
「それは、ご冗談なのでしょうか? それとも、」
万が一にも冗談ではない、とはあり得るのか。
疑いを向けることもまた、王に対しては大それた行為だ。けれどこればかりは図りかねて、自分でどうにかするしかないので混乱していることも手伝って尋ねると、王は幸いにも気分を害した様子はなかった。
「私が冗談ではないと言えばどうする」
「…………なぜ、私などを、と思います」
「お前だからだ。お前は、お前自身の固有の魔法のみで娶る価値がある」
魔法を無効にすると、ギリアンが見つけてくれた魔法。
「私が欲しいのは、私に壊されない女だ。私の魔法に壊されない者」
王の指が、レティーシャの灰色の髪を掬った。
そういうことかと、納得できるところが出てきた。レティーシャが持つ一つの魔法があるから、王はそんなことを言っているようだ。
「……ですが」
でも、と思うのだ。
「陛下がご所望なのは、本当は『壊されない者』ではないのでは……?」
「何?」
「陛下は、その炎や力そのものを誰よりも操ることが出来るお方です」
王がレティーシャの魔法を確かめるために魔法の炎を放ったとき、ソファーも絨毯も焦げず、部屋の広範囲に炎が渡ることもなかった。力が完全に掌握されていた証。人を傷つけることが可能な魔法でも、人を傷つけないことは可能なはずだ。
絶大な力を誇る赤き王の反応がすぐにはなくて、レティーシャは話しすぎたかと言った後に後悔する。
息をすることさえ憚られてきた頃、王が笑った。
「――私の力を恐れぬ女、それがいるのならば欲しい者には違いはない」
灰色の髪は、彼の指を滑り落ちた。
王の言は、自身が恐れられていると分かっているものだ。国中の誰もが王を尊敬し、信頼している。自分たちを導き、守ってくれる存在と知っているから。
けれど同時に王を示す炎の魔法が戦地を一瞬で炭にするほどに激しいものであること、王自身の気性も炎のようなそれで、過去に酷く機嫌を損ねて魔法で焼きつくされたという噂も流れ、そう認識している者は少なくない。
長椅子の背に腕をかけ、もたれかかる王は「残念ながら、知る限りでは私を恐れず遠慮のない物言いをする女は妹しかいないものでな」と言い、何と返すべきか分かりかねるレティーシャに視線を流した。
「恐れられていることか? 分かっているに決まっている。これくらいで恐れる妃はいらぬ」
「……私が、陛下を恐れていると言えば」
「お前が私を恐れる理由はどこにある。他の者と同じか? お前には魔法は効かないというのに。では他の理由か。暴力を奮うとでも思っているか? 心外だ。確かに無能な臣下を罰することはある。だがお前はそもそも厳密には臣下ではない」
魔法には限りがある。きっとレティーシャに魔法を使い続ければ、圧倒的な魔力量を持っている王の炎はレティーシャを燃やすだろう。
その可能性があると思う一方で、王をそこまで恐いとは思っていないこともまた事実。戸惑い、こうして一対一で相手をすることに途方に暮れかけたりするけれど。
ますます何と答えれば無礼にならないかを悩む話題に足を踏み入れたと感じていると、王がこちらに体を傾けた。手が伸びる。
「黙りでじっとするばかりの大人しいを通り越した女ではないところもいい」
「……じっと、大人しくしているつもりなのですが……」
「ほう、これでか。それは意外と私好みかもしれぬな。全てを剥ぎ取った姿を暴きたくなる」
「こ、好みだということは、ないことは間違いないです」
今まで周りにはどれだけ口をきかなかった方々がいたのか。王の好みとは如何なるものか。
自分が何を口走っているのか分からなくなってきた。
それより何より距離が近い。王の手がレティーシャの髪に触れ、指が奥に差し込まれる。頭に触れた感触がした瞬間、レティーシャは完全に動きを止めた。レティーシャの体が勝手に止まったのに、止められたと言った方が正しいかもしれない。
なぜこんなことになっているのだろう。余計なことを話してしまったからか。黙っておけば良かったのだろうか。とにかく、もう出来る限りの事はしてお手上げなので、誰か助けて欲しい。
「ギリアンにその気がないならば、構わぬ。私の妃になるがいい、レティーシャ」
気のせいか声は熱っぽくも響いた。
何度目、王にこんなことを言われるなんて。視線と言葉を向けられたレティーシャは――人生最大の混乱の最中にあった。
思考は真っ白、王の姿を目が映してはいるが目の前も真っ白になりかけ。
恐れ多いも何もかも通り越して、今の状況をどうすれば切り抜けられるのかを知りたくて堪らなかった。
「……陛、下、恐れながら」
「何だ」
「とても考え直した方が、いいと思います。一晩ほど寝ると、考えが変わるかもしれません……」
そうに違いない。そうであれ。
苦労して声を絞り出して言ったのは、思いとしては懇願に限りなく近い。これは夢であればいいのに。
「ほう……」
不穏な笑みを王が浮かべて、退路が絶たれたと感じた瞬間。
扉が開く大きな音がした。
「レティー」
「――――ギリアン様」
声が聞こえてどうにか視線だけ向けたところにはギリアンの姿。入ってきた彼は王に触れられているレティーシャを見て、瞳を僅かに見開いた。
交差した視線はギリアンから逸らされ、黒紫の眼は王に向けられる。
「陛下……」
「お前の『婚約者』だろう。知っている」
硬直するレティーシャとは反対に、王は気にせず変わらずむしろ髪に差し込んでいた指で灰色の髪を一房弄び、笑む。
「私の興味が擽られるだけだ。休憩に駆り出すくらい構わぬだろう。しかしギリアン、お前に阻む資格は本当にあるか?」
ギリアンは眉を寄せ、黙りこんだ。
王はそれを見て重ねては何も言わずにただ笑い、見ている。反応を確かめ、楽しむようにレティーシャの髪を持ち上げ、唇を寄せる。
「――レティー、こっちに」
突如ギリアンに言われ、レティーシャの意識は引っ張られて反射的に動きかけたが、王がいることにそちらをちらと見る。
「俺が許す。おいで」
視線の動きを見逃さなかったギリアンは彼にしては強い声音で、レティーシャに手を差し伸べた。
まるで王様が二人になったみたいだ。ギリアンの雰囲気に、少し驚く。
「構わぬ」
王の許し無しに行くには勇気がいったそのとき、許しを与えたのは王であった。王はレティーシャの髪から手を離し、背を背もたれに預け、「行くがいい」と重ねて言った。
これによりレティーシャは恐る恐る立ち、王に一礼してギリアンの元へ歩いていく。ギリアンはレティーシャの手を取ったのはつかの間、「先に部屋に戻っておいてくれるか?」と囁き、手を離した。
「はい。……申し訳ありません」
「どうして謝る。後で話があるから待っていてくれ」
助かったはずなのに、心は晴れなかった。
*
どうして謝ったのかと聞かれると、具体的には答えられない。謝罪は口をついて出た。
王との時間から解放されて、考えることは山ほどある。妃にならないかと言われたことはもちろん――婚約者が嘘だと知られていること。
別に、特別婚約者の振りをしていたわけではない。王が最初にレティーシャを妃にすると言ったときにギリアンが取ってくれた回避行動だった。そのとき限りのことのはずではあったのだ。
婚約者も何もいないとなれば、王が本気であるのならレティーシャは王の妃にでも本当になるのだろうか。
仮に本当だとして……心が曇っていく。どうやら王の妃になることは嫌、と言うよりも、ギリアンと離れることを意味することが悲しいことのようだった。
話とは、何だろう。何を言われるのだろう。王の部屋に残った彼は何を話し、王は何を話したのか。明確な訳もなく不安になり、さっきあの光景を見られてどう思ったのかという思いが頭を絶えず回っていた。ギリアンが入ってきたとき目が合って、見られた、と思ったのだ。
言われた通りに部屋で待っていると、十数分経った頃にギリアンは戻ってきた。
「どうしてそんなに泣きそうな顔をしているんだ」
目を見張ったギリアンに言われ、そんな自覚はないのでレティーシャの方は戸惑う。
「そんな顔を、していますか……?」
「している。どうしたんだ。大丈夫か?」
「大丈夫です。何でもありません。ギリアン様、来てくださってありがとうございました。……どう答えていいのか、分からなくなっていたところでした」
「陛下に、何か言われたか」
迷った。正直に言うべきか、どうか。
「婚約者とは嘘だと、知っていると」
呟くように言うとギリアンは全ての動きを止め、少しして「……レティー」と名前を呼んだ。
彼を見上げると、微かな、ともすれば分からないくらいの笑みが消えそうな顔があった。
「陛下の妃になるように言われなかったか?」
「ならないか、と言われました」
「それについてはどう思う?」
「……え?」
「俺は、最初に陛下のそれを妨げようとレティーは俺の婚約者になったと嘘をついた。しかし本来は、王の妃になることは誉れだと捉えられる」
確かに、そうだろう。
「レティー、俺は君に陛下の妃になって欲しくなかったんだ」
「どうして、ですか?」
「君を陛下に渡したくなかったから。俺はそう言うことさえもしないのに、いざ誰かの元にと目の前で起こりそうになり、嫌だった」
いつにない表情で、いつもの声音で語る彼が息を吸う気配がした。
「君のことが好きだと言って、君は信じてくれるだろうか?」
切ない微笑みが向けられ、告白が鼓膜を打った。
(……今、何て……?)
王の言葉の意味の理解がすぐにはできなかったことなんて、序の口だった。予想もしていなかったことを言われ、頭が真っ白になることも。
レティーシャを置いて時間は過ぎるが、レティーシャの中の時間は進まない。
呆然としている間に、とても大事なことを言ったことだけは分かるギリアンは首を振った。
「君を保護しているのに、家族の元に返せていない俺が言う資格はないことだった」
違うと、心は叫ぶ。けれどレティーシャ自身は事についていけていないから、声を出すには至らない。違うのは、何が違うのかも分かっていない。
ギリアンが首を振るまでにどれほどの時間をレティーシャは無駄にしたのか、彼はふいに背を向けてしまった。
「話があると言ったが、それはこの件で」
机に近づいて引き出しを開けて何かを取り出したギリアンは前に戻ってきて、シャラ、と涼やかな音を立てる物を見せる。
「これは魔法道具だ。レティーに身につけておいてほしい」
澄みきった魔法石の嵌まった首飾りは意匠の凝らされた美しいもので、平素なら見とれてしまうもののはず。
レティーシャは流れていった話をこのままにしてはいけないと思ってギリアンに話しかけようとするけれど、ギリアンが先に口を開く。
「念のために。護身用だ。つけておいてくれるか?」
微かに頷くと、きらきら光る細かな鎖に合わせてとても小さな留め具を外したギリアンは、首飾りを手にレティーシャにそっと近づく。前から首に手を回すと、首飾りが胸元に当たった。
抱き締められる直前のような体勢で、さっきの王との距離で腰が引けていたときと別の感覚が起こる。
緊張は同じでも、それと他に。
「何かあれば名前を呼んでくれ。俺に聞こえる」
首飾りをつけ終えたギリアンが、鎖の下になった髪を丁寧に掬いあげて整えてくれる。
彼が触れても、互いの体が触れんばかりに近くにいても腰は引けないし、離れたくもならない。
――抱き締められても、心地が良かったのだ。不思議と落ち着いた。頭を撫でられて、嬉しかった。最初は感謝だけだったけれど――
抱き締めてもいいかと聞かれて、レティーシャを抱き締めた彼が微笑んでありがとうと言った日が遠く感じる。
ギリアンのつけてくれた魔法道具の首飾りの冷たさが、肌に染みた。




