ある日の置き去り
魔法を使う者のみが貴族となる世。赤の国と呼ばれる一国に、一人の一応侯爵令嬢がいた。
***
訳あって邸の離れの方に住んでいるレティーシャは簡単には外に出ることが許されない身なので、外の目に触れない家の中での生活をしていた。
今日も、離れは出入りする使用人が限られているからと、やるべきことがないと理由から、侯爵令嬢とは思えぬ質素な身なりで掃除を行っているところ。雑巾を手に棚から窓枠から、時間は日々余り余っているもので隅々まで埃一つないように保つのがここ何年ものレティーシャの決めた勤めでもあった。
今いるのは、私室として使っている部屋。今朝方摘まれたばかりの黄色の花はレティーシャの灰色の髪を含め、殺風景な部屋を心持ち明るくする。
その花びらに指を滑らせ、色が変われと念じても、鮮やかな黄色が例えば自然には珍しき鮮やかな青に変わったりはしない。
「……『魔力がない者は貴族である資格はない』」
色の変わらない花から手を引き髪をまとめていた布を解くと、父から受け継いだはずなのに父と違って色褪せたという印象を受ける灰の髪が散らばった。
「私はここにいることさえも相応しくないから、そろそろ出ていくべきよね」
部屋の隅には、小さな荷物を置いていた。今日、レティーシャが家を出ていくための最低限の荷物。
元々無駄なものはなかった部屋は片付ける必要はなく、最後に掃除をすれば出ていく準備は出来たも同然だ。窓も机も棚も完璧と一人頷いて、とりあえず雑巾を片付けてこようと閉まったドアに手を伸ばすと、ドアノブが勝手に回る。
「お姉さま!」
ゴヅンと酷い音を立てて額に比喩でもなくとんでもない痛みが走り、レティーシャは後退った。
「ご、ごめんなさいお姉さま」
「大丈夫……大丈夫よ」
じんじんと痛む額を押さえてドアの方を見ると、激しい音を立てて飛び込んできたのは、ふわふわとした栗色の髪に少し灰色の混じった水色の大きな瞳の可憐な少女だった。
可憐な妹は侯爵令嬢に相応しく普段は淑女そのものなのに、今ばかりは春を思わせる淡い黄のドレスの裾が勢いに波打ち、母や侍女がいようものならはしたないとたしなめられていたはず。
一方、一応姉であるレティーシャはその点は二の次に、近づいてくる妹の血相を変えた顔を見たとたん、痛みも荷物を見つからないようにしなくてはと思うことも忘れてブルーグレイの目を丸くする。
「どうしたの? シャルロット」
いつもの妹はそれが『彼女固有の魔法』であるかのような、見ている周りまでも破顔させる笑顔浮かべているのに、どうしたことか。
レティーシャよりも背の低いシャルロットが前まで来ると、頭は鼻ほどの位置に来る。髪だって少し乱れている。ドアから飛び込んできたときの勢いからして、まさか走ってきたのだろうか……?
「髪が乱れているわ」
「わたしの髪なんてどうでもいいの!」
妹の頭に手を伸ばしたレティーシャはもっと目を丸くした。
母親と容姿も普段の様子もそっくりな妹が鈴の音のように可愛らしい声で、こんなにも強い口調をするのは初めてだった。
本当にどうしたのだろう。ノックや声かけも無しにドアを開くことと、大きな音を立てたドアの開き方から始まり、少々様子がおかしい。
「本当にどうしたの? 何かあったの?」
やはり妹は走ってきたのだ。息も髪も少し乱れたシャルロットは違和感を指摘したレティーシャの手を滑らかな手で掴んだ。
「ごめんなさい。事情を説明している時間はないの。とにかく今すぐ邸を離れて」
「――え? あ、シャルロット」
険しいと表してもよい表情をした妹に手を引かれ、踏ん張ればレティーシャは留まれただろうが、ただならぬ様子に部屋の外に導かれるままについて出た。
人気のない廊下を進む。殺風景な壁に彩りを与える花を一つ二つ通り過ぎた頃、向こう側から使用人の女性が走ってきて、一礼して止まる。
「シャルロット様、言われたものをお持ちいたしました」
「ありがとう。お姉さま、これを着て」
「ローブ……?」
一旦立ち止まり、渡されたのは使用人が持ってきた黒色のローブ。全く意図が読み取れないながら押し付けられたローブを身につけると、ついているフードを頭から被せられる。しっかりと、目深に。
そして再び手を引かれて進んでやって来たのは外、裏門だ。
空が曇り模様のため薄暗い中、妹が向かう先には茶色の馬が一頭と待ち受ける男性が一人見えた。
「さあ、お姉さまをお願い」
「お任せください。シャルロット様」
妹が、レティーシャの手を引いて前に押し出す。見たことのない男性に腕を掴まれて、反対に手を離す妹にレティーシャは手を伸ばした。手を捕まえる。
「シャルロット、説明して。どういうことなの、何をしようとしているの?」
レティーシャが近づかされる方、開いた裏門を出る方向を向く馬が何を意味するのか。ローブを着せられたことと結びつけると、まるでレティーシャがこれから外に出るようだ。
けれどレティーシャが何の理由もなく外に出ることが許されるはずはない。無闇に外に出て、誰かに知られてはいけないからだ。
「説明している時間はないの」
平常とは異なりすぎる妹はやはりそう言ってレティーシャの手を解き、目を逸らす。
「早く」
「はい」
男性がレティーシャを持ち上げ馬に乗せ、自身も乗る。
初めて乗る馬にも戸惑うが、薄々予想していたこととはいえ馬に乗せられたこと自体にレティーシャは戸惑い、目で妹を探す。
シャルロットは馬上を見上げており、目が合う。よく似ているようで、少し色味が異なる瞳。
「お姉さま、すぐとはいかないかもしれないけれど、出来るだけ早く迎えを向かわせるから。――行ってちょうだい」
体と景色が揺れた。と思ったら妹は視界から消えて馬は走り出し、レティーシャは声を上げることもできず堪らず馬にしがみついた。落とされるかもしれない恐怖に襲われ必死にたてがみを掴むのに精一杯で、すでにそれ以外のことを考えられるゆとりは一切無し。
走る馬はその間に邸から確実に遠ざかり、レティーシャを邸から遠ざけてゆく。
このようにして、元々予定していた形とは違った形でレティーシャはひっそりと生まれ育った邸を出ることになった。
*
何とか固まっていた思考が動くくらいになったのは、周りの景色が木だらけになってきたからだった。
邸どころか、人が住む家一つなくなった。人影の気配のない森へ入っても、馬はどんどんと奧へ突き進んでいくので、レティーシャは不安を覚えた。
どこまで、どこに行くつもりだろう。妹はなぜ自分を外に出したのか。
部屋の外へ連れ出し、邸からも出るようにとレティーシャを使用人らしき男に任せた妹の様子を思い出そうとしていると、ようやく馬が止まった。
「この辺りでいいだろう」
先に降りた男に無言で下ろされて、レティーシャは戸惑う。
周りを見ると、やはり木々があるばかり。空を仰ぐといつの間にか夜の近づく時刻となっており、来た方向もまだ先がある前方もよく見通せない。
人はおろか動物もいないのか、乗ってきた馬が歩みを止めれば周囲からは足音も植物が動く音も立てられる様子はなかった。
「ここは……?」
「ここは青の森だ」
「青の――なぜ、青の国に」
レティーシャが住んでいる国と国境を接するのが、『青の国』と呼ばれる国だ。青の森とは、国境に沿い青の国側にある大きな森であることからレティーシャの住む国で使われている呼び名であり、正式にはただの大きな森だ。
隣国の領土に入ってしまっているとは。他国の人間が無断で立ち入っていると見つかれば、ただでは済まない。森の向こう側には青の国が設けた砦があると聞く。そんなことレティーシャでさえ知っていることなのに、どうして。
意図が理解出来ず男を凝視すると、男は冷えた笑いを洩らした。レティーシャの様子がおかしくてたまらない、と言うような嘲り笑い。
「あなたは棄てられたんだよ」
「…………え」
「魔力無し。そんな者が侯爵家にいると知られては恥どころではない。侯爵家に相応しくないあなたは邪魔と判断され、隣国にでも棄てて来いとのご命令だ」
魔力無し。
生まれたときに魔力を計る道具によってレティーシャの価値は定められた。道具が示した魔力量は――ゼロ。その数値は魔力があることが当たり前の貴族である家にとって、価値無しを意味するものであった。
魔力の大きさと能力で地位が決まるこの世で、侯爵家にあるべきではない存在。それが一つの侯爵家の長女として生まれたレティーシャだ。
両親はレティーシャが生まれなかったことにして、今まで存在を秘匿していた。理由は当然、魔力が無いからだろう。
魔力がない子どもとして、外に知られるわけにはいかないレティーシャは近しい親族でも伯父としか会ったことはないが、その伯父からは価値がないと散々言われていた。彼は「このような娘はさっさと平民に落としてしまうか、使用人にでもしてしまえ」と親に言い、レティーシャ自身面と向かって言われたこともある。
けれど家族は、両親と妹は優しく笑いかけてくれていた。伯父からも出来るだけ遠ざけてくれて、魔力がなくて平民になるべきで、貴族の家にいるべきではないレティーシャに屈託なく接してくれていた。
「旦那様、奥様のお言いつけだ」
それなのに、この男はこんなことを言った。
「……お父様と、お母様が……?」
棄てて来いと命令されたとの言葉に、一体誰にと思っていたレティーシャは瞠目する。
思わぬ人物が出され、すぐに心が揺さぶられる。
「事実だ。だからシャルロット様はあなたを邸から出した」
「シャルロット?」
急にレティーシャの手を引き、邸の外へ誘導した妹をここで思い出すことになった。
「だから出した、というのはどういうこと……?」
話の繋がりが理解出来ないのは、察しが悪いからだろうか。
「あなたという存在が侯爵家にいた事実を無かったことにするために、処分する。この森で事を済ませてしまえば、死体を見ても、外に顔の知られていないあなたが侯爵家の者だとは誰も分からない。ただ平民の女が死んだと誰もが思うだろう」
邸から出る前の妹の様子を細かく思い出せない。目まぐるしくて、ゆっくり向き合っている時間もなかった。
それに両親は。一昨日会った両親の様子はどうだったろう。
大きく、酷い混乱に突き落とされ、信じられない気持ちの中でも一つだけ事実だと分かることがある。
「……それであなたが、私を殺すのね」
「そうだ」
男が腰から短剣を引き抜くと、夜に染まりかけの場所では、刃は光を受けず不気味に鈍い。
レティーシャは動けなかった。逃げようと無意識が働かなかったわけではないが、逃げられるとは思えなかったから足が動かない。
「私が二度と家には近づかず、侯爵家にいたことも話さずに生きていくと言ったら?」
慎重に穏便な逃げ道を探す。
「侯爵家に相応しくない私がいた。私が家から消えて、それが知られなければいいのでしょう? それなら私を殺さないでくれる?」
「残念ながら、それは出来ない」
名前も知らない、つまりは離れに来たことのない男が一歩近づく。短剣を握るその様はレティーシャにとってまさしく死の一歩。
「確実に消せと言われている」
たまらずレティーシャはローブの胸元を掴んだ。握り締め、男を見据えて、それだけ。
振り上げられた短剣を見上げた拍子に、妹が被せてくれたフードが落ちた。
皮肉にも出ていこうとしていた日に、レティーシャは出ていかされる予定だったらしい。せめて自分で出ていった方が気が楽だった。そんなにも邪魔だったのなら、もっと早く出ていったのに。
いくら冷静な口振りをしようとも、心は酷く乱れていた。殺すまでされるという事実は聞いたばかりでは割りきることは出来そうになく、重くのし掛かり、心のみならず身を重くする。
と、顔に降りかかったのは刃より先に微かな温い風だった。
「――な、何だ!?」
瞬きをして改めて目の前を認識すると、男は中途半端に振り上げた腕をそのままに、目はレティーシャの遥か上を見ていた。
一体、どこを見ているのだろう。
刺される痛みを覚悟していたレティーシャは瞬間を覚悟して止めていたらしい息をしながらも、心底怪訝に思った。何かに気を取られている男から離れてしまうべきだろうか、と、男の持つ短剣の刃に鮮やかな色が過った。
赤。
気がつく。周りがやけに明るい。
夜で、灯りもなく暗闇ばかりで木々でさえも葉の緑や幹の茶色は分からずシルエットのみだったのに、今は姿が見える。ただし色はうっすらの別の色を帯びており、レティーシャは逃げることも忘れて、違和感を感じる後ろを振り向いた。
「燃えているの……?」
見通せなかった先は、様相を違えていた。
森のもっと奥の上の、曇る夜空の灰色の雲が赤く染められ、灰色の煙も上がっている。明らかに燃えている。
けれど確かにさっきまでは真っ暗で、火の手が上がるにしては一瞬すぎる。呆気にとられるレティーシャは空を見上げ、初めて見る大規模な火事の気配を感じていた。
風がまた吹いてくる。さっき吹いた風よりも強い。
そして、熱い。
風が運んできた熱は勢い強く吹き付け、熱さに手で顔を庇おうとしたとき、炎が姿を現した。
最初は木々の奥に、瞬きをすると倍の大きさと範囲になっているではないか。迫ってきている。
「も、燃やされる!!」
我に返ったのは、男。一声悲鳴のような声を上げると、短剣を取り落とし、馬に乗りあっという間に逃げていった。
残されたレティーシャはというと、馬の蹄の立てた音にやっと動いて、男が去ってゆく姿を見た。行ってしまった。
しかし安堵は出来ない。男が去った所以の危機がある。
地面に伸びる影がより濃く、黒くなる。背中に感じる熱が、これ以上なく熱い。周りが時刻に反して明るすぎるほどに照らされて、振り向いたときには手遅れだ。
森の奥からいくらも経たない内に前方に現れた炎が、目を離していた時間ですぐそこに来ていた。
上手く働いていなかった危機感が遅すぎにも炎が見えて、やっと働く。
駄目だ。
うねる炎は凄まじい勢いで、レティーシャを獲物とする生き物のように前や左右から接近し、視界は真っ赤に染まる。
燃やされた。
――相手は炎だから今度こそと思っていた
確かに熱い。
熱いが、燃やされる熱さではないし、燃やされたらとんでもない苦痛があるのだとは未経験でも想像は易い。
レティーシャは火に囲まれ、立っていた。
「……………………これは、どういうことなのかしら」