5
家のマンションは曇り空と同じで灰色だ。
5月25日、今日は特別な日。ぼくは正しいことをした。岡本君に歯向かって、いじめをやめろといってやった。そんな勇気がぼくにあるなんて信じられないくらいだ。ぼくはぼくの名前に恥じない、すごいことをしたんだ。
あれはいつだったかな。ぼくがはじめて名前の由来を知った時は。生まれてからずっとぼくにくっついてくる。当たり前すぎて、それが誰かに付けられたこととか、それまではなかったなんて信じられないくらいに自然なもの。正人という名前。1年生で「正」と「人」の漢字を習って、クラスのなかでぼくだけが名前を漢字で書いていた。みんなはひらがなで、ひとり偉くなったみたいだった。漢字の組み合わせが意味をつくるなんてわからなくて、でも形が好きで、意味もなく紙に正人って書いた。うん、あれはたぶん2年生のころだ。両親がどんな気持ちで子供の名前をつけたのかを調べる宿題が出た。お母さんと行った買い物の帰り道のこと。重いスーパーの袋をお母さんがもち、ぼくは持っていた小さな軽いビニール袋を大きく振り回していた。お母さんの黒く、肩のところで切られた髪がさらさらしてきれいだった。
「まさくん、宿題終わった?」
あの頃お母さんは、毎日そうやってぼくに聞いた。ぼくは聞かれる前に終わらせて、「もうやったよ」って言うのが好きだった。そういうとお母さんはぼくをほめてくれた。
「もうやったよ。あっ」
ぼくは名前の宿題を忘れていた。いつもの漢字ドリルや算数の計算ドリルはもうやっていたから、終わったつもりだった。
「あれ?どうしたの?」
「うん、忘れてたのがあった。なんかぼくの名前の由来を聞いて、それを書かなくちゃいけないの」
「由来かあ。お母さんも宿題で、お母さんのお母さんに聞いたことあるよ」
「お母さんの名前って、えっと」
「栄子だよ」
そうだった。お母さんに名前があることを忘れそうになる。
「あ、うん。おばあちゃんはなんでその名前つけたの?」
会ったこともないおばあちゃん。写真の中のおばあちゃんは黒髪でシワも少なくて、まだおばあちゃんじゃないみたいだった。ぼくが生まれる前に死んだって聞いた。おじいちゃんもだ。だからおじいちゃんとかにおもちゃをかってもらったっていう話を聞くとうらやましかった。ぼくもいっぱい買ってもらいたいんだけどな。
「ずっと幸せに過ごしていけるようにって願いを込めたんだって」
すごくいいなってぼくは思った。
「お母さんは栄子って名前好き?」
「うーん、そうねえ」
お母さんは首をかしげた。
「どうかな。あんまり好きじゃないな」
そのあとでお母さんは首をぶるぶる振り、慌てて言い直した。
「あ、今は好きだよ。うん。大好き」
そう言いながらも、お母さんの袋を持つ手に力が入った。白い手がさらに白くなった。
お母さんはどんなことも好き嫌いしたらいけない、嫌いな子がいても仲良くしなさいって、いつも言う。だから、お母さんは嫌いっていわないのかもしれないな。ぼくのお手本になるために。
「どうして嫌いだったの?」
「嫌いだったたわけじゃないけどね。違う名前がいいなって思ったことはあるの。まだお母さんが子供の頃の話でね。子ってつく名前がちょっと古い感じがしてもっと新しくてかわいい名前に憧れてたの」
「そうなんだ。でもクラスにも子がつく名前の女の子がいるよ」
「そんな風に考える時があるのよ。まさくんももう少し大きくなったらわかるかもね」
今もお母さんは自分の名前が嫌いなの?
そう思ったけどきかなかった。
「ふうん。それでお母さんは幸せ?」
お母さんは迷わなかった。なにを決めるにも迷っちゃうお母さんが。きっぱりと言い切った。
「お母さんは幸せよ。まさくんがいて、お父さんがいる。こうやって幸せな家族を持つことが夢だったのよ」
夕日が眩しかった。薬指にはめられた結婚指輪にオレンジの光が反射していた。よかったね、お母さん。ぼくも幸せだよ。
「だからおばあちゃんには感謝しないと。この名前のおかげで今があるかもしれないんだから」
「うん」
「まさくんも名前に込められた思いを叶えてね。まさくんの名前はね、お父さんがつけたの」
お母さんが大事なことを言う声になった。優しい声に厳しいような響きがまじる。これは真面目にしないといけないサインだった。そうじゃないと、お母さんは怒りをため、爆発する。いつもの優しいお母さんはどこかに消えて、大声で叫び、気に入らないこと全てにあたる。ピアノの鍵盤を手のひらでめちゃくちゃに叩いて出す音のように乱暴だった。お皿は割られる。コップが空を飛ぶ。髪を振り回して、目は睨んでるように鋭くなる。全てを壊してしまうんじゃないかと思うほど。ぼくはこわくて、そんな風にお母さんを怒らせてしまったことを後悔する。ぼくは袋を振り回すのをやめた。まだお母さんは優しい顔をしている。ぼくがお利口さんにすれば大丈夫だ。
「お父さんが?」
ぼくは嬉しくなった。ぼくはお父さんも好きだ。仕事で忙しいから夜遅くに帰ってくる。大きなごつごつした手、ヒゲでチクチクする頬、広い背中。なにより、スーツを着た姿がかっこよかった。だけど仕事で忙しいから夜遅くに帰ってきてあまり会えない。たまに時間がある時は、家族で公園にいって遊んだ。お父さんは無口で、自分のことはあまり話さなかったけど、ぼくの話しをずっと聞いてくれた。時々、ぼくは布団のなかで寝ずにお父さんが帰ってくるのを待った。温かい布団と真っ暗闇のなかでぼくのまぶたは重くなる。となりで寝るお母さんの寝息が聞こえる。ぼくは夢を見ては目を覚ますをくり返す。「お父さんを待つ」っていう強い気持ちが眠りに転がり落ちるのを守ってくれた。ドアの鍵を開ける音がすると、ぼくは飛び起きて、玄関に向かって走る。そこにはくたびれたような、でも優しい表情のお父さんがぼくを待っている。
「うん。お父さんが。正人の『まさ』が正しいっていう意味で、『と』がひとをあらわしているの。つまり、正しい人になってほしいって意味が込められているのよ」
「正しい人ってなに?」
「正しい人っていうのはね、選ぶことが出来る人のことよ。まさくんももうわかると思うけど、この世の中には正しいことと間違っていることがあるの。例えば、宿題をちゃんとやるとか、お母さんのいうことを聞くとか、人に優しくすることとかは正しいことなの。反対に、友達に意地悪したりだとか、いうことを聞かないでわがままをいったりするのは間違っていることなの。この違いがわかる?」
「忘れものをしないことが正しいことで、友達の悪口をいうのが間違ってる。こういうことでしょ」
「そうよ。たくさんの正しいことがあって、たくさんの間違っていることがある。お父さんはね、まさくんに正しいことを選ぶ人になってほしいの。お母さんもよ。神様はね、正しくて良い人には必ず幸せを用意してくれてるのよ。間違ったことをした悪い人にはバチが当たるけどね」
「ヒーローも正しい人?」
「うん、正しい人だよ」
「そうなんだ。ぼくも正しい人になれたらいいな」
「お母さんは信じてるよ」
ぼくはなんだかなんでもできるような気がした。このまま走りだしたら、空を飛べるような気がした。
「お母さん、その袋もつよ」
「でも……」
お母さんは心配そうにぼくを見た。袋とぼくを交互にみて任せても大丈夫か考えていた。
「大丈夫だから」
それからおずおずとお母さんは袋をぼくに差しだした。袋はぼくのお腹から上が隠れるほど大きかった。袋のなかは野菜とか牛乳とか肉とかでぎゅうぎゅうづめだった。長ネギは剣のように飛びだしていた。お母さんは片方の持ち手を持ったまま、なかなか手放そうとしなかった。ぼくはうなずいた。お母さんはようやく決心して、ぼくに袋を預けた。ぼくはその重さに引っ張られ体が前に動いた。それくらい重かった。手にビニールが食い込んで痛かった。それでも、ぼくは負けずに最後までやりとげた。卵は割れて、何回も地面に置いて休んだせいで、底にあったキャベツはへこんでいた。お母さんは怒らずにぼくの頭をなでてくれた。目は赤かった。
ぼくは正しいことをしたんだ。