第5話『桜芝草四郎の初陣』(前編)
――西暦2121年、夏。ブランシュ・ペロネーが落下する、4時間ほど前。
目覚ましがいつもより1時間も早く鳴り始めたのに気付いて、今日が日曜日であることを知った草四郎は憂鬱な気分になった。
憂鬱? そう、憂鬱だ。彼にとって日曜日とは休日ではない。『平日よりも早く起きて、朝から晩まで働かされる日』でしかない。
身支度を済ませ、栄養剤の混じった合成パンを咥えながら立て付けの悪いアパートのドアを開けると、それを感知してネコマルが近づいてきた。ノイズ混じりというかノイズそのもののような鳴き声を上げて足にまとわりつく。その様子に草四郎の倦んだ心は少しだけ癒やされる。
元々、ネコマルは妹の胡桃が3つの頃に兄弟みんなでやりくりしてプレゼントしたものだが、その当時でさえ機能的には見劣りのするものだった。だから小学校も高学年になった今では、妹はもはや見向きもしない。だからといって捨てたり物置に眠らせておいたりするのも忍びなく、今は草四郎が面倒を見ている。それ以来、こつこつと小銭を貯めてはネコマルを改造するのが草四郎の数少ない趣味となった。
今度余裕が出来たら音声機能を修理してやろうと草四郎は思う。それとも、陽に焼けて変色した外装の交換を先にするべきだろうか。
「草ちゃん、もう行くの? 起こしてくれればよかったのに」
ネコマルに続いて、奥の部屋から姉の三黄が慌てて駆け寄ってきた。草四郎の手を掴み、訊ねる。
「いってらっしゃい。アルバイト頑張ってね」
「見送りなんかいいのに。姉さ――」
「今日はすぐ帰ってくるんでしょう?」
予定を聞かれているのではない。早く帰ってこいという遠回しな命令だった。蒼次が失踪したのをきっかけに両親と長兄が相次いでいなくなって以後、姉は草四郎までいなくなるのではないかと不安でたまらないらしい。
だから今朝も姉が手を離してくれるまで、大丈夫すぐ帰ってくるよと草四郎は何度も繰り返さねばならなかった。
――結局、姉さんは俺を信用していないんだ。
機械的に言葉を繰り返しながら、草四郎は心の中の雨雲が更に増すのを感じていた。
「またやってんの? お姉ちゃん、もう自分の支度したら?」
「えっ、ああ、そうね」
日曜には珍しいことに、胡桃が朝から起きていた。妹に指摘されて自分の身支度を思いだした姉はやっと離れてくれた。だが今度こそ家を出ようとした草四郎は、胡桃にぐいと裾を引っ張られた。
「おこづかい、ちょーだい」
そんなことだろうと思ったよ、と草四郎は舌打ちする。
「姉さんに頼めよ」
「足りないんだもん」
「何を買うんだよ」
くだらないものじゃないだろうな、と言いかけて慌てて口を噤む。以前それを言って怒らせたばかりだ。顔に青あざをつくってバイトに行くのは回避したい。
「レネット姉ちゃんの、服とか色々あるでしょ」
「ここに来たばかりの頃、何着か買っただろ?」
「だーかーらー、服『とか色々』、だって。ちょっとは察しろよバカ」
人目をひきすぎる外見なので、レネットを外には連れ出せない。特に肌を隠しづらい夏の間は。三黄と草四郎が忙しい以上、彼女の面倒は胡桃が担当することになった。
折に触れてレネットのために娯楽品やスイーツを買ってくるなど、妹は実に甲斐甲斐しく姪の面倒を見ている。その1割程度でいいから自分にも優しくしてもらいたい、と草四郎は切に願う。おまえの名前が五桃や桃五にならなかったのは誰のおかげだと思ってるんだ。
だが現実は、胡桃にとって草四郎など軍資金を略奪する対象でしかない。
「どうせあんたが持ってたってガラクタに使うだけでしょ?」
「ネコマルのこと、ガラクタっていうな」
なんでこいつは自分の欲しいものをつまらないと言われれば烈火のごとく怒るのに、他人の欲しいものを平気で無価値と言ってしまえるのだろう。
「だいたい、そのガラクタを泣いて欲しがったの、誰だよ」
「何年前の話持ち出すわけ? キモっ」
死ねばいいのに、と吐き捨てる胡桃に草四郎は心の中で涙した。いったいいつからこんな子になってしまったのか。いや、物心ついた時からこうだったような気がする。
「あんたもさ、言われる前に気を回してお金くれたっていいじゃん。気晴らしに出かけることも出来なくて、レネット姉ちゃんいつも辛そうにしてるんだから。蒼次兄ちゃんが嫌いだからってレネット姉ちゃんに当たるの、やめなよ? みっともない」
「……そんなことはしていない」
「してるよ。基本、目を合わせないし?」
「…………」
そう言われれば、そうだった気もする。自分はそんなみみっちい男だったか。
「……おまえの方は随分、レネットの世話を焼くんだな」
「だって、仲良くしとけば向こうに連れて行ってもらえるかも知れないしさ」
「…………!」
確かに草四郎はレネットを避けていたかも知れない。だが、罵倒したり暴力を振るったりしたことはなかった。それは他の人間に対しても同じだ。男女関係なく、またそうするべき場面であったとしても、他人に暴力を振るったことはない。草四郎は自分を平和的な人間――悪く言えば腰抜け――だと自負していた。
だが、それはただ記憶していなかっただけに過ぎなかったのだろうか。
三黄に叩かれるまで、草四郎は胡桃の首を締め上げている自分に気付かなかった。
「……なにすんだよ!」
咳き込みながらも胡桃は草四郎を憎しみの篭もった目で睨み上げる。そんな胡桃を守るように抱きかかえる三黄も、草四郎を忌まわしいものであるかのように見た。草四郎の喉の奥から声にならない呻きが漏れる。
「何があったんですか……?」
奥の部屋から、今起きてきたばかりのレネットが顔を出した。
反射的に、草四郎は何も言わずに玄関を飛び出した。東京にあっても電車の本数はどんどん減らされている。もし乗り損なったら、1時間は待たねばならない。遅刻すればそれだけ、なけなしの時給が減る。
その場から逃げ出すには持って来いの口実だった。
* * * * * * * * * * *
「――桜芝君!」
桜芝草四郎は床の上に横たわる自分を発見した。後頭部に激痛が走り、敵の攻撃でシートから落下したのを思い出す。首の骨を折らずに済んだのは幸運だった。
「桜芝君、生きてるの!? よ、よかった……」
菜茉莉が安心したように笑顔を浮かべるのが見えた。後部座席に座り、きちんとハーネスまで締めている。草四郎が呼びかけるよりも早くそうしていたのだろう。いつも鈍いのに、変な時だけ準備がいい。
そう長いこと気絶していたわけではなさそうだった。シートに戻ろうとして起き上がり、しかし衝撃が再びペロネーを襲った。機体が地を転がる。草四郎はなんとか踏ん張って、再度の気絶を回避した。
「なんでひと思いにやらないんだ……? あいつ、遊んでやがるのか……!」
「お、おお、桜芝君、早く座席に戻って……」
菜茉莉は草四郎に手を伸ばすが、ハーネスをつけたままで届くわけがない。抜けているのか、それとも助けようとしたというポーズをとりたいだけなのか草四郎が図りかねていると、菜茉莉はあっと驚いたような顔をしてハーネスの留め金を外した。前者だったらしい。しかし草四郎の脳裏に浮かんだのは期待ではなく、不安だった。
すぐにそれは現実のものとなった。コクピットが大きく揺れ、驚きの表情を浮かべた菜茉莉の顔が眼前に迫る。草四郎は右手で彼女のおでこを受け止めた。もう少し反応するのが遅れていたら、互いの頭を思いきりぶつけることになっていただろう。
「――あ、お、おう、桜芝、君――」
菜茉莉の顔が真っ赤に染まっていくのを草四郎は見た。左の掌に衣服を通して柔らかい感触が伝わってくる。
これは、もしや――。
「おな、お腹、も、も、揉まないで、ほしいんだけど……」
――腹かよっ!
がっかりした。青少年のときめきを返せこのメタボ。
そしてまた、白い敵はペロネーを蹴り飛ばす。間違いない。草四郎は確信する。あの白い機体に乗っている奴は、確実に性格が悪い。
「いけない……! 草四郎達が殺される!」
路地裏から戦闘を見守りながら、レネットは自分の至らなさに歯噛みしていた。自分の精神が未熟なせいで、とんでもない事態を引き起こしてしまった。
このままではあの2人は敵によって嬲り殺しにされるだろう。たとえ2人のどちらかが奇跡的にパイロットとして天性の素質を持っていたとしても、だ。
ブランシュ・ペロネーを動かせるのは、あまねく世界にたった2人――レネットと、レネットの母親だけである。ペロネーを造った遠い祖先は自分達一族の者にしか動かせないように設定したのだ。遺跡内で半ば化石化していたペロネーを発掘・修復し、オペレーションシステムを新たに組み込んでくれたフラクシヌスも、その制限を取り払うことは出来なかった。
レネットは撃墜されたエルガエのうち、1番近くに横たわっているものに駆け寄った。
胸部中央にあるコクピットには大穴が空いていて、もはや動かして戦うことは出来ない。だが左右にあるエンジン自体はまだ生きているようだ。モニターの光が赤い血に濡れたコクピットの無惨な光景を照らしている。
レネットは外部スピーカーを起動。四角形のマイクを懸架台から外し、エルガエの上に立って、叫ぶ。
「そこの白い機体、止まってください!」
無抵抗のペロネーをボールのように転がして弄んでいた白い機体がこちらを振り返る。
「私はレネット・チェリモーヤ。その機体と共にあなた方に投降します。攻撃を中止してください」
白い機体のジャイロの回転が弱まった。機体下面に折り畳まれていた4本の足が伸び、腕付きヘリはケンタウロスのような姿をとった。大地を踏みしめるその足裏には車輪がついており、放置自動車を蹴り飛ばしながら敵はレネットに接近する。
唾を飲み込んだレネットの周囲が翳った。見上げれば、暗赤色に塗られた人型ヘリが新たに着陸してくるところだった。その数、4機。
「投降すると聞こえましたが?」
新たに現れた4体の人型ヘリのうち、他の3機に守られるようにして立つ機体のスピーカーから女の声が発せられた。
そうです、とレネットは答える。
「あの機体に関しては?」
「あれにはパイロットが乗っていません。ただ、当方が救助したこの国の民間人が2名乗り込んでいます」
「――なんだ、パイロットが乗ってなかったんだ?」
幼い声が白い機体から流れ、レネットはぎょっとして振り返った。乗っているのは子供なのか? 3人の仲間を鮮やかに撃墜してみせたのが、子供?
「私はカメリア・東雲、国際屠龍機関『ゲオルギウス』特務少尉です。レネット・チェリモーヤの投降を認めます」
ダークレッドの機体に乗った女が口にしたその名をレネットは復唱した。ゲオルギウス。それが敵の名前か。
「まずそこから降りて、両手を挙げて頭の上で組め。ゆっくりとだ。こちらはいつでもおまえを撃ち殺せるのを忘れるな」
カメリアと名乗った女の声にレネットは従う。こうしている間にあの2人が逃げていてくれればいいのに、と思う。
だが。
「ねえ、カメリア?」
その明るい子供の声に、レネットは微笑ましさより不吉なものを感じ取った。
「何ですか、スオウ坊ちゃま?」
「あれ、破壊していいよね?」
いきなり何を言い出すんだとばかりにカメリアが息を呑み、レネットはぎょっとしたようにスオウを見上げる。
「待ってください、私は投降しました! それに、あれに乗っているのはあなた達と同じ地球人なんですよ!?」
知らないよ。スオウは鼻で笑う。どんな扱いを受けたって、敗者には何も言う権利がない。人間同士ならいざしらず、国際条約を交わしているわけでもない異世界人相手に遠慮などいるものか。嫌なら降伏などしなければよかったのだ。
「坊ちゃま!」
カメリアの言いたいこともわかる。あの機体だけ他と外見が異なる。鹵獲出来るものならしたいというのだろう。
「関係ないね。異世界のものも、異世界人に接触した者も抹殺、だろ?」
スオウは、大地にうつぶせになったまま動かない異世界のマシンに向かってトリガーを引いた。彼の乗る兵器――対怪竜戦車『ムササビ』のアームに保持されたマシンガンの銃口が火を噴く。
狙いは正確だ。銃口とペロネーの中心に、コンマ数ミリのズレもない。
しかし、銃弾はビルの壁面を粉砕しただけに終わった。
ペロネーは、スオウの視界から消えていた。
「なにッ……!?」
スオウの直感が、彼に空を見上げさせる。
太陽の光を遮る闇となったブランシュ・ペロネーが、スオウの頭上に浮かんでいた。
影の中でその双眸だけが、まばゆい光を放ってスオウを睨みつける。
「――いい加減にしろよ」
ペロネーのコクピットで、草四郎は操縦桿を握りしめ、唸る。
「これ以上、やられっぱなしでたまるかよ!」
軍馬がいななくように、ブランシュ・ペロネーのモーター音が鳴り響く。