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ストラッグラーズの遁走  作者: 削畑仁吉
第一章 操縦桿を握った日
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第2話『兄、帰る』


 レネット・チェリモーヤが桜芝家にやってきたのは、1ヶ月前の夜のことだった。




 最終電車は、その日家に帰ることの出来た労働者で満杯だった。

 メンテナンス費用が削られているという噂は本当だろう。時折不自然に車体が軋んだ。カーブの拍子に乗客の重みで倒れやしないか、草四郎は本気で心配になる時がある。

 時刻は20時40分を過ぎたところだ。車窓から見える景色は黒一色に塗り固められている。

 それが現在の――東京の夜の風景だった。


 ひどい見た目だ、と車窓に映る己の顔を見て草四郎は他人事のように思う。ぼさぼさの黒髪――染めたり整えたりする金はない――や、年単位で使い回したよれよれの衣服もひどいが、表情はもっとひどい。まるで定年退職直前まで使い倒された中年の顔だ。

 それは草四郎の隣も、そのまた隣もそうだった。まるでコピー&ペーストしたように死んだ目が並んでいる。

 元気なのは、草四郎の目の前に座るハイキング姿の老人達くらいだ。


「こんな時間にいい若いもんがもう帰る支度か。最近の若い奴は甘ったれてて困る!」

「そうですな、わしらの若い頃なんか日付が変わっても汗水垂らして働いてたもんですよ。なのに今の連中は灯火管制だとかで、暗くなったらすぐ帰ってくる。気楽なもんだ」


 周囲の迷惑顧みず、老人達が馬鹿のように大きな声で話す。

 夜行性の怪竜を惹きつけないよう日本全国で灯火管制が敷かれており、夜20時には街灯も電光看板も電力供給を絶たれてしまう。夜間の外出も制限され、その関係上、老人達の言うように日が変わるまで働くというのは少数派になったが、その分学校や会社の始業時刻は前倒しになったので感覚的には昔と変わらない。それにひどいところでは、夜中に出歩けないのをいいことに会社に閉じ込めて働かせ続けるようなケースもあるという。

 だから老人達に「甘ったれている」などと馬鹿にされるいわれはない。そもそも甘ったれられて気楽ならいいことじゃないか、何に文句があるんだ、こいつらは?

 その時突然――草四郎は、鳩尾を焼けたナイフで抉られるような衝撃を受けた。イメージが洪水のように次々と浮かんでは消えていく。


――何処までも広がるような青い空と草原。

――石造りの素朴な街並み。

――泥濘(ぬかる)んだ泥を蹴飛ばして、一丁のライフル銃を手に走る自分。

――棍棒をもって襲いかかってくる、緑色の皮膚をした屈強な大男。

――自分の目の前で息絶える、怪竜とはまったく違う巨大なモンスター。斃したのは自分だ。人々が口々に自分を、勇者と呼んで賞賛する。

――そして仲間達。1人の美しい女性が、自分を迎えるように手を広げる。


 草四郎は我に返った。視界が滲んでいる。いつの間にか滝のように涙を零していた。涙を拭い、周囲を窺う。穢らわしい物を見るような目で草四郎を見ていた両隣の会社員が、さっと目を逸らした。

 当然の対応だ。立場が逆なら草四郎だってそうしただろう。迷子の子供を保護すれば誘拐犯扱いされるようなこの御時世、そのリスクを冒してまで他人を思いやる余裕など誰も持たない。

 電車が止まった。草四郎の降りるべき駅だった。


「なんだ、今のは。人前で急に泣き出すなんて、今の若い奴は頭がおかしい!」

「まったくだ、軍隊でも行って根性を叩き直してもらえばいい!」


 ホームを踏みしめた瞬間、あの老人達の罵声が草四郎の背中に突き刺さった。




 あの一連のイメージを、草四郎は前世の記憶と呼んでいる。モンスターと銃一丁で戦う時代など人類の歴史上存在しないのはわかっているが、その暴力的なまでの懐かしさ、そして登場する街並みや人々の衣装の古めかしさが前世と呼ぶ理由だ。

 それはいつも痛みさえ感じるほどの郷愁を伴っていた。普段ならば耐えられるが、心が弱っている時には涙が溢れて止まらなくなる。

 頭がおかしいと言われても反論できない。

 幼い頃、あの場所がどこかに実在するのではないかと遠くまで出歩いて、迷子になったことが何度もあった。叶うならばあの場所に帰りたい。あの場所こそが自分のいるべき場所だ、きっと今も仲間達があそこで待っている。


――でも、それじゃ駄目なんだ。


 実際に異世界を目指した者達の行動の結果を見ろ。世界は壊滅的打撃を受け、草四郎の家族は崩壊した。


――もう俺は、別の世界なんてものに夢を抱いたりしない。してはいけないんだ。


 だが、抑え込もうとすればするほど、あの突発的な幻覚は草四郎を苦しめた。

 病院に行った方がいいのかも知れない、と考えて、草四郎は首を振った。そんな金と時間の余裕が何処にあるものか。


 怪竜対策の名目で増える税金により親世代の手取り収入が減った現在では、一般的な家庭の学生は授業が終わればその足でアルバイトに向かうのが当たり前となっていた。

 草四郎も例外ではなかった。むしろその極地だ。アルバイト先が休みの日は別のアルバイト先にといった具合に毎日働いている。月月火水木金金。1日ゆっくり休む暇などなかった。それでいて、生活は楽になる兆しを見せない。


 だから最初、草四郎は疲労のあまり家を間違えたかと思った。

 いつもなら、アルバイト先からくたくたになって帰宅した草四郎を出迎えてくれるのは妹のお下がりのペットロボットだったのに、その日に限って、オンボロアパートのドアを開けて彼を迎え入れてくれたのは、体格のいい見知らぬ中年男性だったからだ。


「よう、おかえり」


 男は照れくさそうに、だが気さくにそう言った。家を間違えたという可能性はこれで否定された。だが草四郎には気安く話しかけてくるような中年男の知己はいない。


「どうしたんだ、早く上がってこいよ」


 いやあんたは誰なんだよ、と訊ねる前に男はガラス戸の向こうに行ってしまった。

 安さだけだけが取り柄の家族世帯用アパートだ。玄関を上がれば即台所になっており、ガラス戸を隔てて居間兼草四郎の部屋、更にふすまの向こうには姉の三黄(みき)と妹の胡桃(くるみ)が共用で使う和室がある。

 居間には灯りがついていて、食欲をそそる匂いが漂ってきていた。妹が楽しそうに誰かに話しかけている声が聞こえてくるから、あの男が強盗で、縄で縛られた家族が横たわっているという事態は無さそうだった。それでも、いつもは何の感慨もなく開け閉めしているガラス戸に指をかけるのには勇気を必要とした。


「遅いよ、何ノロノロしてんの。全くウスノロなんだから」


 兄の苦悩も知らず、居間に入るなり妹から罵声を浴びせられた。反抗期真っ只中の妹は兄に対して容赦がない。だが今日に限っては普段通りの妹の姿に草四郎は安堵した。嘘だ。大いに傷ついた。


「おかえりなさい、草ちゃん。早く座って、お料理が冷めちゃう」


 3つしか年齢が違わないとは思えないほど生活苦で老けてみえる姉もいつも通りだ。

 足元で錆びたシェーバーのような音がした。ドッジボール大の球に、ディフォルメされた猫の四肢と耳がついた形状の機械が草四郎の足に身をこすりつけている。『ネコマル』という名前――安直な――のペットロボットだ。

 両親はいない。これが今の草四郎の家族、全員だ。

 それに混じって、当たり前のようにちゃぶ台の一角を占拠しているこの中年男は誰なんだ?


 ……いや、よく見ると異物はもう1人いた。

 むしろそっちの方がとんでもない。

 若い女が、中年男の隣に座っていた。目を引くのはアニメキャラかと言いたくなるような水色のロングヘアー。後ろ髪どころか前髪も横髪も長く、顔のほとんどを覆い隠している。しかも、女は夏だというのに上も下も長袖だった。


「腹減ってるだろう。話は食べながらにしようぜ」


 男が言った。いやあんたらが何者か気になって食事どころじゃない、と言いかけて、草四郎は言葉を失う。テーブルの上には明らかに手の込んだつくりの肉料理が湯気を立てていた。見た感じは鶏のもも肉に見えるが、なんと桜芝家なら2週間くらいかけてちびちびと消費するだけの分量が1人の皿に1つ入っていて、その横にはマッシュポテトと人参が添えてある。他にも、餡のかかった肉団子やサラダ、果ては味噌汁まで。桜芝家、いやこの時代の一般家庭の食事としては極めて豪華な内容だった。

 草四郎の腹が地響きのような音を立て、口の中が唾液でいっぱいになる。


 気がついた時、草四郎達は犬のように目の前の肉にむしゃぶりついていた。肉は今までに食べたことのない食感だったが、涙が出るほど美味かった。日頃食べている合成肉とは生クリームと歯磨き粉くらい違う。現代日本の食糧事情がひどいものだと初めて知った。

 哀れみの表情を浮かべた男が自分の取り分を分けてくれるのを躊躇いもせず受け取り、それすらなくなると皿まで舐め回した。

 話をするどころではなかった。食べている間、素性不明の中年男のことも水色の髪の女のことも草四郎の意識から完全に消えていた。草四郎も三黄も胡桃も長い間飢えていたのだ。満腹という状態になったのは何年ぶりだろう。


 食べ終えて一息ついたところで草四郎は視線に気付いた。こちらの様子をうかがっていた謎の女は草四郎と目が合うと、さっと視線を逸らした。さっきの餓鬼のような食いっぷりに引かれたのだと気付いて、草四郎は顔を赤くする。

 気まずさを隠すように、草四郎は中年男に質問をぶつけた。


「それで、あなた、結局誰なんですか」

「おまえもわからないか。まあ仕方ないな」

「えっ?」

「蒼次だよ。おまえの兄貴の」

「そ、蒼次……!?」


 草四郎には2人の兄がいた。長兄の紅一、そして次兄の蒼次。紅一は既に他界している。その原因を作ったのは蒼次だ。

 蒼次はフラクシヌスの一員だった。地球に怪竜を呼び込んだ一派の構成員である。当の本人達が誰にも手の出せない場所に行ってしまった以上、彼等に代わって周囲の憎悪を一身に受けたのは、残された家族達だった。

 両親は子供達を見捨ててどこかへ逃げた。紅一は職場をクビにされ、鬱になってある日衝動的に首を吊って死んだ。子供は義務教育だけ受けていればいい、後の人生は親を養うために費やすべきと考えていたあの両親が高校に行かせる気になっていたほど優秀だった三黄は、進学をあきらめ、草四郎と胡桃を養うために働かなければならなくなった。

 蒼次こそ、桜芝家――かつては蓮藤と名乗っていた――の今を作りだした張本人であり、草四郎にとって最も憎むべき相手だ。だが。

 草四郎の記憶違いでなければ蒼次は草四郎の五つ上だったはずで、生きていたなら22歳である。しかし兄と名乗ったその男はどう見ても四十前後に見えた。姉の三黄のように生活苦で老けて見えるのとは違う。目に力がある。むしろ若々しく見えるくらいだった。


「大きくなったな、草四郎」


 それはこちらの台詞だ。線の細い優男だったはずの兄は、今やプロレスラーのように肩幅の広い、がっしりした体格の巨漢となっていた。身長だって向こうが上だ。あまりの落差に、草四郎は前々から兄と再会することがあったら言ってやろうと考えていた言葉全てを失った。なんで、とか、どうして、とか、何に対して訊いているのか発言者本人にもわからない疑問詞を譫言(うわごと)のように並べるしか出来ない。


「それでお兄ちゃん、どうして戻ってきたの?」


 妹の胡桃は蒼次がいなくなった時、まだ三つになったばかりだった。姉と兄から蒼次への恨み言を聞かされて大きくなったぶん蒼次に対しては悪いイメージしかなかったはずだが、もう屈託なく兄と呼んで慕っている。草四郎は裏切られたような気持ちになったが、たとえ親の仇だろうが自分に物をくれる人なら喜んで尻尾を振るというのは草四郎達のような貧乏人にとってむしろ当然の対応だ。誇りや愛情で腹は膨れない。


「おまえ達に頼みたいことがあるんだ」


 兄は表情を引き締め、そう言った。草四郎の視線は三黄に向かう。三黄もまた草四郎に視線を向けていた。2人の浮かべる表情は同じものだ。嫌な予感がする、と互いの目が言っている。


「頼みたいこと……?」

「まず、この子を紹介させてくれ」


 蒼次に促され、青い髪の女がおずおずと頭を下げた。


「はじめまして、レネット・チェリモーヤです」

「この方は、兄さんとどういう……」

「ああ、俺の娘だ」

「娘ェ!?」


 どう見ても草四郎より年上だ。蒼次が異世界に旅立った直後に子供を作ったとしても間に合わない。無論、異世界に旅立つ前に次兄が誰かを孕ませたという話も聞いていない。


「あの……失礼ですが、今おいくつ、なんですか?」

「21になります」


 草四郎どころか、二十歳になったばかりの三黄より年上だった。


「ああそうか、義理の娘ってことだよな?」

「いいや、血を分けた実の娘だよ。俺が異世界に行ったのは知ってるよな。まあ、俺達は向こうの言葉でウーイキトと呼んでるんだが」


 知らねえよ、と草四郎は顔を背けた。異世界は異世界だ。一生行くことも関わることもない場所に固有名詞なんか必要ない。名前を認識すれば引きずり込まれてしまいそうな気がした。


「地球とウーイキトじゃ時間の流れが違うんだ。だいたい3倍くらいかな」

「3倍……」

「驚いたよ。24年経ったからどれだけ変わってるかと思ったら、こっちじゃたった8年だもんな。まあ、街を歩いてる分には1年と経ってないように感じるが。品物も電化製品のスペックも変わり映えしてな――」

「街を歩いた? この人(レネット)を連れて?」


 変なのに尾行されてやしないだろうな、と草四郎は危惧する。


「俺1人でに決まってるだろ。大切な娘をどうなってるかもわからない世界の探索に連れ出せるか」


 当然だろうと蒼次は言ったが、蒼次や草四郎達にとってそれは当然ではないはずなのだ。彼等の両親は自分達のために子供を盾に使うことをいとわない人間だったのだから。

 親が子供をかばうことを当たり前と言い張れる蒼次は、確かに24年人生をやり直してきたのだと草四郎は思った。


「ま、おまえらの立派になった姿を見れば時差を実感出来たよ。名字、変わったんだな」

「――誰の」


――誰の所為だと思ってる。おまえ達が怪竜を地球に呼び込まなければ、わざわざ名字を変える必要もなく、もう少しマシな暮らしが出来ていたはずなんだ。


「相手は誰なの、フラクシヌスの人? それとも異世界の人?」


 口にしかけた不満は、だが興味津々といった胡桃の声に押し潰された。妹にとっては終着点のない繰り言よりもそっちの方が気になるらしい。

 フラクシヌスの方に決まっているだろう、異種交配なんてそう簡単に出来てたまるか漫画じゃあるまいし――と草四郎は心の中で呟いたのだが。


「ウーイキトの人だよ」


 生物学の常識はあっさりと覆された。

 蒼次がレネットの前髪を持ち上げる。草四郎達は息を呑んだ。彼女のこめかみから頬骨の辺りにかけて、その皮膚は爬虫類の鱗のようになっていた。やや緑がかっている。すぐに蒼次は手を離し、レネットは恥ずかしげに髪を撫でつけた。


「ここだけじゃなく、身体も部分部分がこうなってる」


 夏場なのに彼女が長袖を着ている理由がわかった。


「あと、今はカラーコンタクトを入れてるが瞳もちょっと違う。まあ、実際に見なくてもいいよな」

「ちょっと待てよ、なんで異世界人と子供が出来るんだよ。その、遺伝子とか、どうなってんだ?」

「どうなってんだと言われても、実際出来たんだからしょうがないだろう。間違いなく俺の子だよ」

「チェリモーヤって、相手の名字? お兄ちゃん婿入りなんだ?」

「そうだよ」


 それより、と蒼次は深々と頭を垂れた。


「理由は聞かず、この子を預かってくれないか。いつまでになるかはわからないが、何も永遠にってわけじゃない」


 草四郎と三黄は顔を見合わせる。料理に手をつける前に話をつけておくべきだったと今更ながらに後悔した。施しを受け取ってからでは断わりづらい。


「……あんたは異世界に行ってたから知らないんだろうが、世間様にとっちゃ異世界のものは敵なんだよ。匿ってるなんて知られたらどんな目に遭うか」

「すまない、迷惑をかける。だが、頼める奴が他にいないんだ」


 だからこれで頼む、と蒼次は紙袋を三黄に渡した。中身を覗き込んだ草四郎達は顎が外れるかと思った。

 袋の中には札束が入っていた。それもかなりの量の。


「なんで異世界にいた人間がこっちの世界の金を持ってるんだよ」

「その辺は企業秘密だ。盗んだわけでも偽札でもないから安心しろ」

「…………」

「引き取る時にも、同じだけ持ってくるからさ」


 この時ほど草四郎は貧乏であることを悔しく思ったことはない。8年間ため続けていた恨み言の1割も言えないまま、草四郎達は笑顔で年上の姪を引き取らねばならなかった。たとえ異世界人を匿っていたことで明日周囲から殺されるとしても、今日を生き延びられなければ何にもならないのだ。




 そうしてやってきた姪が、まったく予想外のかたちで目の前にいる。



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