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ストラッグラーズの遁走  作者: 削畑仁吉
プロローグ
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プロローグ『蓮藤蒼次の旅立ち』その1

 腐肉を敷き詰めたような曇天の下、汚水のような海の上を、元は白かったであろう薄汚れた船が往く。

 目指すのは氷のたゆたう北極点、そこから天空を超えて宇宙へ伸びる、巨大な柱の如き1本の樹木――『カナンジュ』だ。


 5年前の西暦2108年、突然北極海から頭を出したこの巨大な植物は一夜にして成層圏にまでその先端を伸ばし、今では太陽系さえ突破したという。幹の直径はおおよそ200キロメートル、枝や葉は地上からは見ることが出来ず、まるで地球誕生時点から存在していたかのような貫禄を見せる幹の表面を間近で見なければ、もはや木には見えない。

 そもそもただの植物であれば宇宙空間に存在出来るわけがなかった。カナンジュは二酸化炭素を必要としない。生命維持に必要なエネルギーは全て地球の中心核から吸い上げている。


 その代わりに――通常の植物が二酸化炭素を吸って酸素を放出するように――カナンジュは人類にとって未知のエネルギーを全身から吐き出した。研究員達によってアクティビティ・エナジィと命名されたそのエネルギーが、宇宙空間においては真空やデブリ、地上にあっては人類の伐採行動といった様々な脅威からバリアとなってカナンジュを守っている。


 アクティビティ・エナジィの出現は北極周辺の大気組成を変化させた。今空を覆う分厚い雲はアクティビティ・エナジィの塊である。呼吸こそ――今のところ――問題なく出来るものの、その気流は高空においては荒々しく渦巻き、レーダーや計器の類を狂わせ、あらゆる飛行機械を北極の空から駆逐した。

 西暦2113年、蓮藤(れんどう)蒼次(そうじ)が船酔いに苦しまねばならなかったのは、そういうわけだった。

 乗り物に弱い性質ではなかったはずだが、生まれて初めての海外旅行、それも家出という事情が14歳になったばかりの少年の心身に予想以上に負担をかけていたのかもしれない。


「気をしっかり持てよ、もうすぐ陸地だ」


 同室のアラブ人――生まれも育ちも日本だが――が励ましてくれたが、もしかしたら自分に言い聞かせていたのかもしれない。彼の顔も青ざめていた。

 ルームメイトに頷きを返し、蒼次は胸元を押さえる。その手の下の内ポケットには一通の招待状がしまわれていた。SNSの知人から送りつけられてきた物で、相手が語った言葉が真実なら、目的地に辿り着ければ八方塞がりの彼の人生は大きく変化するはずだった。

 その一縷の望みに賭けて、彼はそれまでの全てを捨ててこの旅に出たのだ。


 船が目的地――カナンジュ調査のために建造された巨大人工浮島(メガフロート)『カナンジュ国際研究所』に到着したのは、それから間もなくのことだった。




「確かに一ツ橋(ひとつばし)という研究員はここにいるが……。招待状? 本物か?」


 研究所に着くなり、蒼次は刑事ドラマの取調室そっくりの部屋へと連行されていた。

 机を挟んだ向こう側に座る神経質そうな入所審査官は胡散臭いものを見る目を蒼次に向ける。彼の疑念はもっともだ。観光客はここには来ない。いるのはカナンジュの研究員か、研究所の増築を行う工員だけだ。とても工員が勤まるとは思えないひょろひょろした体格の、かといって若くして研究員になれるほど才気煥発(さいきかんぱつ)にも見えない少年は極めて場違いだった。

 招待状が本物かどうかは自分こそ訊きたい、と蒼次は思った。手の込んだ悪質な悪戯であることを、蒼次自身も疑問に思っていたのだから。だが迂闊なことを言って追い返されるのは勘弁してもらいたかった。しばらく波の上はこりごりだ。


「仮に本物だったとして、軽々しく部外者を入れてもらっては困るんだがな。ここは観光地じゃない、国連直轄の研究機関だぞ」


 審査官は苛々とガムを咀嚼することで蒼次を威嚇する。


「おまえみたいなガキが、ネットだけの友達に招待されて遠路はるばる北極まで来ました、だぁ? おまえの国のアニメだってもっとリアリティあるぜ」

「一ツ橋さんを呼んでくださいよ」


 慣れない英語で蒼次が答えられるのはそれだけだった。流暢とは言えない発音に、審査官の疑いの眼差しが一層強くなる。

 その時、ノックの音がした。セーターにジーンズという格好のメガネの男が入ってくる。ヒトツバシ、と審査官が呼んだことで、この頭髪の後退した男が自分を呼んだ張本人なのだと蒼次は知った。実際に顔を合わせるのは初めてである。SNSで使用しているシンボルアイコン――マイナーな深夜アニメの美少女キャラクターだった――がそれまでの彼のイメージだった。男なのは察しがついていたが、なんだか裏切られたような気がした。

 一ツ橋と審査官が早口でやりとりする。どういうロジックを駆使したのかわからないが、審査官はもういい、とでも言うように両手を挙げて頭を振った。


「わかったわかった。坊主、カナンジュ国際研究所にようこそ。くだらないことはするなよ、その時はセイウチの餌にしてやるからな」


 気をつけます、と頭を下げた蒼次の目の前で審査室のドアは勢いよく閉ざされた。


「いや、すまなかった。スケジュールが狂っちゃって、しかも今日の担当がマイケルなのを忘れていた。それに君には悪いが、実際のところ本当に来るとは思ってなかったしね」


 一ツ橋が薄い頭を掻く。蒼次は研究所の未来的な内装に心を奪われていた。さっきまでいた部屋が刑事ドラマなら、こちらは金のかかったSF映画だ。


「ン……ちょっと失礼」


 一ツ橋はスマホ――本当は別の名前を持った上位機種なのだが、みんな習慣でスマホと呼び続けている――を取り出した。振動するスマホの画面をタップした彼は、なんとそれをくの字に折り曲げる。驚く蒼次をよそに一ツ橋は通話を始めた。二言三言話して、切る。


「曲がるんですか、それ……」

「ああ、可曲型ディスプレイだから。知らないの?」


 一ツ橋はスマホを手で弄ぶ。何の変哲もないように見えるその筐体はゴムのようにぐねぐねと曲がった。


「ガラスのところが曲がるスマホなんて初めて見ましたよ」

「スマホ……? まあ似たようなもんか。もう日本でも普及してる頃合いだと思ったんだけど、そうでもないのか」


 最新技術を使った製品は富裕層の間で独占され、一般人には開示すらされていないという都市伝説は本当だったらしい、と蒼次は思った。


「それよりエナジィ酔いはどうだい? 日本の大気にだってアクティビティ・エナジィは混入し始めているが、ここまで濃厚なのは吸ったことがないだろう。ここに来て間もない人の中には気持ちが悪くなる人も多いんだ。アクティビティ・エナジィ、つまり活力そのものといったアクティブなエネルギーに触れるのだから元気になって良さそうなものだが、元気すぎる人間を見るのもそれはそれで疲れるってことなんだろうね」

「……いえ、平気です。上陸して、むしろ元気になった気がします」


 船酔いがひどくて船の上ではろくに食べていなかったし、また食欲もなかったのだが、今は違う。胃袋の中には何も残っていないはずなのに身体にエネルギーが満ちている。今から軽く運動でもしようか、といった気分でさえあった。


「カナンジュが元気を分けてくれたかな?」

「……カナンジュは悪いものではない、ということですか?」

「悪いもの? どうしてそう思う?」

「カナンジュが発するアクティビティ・エナジィは、元々は地球自身が持っていた生命力を吸い上げたものでしょう? ですから、このままだと地球の命がなくなってしまうという人がいます」


 2人はエレベーターに乗り込んだ。


「地球が死ぬことはないだろう。宿主を殺してしまうほど、カナンジュが愚かな寄生虫とは思えないな。心配するべきは地球でなく人類だ」

「えっ……?」


 研究所は3階建てで、あっという間にエレベーターは最上階に辿り着く。普通こういう場所で最上階というものは偉い人が占拠しているものだと蒼次は思っていたが、そこは一般研究員の仮宿舎だった。カーペットの敷き詰められた一室に蒼次は案内される。テレビとソファ、観葉植物が置いてあるだけの狭い部屋にカップラーメンの空箱や脱ぎ捨てられたままの寝袋が無造作に転がっていた。宿舎自体は隣に建っているが、そこまで帰るのさえ面倒くさくなった研究員が仮眠室として使っているのだと一ツ橋は説明してくれたが、蒼次が聞きたいのはカナンジュが人類を滅亡させるという話の方だ。


「カナンジュは人類を滅ぼすものなんですか?」

「学校では習わなかったのかい? 今地球に満ちている酸素は、20億年前には多くの微生物にとって有害なものだったんだ。適応出来なかった種は当然、絶滅していった。今度はアクティビティ・エナジィがそれと同じことをするかもしれない。アクティビティ・エナジィが人体にとって有害か無害かは、まだよくわかっていなくてね。まあ――」


 地球から逃げようとする我々にとっては、関係のない話だけどね――と一ツ橋は呟くように言い、そしてその言葉に蒼次は無言で頷いた。



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