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それは  作者: 飛鳥
2/4

彼女の話

それは、祈りのように SIDE:A


Q.あなたは日野ヒノ アズサさんですか?

A.はい。

Q.クスノキ 虎哲コテツさんをご存知ですか?

A.はい。

Q.彼とはどのような関係ですか?

A.恋人です。

Q.彼を恨んでいますか?

A.いいえ。


心の中の問答はそこで止まっている。いったい幾度、自問自答しただろうか。

目の前には見慣れてしまった、けれども入ることのかなわない扉がある。手を伸ばそうとして、ノブに手がかかる寸前で止まる。ふるえる指先をゆっくりおろすと、また深く息をついた。体の傷はもうとっくに癒えたのに、心の傷とやらはそうもいかないらしい。まばたきをひとつして、彼のねむる病室にもう一度手を伸ばす。もう何百回目かのチャレンジに声がかかったのは、事件から半年の過ぎた秋だった。


「一連の、婦女子暴行事件の犯人が捕まりました。」

 いささか緊張したように、その人は口を開いた。白いシャツ、ダークグレーのスーツ。短い髪は適度に整えられていて凛々しい眉に黒目がちな目。やや女性的な、けれども精悍な顔はさぞかし女性受けすることだろうと思う。二枚目な彼は、刑事であるらしい。名を霧島と名乗った。

「大変不快であると思うのですが、その…事件のことを伺いたくて。」

 やや眉が下がり唇はひきむすばれている。「気まずい」と顔にかいてあるようだった。

なるほど、緊張するわけだ。レイプされた被害者に話を聞くのはそりゃあ気まずいだろうなと思う。私も正直聞きたくない。その相手が異性であれば、なおさら。だが、笑えないことに他人ごとではないのだ。レイプされた異性の、つまり女性の被害者とは私のことなのだから。

 座れるところに、と移動しながら霧島が口を開く。

「お見舞い…ですか?」

「え?」

「いえ…病室の前にいらしたので。怪我は治って退院している、と聞いていましたから」

「ええ、怪我は。」

 霧島はしまった、というように口をつぐんだ。それからは病院の休憩スペースに来るまで、どちらも口を開かなかった。


病院の休憩スペースは、平日なことも手伝ってひどく空いていた。適当な飲み物を買い、霧島と向かい合って腰かけながらゆっくり口を開く。コーヒーと、甘い紅茶のにおいが鼻をくすぐった。

「事件が起こったのは今年、平成十九年、五月二日。夜七時ごろ、ということで間違いないですか」

霧島が手帳の文字を目で追いながらそう聞いた。

「詳しい日付はあまり…」

 言葉を濁しながら答える。気が付いたら1週間以上たっていたらしいし、その後も寝ては起きての繰り返しだった。日付の感覚など退院の頃には飛んでしまっていた。

 そのことを正直に話すと、霧島は頷いて時間は、と聞いた。

「時間は、そうですね。大分暗くなっていたので、そのくらいだったと思います。」

 再び霧島が頷く。

「酷だと思いますが…思い出せることをできるだけ話して下さい。犯人の供述と比べる必要があるので。」

霧島は申し訳なさそうにこちらを見た。その目に浮かんでいるのが憐憫ではないのを見て取って、いい人だなと思って少し笑った。

「すいません。大丈夫です、私は。」

 大丈夫でなかったのは、私ではない。

少しだけ不思議そうな顔をした霧島にそう言って、一つ深呼吸をしてから私は話し始めた。何度となく夢で見た、あの日のことを。

 

「あの日は、夕方から雨だったと思います。」

 いつものように教室で寝こけている彼を起こして、いつものように駅前の店で紅茶を買って。2人で話し込んで気が付いたら暗くなっていた。

「彼、というのは第一発見者の楠さん、でしょうか」

「ええ。恋人なんです。多分、ですけど、今も。」

 霧島は少し口ごもって、彼は、と呟いた。私はそれに少し苦笑して、話を続ける。おそらく、霧島が思っていることと事実とは異なっている。彼が私を、あるいは犯人を責めたなら、どれだけ救われただろうか。

「大分暗くなっていたんですけど、借りていたDVDを返してから帰ろうと思って」

 いつもならついて来る彼は、たまたま友人に借りているものがあった。彼の友人宅とは正反対の位置にある店は、歩くには大変な距離で最後まで「ついていく」と主張していた彼を私が断ったのだ。

「雨の中だし、私がDVDを借りた店は私の家の近くだから、って。」

 その日、彼は傘を持っていなかった。夕方から降り出した雨は明らかに雨脚を増していたし、私が持っている折り畳み傘は2人で入るには明らかに手狭で。結局、彼はしぶしぶ友人の家へ向かった。気をつけて、早く帰れよ、という言葉を残して。

DVDを返しに行くまではいつもとそう変わらなかったと思う。いつもと同じ道を歩いて、店に着いたらレンタルDVDを返す。面白そうな新作の洋画を見つけて2、3本借りて店を出た。雨はまだ、止んではいなかった。

「無事、DVDを返したよ、今から帰るよ、って家に電話した気がします。でも確か留守電で。どうせだから彼にも電話しておこうと思って彼の携帯に掛けたんですけど、繋がらなくて。家に忘れちゃったのかな、って思ってたら、気付いたんです。店を出てから誰かが付いてきてることに。」

初めは被害妄想だと思って気にしなかった。

もう暗いから、と思って近道になる路地を選んだ。あの時もっと警戒していれば、なんて。悔んだところで時間は戻らないのだからどうしようもない。

「はっきり追いかけられてる、と気づいたのは人気のない道に入ってしまってからでした。少しずつ後ろからの足音が大きくなって、怖くなって歩調を速めたら明らかに追いかけてきていて」

 そこからは無我夢中で走った。彼に電話をかけて続けて、やっとつながった時には半狂乱だった。

「追いかけられてる、たすけて、みたいなことを…言った気はするんですけど。あまり覚えてないんです。」

 走って、走って、たすけて、と叫んでも誰もいなくて。彼が焦ったように私の名前を呼んでいた気がするけれど、それも定かではない。逃げるうちに知らない道に迷いこんで。そして私は捕まった。

「腕を掴まれて引きずられて、押し倒された拍子に携帯を落としてしまって、力の限り叫んだら殴られて、呼んでも呼んでも誰も来てくれなくて、ずっと」

ずっと、彼の名前を呼んでいた気がする。彼なら助けてくれると、信じていた。滑稽なほどに、信じていたのだ。

「ひとしきり殴られたら後はまぁ…なるがまま。制服をボタンごと引きちぎられて体を触られて、つっこまれて出されただけです」

 このあたりは記憶がひどくあいまいだ。痛みで朦朧としていたし、記憶にセーブがかかっている。

「担当医いわく、思い出したくない記憶だから脳が意図的に忘れさせているんだろう、って。部分的な記憶喪失らしいです。おかしいですよね、今でも泣き叫びたいくらい嫌な記憶なのに、嫌だったってことだけ覚えていて。具体的なことは何も思い出せないんです。記憶に靄がかかったみたいに。」

 思い出そうとするとひどく苦しくなる。恐ろしくて死ぬほどいやだったのに、何をされたのかはおぼろげにしか覚えていないのだ。私がそう言うと、相槌を打ちながらメモを取っていた霧島はひどく辛そうな顔をした。

自分の爪先を見つめるように目を伏せた後、無理しないでください、すいません、と細く言った。手元の紅茶で唇を湿らせて、大丈夫ですよ、と言って私は話を続けた。

「それで、事が終った頃には叫びすぎて喉がかれていて。このあたりからまた、曖昧ですけど覚えてます。犯人が、私の携帯を拾って、場所を言ったんです。」

 引きずり込まれたのは、使われていない廃工場だった。その場所を告げたのだ。犯人が、彼に。

「喉が痛いのも忘れて、来ないでって叫びました。好きな人には見られたくない姿だったから。でも…彼は」

彼は、来た。来てしまった。

「彼が着くまでに犯人はいなくなっていて、私は…足が、折れていて、動けなくて」

 うまく動かない体で扉の方を見たら、彼が立っていた。逆光で、顔はよく見えなかったけれど。

「見られたく、ありませんでした。あんな姿。嫌われたくなかった。軽蔑されたくなかった。あのまま…死んでしまいたいとさえ思った。そこで気を失って…気が付いたら病院でした」

 思い返してみると、あまりにもあっけない結末だと思う。時間にしておそらく一時間前後。でも、その一時間前後の時に私も、彼も、囚われている。これが呪いならばどんなに良かっただろうか。物語の呪いは、解かれることが前提なのだから。


 ふと気が付いた。私が話している相手は誰だ。医者?カウンセラー?違う。刑事だ。

「あ…ごめんなさい。事件のことだけ話せばいいのに私…。すいません、感情的になってしまって」

 余計なことを話してしまった気がする。申し訳なさに眉をしかめると、霧島も同じような表情をしていた。

「いいえ。あなたにとって、事件と楠さんのことは同じことなんでしょう。こちらこそ話しにくいことを話させてしまって…」

 良い人だと思う。その純粋さが妬ましくもあるけれど。もう一度紅茶で唇を湿らせて、私はほほ笑んだ。うまく笑えているかは、わからないが。

「霧島さん、ありがとうございました。やっと、彼に…虎哲君に会いに行く覚悟ができました」

 霧島は虚を突かれたように目を見張った。その態度で、私は確信する。ああ、この人は何も知らないのだ、と。知らないからこそ、ここにいられるのだ。そっと目を伏せる。

 会いに行こう。彼に。きっと私よりも私のことを悔いている優しいあの人に。誰も悪くなんてなかったと、伝えに。それがまた彼を苦しめても。私自身を傷つけることになったとしても。

 私が立ち上がると、霧島ははっと気がついたように立ち上がり姿勢をただした。

「いろいろと、不快なことを思い出させてしまってすいませんでした。捜査へのご協力、ありがとうございます。」

 形式ばった物言いをする霧島に、噴き出すように笑ってしまった。何故だか、そんな些細なことがおかしくてたまらない。

「いいえ、こちらこそ。…霧島さん、絶対に犯人に罪を償わせて下さい、ね」

 霧島は頷く。その眼には確固たる意志が光となって宿っているように見えた。強くて、そして何よりももろい光だ。かつて私も彼も持っていたもの。希望、信念、勇気、優しさ。

 私たちはもう、持ち得ないもの。

「必ず」

 そう一言だけ告げて、彼は背を向けた。捜査に戻るのだろう。息をついて視線を落とすと、声が掛けられた。目を上げると歩き出した霧島がやや離れた所からこちらを見ていた。

「会えるといいですね、彼に。」

「…ありがとう。霧島さん」

 私は笑って、霧島は見えなくなった。彼を見送った私の頬に、生ぬるいものが伝っていった。


見ないでほしいと願った。嫌わないでほしいと祈った。願いも、祈りも、叶うことなどなく。

そして、静かな絶望だけが満ちて行く。

「こてつくん。」

「あいしてる、わ。」

 おやすみなさい。


          SIDE:A  戻れない彼女の話     END

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