彼の話
それは、呪いのように SIDE:K
どうして。何故。僕は何度この場所で呟いたのだろう。分かり切っているその問いの答えを、それでも胸の奥にしまい続けている。
「愛してるの。だいすきよ」
甘くささやくその声が、何故こんなにも僕を苦しめるのか。知っている。分かっている。
「ゆるさないわ」
今日もまた、あの日を繰り返す。
「こてつくん」
見えたのは、夜空だった。真っ黒な中に、ちいさなしろいひかり。それが僕を覗き込んだ彼女の瞳だと理解するのに数瞬を要した。目覚めたばかりの頭はうまくうごいてくれなくて、返事がのどに引っ掛かる。ようやっとだしたのは、ああ、だかうう、だかわからない呻きだった。彼女は「早く起きないと、先に帰っちゃうよ」なんて苦笑して、僕の前の席に座っている。ぼんやりした頭で、その席は誰だか知らないクラスメイトの席じゃなかったかな、なんて考える。あぁ、それにしても眩しい。あたりは夕方で、よく日の差す窓際の席には西日が痛い。窓際、後ろから三番目。僕らの席以外に人は見当たらなかった。
瞬きをすると、そこは病室だった。床も壁も天井も真っ白で、扉には鍵が掛っている。彼女は部屋の真ん中のベッドに起き上がって、こちらにほほ笑んでいる。繋がれた点滴のチューブが、彼女をここにとどめ置くための鎖に見えた。つめ、と僕はかすれた声で言った。
きれいだった彼女の長い爪は、深爪なくらいに切られていた。彼女が微笑む。
「つめ?ああ、短いでしょう?嫌だったんだけど、ひっかいちゃうから。腕とか、顔とか、喉とか。先生がカバーつけましょうっていうんだけど、じゃあ舌噛み切っちゃうくらいしかできないですね、って言ったら短くするだけにしてくれたの。だからね、あんまり痛くなくて。噛みついたりしたんだけど、こんなことしてたら歯を全部抜かなきゃいけないよって。え?ああ、お母さんが。先生に言われたんだって。お母さん、泣いてたなぁ。で、歯がないのは困るからあまりしないようにしたの。入れ歯になんてなったらかっこ悪いもの。だから我慢してるの。」
すごいでしょう、というようににこにこと笑う。まるで何か楽しいことを話しているみたいだ。細い腕に、首に、巻かれた包帯はあまりにも痛々しいのに。掻き毟った顔に、短くなった爪に、血がにじんでいるのに。
「それでね、お医者さんがお薬の量増やしましょうって。そしたら、ずっとずっと楽になるからって。でもね、忘れちゃうんだって。いろんなこと。だから嫌ですって。私、言ったの。」
猫のような彼女の瞳が細められる。彼女の瞳に、もう星は散っていない。
「嫌よ、忘れるなんて。私は覚えていなくちゃいけないの。私だけは覚えてなくちゃ。どうして忘れなくちゃいけないの?忘れてどうして生きていけるの?忘れちゃいけないよね、だって忘れたらまた繰り返すもの。忘れたらだめなの。この世界がどれだけ残酷で。どんなに醜いのか。わたしが」
私がどんなに汚れているのか。
瞬く。電話だ。高校に入った時に買ってもらった、今では少し古いモデルの、それでも自分はたいそう気に入っている黒い携帯電話。
ディスプレイにCallと白い文字が浮かび上がる。
出なければ。それは大好きな彼女からの着信だった。ボタンを操作して、携帯を耳に当てて「どうした?」「話したかったから」なんて、笑って。それから。
指が震える。出てはいけない。きっと不幸になる。でも、出なければもっとひどいことになる。きっと。
ボタンを、押した。
「もしもし?どうかしたか?」
驚くほどすんなりと声は出た。まるで別人みたいに。言うべきセリフが決まっていたみたいに。そしてその声は、鮮やかなままに僕の鼓膜を震わせた。
「こてつくん!」
「こてつくん、こてつくんっ、たすけ、たすけて!助けて!変な人が、」
がしゃん、とひどい音がした。地面に落ちた携帯に彼女が指を伸ばすさまが脳裏をよぎった。
「お願い、だれか、こてつくん!」
「だめ、だめ!いや!」
嫌だ、嫌だとひび割れた声が繰り返す。ひどい音がする。殴られる音、悲鳴、下卑た嗤い声。走る僕に、低い声が場所を告げる。悲鳴。彼女が、叫んでいる。
「こないで!おねがい、おねがいよ」
こないで、こないでと彼女は繰り返す。
こないで、おねがい、おねがいだから、やめて、こてつくん、こてつくん、こてつくん。
繰り返すその声に涙が交じっていく。息が切れる。指を伸ばす。いけない、その先に行っては。見てはいけないのに。意思に反して腕が動く。
扉を―――あけた。
「み、ないで。」
血にまみれた肢体。可笑しな方向に曲がった細い脚。引きちぎられた制服。しろく汚れた顔、からだ。どうして、と唇が震えた。
「なんで、きたの。こないでって、いった、のに」
そこで彼女はしんでいた。
目の前が暗くなって、そして、病院にいた。
赤いランプが廊下を照らしている。その赤色が無性に恐ろしかった。濡れた服が肌に張り付いて不快だった。足音が聞こえる。叫ぶ声。左の頬に走った痛み。
「どうして!」
彼女の父親が叫んでいる。彼女の母親が泣いている。
どうして?どうして、どうして、僕は。
どうして彼女を家まで送らなかった?どうして寄り道なんてした?どうして今日に限って携帯を家に忘れていた?どうして。
どうして、たすけてやれなかった。
「ど、して、」
力が入らない。膝が落ちる。座り込んで、見開いた目にうつるのは手術中の文字だけで、どうして、僕は。
「ぁ、あ、ああああああ」
短い爪で床を掻く。血を吐くように叫ぶ。どうして。どうして彼女が。俺のせい、で。
「―――」
知っているはずなのに、彼女の名前が出てこない。
ひゅ、と気管が鳴った。ひとつ、瞬く。ここは病室だ。横になった彼女は目を閉じている。全てが真っ白なそこで、まるで彼女は死んでいるようで。静かな病室に響く機械の音と、点滴が落ちる音だけが彼女の生を証明していた。
長い黒髪は首の横で二つに束ねられている。幼く見えるから、と照れてしなかった髪型が、彼女をまるで別人のように見せていた。
一歩。一歩あゆみ寄れば、手が届くのに。
彼女の顔が見えるこの位置で、僕は馬鹿みたいに立っていることしかできない。手を握ればいいのに。指を伸ばすことさえできなくて、もどかしさが募る。ごめん、ごめん、ごめん。
謝罪の言葉ばかりこぼれおちる。ごめん、ごめんな、俺が、
「俺がもっと―――もっとはやく、」
家に帰っていれば。見つけてやっていたら。そうしたら。
滲む視界で、彼女の瞼が震えた気がした。息をのむ。鼓動が早まる。彼女が目を、あける。宙をさまよった目は僕を見て、そして、
「こてつ、くん?」
彼女は静かに、僕の名前を呼んだ。
そして僕は駆け出していた。
瞼があがらない。夢だ。そう、夢だったのだ、すべて。そう思い込むことで自分に逃げ道を作ろうとしている。その滑稽さに自分を嗤った。
ようやっと開いた目に映ったのは、夜空でも彼女でもなく奇妙に見慣れた白い天井で。
なにをいまさら。全てほんとうのことだったじゃないか、と心の中で誰かが言う。
夢だ、夢であってくれと僕はまた目を閉じる。自分の部屋ではない、見慣れた病室から目をそむけるように。
意識が落ちていく。暗闇の中で、僕は確かに僕を見た。僕の幻が何の感情も浮かべないまま僕に言う。
「死んで殺して殺されて、夢に同情なんてしないさ。幻だ。夢の続きは楽しいか?なあ、俺」
目の前が黒から白に塗りかえられる。病室だ。見慣れた、真っ白で、扉には鍵がかかっている、俺の病室。
「どうして?何故?決まってる。どうもできなかったからだ。俺にどうすることもできなかった。どっちもだ。そして結局のところ俺は死んでいたいんだ、ずっと。罪を抱えて、暗闇の中で、ずっと。彼女が変わっているのが恐ろしいんだ。事実から目を背けていたい。なら死んでいるといいさ、永遠に。」
俺が俺を突き落とす。僕が僕に突き落とされる。夢に落ちていく。耳の奥「どうしてだろうな。さようなら、俺」と誰かが言った。
そして僕は彼女に会いに、長い、長い坂をくだる。彼女をそこからつれ戻すために、暗い、暗い坂をくだる。
その先でみたものを、僕は忘れることができないだろう。
「こてつくん」
ああ、彼女が呼ぶ声がする。
まるで、それは。
SIDE:K 狂った彼の証言 END