表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

おとぎ話を君に

作者:

「わたしに本を読んで。あなたの声、素敵だから」





 その美しい少女は、生まれた時から光を失っていた。

 綺麗だったり汚かったりする世界を見ることが出来ず、だからかいつも浮世離れして見えた。金の髪はお日様の色。白い肌は雲の色。彼女は空の御使いなんだ、と少年は思った。

 少年は貧民だ。賤しい生まれの賤しい育ちの子だ。天使なんかと話せるわけがない。だけど、彼女は彼の前に現れた。ぼろぼろの彼の家のすぐ近くに、白い犬を連れた少女は、困ったような笑顔をして立っていた。

 ここは、どこなのかしら?

 小麦入りの大袋を抱えた少年は、その日初めて、天使の声を聞いた。





ハロルドは困った。彼は、文字を読むことが出来なかったのだ。

「あなたに読んで欲しいの。ハローの声は、きれいだから…」

 彼女は目が見えない。初めて会った時から彼女は目を閉じていた。その表情が何とも神秘的で、ハロルドとしては彼女に惹かれざるを得なかったのだ。

「母様は難しい本は読んで下さるのだけど、絵本とか小さい子向けの本は読んでくれないのよ。点字は習っているのだけど、読みたい本の点字本がなくて」

 でも、お友だちがおとぎ話について話しているのを聞いたら、羨ましくなっちゃって。彼女はそう言って溜息をついた。ハロルドの心臓が跳ね上がる。少女は鞄から小さな絵本を取り出した。

「十歳にもなって読む物じゃないって思うかもしれないけれど…読んでくれるかしら? 私、このお話知らないのよ」

 題名は、『人魚姫』だった。

 ハロルドにその文字を読む事は出来ない。しかし、表紙に描かれた美しい半人半魚を見、そう推測した。ハロルドも人魚姫くらいは知っている。だが…。

「僕が読むの?」

 不安そうにハロルドは訊いた。ジュリアが驚いたように瞳を瞬く。

「そうよ! 聞いていなかったの?」

 ハロルドは居心地悪そうに身じろぎした。文字が読めないなど、絶対に言えない。それを知れば、ジュリアが落胆する事は目に見えているからだ。それに、彼の父親は単なる農民だった。文字が読めない事を認めれば、ジュリアとの大きな身分の差を認めたようなものだった。

「……もしかして、嫌?」

 ジュリアの表情が、急速に不安そうに翳る。

 その時のハロルドの反応の速さと言ったら、光の速さと良い勝負だった。

「そんなことない。喜んで読んであげるよ」

「本当? ありがとう! 嬉しいわ。絵本を読んで欲しいだなんて、侍女にも言えなかったの。本当にありがとう」

 彼女の心底嬉しそうな笑顔に、ハロルドも嬉しくなる。

 ふたりは数日前、ハロルドの家の近くの荒れ屋で出会った。避暑で田舎まで来ていた彼女は、道に迷ってしまったのだという。一目で彼女は身分の良いお嬢様だと知れて、だが彼女はハロルドのみすぼらしい恰好が視えなかった。ジュリアは大きな白い犬を連れていて、彼が彼女の眼代わりらしい。ジャンというその犬は、今は地面にのんびり寝そべっている。

 ハロルドはジュリアに恋をしていた。出会って数日。しかし、少年の淡い恋心を呼び起こすには充分な日数だった。彼は自分の身分を明かしていないが、彼女と対等な身分だと思われるように振舞っている。

 だがいざ本を開いて、ハロルドは固まってしまった。

 ……読めない。

 当たり前の事実だが、読むことが出来ない。わくわく顔のジュリアも、段々と不審そうな表情になっていく。

 焦ったハロルドは、ふと小さな頃の記憶を思い返した。母が子守歌代わりにと紡いでくれたお話。その語り口は、非常に滑らかで聞き心地が良かった。

「…昔々、海の底には美しい人魚の姫がいました。黒の髪と蒼の目を持つ、愛らしい姫君です。好奇心旺盛な末のお姫様は、家族からとても愛されていました」

 挿絵を見て、なんとか内容を思い出す。人魚姫はその物哀しいラストが印象的で、幼少時に何度も聞いた話だった。

「人魚姫って、どういう事? 人間が海に住めるの?」

 ジュリアの当然な質問に、ハロルドは少し首を捻る。

「うーん、多分。足が魚だから、泳げるみたい」

「足が魚…なかなかシュールね。それで?」

 お姫様が海底から空を見上げている挿絵。ハロルドは口を開いた。

「お姫様はいつも思っていました。外の世界を見てみたいと。しかしお姫様はまだ大人では無かったので、お父さんのお許しがもらえませんでした」

「どうして? 自由にしてはいけないの?」

「人魚って珍しいから、人間に見られたら捕まっちゃうんだよ」

「なるほど」

 ジュリアはすっかり夢中になっている。ハロルドは微笑んだ。

「十六…だっけ? の誕生日に、ついにお姫様は外出のお許しをもらいました。お姫様は初めて外を見、その美しさに感動しました。しかし、海を漂っている時に、大きな船が沈みかけているのを発見したのです」

「急展開だわ! そしてどうするの? 助けるの?」

「勿論助けるよ。お姫様は、綺麗な男の人が溺れているのを助ける。彼は王子様だったんだけど、人魚姫は自分が助けた事を言えず終いだったんだ。おまけに、王子様は別の女の人が助けたって勘違いする」

 まあ、とジュリアが口を手のひらで覆う。挿絵には、岩陰から王子と女性を見守る人魚姫の姿が描かれている。確か次は、と記憶を探った。

「人魚姫は悲しみにくれました。見かねた友達の巻貝さんが、人魚姫に魔女の話をします。魔女に頼めば、人魚姫は人間になれるかもしれないらしいのです」

「え。それじゃ、人間になっちゃうの?」

 しー、と唇の前に人差し指を立てた。今ネタばらしをしてしまったら面白くない。ジュリアがはっとして口を噤む。

「人魚姫は魔女に会いに行きました。何とか自分を人間にして欲しいと、必死に頼みます。人魚姫は王子様に恋をしてしまったのです。しかし、魔女は人間にしてやる代わりに人魚姫の声が欲しいと言いました。人魚姫は、とても美しい歌声を持っていたのです」

 厳しい交換条件を前にして立ち竦む人魚姫。だが彼女は、結局初めての恋心を選んだ。

「人魚姫は晴れて人間になりました。しかし、交換に手に入れた足は、歩く毎に酷く痛んだのです」

「詐欺だわ! 魔女は騙したのね!」

 憤然と拳を握る少女を見て、ハロルドはしまったと慌てた。

「いや、人魚姫は承知の上だったんだ。それでも、人間になる事を選んだんだよ」

「…ふうん。そう書いてあるの?」

「も、勿論」

 疑わしげな彼女の視線を避け、ハロルドは話を続ける。

「…早速、人魚姫は王子様に会いに行きました。ですが、王子様は彼女を覚えていません。しかし王子様は可愛らしい人魚姫を気に入り、傍に置く事にしました」

 自分が貴方の命の恩人だと、言いたくても言えない人魚姫。ジュリアが理不尽さに眉を逆立てる。

「もっと、こう! 手紙でも書けなかったのかしら。それかジェスチャーとか!」

「…人魚姫は人間の文字を読めなかったと思うよ。それに、書けなかった。だから、傍に居る事しか出来なかったんだ」

 一歩歩けば激痛が走る足。伝えられないもどかしさ。自分も声が無ければ、こうしてジュリアと話せないのだろうかと一瞬思う。

 ページをめくると、王子様と別の女性が並んでいる絵があった。そういえばこのお話は哀しいお話だった、と思い出す。

 ハロルドは困った。このまま話を続けてしまえば、きっとジュリアはがっかりする事になる。それは嫌だ。あくまで、ハロルドはジュリアを笑顔にしたかった。

 そして、自分が人魚姫のタイムリミットを話し忘れている事に気が付く。人魚姫は、愛する王子と結婚できなければ、泡になってしまう。しかし、その前提が無ければ…。本当は哀しくて仕方がないこの話を、幸せで一杯の話に出来るかもしれない。

「周囲の人間は身分の知れない人魚姫を訝しがりましたが、王子は気にしませんでした。王子は何処か惹かれるものを人魚姫に感じたのです」

 原作にはないフレーズを、気付かれないように捻じ込む。運命の人ってやつね、とジュリアは嬉しそうに微笑んだ。

「人魚姫は声を出せませんでしたが、その代わりに違うもので気持ちを伝えようとしました。海辺で貝殻を拾って王子の部屋に飾ったり、顔馴染みの魚達に協力してもらい、真珠を加工してプレゼントしたりしました。王子を散歩に誘い、美しい海の情景を見せたりしました」

 その様を想像したのか、ほうと溜息をつくジュリアを見る。優しく変わった話を、真剣に聞いている。やはり哀しいラストなどあげることは出来ないと、ハロルドは必死に続きを考えた。

「ある日のこと、王子に結婚の話が舞い込んできました。相手の女性を見てみると、なんと王子が溺れた時、彼を介抱した女の人でした。彼女が命の恩人だと信じている王子は、すぐに彼女と意気投合します。人魚姫はとても悲しみましたが、王子が幸せになるならと何もしませんでした」

「なんですって! 納得いかないわ、人魚姫が本当の恩人なのでしょう? 王子は誤解したままではいけないわ」

「まぁ聞いててよ」

 悪戯っぽく微笑み、だが内心は脳をフル回転で辻褄を合せようとする。物語を盛り上げるのはやはり悪役とどんでん返しだ。母が本を好いていたハロルドは、多分他の農夫の子より多くの物語を知っている。

「女性と王子の結婚話は着々と進んでいましたが、同時に不穏な話も人魚姫のもとに聞こえてきます。王子の暗殺を狙っている者がいるらしいという話です」

「まぁ。誰から聞いたの?」

「海に棲んでる物知りのクジラだよ。彼は何でも知ってるんだ」

「あら便利。海の中からでも分かるなんて、きっととても博識なんでしょうね」

 ははは、と苦い笑いを殺し、ハロルドは続ける。

「心配になった人魚姫は、気付かれないように王子を見守り続けます。人魚はとても軽いので、忍び足が得意でした。何日か経った日のこと、人魚姫は、女性がナイフを隠し持って王子の部屋に入るのに気付きます」

「彼女が暗殺者だったの?」

 ジュリアが本当に驚いたように声を上げる。それはそうだろう。ハロルドも自分の発想に驚いている。原作の女性よごめん、と心の中で謝りながら、努めて冷静に言葉を紡いだ。

「人魚姫も驚いて、その後をつけました。そこで、今まさに王子にナイフを突き立てようとする女性を発見します。人魚姫は身を挺して王子を庇い、飛び起きた王子に女性は取り押さえられました」

「……王子が殺されるかと思ったわ!」

 ハラハラと見守っていたジュリアは、胸に手を当てて大きく息を吐いた。

「それじゃ、もう安心ね?」

「うん、そうだね。女性は人魚姫に罪を着せるつもりだったらしいのだけど、その人魚姫に邪魔されたから女性も言い訳がきかない。実は王子の国の転覆を狙う家の娘だった女性は、家族ごと国外に追放されたよ」

 死刑にするかどうか悩んだが、結局血の流れない方を選んだ。ジュリアに血なまぐさい話は聞かせたくない。

「王子を助け、安堵のあまり人魚姫は大泣きしました。その涙が王子の頬に零れ落ち、王子は誰かに助けられた日のことを思い出します。あの日も、こんな風に誰かが涙を流していたと」

「やっと気付くのね! 良かった!」

「ああ。ようやく目の前の女性が誰かということに気付いた王子は、彼女を妻に迎えることにした。婚礼の前の日、人魚姫の見つめる鏡に、魔女の姿が浮かんだ」

 どうして、と首を傾げるジュリアに、最高のハッピーエンドを届けるべく、哀しいラストを塗り変える。

「魔女は人魚姫に言いました。『わたしはお前たちの愛を試していた。どんなことがあっても貫き通せる愛なのかと。お前たちは試練に打ち勝った。褒美をやろう』次の瞬間魔女の姿は消えましたが、人魚姫は声が出せるようになり、足の痛みが消えていることに気付きます。急いで人魚姫は王子に伝えに行き、王子も飛び上がって喜びました。そして二人は、王と王妃として、末永く暮らしました」

「素敵」

 ジュリアは微笑み、受け取った人魚姫の絵本を抱き締めた。頬は薔薇のように紅潮し、口元には柔らかい笑みが浮かんでいる。話して良かった、と心の底から安心する。

「素敵な話をありがとう、ハロー。楽しかったわ」

「ぼ、僕はただ読んだだけだよ」

「それでもよ。母様が読んでくれる難しい話なんかよりずっと面白かった。また、読んでくれる?」

 どき、と心臓が跳ねる。一瞬躊躇するが、彼女が悲しみを表情に乗せる前に、大きく頷く。

「うん。勿論」

「ありがとう。約束よ」

 そうしてハロルドは、天使に言葉を捧げることになった。





 ハロルドの母は、本当は裕福な家の娘だった。何不自由のない暮らしが約束されていたが、彼女はそれら全てを捨て、父と一緒になった。母はその選択になんの後悔もないと言っていたが、唯一物語だけは捨て切れず、その穴を埋めるように毎晩ハロルドに読み聞かせた。王女の話、勇者の話、罪人の話、冒険者の話。色々な話をハロルドは目を輝かせて聞き、母が病気で死んで、十二歳になった今も、大切に覚えているのである。





 ジュリアが持ってくる話はバッドエンドもあり、その度にハロルドを苦労させた。到底女の子向きとはいえない粗野な話も混じっていて、ハロルドは一生懸命物語を作り変えた。たまに知らない話も混じっていて、その時ばかりは神を呪いながら一からお話を作った。

「…そして少女は、マッチを買った人々の協力を得て、生き別れのお父さんに再会することが出来ました。お父さんは娘を抱き締め、たくさんのご馳走を振舞い、暖かいベッドを与えたのでした」

「良かった。一時はどうなるかと思ったわ」

 今ハロルドが語った話は、マッチ売りの少女。最後は少女が凍死してしまうこの話を、ハロルドは無理やり父親に再会して幸せになる話に変えたのだった。正直人魚姫の時より厳しかった。父親に再会するまでの過程に説得力を持たせなければならなかったのである。

「ハロルドがしてくれるお話は、皆幸せになるわね。ハロルドの声が綺麗だからかしら?」

 うーん、と誤魔化しの声をあげる。この前読み聞かせた幸福の王子も、赤い靴も、ハロルドは全てハッピーエンドに変えた。誰も死なず、誰も悲しまず、そうして笑顔になるジュリアを見たかったのである。

「ハロルドは、哀しい終わりのお話、知らない?」

「え、えっと、僕あんまりお話知らないんだ。だから…」

「そっか。残念。でも良いわ。ハロルドのお話で幸せになれるから」

 その時初めて、ハロルドは罪悪感を覚えた。ずっと彼女を騙していることに、今一度気付いたから。

「ハロルド。わたし、再来週父様のお家に帰るの。だから、お礼がしたいわ。本を読んで頂いたお礼」

「えっ」

 驚きのあまり、ハロルドは声を上げる。それを遠慮の声と勘違いしたジュリアは、人差し指を立てて振った。

「お礼がしたいのよ。遠慮しなくて良いわ、何が良い? 何でもするから」

 ね、と頬を赤らめて言われ、ハロルドは途方に暮れる。お礼など。彼は、ずっと偽りの話を彼女にしてきたのである。

「ぼ…僕も楽しかったし、お礼なんて良いよ。大したことじゃない…」

「まぁ、ハローったら謙虚ね。でもわたしがお礼をしたいのよ」

 困惑し続けるハロルドの様子を察したのか、ジュリアが軽く頬を膨らませて眉を上げる。

「分かったわ。じゃあ、わたしが勝手にお礼を用意する。変なものを持って来ても文句言わないでね? あ、でも、精一杯考えるから!」

 慌てて言い添える少女の姿を、ハロルドはほとんど恐怖に近い気持ちで見た。お礼とは、感謝されるべきことをした際にもらうものだ。誰かを騙して貰えるものではない。

 偽りの行為でお礼を貰って、果たして自分は笑えるのか?

「なに、ジャン? あらもうそんな時間なの? ハロー、ごめんね。そろそろ帰るわ。お礼は明後日持ってくるから!」

 そう言って彼女は白い犬と駆け出してしまう。ハロルドは止めかけた手を降ろし、項垂れた。

 心待ちにしていたジュリアと会う日が、急に怖くなった。





 だから、罰なのだと思う。彼女を騙し続けていたことへの、これは罰。





 約束の日になって、ハロルドはいつも通り大きな木の下で彼女を待った。本当は行かないことも考えたのだが、見えない目で自分を探し続けるジュリアを想像し、やっぱり行くことにした。

 そして現れたジュリアは、今までで見たことがないくらい暗い顔をしていた。

「どうしたの、ジュリア。元気がないけど…」

「…そんなことないわ。ハロルド。ねぇ、聞きたいのだけど、人魚姫の最後って、どうだったかしら」

 何をいきなり、と面食らう。記憶を辿りながら、自分の変えた話をもう一度話す。

「人間になれた人魚姫は、王子と結婚するんだ。忘れたの?」

「じゃあハロルド、幸福な王子はどう終わるのだったかしら?」

「ツバメは王子の銅像から宝石を剥いで終うのだけど、生まれ変わった王子と再会することが出来たんだ」

「マッチ売りの少女はどう?」

「父親と再会し、暖かい家を手に入れるんだ。ねぇどうしたのジュリア。マッチ売りなんて、一昨日したばかりなのに…」

「うそつき」

 その声は細く、だがハロルドの胸を大きく抉った。

「ジュ、ジュリア…」

「うそつき。ねぇ、わたしお友だちに聞いたの。人魚姫って素敵な話よねって。でも言われたわ。最後人魚姫は泡になってしまうんだって。王子と結婚なんて出来ないんだって。幸福な王子もそう。ツバメは王子の体から宝石を剥ぎ続け、最後は死んでしまうのよ。マッチ売りの少女は、幻覚を見ながら凍死するのよ」

 天使に偽りの言葉を与え続けた愚かな少年は、遂に断罪の時を迎える。ジュリアは真っ直ぐ顔を上げ、見たこともない表情でハロルドを見つめた。見えない目が、恐ろしい怒りの炎を燃やし、ハロルドを詰り続けているように感じた。

「ハロルド、ねぇ、あの絵本に、本当はなんて書いてたの?」

「……」

「ねぇ。どうしてなにも言ってくれないの?」

「……ごめん」

 かろうじて絞り出した言葉は、謝罪の言葉だった。微かに傷付いた表情のジュリアが震える声で問う。

「…本当に? 本当に、わたしに嘘をついていたの? どうして?」

 ジュリアの目から涙が零れる。美しい水晶色の涙が頬を伝い、地面へ落ちた。震える唇は哀しみの色を乗せ、ハロルドを詰る。

「わたし、ずっと嬉しかったのに。わたしの頼みを笑わないで聞いてくれて、たくさんお話をしてくれて。なのに」

 遂にジュリアは両手で顔を覆い、大声で泣き出す。慌てて慰めようと手を伸ばしかけるが、肩を包み込んでやることは出来なかった。所詮自分は賤しい子なのだ。高貴な彼女に触れることなど叶わない。

「ごめん、ね」

 再度謝った少年をきっと見上げ、ジャンの首元を一度強く叩き、帰宅の意を伝える。不思議そうに首を傾げていたジャンは一声鳴くと、ジュリアを案内して走り出した。

 偽りのハッピーエンドを作り続けた自分は、きっと代わりに酷い結末を得ることになったのだろう。自業自得なのだ。





 深く沈み込んだ様子のハロルドを、兄弟たちは格好の餌食とからかった。だがハロルドがなんの反応もしないと分かると、つまらなそうに去って行く。ハロルドは何も感じなかった。いつもなら辛い農作業も、街への買い出しで感じる劣等感も、何も感じなかった。全て報いだと感じた。心優しい少女を悲しませた、罰だと思った。





 二日経ち、三日経ち、一週間経っても、ジュリアはハロルドの元を訪れなかった。ハロルドは未練がましく彼女を待ってみたが、金糸を梳いたような金髪を揺らす少女の姿は、二度と現れなかった。


 そうしてハロルドが諦めかけた日のこと。ジュリアのいった帰省の日の前日に、一匹の白い犬がハロルドの元にやってきた。

「おまえ、ジャン? 何でこんな所に…」

 白い犬はしきりに何かを訴えている。初めは何を言っているのか分からなかったが、ふと犬がジュリアのリボンを咥えていることに気付き、顔を青褪めさせた。

「ジュリアに何かあったの? 分かった、すぐ行くから」

 後ろで何事か叫ぶ家族を無視し、ハロルドは走り出した。





 ジャンに案内された場所は、やや奥まった場所にある小さな森だった。何故こんな所に、と訝るが、ジャンが一層大きく吠えたてる所まで行くと、疑問も何もかもが吹っ飛ぶ。

「ジュリア!」

 小さな崖のようになった斜面の下に、小さく縮こまるジュリアの姿があった。

 慌てて斜面を滑り降り、ジュリアを抱き起こす。はっと顔を上げたジュリアの顔は、大粒の涙で濡れていた。

「ハ、ハロルド? どうしてここに…」

「ジャンが呼びに来て。君こそどうしたの、こんな何もない所に。怪我はない、何処も打ってない?」

 さっと少女の体を見るが、特に怪我をした箇所は見当たらなかった。安堵のためか肩を震わすジュリアを抱き締めてやり、背中を優しく叩く。

「ごっ、ごめんなさい…こんな所まで来させてしまって…」

「良いよ、別に。それより無事で良かった」

「わ、わたし…わたし、ハロルドへのお礼を探そうと思って。街の人の噂で、この森に綺麗な花があるって聞いて。わたし、な、何あげたら良いのか分からなかったから、花ならって思って…だから…だから…」

 後は言葉にならない。ハロルドは呆然として返した。

「お礼って…なんで。僕は君に、嘘をついたのに」

「母様が言ってらしたの。本当に酷い人は、謝ったりしないって…。だからわたし考えたのよ。ハロルドは、わたしのために嘘をついたんじゃないかって」

 思いもよらない言葉に胸を打たれる。ジュリアは震えながら、それでも必死に言葉を紡いだ。

「ハロルドは…ハローは、どうして、お話を変えたの?」

 ハロルドは無言で俯く。しばらくじっと声を殺して、やがて、諦めたように首を振った。

「…君の、笑顔が見たかったんだ。人魚姫も…他の話も、哀しい終わりが多かったから。君が悲しむ姿を見たくなかったんだ。…本当にごめん。それに僕は、本当は文字が読めない。文字なんて習えない、賤しい身分の子なんだ。だから全部作り話なんだ…」

 懺悔するように、赦しを請うように、ハロルドは本当のことを言う。

 ハロルドを見上げるジュリアの顔が、一瞬呆ける。次いでじわじわと泣き笑いの顔になり、ハロルドの胸に顔を押し当てた。

「ああ。やっぱりハローは、優しい人だった」

 違うんだ、ジュリア。ただ僕は、君の美しい笑顔が見たいだけだったんだ。そう言おうと思うが、代わりに出たのは嗚咽で、小さな少女の体を抱き締めて一緒に震える。

「ごめんなさい、ハロルド。疑ってしまって。酷いことを言ってしまって。ごめんなさい。…花が見つからなかったの。その上足を滑らせてしまって」

「もういいよ。もういいから」

 やっとのことでそれだけ言い、ただただ彼女を抱き締める。そうすることで、言葉では伝わらない何かを伝えるように。

 やがて日が落ち始めたことに気付いたハロルドは、ジャンを呼んだ。傍で控えていた白犬はしっぽを振り、ご主人の背中に擦り寄る。

「もう時間なの。…わたしお礼を見つけてないわ」

「お礼なんていらないよ。君に話している時、本当に楽しかったんだ。それがお礼だよ」

 じっとハロルドを見つめていた少女は、やがてゆっくりと微笑んだ。

「じゃあ、来年の夏…今度は、わたしがあなたに物語を読むわ」

「えっ」

 いつかと同じように素っ頓狂な声を上げる少年を、ジュリアはくすくす笑って見上げる。

「これでも暗記には自信があってよ。…あなたが知らないようなお話を、あなたにしてあげる」

「待って。話を聞いてなかったの。僕は…本当は、農夫の子なんだ。文字も読めない」

「だからわたしが読むのよ。それに、あなたが農家の子ってこと、とっくの前に知ってたわ」

 びっくりして目を丸くする。

「なんで?」

「あのね、道に迷ったって言ったの、本当は嘘なの。侍従に聞いて、あそこがどこだか知っていたの…農家の、わたしが知らないような世界に生きる子と、お話したかっただけなの…」

 ジュリアは顔を真っ赤にして告白する。そうだったのか、と今更ながらに驚く。

「はじめは興味半分だったの…。でもあなたと会えて、あなたと話せることがどんなに幸せかって気付いたのよ。だからハロルド。身分が違うからって、わたしから逃げないで…」

 怖かった。彼女の提案に乗ってしまうことが。賤しい自分が天使に近付いてしまっていいのかと、自分に問い掛けた。

 だがやっぱり、彼女を悲しませる選択をすることが出来なかった。徹頭徹尾、彼は天使に恋をしていたのだ。

「うん…。僕も、ジュリアともっと話したいよ」

「約束よ。本当に、約束よ! わたしはまた来年来るから。必ず来るから!」

 花が咲くように笑う彼女の手を、戸惑いながらも握り返す。そうして彼女は、優しく優しく、少年に言葉を囁くのだった。

「好きよ、ハロルド。わたしに物語を教えてくれたひと」






 汚れた服は大丈夫かと聞くと、ジャンと追いかけっこしたって言うわ、と彼女は答えた。それで説得出来るなら、彼女は見た目によらずお転婆で通っているということだろう。大きく手を振りながら去っていく彼女に手を振り返しながら、ハロルドは頬が緩むのを抑えられなかった。

 これからどうなるのか分からない。身分の差は如何ともし難いし、彼らはまだ子供なのだ。まだまだ先の分からない道を行く冒険者なのだ。

 ただひとつ、これだけは言えるだろう。

 あの美しい少女は、また世界が太陽に焦がされる時、たくさんの言葉を携えてやって来る。そうして語るのだ。多くの物語を。

 その時をハロルドは心待ちにする。バッドエンドをハッピーエンドに塗り替え続けた少年は、幸せな続きを待ち続ける。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
[一言] すごく素敵な話でしたー。 胸きゅんきゅん!この後の2人どうなるのかなー。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ