あなたへと降る雪<小説バージョン>
白く閉ざされた雪の世界で生きるあなた。
石造りの小さな家の暖炉には火を絶やさないように。
赤々と燃える火を見ながら私はいつも考えている。
何故、私は炎に生まれなかったの?
せめてあなたの役に立てたらよかったのに。
何故、私は……
ぱちぱちと音を立てながら崩れていく薪を見つめながら幾度目かのため息と共に、私は立ち上がった。立ち上がるといってもそれまでどこかに腰掛けていたわけじゃない。中空にふわりと浮いたまま座っている気分になっていただけだ。
視線を窓の外へ向ける。分厚いガラスが二重に埋め込まれた窓の外で、彼は雪かきをしている。彼はこの家の主、名前をスヴェンという。うずたかく積みあがった雪はどこまでも続き、雪かきなんてしたってしなくたって一緒だと私はいつも思っているのだけれど、彼は日課として毎日欠かさず家の周りの雪をどける。時々物資を届けてくれる配達員が彼の家を見失わないように、玄関を見つけられるようにそうするのだ。
私は再び視線を家の中に向ける。彼はこの雪に埋もれた小さな家にひとりで暮らしている。……私? 私は人数のうちに入らない。だって精霊なのだから。
壁に打ち付けられた釘に引っかかる様々な道具達は彼が狩りに出かけるときに使うものだ。太さの違うロープ、鍵のついた棒、大小のナイフ、氷に滑らないよう靴にまき付ける棘のついた鎖……次々に視線を遣って、またため息をつく。道具でさえ彼の役に立っているというのに、私だけが役に立たない。
彼の為に存在しているというのに。
ぎいっと音がして、彼が雪を叩きながら小屋の中に戻ってきた。今日の作業は終わったようだ。分厚いコートを脱ぎ、同じく分厚い毛皮の入ったズボンを脱ぎ、重そうなブーツを脱いだ彼は、身軽になった体で部屋の中を移動する。
キッチンの方で何かしていたと思えば戻ってきて、暖炉にかかった薬缶からカップにお湯を注ぎ、それを持ったままソファに腰を下ろした。彼はいつも真っ黒なコーヒーを飲む。以前彼の友人が遊びに来たときに、『こんな苦いの砂糖もミルクも入れずに飲むのか』と驚いていたからきっと苦いものなのだろうけど、彼は眉ひとつ動かさず、黒い液体をゆっくりと飲んでいく。外の寒さで赤くなった頬も耳も、暖炉から上がる火の熱とコーヒーの温かさがじんわりと溶かしていくようで、彼の表情が次第に和らいでいく。
私はまた恨めしげな視線を暖炉に送った。そこにいた小さな火の精霊がびくりと身を震わせてこちらを見たけれども気にしない。あなたはとにかくそこにいればいいのだ、彼が凍えたりしないように。
「……さて、今日は何を作ろうか。じゃがいもの備蓄はたくさんあったな。ミルクもあったかな……」
コーヒーを飲み干した彼は立ち上がってまたキッチンに向かった。多分ミルクがあるかどうかを確かめに行ったのだ。私に聞いてくれれば見に行かなくても分かるのに。二三日前にもらったミルクは、半分まだ残っていると私は知っている。
「お、あった。……うん、まだ大丈夫だな」
この寒さだもの、小屋の端っこの保存庫に入れておけば腐ることはない。彼は今晩の献立をクリームシチューに決めたようだ。今朝仕留めたウサギのお肉もあるし、いいメニューだ。
彼は日の高いうちから夕食の支度を始めた。雪かきが終わってしまえばこの時期、他にすることは特にない。狩りに出かけるにしても雪が深過ぎるし動物だってなかなか出歩いていない。夕方には暗くなってしまうから、早めに夕食を取り、早めに寝てしまう。灯りを灯すための油の節約にもなるし彼は冬になるとすごく早寝早起きになる。
じゃがいもとにんじん、玉ねぎを切り、ウサギの肉を小さく切った彼は、それらと鍋を両手に暖炉の前に戻った。手袋をはめ、薬缶を下ろし、代わりに鍋を火にかける。キッチンにコンロもあるが薪を新たに燃やして料理することもない。煮込み料理のときは特に、彼はこうやって料理をする。
そうこうしている間に全ての材料が鍋に入り、コトコトと煮えだした。彼は調味料を加え、味を確かめる。
「……うん、いい感じだな。後は待つだけ」
鍋に蓋をして彼は立ち上がった。この後彼が何をするのか私は知っている。日記を書くのだ。
彼は一度キッチンへ戻って手を洗ってから、テーブルについた。そしてテーブルの板の下に付けられた小さな引き出しの中から日記帳を取り出す。
暖炉の火が爆ぜる音と、彼がページをめくったり、ペンを走らせたりする音だけが響く。私はこの時間が一番好きだ。なぜかって彼が一番優しい顔をするから。私には字が読めないから、彼が日記帳に何を書いているのかは分からない。けれども毎日書き付けるその内容はきっと、日々の楽しいことに違いないのだ。だって彼はいつも、日記帳を開いているときが一番楽しそうだから。
コンコン
温かさに満ちた小屋に不意に、来客を告げるノックの音が響いた。珍しい、こんな時間に誰かが来るなんて。彼の友人もつい先日来たばかりで早々来ないし、物資の配達員も、郵便やも普段午前中にやって来るからだ。彼も首を傾げた後で立ち上がりドアの前に立った。
不審な人物ではないかと用心して少し様子を見ているようだ。すぐには扉を開けない。以前山賊が来たこともあるし、彼も強い狩人とはいえ油断はしない。
「……すまない、道に迷ったのだが誰かいるなら入れてはくれないか? 休む場所もなくて難儀している。旅のものだ」
分厚い木の扉の向こうから小さく聞こえてきたのは、女の、しかも子供の声だった。彼は驚いた顔をして慌てて鍵を外して扉を開けた。
青く薄白んだ空を背景に立っていたのは、目深にフードを被ったやはり背の低い少女……しかもたった一人。彼も目を丸くしたまま辺りを見回して、深い雪の上に彼女の小さな足跡しかないことを確認して瞬きをした。
彼がドアをふさぐように立ち尽くしているのを見て少女は笑った。身長差のある彼が少女を覗き込むように屈むと、彼女は笑いながら彼を見上げた。……紫の、鮮烈な輝きを放つ瞳で。
「……いや、すまない。大体皆同じ反応をするので、なんだか面白くなってしまって。私は一人なんだ、残念ながら」
背が低く小さな女の子の声をしているのに、すごく大人のような物言いだった。彼や彼の友人と似たような、そう、まるで男性のようなぶっきらぼうな口調。雪国を旅するのに相応しい、けれどもどこか高級そうな分厚いコート、手袋、ブーツという出で立ち。フードを被ったままなので、どんな顔なのかはいまだはっきり分からない。
「あ、ああ。そうか。……どうぞ、狭いけれども」
彼も少女のちぐはぐさに戸惑ったのか、一瞬間が開いたけれどもそう言って、彼女を家の中へ促した。私は彼の後ろからその様子を見ていたのだけれど、ぼんやりとしていた私に突然鋭い気配が飛んできてびっくりした。
何が起きたのかと驚きながら気配を探ると、旅装の小さな少女の紫の瞳が、私に向かって視線を送っていた。偶々壁を見ただけだろうと後ろを振り返ったのだけれど、そこには何もなかった。ただ石組みの無骨な壁があるだけだった。恐る恐る視線を戻したら、少女はにこっと笑ってすぐに視線を逸らした。……見えているというのだろうか、私のことが。
「コートやブーツは脱いで暖炉の前に干すといい。お腹は空いているのか? シチューがもうすぐできるが」
「ああ、ありがとう。助かる。寒くて凍え死にそうだったんだ、シチューは大好きだ」
言いながらばさりと脱いだフードの下から、見事な銀の髪が現れた。それ自体が光を放つような滑らかな銀糸。もっとも銀色や金色の髪の人間はこの国には多いし見慣れた色ではあるが、少女の持つ髪はよく手入れされた、貴族のような髪に見える。コートを脱ぎズボンを脱いだ女の子は、先ほどよりも更に小さく見えた。どう見ても子供だと思う。子供が一人ぼっちでこんな雪国を旅するものだろうか。暖炉の前の紐にコートを引っ掛けている少女から死角になる位置まで飛んでいって、私は部屋の隅っこから様子を見守った。
彼と少女は暖炉の前のテーブルに向かい合わせに腰掛けた。彼がお茶を飲むよう少女に促しながら口を開く。
「……失礼かもしれないが何歳だ? 何故ひとりでこんなところへ?」
「ああ、もっともな疑問だな。私はアニー。十六だ。友人を探して旅をしているんだが、どうも道を間違えたようで、進むほどに雪が深くなってしまって……」
「じゅうろく……そんなに小さいのに何故ひとりなんだ? 親が心配するだろうに」
「親は……ふふ、そうだな。心配していたが送り出してくれたぞ。私が言い出したら聞かないことはよく分かっているようでな。……ところであなたのことはなんて呼んだらいいだろうか、親切な方」
「ああ、すまない。紹介が遅れたな。おれはスヴェン。狩人で、この小屋にひとりで住んでいる。……しかし驚いた。こんな雪深い場所に女の子がひとりで迷い込んでくるなんて……」
「迷惑はかけない。少し休ませてくれたら私は行くから、スヴェン。しかしいいな、この暖炉は。暖炉を担いで歩けたら温かいのにな」
「……慌てずに休んでいったらいいよ、アニー。どうせ訪ねてくる人もいなければすることもない。好きなだけいたらいいさ、遠慮は要らない。……さぁ、シチューの具合はどうかな」
……私に言わせればアニーが十六歳だなんて嘘だ。十六の女の子はこんなに落ち着いてはいない。スヴェンの友達の何とかって人の娘が十四になったって言ってたけど、あの子の興味はドレスとお化粧にしかなかった。雪のない短い夏にこの家まで父親に連れてこられて、キャーキャー騒ぎながらそれは機嫌悪そうにしていたのを覚えている。あの子が十六になったって絶対こんなに大人っぽくはならないと思う。
部屋の隅っこでじっとアニーの様子を見ていたら、そのアニーに見つめられている暖炉の中で、炎の精霊が居心地悪そうに身じろぎするのが視界に入った。あの子もこの家に居ついて結構経つけど、こんな不思議なお客に会ったことはないと思う。もっとも、炎のあの精霊は小さすぎて私と会話することもできないからとても退屈なのだけれど。
暖炉の前でシチューの具合を確認していた彼が立ち上がった。振り返ってアニーを見て笑う。
「いい出来になってる。今皿を持ってくるから待っててくれ。……ああ、その前に手を洗うか? こっちにきてくれ、お湯がでるから」
「お湯が?」
彼の言った言葉を不思議そうに繰り返したアニーは、首を傾げながら立ち上がって彼の後を追った。キッチンで蛇口をひねった彼は、自慢げに言った。
「こんな雪の中でおかしいと思うだろう? 別に薪をくべて沸かしているわけではないんだ。ただこの家を建てて井戸を掘ったときから、不思議と温かい水が出る。まぁ風呂に入れるほどは熱くないんだけれど、普段の生活でこのくらい温かければすごく役に立つんだ。何しろ寒いから、できるだけ冷たいものには触りたくないし」
「ああ、それはそうだろうな。……ああ、いいな。本当に温かい。素敵な水だ」
アニーが蛇口から出た水で両手を擦り合わせて洗っているのを、スヴェンは誇らしげに見ている。私は胸が熱くなった。彼がそんな風に水のことを自慢にしてくれるなんて。その水は、私が……
「さて、夕飯にしよう。……今更だが、ウサギの肉は大丈夫か?」
「はは、大丈夫だ」
彼とアニーは再びテーブルについて食事を始めた。私はさっきまでの感動もどこかに吹き飛んでしまって二人から目を逸らした。その光景を見たくはなかった。
彼の友人が訪ねて来ても彼はやっぱり同じようにもてなして食事をする。アニーが悪いわけではない。それは分かっているのだけれど、何か嫌な気持ちが抑えられない。彼は、スヴェンは、私の主人なのだ。他の誰でもない、私だけの人。
その彼が誰かと楽しそうに食事をする姿が、しかもそれが知り合って間もない女の子だということが気に入らない。私だって一緒にご飯を食べたい。話をしたい。彼に見てもらいたい。……けれどもできない、私は人間ではないから。彼には見えない、精霊なのだから。
ぼんやりと窓の外を眺めていたら、風が強くなって吹雪いてきた。積もった雪が巻き上げられて一面真っ白な世界。もうすぐ日が落ちて、白と黒に分かたれた地上と空がそれぞれ、静かに時の流れを待つだろう。
暖炉の炎に照らされた楽しい食事は続いている。私は思う。アニーは今日ここに泊まるのだろう。優しいスヴェンが勧めるから。アニーもこんな天候では出て行けずにそうするだろう。そして私は……
いっそ吹雪の中で舞でも舞って、そのまま凍り付いてしまったらいい。
彼には私の姿は見えない。ほとんどの人間がそうであるように、彼には見る力がないから。
この世界で目覚めて、子供の頃の彼と出会って、『ああ彼が私の運命だ』と分かってから、何十年が過ぎただろう。私はずっと彼の影で、彼の身を守る為に少しずつ手助けをしてきた。それが私の生まれてきた意味だから。彼と共に過ごし、彼を守ることが私の存在する意味だから。たとえ彼には見えず、認識すらされなくとも、彼がその生を全うするまで、一緒にいるのが私の役目なのだ。
なのに私は。
精霊としての分別も忘れ、この心に渦巻くのは“嫉妬”。
だったら消えてしまった方がいい。彼のためにならない。彼を守ることができなくなってしまう。
せめて炎に生まれたかった。毎日暖炉で彼を温めてあげられたのに。水の属性を持った私にできたのは、井戸を引くときに深い深い地面の中からできるだけ温かい水を引っ張ってくることぐらいだった。そして彼が口にする水が、ミルクが、果汁が、清らかなものであるよう保つことや、彼の頭上に降る雪を直前で溶かして消し去ることくらい。
できることが少なすぎる。私には。せめて眷属である雪を止めることができたら、彼の負担が減るだろうと思うのに、雪は止まることを知らずに降り続ける。小さな水の精霊の言うことなど、空の上で集まるたくさんの精霊には聞くほどのことでもない戯言だ。一度風にお願いして雲の上までのぼったけれど、寒すぎて私が氷になるところだった。
ああどうして、どうして私はこんなに役に立たないの? 彼のためになりたいのに、私は何て、ダメな
「……そんなに自分を卑下することもないだろうに」
ぽつりと呟いて私の思考を遮ったのはアニーだった。小さな小さな呟きにスヴェンが聞き返した。
「え、何? 何か言った?」
「いいや、何でも」
私はそのやり取りをじっと見つめていた。アニーは笑いながら首を振って、スヴェンはまた、狩りの話を始めた。彼が仕留めた美しいトナカイの話だ。彼はその話をするのが好きで、初対面の人には必ずと言っていいほど同じ話をする。アニーは面白そうにその話を聞きながら、すっと何食わぬ顔をして私を見た。
今度こそ、確信を持っていえる。彼女は、私を見たのだ。間違いなく、この私を。精霊で、人間には見えないはずの私を。
……精霊使い、と言われる人間だろうか。以前風の精霊に噂を聞いた。世界には精霊と意思疎通のできる人間がいると。その中でも精霊を使役する人間を精霊使いと呼ぶのだけれど、でもアニーには精霊の気配がない。もし彼女が精霊使いならば、精霊の一体や二体連れているだろう。
私は訳の分からなさに首をひねって考えた。ただ見えるだけの人間だろうか。ならばいっそ、いっそ彼女に連れ出してもらえないだろうか。……ここから、彼の元から。
役に立たない守護精霊などいたって仕方がないのだ。幸いこの家の暖炉には小さくても炎の精霊が居ついているのだし、彼は一人でやっていける。私など、こんな汚い感情を持った精霊など、きっと邪魔なだけだ……
「だからそんなに自分を卑下するなと言っているのに」
アニーの声が近くに響いて思わず後ずさった。部屋の隅っこ、中空に浮いた私の下から、小さなアニーが見上げるような格好で私を見ていたのだ。
いつの間にか二人の食事は済んでいたようで、スヴェンはキッチンで後片付けをしているらしくここにはいなかった。
「それに私は連れて行かないぞ、人様の守護精霊など。引き剥がそうとして剥がれるものでもないしな、何しろ“運命”なのだから」
アニーは顎に手を当てた思案顔で、ひとりうんうんと頷きながら話をしている。アニーの言った内容を掴みきれずにぽかんとして聞いているとまた、鮮やかな紫の瞳をこちらに向けてきた。
「……お前、名は? いや、あったら実体化できているか、すでに人型を取れているのだしな」
聞いておきながらこちらの答えも待たずに再び、彼女は考えに沈んだ。ぶつぶつ言いながら何かを思案している様子で、しばらくするとにっこり笑顔を私に向けた。
「一宿、ではないな、一飯の恩義だ、水の精霊よ。彼も純粋でいい人のようだし、お前が見えるようになったところで支障あるまい。ま、見ていろ」
一体何をするつもりなのだろうか。銀の髪をなびかせてアニーは歩いていく。彼女が言っていた言葉の意味を私は取り違えているのだろうか。実体化とか、人型とか、見えるように、とか。
そうやって考えているうちに、アニーはスヴェンを連れて暖炉の前に戻ってきた。スヴェンは何か困った顔をしている。
「アニー、無茶だ、こんな吹雪の中を! もうすぐ暗くなるし泊まっていけばいい、狭いけどベッドならあるから!」
「いや大丈夫だ。本来遭難するはずもないのだから、私は。ただちょっと温かそうな灯りが見えたので休ませてもらっただけで、でもすごく助かった。ありがとう」
アニーは出て行くつもりらしい。暖炉前に干してあった服を手に取り、てきぱきと身に着けている。スヴェンはそれを止めることもできずにおろおろしている。
「アニー! 遠慮することはない、危険だから今夜は家に……!」
「スヴェン」
アニーが急に短く発した自分の名前に、彼は驚いたように目を瞠って黙った。
「な……何?」
「普段過ごしていて、ちょっと気づくことはないか? いいこと、と言うか。助かったこと、と言うか。水が温かいこともそうだが、他に……そうだな、自分の頭の上には何故か雪が積もらない、とかそういう」
「え、な、何で知って……!」
彼はアニーは突然始めた話に最初はついていけない様子だったが、アニーが知るはずのないことを口にしたのを聞いて声を出した。しかしアニーは彼の驚きを意に介さず、話を進めようとする。
「他にはないか?」
「……えと、他に……うーん、夏の間狩りに行って喉が渇いたなって思うとすぐに泉が見つかったり。子供の頃に湖でおぼれたときも不思議と助かったけど……そういうこと? あと家の周りだけ他より降る雪が少ないとか、すぐ溶けるとか……」
彼が言ったことは、全て私のしたことだ。水の精霊だからどこに水源があるのか分かるし彼をそれとなく誘導すればいい。まだ彼が小さかった時に湖で溺れたのには驚いたけど、すぐに岸に打ち上げて助けられた。家の周りだけ降る雪が少ないのは私も知らなかったけれど……もしかして空の上の眷属たちが気を利かせてくれているのだろうか。
「ふうん、いろいろやってるんだな、大したものだ。……で、スヴェン。それの原因に会いたくはないか? 原因というかそれをやっているモノ、というか」
アニーは感心したように唸ったけれど、私にはアニーが何をしようとしているのか分からない。まさかあなたの守護精霊が全てやっているんですと話すつもりなのだろうか。でもそんなことをスヴェンが信じるとでも? ハラハラしながら成り行きを見守っていたら、その言葉はスヴェンの口から零れた。
「……精霊、か?」
「おや驚いたな、その名を知っているのか? 存在も?」
私も驚いた。驚いて目が飛び出そうだった。元々私には飛び出る目もないのだけれど、人間の表現を借りるならばそんな感じだ。
「昔から土地に言い伝えがある。精霊が人間を助けてくれる。人間は常に感謝して生きなければならないって。だから見えたことはないけれど、いるものだとは思って……いる」
「ふふふ、そんな風に思われていたとは光栄だな、水の。……スヴェン、おいしいシチューの礼だ。精霊を見る方法を教えよう」
スヴェンがそんなことを考えていたなんて知らなかった。感謝してくれていると。お礼なんかなくたって、私は彼を助けるし彼の為に存在し続けるのに、彼が、精霊の存在を信じていたなんて。
でも、待って、アニー。精霊を見る方法って何? そんな方法があるの?
「うん、まぁ普段から使える方法ではない。ただ条件が整っているから、お前とスヴェンの間なら成り立つ方法さ」
私の疑問にアニーは答え、目の前で立ち尽くすスヴェンを見上げた。彼は不思議なものを見る目つきでアニーを見つめていた。けれどもその視線には恐怖や蔑みのような感情は篭っていなかった。ただ、驚きと期待が詰まっていた。
アニーは紫の瞳でその視線を受け、また笑った。なんだか嬉しそうだった。本当に不思議な女の子。話している間にアニーの旅装はすっかり整って、もう後は出て行くだけ、という状態になっていた。
「……教えて、くれ」
スヴェンがごくりとつばを飲みこんで緊張気味に言った。私はその言葉に本当に驚いて耳を疑った。スヴェン、私に、会いたいと思ってくれているの?
アニーは口角を上げたまま楽しそうに言った。
「簡単なこと。名前をつけるんだ、精霊に。すぐそこにいるから、あなたが名前を付けてあげれば彼女が見えるようになる」
「……女性、なのか。えっと……なら」
名前をつける? そんなコトで? 私はすっかり緊張しながらスヴェンを見つめた。彼が、私に、名前を……。
スヴェンは部屋中をぐるりと見回した後、窓の外を見てふっと笑った。そして目を閉じ深呼吸をした後で、厳かな様子で呟いた。その声が私にはっきりと届いて、形になる。
「……ヴィート」
『ヴィート』その呟きを耳にした瞬間、私の中の力が膨らんで溢れ出すのがわかった。『ヴィート』、それが私の名前。彼が付けてくれた、私だけの、名前……。
「……きみ、が、その……ヴィート?」
目を閉じて力が広がり収縮していくのを感じていた私は、遠慮がちに発せられたスヴェンの声にはっとして目を開けた。変わらない室内、変わらない視点。宙に浮いたままの私は彼の姿を見つめてようやく、さっきまでとは全く違うあることに気づく。
……彼と、目が、合っている。
「ス、ヴェン? 私のことが、見えて……?」
「あ、ああ……。本当に、いたんだな、精霊……」
ぽかんとした表情で見上げてくるスヴェンが面白くて私はつい吹き出してしまった。口元を手で押さえたけれどくすくすという笑いが止まらない。だって彼がこんなに驚いたことなど今までないのだから。
そしてひとしきり笑った後でまた気づいた。自分に人間と同じ、腕があることに。
慌てて上下を見渡すと、私はすっかり人間の女性の格好をして空間に浮かんでいたのだった。憧れていた緑のドレスを今、身に纏っている。一通り確認した後目線をあげたら、スヴェンが相変わらず目を見開いたまま私を見ていた。
彼の顔を見たまま無意識に床に下りたら、見下ろしていたはずの彼の顔が反対に上になった。私の頭は彼の胸くらいのところで、彼はそのまま私を見下ろす格好になる。
無言で見つめあった私達は、どちらからともなく動いた。私は彼の胸に飛び込んで、彼の両腕が私を迎えて、
……くれたのに。気がついたら私は彼をすり抜けて、暖炉の前にしゃがみこんでいた。
彼ははっと振り向いて私の姿を探し、そしてまた目が合った。……見えている。間違いなく。でも、触れない。……私が、精霊だから。
「ヴィート」
なんともいえない表情をした彼に名前を呼ばれて私は立ち上がった。彼にも分かったらしい。私が見えても触れることはできない存在なのだと言うことが。
「……そう。人間にはなれないよ、決して。……じゃあ、私はこれで」
それまでじっと傍観を続けていたアニーが、来たときと同じように目深にフードを被ってそう呟いた。気配を消していたのだろう、そう呟くと同時にドアを開け、吹雪の中へ踏み出してしまう。
スヴェンが慌てて駆け寄ったときには彼女の小さな背中は風の中に掻き消えていた。
「……行ってしまった。……大丈夫なんだろうか、こんな吹雪の中を」
「多分……大丈夫。彼女には強力な精霊が付いていたから……」
スヴェンの呟きに私は答えを返した。彼には見えなかったのだろうが私にははっきり見えた。アニーが雪の中に一歩踏み出したとたん、強力な風の結界が彼女の身体を包み込み守ったことを。それは今まで気配を完全に消していられるほどの強い力を持った精霊だった。私を一瞥しただけだったけど、あの精霊がどれくらい力を持っているのか予測ができないほどに。
「……不思議な、人」
「本当、だな」
私の呟きにスヴェンが答えてくれた。そしてまた目線が合う。……会話が、できている。
望んで望んで、叶うことはないと思っていた願い。
今彼は私を見て、私の声に応えてくれる。触ることはできないけど、でも。
「……お茶は飲める? ヴィート」
彼が恥ずかしそうに聞いてきた。俯いて頬を掻く動作は彼が照れているときのもの。
「いいえ、スヴェン。私精霊だから、お茶は……」
「ああ、そう、そうだよね。ごめん、おれ」
「いいの、あの、スヴェンは飲んで? 私、あなたがお茶を飲みながら日記を書いているところを見るのが好きなの」
「え、あ、あの……う、うん。分かった……。じゃあヴィートはそっちに座ってくれ」
ギクシャクしながらも私たちの会話は成り立っている。スヴェンはお茶のカップを取りにキッチンに向かい、私はさっきまでアニーが座っていた席に腰を下ろした。座ったとは言え、身体があるわけではないからすり抜けないように少しだけ浮いている。……それでもいい。彼が私を見て、そして話をしてくれるなら。
私は窓の外、白く凍えながら吹雪く雪をじっと見つめた。いつの間にか日は落ちて空は暗くなっていた。<白>、それがあなたの付けてくれた名前なら、私はあなたに降る冷たい雪を全て振り払って、温かさをもたらそう。そしてこの温かい家の窓から一緒に眺めるのだ。どこまでも降り積もって外界を遮断する白い雪を、いつまでも……
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「大丈夫でしょうか、あの精霊と人間は」
先ほどまで吹き荒れていた吹雪もぴたっとやみ、開けた視界の中を小さな足が躊躇なく進んでいく。舞い上がった雪がまた積もった所為で柔らかくなった雪の上を、半分ほど身体を埋めた状態でなお、楽しそうに少女は進む。もはや歩いているというより、雪を掻き分けている、といった様子だ。
「んー、まぁ、大丈夫だろう。あの水の精霊が精霊らしさを取り戻せばな」
「……確かにあの精霊の思考はかなり人間に近かったですね。だからでしょうか、ああも力を溜め込んでいたのは」
「だな。自分の主人を思うあまりに力を溜め込み、人間と同じ思考をするようになった。あのままだと暴走するところだったし、あの方法がベストだと私は思うな」
透き通るように黒い空の下を、息を白く濁しながら少女は歩いていく。空が暗くても雪が白いから、少しの月明かりでもなかなか明るい。傍でふわりと浮いた女性の形を取った精霊はそれを心配そうに見守っている。時刻は深夜。夜の闇の中、しんしんと輝く星星だけが音を発し、独特の静けさが雪の山に広がっている。
「あの青年も……スヴェンと言ったか、彼もずっと精霊に会いたがっていたしなぁ。もう会わせるしかないだろう、お互いの気持ちを知ってしまった私としては」
不自由そうに身体を動かしながらも、少女は楽しそうな表情を崩さない。まるで雪遊びをする子供のようにはしゃぎながら言葉を紡ぐ。
「あら、何故分かったのです?」
「日記さ。テーブルの上にあったから何の気なしに見てしまったら、毎日毎日、彼の身に起きた不思議な出来事を綴っていたのさ。今日も雪が少なかったとか、いつの間にか屋根の雪が溶けてたとか。頭にだけ積もらないのはきっと精霊の加護だろう、いるなら会ってみたい、お礼が言いたいってね」
「私が日記を見たことに気づいたときの彼の表情ったらなかったなぁ」と暢気に言う主人に、守護精霊がため息とともに嗜めた。
「いたずらが過ぎるとあまりよくありませんわ。あの子だって次の欲望を抱いてしまうかもしれない。人間になりたいって」
「……だから最後に釘を刺したんじゃないか。私にだってそのくらい想像はつく。けれども……」
口を尖らせて精霊の発言に反論した少女は、そこで一旦言葉を切って目を閉じ、首を振った。視線の先には頼りなげにかかる下限の月。しんと静まり返った雪原でぽつり、寂しげに息を吐く。
「……あの精霊はすぐに気づくさ。感情やら状況やらで離れ離れになる人間同士より、離れることのない絆で結ばれた、人と精霊の方がいいってね……」
小さな呟きは遠く高い空に吸い込まれ、静かに消えていった。上空を音もなく白いフクロウが横切り、少女はまた歩き出した。見渡す限り続く、白銀の大地を。
お読みくださってありがとうございました。ほぼ同じ内容の<童話バージョン>もあります。ちょっと違う感じに仕上がっております。ぜひご一読ください→ http://ncode.syosetu.com/n6401bb/
作中の『ヴィート』は<白>を意味するスウェーデン語から取りました。本当は夏の白夜を入れたかったのですが、雪が積もって欲しかったので冬に。なんとなくではありますが北欧をイメージしています。現代ではないですけどね。
さて、拙著『安里の旅の物語』シリーズをお読みくださったかたはお気づきのことと思います。そう、彼女です。名前が変わっておりますが、ええそうなんです。お察しの通りです。このお話の時間軸は今までの二作品からずっとずっと未来にあります。どうやってそうなるのかは今後発表の作品をご期待くださればと思います。私もわくわくしながら妄想の羽を広げているところなのですが……。感想等ありましたらぜひお寄せください。
これからもよろしくお願いいたします。
蔡鷲娟