落ちる月
ビルの屋上から夜空を見上げる。
まぎれもなく、月は近づいてきている。
手すりから身を乗り出し、街を見下ろす。
誰かが叫ぶのが聞こえた。
「何なんだよ、まったく」
俺はつぶやく。
予定のない日曜日。ただ今日一日、何も考えずに過ごせばよかった。ここから月を眺め、後はアパートに帰るだけだった。明日からはまた、満員電車で通学するはずだった。
だが確実に、世界は終わろうとしている。
悲しい事は無い。どうだってよかった。昨日だって、一昨日だって、楽しいことなどなかった。
だが、いざ死ぬとなると、何か勿体ないような気持ちになった。
「まあいいさ。どうせ何もできやしない」
この特等席から、世界の終わりを見物しよう。そう決めて、自販機のコーンスープを一口、口に含む。
――しかし、月は上から落ちてくるわけだから、一番最初に死ぬのは俺じゃないか――
そんなくだらないことを考えながら。
背後で、扉の開く音が聞こえた。誰かが屋上に昇ってきたのだ。
中年の男だった。疲れた顔をしている。男はネクタイをゆるめながら俺の横に並んだ。
「こんばんは」
月を眺めつつ、男は言う。
「こんばんは」
前を向いたまま返事する。
しばらく、男はじっと月を睨んでいた。
月はとうとう、手でかざしたリンゴほどの大きさになった。
男が顔をこちらに向けた。
「君も、終わりを見物に来たのかい?」
「ええ、そんなところです」
「本当に、これで終わりなのだろうか」
「何か心残りが?」
「最期に、子供の顔を見ておきたかったが……」
「家はどちらで? 今から帰れば、間に合うかもしれませんよ」
「いや、先日、逃げられてしまってね。妻にも、子供にも。この歳で寂しい一人暮らしだ。妻の実家まで行くのでは、とても間に合わない」
なるほど、どうりでやつれている。
「私がいけなかったんだ。つまらないことで怒鳴りつけて、手を上げて。妻に感謝もせず……いつも亭主面して……。妻はいつだって一生懸命で、それに私よりずっと賢かった……。今思えば、私には不釣り合いな、立派な人間だったんだ。それを……」
それは伝えようのない想いだった。
男は飛び上がり、フェンスを越える。月より先に落ちてゆく。
「なにをわざわざ……。おとなしく待っていればよかったのに」
月はいまや、風船のように膨らみ続けていた。
数年前、親父が死んだ。
入院から一年以上経っていたし、そうなることは分かっていた。それに、親父のことは好きではなかった。
だから俺は泣くこともなかった。
母はしばらくふさぎ込んでいたが、やがて以前の様に元気を取り戻した。
一つ違ったのは、一羽の鳥の世話に夢中になっていたことだ。
親父が死ぬ少し前から家にいた、白い羽の鳥だった。
母は、まるで親父にそうする時の様に、その鳥に話しかけていた。
ただ、母が仕事で遅いときは、俺がその鳥の世話をするルールだった。
ある寒い冬の夜、俺は自室のベッドに寝転がり、漫画を読んでいた。母は帰っていなかったが、俺は鳥のことなど忘れていた。
その夜、鳥は死んだ。
母は居間で泣いていた。俺の姿を見つけると、声にならない声で怒鳴った。
――たかが鳥で、どうしてそこまで。
この頃から俺は、母を無視するようになった。
両手を広げても、もう月の両端には届かなかった。
目下の街から、いくつもの泣き声が聞こえてきた。
きっと死ぬのが怖いのだ。それは幸せなことなのだろうか。
その時だった。泣き声の中の一つに、母のものが聞こえた。
気のせいだったのかもしれない。しかし、俺ははっきりと思い出していた。親父が死んだときの母の姿を。
絶望の表情。壊れかけた心。
だが、母はそこから立ち上がり、職を見つけ、家事もこなして、俺の将来のことまで考えて……。
一足先に落ちて行った、先程の男の言葉を思い出す。
俺だってそうだ。
親父にも、母さんにも、感謝すらしていなかった。当たり前の様な顔をして生きてきた。思い返せば二人とも、俺のことを、本当に大切にしてくれた。
あの鳥だって、親父が買ってくれたものだった。残された俺たちが寂しい思いをしないようにと、あれは不器用な気遣いだったのか。
「俺は馬鹿か」
本当に、大馬鹿者だ。
無性に飛び降りたくなる。さっきの男の気持ちがよくわかる。
だが俺は落ちない。あの月だって、落とさせない。
俺の背中に、大きな白い羽が生えた。
強く羽ばたき、ぐんぐんと空に昇ってゆく。
街はあっという間に小さくなる。月はみるみる近くなる。
まっすぐに、自分の体を月面につきたてる。
激しい衝撃が体を駆け巡り、骨が砕ける。
それでも懸命に羽を動かす。
月は空へと昇りだす。
「終わりだな、こりゃ」
――母さんより先に死ぬのか、俺。親孝行のつもりが、情けない。
白い羽が一枚落ちてきた。開いた窓から、アパートの一室へと滑り込む。
母はそれを拾い上げ、泣きはらした目で見つめた。
元通りになった月の光の中、いつまでも見つめていた。